回心

聖書、使徒行伝9章は「脅迫、殺害の息をはずませながら」、教会を荒らしまわっていた男の回心が書かれています。

『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった』(使徒行伝9章1節-9節)。

この男、サウロ、後のパウロに対して「どの面さげてお前は伝道しているのか。お前のようなものが偉そうな手紙をいくつも書いて何様のつもりか」というようなことが言われ、彼の宣教がかき消されていたのなら(実際、そのような言動はたくさんあったことでしょう)、今日のクリスチャニティーはありません。「回心」というものが人に神が直接介入されて起こることならば、その人の回心後の生き方について、人が「こうあらねばならない」と制限を設けることではないと私は思います。

以下、大日本正義団元会長、かつて大阪戦争を引き起こした吉田芳幸さんの回心です。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった」という言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしはその罪人の頭なのである』 パウロ(テモテ第一の手紙1章15節)

マック

追伸:「いくらなんでも、この人に神の言葉は届かないのではないだろうか」という思いが私の頭をよぎる時、いつも心に思い浮かぶのがこの吉田さんです。


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