夜の訪問者

社会的な立場というのはその人に対する私達のイメージを作り上げます。しかし、実際のその人がそのイメージのままであるかというと、決してそうであるとは言い切れません。そのイメージとは裏腹に人は誰にも知りえない問題を抱えているということが多々あるからです。

人に助言をしたり、実際に助けの手を伸べる社会的立場にいる者が、家族に対する助言は何もせず、家庭が不信の温床となっているようなことがあります。凶悪な犯罪を犯した人達の近所の人達の評価は「道で会うと笑顔であいさつしてくれるいい人でした。どうしてあの人が・・・」ということはよく聞く話です。

人間が願い求めている知恵や財産を全てけた違いに所有していたイスラエルの王、ソロモンの栄華を諸外国の王は羨みました。しかし、当の本人が何度も嘆いていたことは「空の空、いっさいは空である」ということでありました。人のもつイメージとその人の実際はこのように異なるのです。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

↓ 本日の「礼拝メッセージ原稿」「おもちかえり」はこちらから。↓

夜の訪問者

2019年5月5日

ヨハネ3章1節―8節を拝読します。

1パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。2この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。3イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。7あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3章 1節―8節)。

今日のタイトルを「夜の訪問者」とさせていただきました。今、読みました聖書箇所から、その夜の訪問者とは誰かということがお分かりになったかと思います。そうです、ニコデモです。

ここには彼がパリサイ人であったと書かれています。パリサイ人というのは、当時、ユダヤ人の生活の規範であった律法を厳格に守り、ユダヤ社会の宗教指導者でした。

さらに、この箇所を英語の聖書で見ますと、彼は議員であったということも分かります。当時のユダヤの議員とは最高法院の議員ということですから、彼はコミュニティーの中のリーダーであり、人々の敬意を受けていた人であったということがうかがい知れます。

そんなニコデモが夜、イエス様を訪ねてきたというのです。今のように街灯がない時代ですから、まさしく真っ暗闇の中、彼は訪ねてきたのでしょう。それにしてもなぜ彼は「夜」、イエス様を訪ねてきたのでしょうか。ヨハネはなぜあえてその時を「夜」と書き残したのでしょうか。

おそらくニコデモは人目を避けてイエス様を訪ねてきたのではないかと思われます。ではなぜ人目を避ける必要があったのでしょうか。

お話ししましたように彼はユダヤ社会ではよく知られている宗教指導者であり、民の代表である議員であり、おそらく年齢もイエス様よりも一回り、二回り、重ねていたのではないかと思われます。

そんな彼が自分よりも年若いナザレの田舎町から出てきた、何の肩書もない若い男に自ら会いに行くという姿はできるだけ誰にも見られたくないという思いがあったのでしょう。

さらに彼の同僚であるパリサイ人の間では、既にイエスは胡散臭い人間として見られ、嫌悪の対象となっていました。そのような手前、彼は人目を避けたのでしょう。

社会的な立場というのはその人に対する私達のイメージを作り上げます。しかし、実際のその人がそのイメージのままであるかというと、決してそうであるとは言い切れません。そのイメージとは裏腹に人は誰にも知りえない問題を抱えているということが多々あるからです。

人に助言をしたり、実際に助けの手を伸べる社会的立場にいる者が、家族に対する助言は何もせず、家庭が不信の温床となっているようなことがあります。凶悪な犯罪を犯した人達の近所の人達の評価は「道で会うと笑顔であいさつしてくれるいい人でした。どうしてあの人が・・・」ということはよく聞く話です。

人間が願い求めている知恵や財産を全てけた違いに所有していたイスラエルの王、ソロモンの栄華を諸外国の王は羨みました。しかし、当の本人が何度も嘆いていたことは「空の空、いっさいは空である」ということでありました。人のもつイメージとその人の実際はこのように異なるのです。

きっとニコデモもその社会的なステイタスとは裏腹に心の中にどうしてもイエス様に出会って、話を聞いてみたいと思わされる内なる渇きがあったのではないでしょうか。

2節でニコデモはイエスにこう語りかけています「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。

ニコデモはここでまず誰も否定できない「事実」をイエス様に投げかけています。そう、その事実とはイエス・キリストが当時のユダヤ社会でなされた数々のしるしです。

彼が言っている「しるし」を英語の聖書で見ますとそれはMiraculous Signsと書かれています。すなわち奇跡のことです。この奇跡とは、彼が人から聞いたこと、もしくは彼自身も目の当たりにしたであろうイエス様がなした数々の奇跡のことです。

生まれつき足や目の不自由な人がイエス様によって癒され、健やかになって自分の前にいる。悪霊に取りつかれていた者が正気になっているという様は否定できない「事実」で、ニコデモにとって、これは大変な驚きであったに違いありません。

それらを見聞きして、彼の心に去来する思いは「この人はいったい何者なのだ」ということは当然で、その思いは誰彼に聞いても分かることではなくて、このことは本人に直接聞かなければ分からないと彼は夜、イエス様を訪ねてきたのでしょう。

そうです、人間にはできないことがある。人格者、人の上に立つ者であったニコデモでもできないことがありました。そのできないことをイエスはし続けている。それはイエス様が年若いとか彼のステイタスとは関係のないことです。

実はこのニコデモはこのイエス様との会話の後、後、しばらく聖書記事から姿を消しますが、後にもう二回だけ、その名前が聖書の中に出てきます。

その一つがヨハネ7章45節―52節で、そこではイエス様を捕え、彼を裁こうと試みている彼の同僚であるパリサイ人に対してニコデモが異議を唱えているのです。

その時にイエスを裁こうと試みていたパリサイ人はこう言っています。「役人たちやパリサイ人達の中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか」(48)

これは驚くべき言葉です。なぜなら、彼は「役人たちやパリサイ人達の中でイエスを信じた者などは一人もいない」と言っているからです。

皆さん、私達はイエス・キリストの姿を目の当たりにしたり、そのお声を直接、聞いていません。当然、ニコデモや他のパリサイ人が見聞きしたイエス様の奇跡を目の当たりにしてもいません。それにも関わらずイエス・キリストを信じています

彼らは聖書を隅々まで研究し、イエス様と直接、話すことができ、諸々の奇跡を垣間見た者達です。しかし、彼らは誰もイエスを信じなかったのです。これは驚きです。

このことは私達がよく聞きます「見せてくれるのなら信じてやろう」という言葉すら、実際には怪しいものであるということを示しています。彼らは否定できない事実を見聞きしながらも、それでもイエスに心を開かなかったのですから。

なぜ彼らはイエスを信じることがなかったのでしょうか。しばらく、私はこのことを思いめぐらしました。・・・私の頭に思い浮かぶことは一つしかありませんでした。そう、それは彼らの「プライド」です。

人は肩書きが増えれば増えるほど、なかなか人に質問ができなくなる傾向があります。相手の肩書きと自分を比べて、自分の肩書がその人よりも高ければ高いほどそれは難しくなります。

さらにはその人が自分よりも注目を集めたり、活躍をしていると正しい評価ができなくなります。その時、民衆はイエス様についてこんな評価をしていました。「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」(ヨハネ7章46節)

この言葉は明らかにイエス様に対する人々の感銘を示しています。この言葉は宗教指導者であるパリサイ人が語ったことがないようなことをイエス様は語ることができるのだということを意味しています。

確かにその時、イエスの言動は多くの人達の心を動かしていたのです。それは紛れもない事実でした。しかし、パリサイ人はその事実に反して心を固く閉ざしたのです。このような類のことを聖書は人間の「肉的な思い」といいます。そうです、イエスはこの人の肉の限界を知っていたのです。

以前、恩師から聞いた言葉を忘れることが出来ません。「謙遜」とはペコペコ頭を下げることではない。「自分はつまらない者で」とか「何もできない者です」と言って回ることでもない。その人が謙遜であるか否か、それが明らかにされるのは「その人が人を褒めることができるか、否か」だと。

「この人は本当によくやっている」。それは分かっている。なぜなら、それは紛れもない事実なのだから。しかし、それを声に出して評価することができない。なぜ?心に手を当てて考えますのなら、その時に私達の心にあるものは何ですか「プライド」です。

ニコデモはそのプライドが他の役人や同僚のパリサイ人よりも少ない稀な人であったと思われます。それが夜であっても彼はイエスの元に来たのですから。彼はイエス様が成さっていることを評価し、それを口に出して表明したのですから。しかし、他のパリサイ人は口が裂けてもそんなことは言えなかったのです。

ですから、イエスはニコデモに言ったのです(3)「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

イエス様はニコデモの言葉に対して「そうだ、誰でも病気を癒し、体を強くしなければ神の国を見ることはできない」とか「しっかりと結果を残さなければ神の国を見ることはできない」とは言いませんでした。

ただ「誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」とだけ言われたのです。神の国を見るということは私達の肉に関することではなく、私達の霊に関することだからです。

確かにイエスは人間には絶対にできない奇跡をいくつも起こしました。そして、その奇跡のほとんどは人の病気を癒すということでした。それは多くの者達を興奮させました。それは人にはできない奇跡だったからです。しかし、無から有を生み出す神の子なるイエスにとりまして、それは別に驚くべき奇跡ではありません。

聖書を見るならば、イエスはいつも自分のもとに来て「私を癒してください」と願う者は拒むことなく癒したということが分かります。しかし、イエス様の言動にはいつも「体の病気が治される」ということ以上に大切なことがあるというメッセージが込められているのです。

なぜでしょうか。なぜなら、癒された体もいつか、病にかかり、弱り、やがていつか人間は召されるからです。私達の肉体は私達に心地よさと喜びを与えてくれますが、この肉体を持つ限り、すなわち私達が生きている限り、この肉体ゆえの苦しみや悲しみも必ず多々、伴うのです。そして、この肉体こそ我々のプライドの温床となりうるものだからです。そこに罪が宿り、その罪はその肉体を通して私達から出ていくのです。

かつてこのような出来事がありました。

11イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18神をほめたたえるために帰ってきたものは、この外国人のほかにはいないのか」。19それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(ルカ 17章11節-19節)

ここに記されている10人のらい病患者が癒されたという記録はまさしくニコデモがいうところの驚異的なしるし、奇跡です(実際に彼はこの出来事も見聞きしていたかもしれません)。イエス様は彼らに触れることなく、10人、そろいもそろって全てが癒されたのです。その完治の確率は100パーセントです。

当時、らい病は感染するものと言われ、彼らは一生、社会からも家族からも引き離されて、物乞いをしながら生きていかなけれなりませんでした。ですから、もし彼らが「あなたの願いを一つだけきいてあげよう」と言われれば彼らは必ず「この病気を癒してください」と願ったことでしょう。他になにがありましょう。

彼らは力の限り叫んだのです「イエス様、わたしたちをあわれんでください」と!そして、その願いがその時に完全に叶ったのです。

しかし、そのことをしてくださったお方のもとに感謝を表すべく帰ってきたのは一人だけだったというのです。しかも、それは先祖を通して数々の恵みと祝福を受け継いできたイエスと同じユダヤ人ではなく、ユダヤ人とは敵対関係にあったサマリア人であったとイエス様はあえてここで言っているのです。

皆さん、10パーセントです。なんという確率だと思いませんか。私はずっと思っていました。この出来事はちょっと事実と反するのではないかと。この10人中1人っていうのはいくら何でもちょっと低すぎないかと。彼らの一世一代の願いがその時に叶ったのですから。

しかし、あらためて思うのです。この10パーセントは妥当な数字だろうと。なぜ?癒されたのは体だけで、その人の心は変わっていないからです。癒されるとか私達の願いが叶うということが私達の心とか人格に与える影響というものはこれほどでしかないのです。イエス様はこの人の心をよくよく知っていたのです。

あの日、あの時、それが病気の癒しであり、自分の切なる願い事であれ、毎日、このらい病人たちのように「主よ、わたしをあわれんでください」と何度も神に助けを求め、神にすがるような思いで祈り、神様はその願いをきいてくださった。時に私達が経験することです。

しかし、それらが過ぎ去ったら、もう神の名前すら口にすることはない。自分の祈りはきかれた、良かったと言いながら、数日しますとその神の恵みとあわれみが「自分もそこそこよくがんばったからね」という自己評価となり、神様に対する感謝はもはやその心にはない。

このような不義理をお世話になった人にしてしまったら、余程心臓に毛が生えていない限り、私達はその人に再度、お願いをすることなどできないでしょう。しかし、私達はまた何かあると知らぬ顔して、同じことを神様に願い、しばし神にすがり、そして同じことを繰り返すのです。

主にある皆さん、正直申し上げなければなりませんが、これが私達、人間です。自分の心に手を置いてみますのなら、私はかの9人の1人ではないと誰が言いきれましょうか。

これが人間の本質ですから、神様は時に私達に奇跡と思われることをなしてくださいますが、それを私達に対する最上のギフトとはしていないのです。「奇跡」にだけ目を留めてイエスのもとに来たニコデモに「誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われたイエス様の言葉は全く正しいのです。

しかし、この言葉はニコデモのような律法の専門家であっても彼の知識と経験を超えた神の言葉でした。人間、ニコデモの応えは神の領域に届き得ません。彼は言います。「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」(4)。

これが彼の精一杯のコメントです。「生まれる」と聞けば私達が考えることは母の胎から生まれること以外にはいからです。しかし、これに対してイエス様は言われます。「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない6肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」

「肉から生まれる者は肉である」。そうです、私達が肉にとどまるのなら、いつも肉の限界を超えることはできません。肉の変化によって私達の本質は変わらないのです。

ですから私達は水と霊により生まれなければならないとイエス様は言われるのです。水とはバプテスマ、洗礼のことです。そして、私達が生まれるというのは霊的に生まれ変わるということです。

実は先のイエス様とニコデモの問答はこの後も続いているのです。すなわち、彼らの会話は3章1節から21節まで続いているのです。そして、聖書の中で最も有名な言葉は、この中に書かれているのです。すなわち、夜、こっそりと訪ねてきたこのニコデモに向かってイエス様は聖書の中で最もよく知られているあの言葉を語りかけたのです。

神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3章16節

神はその一人子、すなわち私の命を与えるほどに、私達を愛して下さった。それはこの私を信じる者がひとりも滅びることなく、いつまでも失われることのない永遠の命を得るためである。このことこそが私達が霊的に新しく生まれる、BORN AGAINするために主イエスが私達のためになしてくださったことなのです。

人はニコデモを人格者だと思っていたに違いありません。彼は確かにそうだったでしょう。しかし、彼はイエスに直接会って、聞かねばならないものを持っていました。人の彼に対するイメージとは異なる自分というものをきっと彼は知っていおり、そのことを見過ごすのではなく、彼はイエス様のもとにやってきたのでしょう。

人はあなたを「いい人間だ、立派だ」と言うかもしれませんし、あなたもそう思っているかもしれません。指導的な立場に立っているという方もいらっしゃるでしょう。しかし、実際のところいかがですか。本当の事実を完全に知っているのは神です。私達は自分のことは何でも分かっていると思いますが、それもけっこう的が外れていることはないでしょうか。

人はとかくプライドを抱えて生きています。必死でそれを守ろうとします。そのプライドが目に余ると人間社会では見苦しくなりますので、それを隠して、自分は謙遜なのだということを表向きには見せようとします。

しかし、心の中にあるプライドは微動だにせずそこにあり続けます。そのプライドが私達の家族や人間関係に混乱を招いていませんでしょうか。そのことで私達が知らないところで誰かが涙を流しているということはないでしょうか。

主にある皆さん、この心のせめぎあいの舞台を私達は「肉なる生き方」と呼んでいるのです。ですから私達は新しく生まれ変わらなければならないのです。

このお方の前に私達がひざまづき、このお方から新しい命をいただく時に私達は新しく生まれます。そして、そこから私達の新しい人生が始まるのです。もちろん、新しく生まれ、主と共に人生を歩み始めることは私達が完全となるのではなく、私達の心のプライドが全く消え去ることはありません。

しかし、私達が主にあって新しく生まれるのなら、私達は少なくとも「その肉なるものが神の前に必要なものではない」ということを知るようになります。なぜなら、私達が霊的に新しく生まれ、主と共に日々歩むのなら、そのプライドは異物なる存在だということを知るからです。

新しく生まれるまでは、それが異物だとすら私達は知らずに生きています。しかし、私達が主と共に歩み始めるのなら、主はそのことに気がつかせてくださいます。

そのことに気がつかされ、それを一つ一つ主の前に差し出し、主のお取り扱いを受けていく時に、私達本人ですら砕き得ない、ちょっとやそっとじゃ動じない、頑とした私達の肉なる思いを主は砕き、取り除いてくださることでしょう。

私達は気がついているでしょうか。私達がこの地上でどんな功績を残すことよりも、このことこそが私達がこの地上で成し遂げる本当に価値あることなのだということを神様は私達に語り続けているということを。このことに自ら気づき、自らを主の前に差し出す、この私達の心に起きていることこそが神の前にある本当の奇跡なのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年5月5日

1)ヨハネ3章1節―8節を読みましょう。ヨハネはニコデモが夜、イエスを訪ねてきたと記録しており(2)、彼は再度、ヨハネ19章39節でもそのことに触れています。なぜヨハネはニコデモが夜、イエスを訪ねてきたことを強調しているのでしょうか。「夜」は何をあらわしていますか?

2)ニコデモが「パリサイ人」であったこと、「最高法院の議員」であったということは彼のどんな人となりや社会的ステイタスを表していますか。

3)私達の社会的ステイタスに対する「イメージ」は、そのままその人の「人格」となっていますか。

 

4)ヨハネ7章45節―52節を読みましょう。ここでパリサイ人は「役人たちやパリサイ人達の中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか」(48)と言っています。イエスが成した数々の奇跡を見聞きしながら、なぜ彼らは誰もイエスを信じなかったのでしょうか。「見ることができたら信じる」ということは正しいのでしょうか?

 

5)私達の「プライド」が持ちうる「益」と「弊害」にはどんなものがありますか?

 

6)「奇跡」に注目しているニコデモに対してなぜイエス様は「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(3)と言われたのですか。

 

7)ルカ 17章11節-19節を読みましょう。一世一代の願いがかなった者達のうち、イエス様のもとに感謝をすべく帰ってきたのはたった一人でした。あなたはこのことをどう思いますか。このことは人間のどんな心を明らかにしていますか。

 

8)「肉なる思い」というのはどんな思いですか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください