婚宴に備える教会

‟もし教会には偽善者が満ちているという理由であなたが教会に行かないのなら、教会は聖徒達が居並ぶ博物館なのではなく、罪人のための病院であるということを思い起こしてください”。

サドルバック教会の主任牧師であるリック・ウォーレン牧師はこんな一文をその著書に記しています。

「あなたは一生かかっても完全な教会を見つけることはできないでしょう。神がそうしておられるように、あなたも不完全な罪人たちを愛するように召されているのです」 (「パーパス・ドリブンチャーチ」)

『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』(イエス・キリスト)

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婚宴に備える教会
2018年9月23日

私は今、皆さんの前にスーツを着てネクタイを締めて立っています。町で教会に来ていらっしゃる方にお会いしますと、私のスーツ姿しか見たことのない方達は驚かれます。でも、私にとりましてスーツでいるのは日曜日だけで、当然、普段はこのような格好はしていません。

日曜日に教会から帰宅しますと、私はすぐにリラックスできる軽装になります。疲れていればソファーにゴロンと横になりますし、そのまま眠ってしまうこともあります。歯ブラシをくわえながら、話をすることもあります。

家では妻や子供に「お茶を入れてくれませんか」とは言いません。誰かに気を遣うということは皆無で、心身共にオープンです。そして、それは私だけではなく、家族が皆、そうです。皆さんも同じでありましょう。急なお客さんに慌てたこと、ありますでしょう。

「家族」という言葉には特別な響きがあります。その集団は明らかに他の集団とは異なるものです。家庭は私達の姿が赤裸々になる場所であり、そこには誰よりも互いを想う思いがありますが、同時にどこにいる時よりも自分の我というものが全面に出される場所でもあります。

エペソ2章19節を見ますとこう書いてあります「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである

アメリカに住む私達にとりまして、心のどこかにいつも意識している「国籍」という言葉がここには記されています。ここに集っている私達も各々の国籍を有しています。中には生まれながらの国籍が変わったという方がいますでしょう。その違いは私達のパスポートを見れば分かります。

しかし、このエペソ書にはたとえ私達のパスポートが互いに違うものでも、私達は皆、同じ国籍に属する者であるというのです。そうです、その国とは「神の国」ということです。そして、その国に属する我々は「神の家族」なのだと聖書は言います。

聖書には最初の夫婦から始まる家族、そして、そこから広がる民族の物語が記されています。そこには明確な民族や国の区別があり、その区別は今日もあり続けているのですが、同時に私達はイエス・キリストにあって神の家族となるというのが聖書が語っていることであります。

周りを見回して下さい。目に入る方達は神の家族だというのです。考えられますか?それだけではない、この教会でなくとも、私達が会ったことのない世界中の教会に集う者たちは私達の家族であるというのです。これは驚くべきことです。なぜなら、当然、私達の間には血縁関係はありませんし、また、互いに生まれてからこの方、同じ屋根の下に暮らしたこともないからです。

では、私達は何によって家族と呼ばれるのでしょうか。私達はイエス・キリストにあって家族なのです。どういうことかなのでしょうか。私達には共通点があるのです。日本人、アメリカ人、メキシコ人、韓国人、その人がどんな人であっても、私達には共通点があるのです。

それは、私達が罪人であるということであり、しかし、そんな罪人である私達はイエス・キリストによって罪が赦されたということにおいて神の子とされており、それゆえに私達は神の家族なのです。

イエスの12弟子の一人であったヨハネは「ヨハネによる福音書」の中で以下、「彼」と書かれたところを「イエス・キリスト」としてこう書いています。

しかし、彼(イエス)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼(イエス)は神の子となる力を与えたのである13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである(ヨハネ1章12節-13節)。

私達がイエスこそが私の罪を赦し、私達の代わりに十字架にかかってくださったのだということを信じ、受け入れるのであるなら、その者達は神によって生まれ、神の子とされるのです。私達がそのようにして神の子となったのなら私達は互いに兄弟姉妹であり、ゆえに私達は神の家族なのです。

そして、その神の子とされた者達について、さらにヨハネはヨハネ第一の手紙 1章7節に、こう書き残しています。「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのである」(ヨハネ第一の手紙1章7節)

このみ言葉にあるように、キリストにある家族の交わりは「神の光の中」でなされます。私達は互いに神の光の中を歩むべきであり、その光の中で交わりを持つべきです。

しかし、不思議に思われることは「光」という希望の言葉がここで語られながら、ヨハネは神の光の中を歩む私達について、そのすぐ後に「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのである」と書いているのです。

さらにこのヨハネ第一の手紙1章は続く8節―9節においてこんなことを記しているのです。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さる」。

「神の光の中を歩み、その中で交わりを持つ」ということと「罪がないと言うなら、それは自分を欺くことである」というようなことが、この箇所において隣り合わせになっていることに違和感を持つ方がいるかもしれません。

しかし、この箇所はとてもリーズナブルなことを言っているのです。すなわち、私たちが神の光の中で交わるなら、暗闇にいる時には知りえない、分からなかったような罪というものが光に照らされて明らかになるからです。私達の本当の姿を神様はその光をもって教えてくれるのです。

そして、この気づきなくして、私達は神の愛の大きさに気がつくことはなく、私達に霊的な成長はありません。人を指差していたその指が、実は自分にも向けられているのだと気づかせて下さる、そのようなことが起きるのが、この光の内を歩み、互いに交わりを持つということなのです。

それでは、その光に照らされる自分の問題が示された時はどうすればいいのでしょうか。ヤコブ5章16節にその答えが書かれています「だから、互いに罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈りは大いに力があり、効果のあるものである」。

罪人であるということが問題なのではありません。それを互いに告白し合い、悔い改めることが大切なのです。

サドルバック教会の主任牧師であるリック・ウォーレン牧師はこんな一文をその著書に記しています。あなたは一生かかっても完全な教会を見つけることはできないでしょう。神がそうしておられるように、あなたも不完全な罪人たちを愛するように召されているのです(「パーパス・ドリブンチャーチ」)。

 一生かかっても完全な家族を見つけることができないように、それは教会も同じです。そう、人が集まる場所に完全なら場所はありません。

教会において私達が神の光の下にあるのなら、私達の心が露にされます。私達が「あの人の罪はね・・・」と思っていた罪が「私もかつて犯した罪、あるいは、その状況に巡り合えば、私もいつでも犯しかねない罪」であることを知るようになるのです。光に近づけば近づくほど、それは明らかになるのです。

イエス様の前に姦淫の現場で捕らえられた女性が連れてこられた時、彼女を取り巻いていた者達は、その罪の罰として今や石を彼女に投げつけようとしました。しかし、その時、イエス様は言われたではありませんかあなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ8章7節)。この言葉を受けて、そこにいた人達は皆、石をそこに置き、その場を立ち去って行ったのです。

このように神の光のもとに不完全な私達であり、その不完全な者達が集まる教会でありますが、この教会はあるところを目指しているのです。私達はどこに向かっているのでしょうか。そのことがヨハネ黙示録19章に書かれています。

⑥わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。⑦わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。⑧彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(ヨハネ黙示録19章6節―8節)

ここに記されている「小羊」とは「花婿」のことを指し、それは「イエス・キリスト」のことを示し、ここに記されている「キリストの花嫁」とは「教会」なのだというのが黙示録が言わんとしていることです。そして、このキリストとの関係は黙示録だけが言っていることではなく、エペソ5章においても「キリスト」と「教会」との関係を「夫」と「妻」との関係になぞらえて語っています。

ご存知のようにヨハネ黙示録にはこれから世界で起こることが預言されています。その中にはイエス・キリストがもう一度、この世界に来られるという預言があります。そして、その時にキリストにある者が引き上げられていく。そして、その時に神の子が集う教会がキリストの花嫁として、花婿であるキリストに迎えられるというのです。これを教会の携挙(教会が携え挙げられる)と呼びます(チャート)。

教会は今、その婚宴の準備の只中にいるのだと黙示録は言うのです。キリストの花嫁としてキリストに迎えられることは確かなことであり、そうであるならば、教会はその備えを常日頃からしていなければならないのです。

最近は「花嫁修業」という言葉をきかなくなりました。でもかつて日本では女性がお嫁に行く前に実家で家事をしたり、習い事をしたりして、その備えをする期間というものがありました(今日、このようなことを言いますとなぜ花嫁だけが修行なのだと訴えられそうです)。

しかし、かつての日本では夫婦が新生活を始めていくにあたり、そこには備えが必要だという考えがありました。今日、世の中には三日前に出会って、翌週、籍を入れて夫婦になりますというようなカップルもいますゆえに、結婚のための備えということも様変わりしているように思われます。

これは私の個人的な意見でありますが、一般的に結婚に対して、新郎はあまりこだわりがないように見受けられることがあります。その式のスタイルや、自分が着るタキシードにしても、あまりこだわりません。しかし、一般的に新婦になる女性は結婚式ということに対して強い思い入れがあるようです。

ですから、新郎もこの備えに真剣に向き合い、フィアンセの気持ちをよく聞き、受け入れていかないと、そのカップルにとりまして結婚の備えは最初の難関となります。

ティアラはこんなものがいい(「どれも同じだろ」と言ってはいけません)。ウエディングドレスはこんなもの(ドレスよりも先に値札を見てはいけません)、ブーケはこの花とあの花で作って欲しい(「全部、バラでいいじゃん」と思ってはいけません)。その他、結婚には無数に備えるべきことがあるのです。

しかし、こう話していて気がつくことは、私達が言っている「結婚の備え」というのは主に「結婚式」に関することであって、これから結婚を経て夫婦となる、その心の備えというものは、ほとんどなされないということが現状ではないでしょうか。

しかし、この黙示録を考えますのなら、教会はイエス・キリストとの婚宴のための備えの中に今あるということになります。そして、それは言うまでもなくセレモニーの備えなのではなくて、教会に集う者達の心の備えということです。

私達、キリストにある教会がキリストの花嫁として迎えられる時に衣装を揃えると黙示録は書いています。そう、そこには「汚れのない麻布の衣」(8)と書かれています。言うまでもなく、この衣装とは象徴的なものであり、それは「聖なる者たちの正しい行い」なのだと説明されています。

花嫁である聖なる者達がとるべき正しい行い、私達はそのことを象徴する汚れのない麻布の衣を着るべく、この世にあって教会に集い、神の光に心が照らされつつ、切磋琢磨して整えられていくのです。成長していくのです。そして、私達は花婿なる主イエスのもとに花嫁として迎え入れらるのです。

クリスチャン作家のフィリップ・ヤンシーは教会とは「努力している音」なのだとして「教会・なぜそれほどまでに大切なのか」(フィリップ・ヤンシー:いのちのことば社)という著書の中でこんなことを書いています。

作曲家のイーゴル・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)はかつて、バイオリンのパートが非常に難しいフレーズのある新曲を書きました。何週間かのリハーサルの後で、バイオリニストがストラヴィンスキーのところへやって来て、その部分を演奏することができないと言いました。

奏者は一生懸命に練習したけれども、そのフレーズが難しすぎてどうしても弾くことができないと悟ったというのです。ストラヴァンスキーはこう答えます「それはよく分かるよ。でも私が求めているものは、それを弾こうとしている音なんだよ」おそらく、神が教会に対して計画しておられることも、これと同じことなのでしょう。

さらにこれに似たことをアール・パーマという牧師が言っているとヤンシーは書いています。このアール牧師は教会に見られる偽善や失敗、それに新約聖書の高い水準に達することができていないでいる教会に対して批判してくる人達から、教会を擁護した人です。パーマーは当時カリフォルニアに住んでいましたが、文化的にあまり洗練されていない所にあえて居を構えていました。

彼は地元の高校のオーケストラをとりあげてこう言っています。「ミルピタス・ハイスクールのオーケストラがベートーベンの第九交響曲に挑戦する時、その結果たるやひどいものです」。

「その演奏のすごさは、耳の聞こえないベートーベンが、墓の中でひっくり返ったとしても、驚きはしないでしょう。あなたは「なぜあなたたちは第九を弾こうとするのですか」と尋ねるかもしれません」。

「なぜわざわざベート-ベン不朽の名曲を演奏しようなどという過酷な重荷を、この子たちに追わせるのですか。あの有名なシカゴ交響楽団ですら完璧に演奏することができないのに、と」。

「私の答えはこうです。聴衆の中には、ベートーベンの第九交響曲と出会う唯一の機会がこのミルピタス・ハイスクールのオーケストラであるという人もいるでしょう。完璧には程遠いのですが、それでもそこに居合わせた人達にとっては彼らの演奏がベートーベンのメッセージを聞く唯一の方法なのです」。

ヤンシーはこう言ってその本を締めくくっています「教会において、物事が順調にいかずに悩む事がある時には、アール・パーマーの譬を思い起こす。私たちは決して作曲家の意図どおりに演奏することができないかもしれない。だが、その音を地上で人々に聞かせる方法は他にはないのだ」。

神様はこのようにして私達の教会を用いてくださるのです。不完全な教会が神の思いに完全に応えることはできません。しかし、そんな教会に神様は助け主なる聖霊を注いでくださり、教会の足りないところを補ってくださるのです。

教会は最善の音を主イエス・キリストのために奏でるのです。教会が備えうる最高の結婚衣裳を今から整えるのです。それは、私たちの神の前にある正しい行いです。いつの日か私達はその衣装を着て、花婿なるキリストの前に立つのです。

実際の結婚式において、牧師には父と共に真正面から花嫁が入場してくる姿を見ることができる特権があります。その時、花嫁は人生で一番、美しい表情をして会堂の前で待っている花婿のもとに一歩一歩近づいてきます。そう、その時の新婦の姿はまことに美しいのです。

しかし、この美しい瞬間にあえて、つけ加えますのなら、その新婦がその時の喜びを心に思い描きながら、その日に向けて備えていた日々の姿も、そこには苦労もあったでしょうが、それは喜びと希望に満ちていた毎日であったに違いありません。そうです、今、私達はまさしくそのような時をこの教会で過ごしているのです。

確かに私達は互いに不完全な者達です。しかし、神の光に照らされて、汚れのない亜麻の衣を着るべく、この教会で整えられ、成長していきましょう。喜びと希望をもって、その日のために互いの心を備えていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2018年9月23日

1)「家族」と「それ以外の人達」の違いは何ですか。家族であることの素晴らしさは何ですか。家族であることの困難は何ですか。

 

2)なぜ聖書はクリスチャンを神の家族と呼んでいるのでしょうか(エペソ2章19節、ヨハネ1章12節-13節)。

 

3)ヨハネ第一の手紙1章7節-9節を読みましょう。ここには「光」と「罪」が並べて書かれています。「光」と「罪」にはどんな関係がありますか。

 

4)この世界に完全な教会がありますか?イエス様はご自身、罪人を招くためにこの世界に来られたと言いました。この罪人が教会に招かれているということは、教会がどのような覚悟をしなければならないことを意味しますか。

 

5)ヨハネ黙示録19章6節―8節は主の再臨の時に花婿なるイエス様の元に花嫁なる教会が携挙されることを書き記しています。ここから神様にとって教会とはどんなものであることが分かりますか。

 

6)教会が携挙される時まで花嫁なる教会が備えることは何でしょうか。その日のために備えることは、あなたにとって苦痛ですか。喜びですか。実際の結婚に備える新婦の気持ちを想像してみましょう。

 

7)あなたはこの度のメッセージを通して、教会に対して何か新しい発見がありましたか?あなたはキリストの花嫁なる教会が花婿なるキリストの元に携え挙げられる日に向かって、何を備えますか。

 

 

 

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