家族とは

おそらく家族とは、私達の人生において互いに食事をする機会の最も多い人達です。この家族の食事のシーンというのは日本の映画やドラマでも定番の風景です。そして、その食卓の風景は今日の家族の姿というものを明らかにしています。

例えば映画「寅さん」ではその食卓の風景は真ん中に食卓があり、そこには父母がおり、また祖父母、それを囲むように子供達が座っていました。この形は高度成長期まで多くの日本のホームドラマに見られた光景です。

今から36年前の1983年に森田芳光監督の「家族ゲーム」という映画の中では親子が横一列に並んだ食卓の光景が描かれ、対話なき家族の姿が示されました。

さらにその15年後の1998年にNHKが2500人の児童を対象に食卓の風景の絵を描かせたところ、なんと三分の一が独りで食べる絵を書きました。

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家族とは
2019年3月3日

おそらく家族とは、私達の人生において互いに食事をする機会の最も多い人達です。この家族の食事のシーンというのは日本の映画やドラマでも定番の風景です。そして、その食卓の風景は今日の家族の姿というものを明らかにしています。

例えば映画「寅さん」ではその食卓の風景は真ん中に食卓があり、そこには父母がおり、また祖父母、それを囲むように子供達が座っていました。この形は高度成長期まで多くの日本のホームドラマに見られた光景です。

今から36年前の1983年に森田芳光監督の「家族ゲーム」という映画の中では親子が横一列に並んだ食卓の光景が描かれ、対話なき家族の姿が示されました。

さらにその15年後の1998年にNHKが2500人の児童を対象に食卓の風景の絵を描かせたところ、なんと三分の一が独りで食べる絵を書きました。

そして2001年に発刊されました村上龍の小説、『最後の家族』には個室に引きこもり、視線を合わせない青年が登場するようになりました。

それでは現代、2019年の食卓の風景はどんなものなのでしょうか。それは皆が各々、好きな時に好きな場所でスマートフォンを片手に食事をする風景なのかもしれません。

これらの食卓の風景は年を追うごとに家族の間で互いの関わり合いが失われつつあることを示しています。

私達の手元にある聖書ですが、この聖書の初めの書である「創世記」は一人の男と女から家族というものが生じていく様を描いており、その50章全てを家族の間に起こる出来事に費やしています。

私達が生まれた時、その心は真っ白なスケッチブックのような状態で、そこに色々な人達との出会いによって色がつけられていきます。一般的にはそのスケッチブックに一番最初の色をつけるのは家族であり、その後もそのスケッチブックの多くのページはこの家族の色がつけられていきます。

この家族の影響ということを考えます時に、聖書がなぜ家族というものに大きな関心を寄せているかということが分かってきます。今日はその聖書に記されているノアとその家族ということに焦点をあてて「家族」について考えていきたいと願っております。まず最初に「家族の優先順位」ということです。

家族の優先順位

キリスト教徒でなくとも「ノアの箱舟」を知っているでしょう。ノアという人が、その家族と共に箱舟を作り、この家族は洪水によって滅ぼされることなく、この後にこの家族から人間が世界に広がるという話です。

へブル人11章7節にはこのノアについてこんな言葉が書かれています。『信仰によってノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪を裁き、そして信仰による義を受け継ぐ者となった』

今から21年前にアメリカに来ました時に、この国の牧師達が信仰生活の優先事項について、第一に「神様」を置くということは共通しているのですが、その後に「教会」ではなく「家族」を置いていることに驚きました。

なぜなら日本で牧師の子として育った私は、教会のためなら牧師もその家族もいかなる犠牲をも払うべきだ、それが献身した者とその家族がすべきことなのだということを当然とする環境に育ったからです。

年に一度、全牧師が集まる教団の派遣礼拝では聖歌『神の御子にますイエス』(新聖歌397)のおりかえし、「♬全てを捨てて従いまつらん♬」を歌いつつ、各々の教会に帰っていったのですから。

この優先事項は牧師でなくとも、皆さんの間にもあると思います。ある方にとっては「神・家族・仕事」であり、ある方は「神・仕事・家族」であるかもしれません。もしかしたら「仕事・家族・神」というような優先事項もあるでしょうし、多くの人達にとってその優先事項に「神」はなく、否、考えたこともないという方も大勢、いらっしゃることでしょう。

今、読みました創世記は「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造った」と書いています。

すなわちノアは神を畏れかしこみつつ、家族を救うために箱舟を造ったのです。このことは「自分の手でがんばって家族を救う」ということ以上の意味をノアが自分の家族に対して持っていたということです。

すなわち彼が神を「畏れかしこんだ」ということは、ノアは自分の家族は自分のものではなくて、彼らは全て神様から自分に与えられ、託されたものであるということを認識していたということです。

ご存知のように親と子、そして孫達という私達の血縁は自分で選んだものではありません。誰と友人になるかということなら、私達の側に選択肢はあります。仕事も自分で選んだものです。

しかし、血縁関係にある家族には私達の側に選択する余地はありません。すなわち血と血のつながり、すなわち命のつながりということは、全て神にその主権があるということを思います時に、私達と家族との間というのは、神の許しのもとにあり、それは神が私達に与えてくださったものなのです。それゆえに家族は私達にとって、私達に家族をお与え下さった神の次に大切なものなのです。

しかし今日、私達が生活している環境は、この家族を優先としていくことがとても難しい状況となりました。働かなければ家族が食べていくことはできませんので、私達の時間の多くはそちらに向けられます。私も母に育てられましたので、独りでいることが多い時を育ちました。

状況によって、それは致し方のないことなのですが、私達が心に留めておくべきことは、私達が「一番大切にしたい」と願っていることのために「一生懸命」なゆえに、その「一番大切なもの」を失ってしまうというようなことが起きかねないということなのです。

確かに今日、多くの時間を家族と共に過ごすというのは難しいかもしれません、しかし、短くともクオリティーの高い時を共有できたらと願います。そして、それは家族の心に届くと信じます。

これらに加えて私達の心には自己中心という罪がありますゆえに、どうしても私達は家族のことを後回しにして、自分がしたいことに邁進してしまう傾向があるのです。

互いに何の会話なく、いつも各々が持っているセルホンだけに目を留めている家族の姿、このことは今日、明日の問題となることはないでしょうが、しかし後になってこのことによる問題が色々なかたちであらわれてくること、それを心から案じています。

ですから私達は「神を畏れ、家族を救おうとした」ノアのように、私達の最善をもって神から与えられている家族を大切にしたいと願うのです。最善と申しましたのはお話ししましたように私達が「生きていかなければならない」現実があるからです。しかし、その中で私達は最善を尽くすということです。

かつてマザーテレサはいいました。「もし、あなたが世界を変えたいのなら、家に帰りなさい、そして家族を愛しなさい」。“If you want to change the world, go home and love your family.” – Mother Teresa

この世界の諸々の複雑な問題に対して、彼女は根本的な解決を考えていました。こんなに短く、そして力強い説得力を持った言葉がありますでしょうか。

彼女はこのことを成就するために政府や国連に訴えかける手段をとりませんでした。彼女は「家に帰りなさい。そして家族を愛しなさい」と言ったのです。

この言葉は「第一のものを第一としなさい、そうしたら他のことも必然的によくなる」ということをほのめかしているのです。二つ目のことをお話しましょう。それは「家族と神」ということです。

家族と神

ノアとその家族は自分達の最善を尽くして箱舟を造り上げました。そしていよいよ、後にも先にもない大洪水が起こりました。全ての準備が整いました。ノアとその家族、そして神様が言われたように全ての動物のつがいが箱舟に入りました。

創世記7章16節はその時のことをこう記しています「その入ったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」

彼らには最後にすべきことが一つ残されました。それは、彼らと外界を隔てる戸を閉じるということです。もし、その戸が確実に閉じられていなければたとえそれが100年かけて造られた箱舟であっても、そこから水が入れば箱舟は沈んでしまうのです。そう、それは「肝心要」のことでした。

その最も大切なこと、すなわちその戸を閉じるということを神自らがなされたと聖書は記録しています。このことを神自らなされたということはすなわち、神様がノアの家族を最初から最後まで見守っておられたということであり、その肝心要のことに神様は手を伸べてくださったということです。

皆さん、私達の周りには色々な電気器具があります。たとえば私達がテレビを買ったら、当然そのコンセントをプラグに差し込みます。そのことが成されなければ最新のテレビであっても、映像は映らずに、それは単なる邪魔物でしかありません。

皆さん、もし私達が家族としてどんなに素晴らしい計画を立てたとしても、その手綱を神様に握っていただかなければ、私達の計画はもろくも崩れ去ることでしょう。誰もが結婚する時に、家庭をもつ時に色々なことを計画したり、夢見たりしますでしょう。しかし、事はその計画や夢のようにはならないものです。

その皆さんの計画の中心に神様がいてくださるようにしましょう。その計画が神様の御心にかなったものであるのなら、その計画の節目節目に、最後の扉を神様が閉めてくださり、その計画を一つ一つ成就してくださることでしょう。

私達は自分達でできることに対して最善を尽くすべきです。しかし、その最善の中に神様が確かにみ手を伸べていてくださらなければ私達は全く無力であるということを家族一同、知らなければなりません。

三つ目のことをお話しましょう。それは「家族と信仰」ということです。

家族と信仰

もし私達が気の合わない人や、自分に対して攻撃的な人と共に職場で働いているとしても、終業時間がくれば、その人とは離れ離れとなります。その時間は限定されていますので、これは仕事だと割り切って、自分を律することができます。

しかし、その疲れた心と体で帰宅した所には家族がいるのです。一日のストレスを抱えて帰宅した時、どのようなことが起こるのか、皆さんはよくお分かりでしょう。

創世記6章14節-15節にはこんな御言葉があります。『あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでその内外を塗りなさい。その造り方は次の通りである・・・』(創世記6章14節-15節)

この神の言葉と共にノアと彼の家族は箱舟造りに着手したのです。

ノアとその家族は計8名でありました。彼らが巨大な箱舟を造るということは一大プロジェクトであったに違いありません。聖書の記述から計算しますと、あの箱舟を作り始めてから完成するまでおそらく彼らは100年近くの年月を要しています。

余談となりますが、この大洪水の前の地球環境というのは、神が天地を創造された時のままでしたから、今の私達には想像もできないほどに空気や水も完全な形で地にあったに違いありません。

故に聖書はノアが950年生きたと書いています。しかし、地球の全てを覆いつくす大洪水というとてつもない環境の変化の後には、人の寿命は120年に過ぎないと聖書には書かれてあり(創世記6章3節)、それがそのまま現代の人間の寿命となっています。

ノアとその家族は木の伐採から始まり、その運搬、言うまでもなく当時はホームデポなどありませんから、道具の作成から、彼らは互いに協力し合わなければなりません。この壮大な計画をするために彼らは色々な苦労をしたことでしょう。

多くの思い通りにならないことがあったでしょうし怪我をする者や病気になる者もいたことでしょう。そして、何よりも彼らがいつも向き合わなければならないことは彼らの神への信仰でした。

100年といえば今日の私達の平均寿命よりもさらに長い時間です。この間、彼らは降る気配のない大雨に備えて箱舟を造り続けたのです。全然、雨の降らない山の頂きにこのような箱舟を造るわけですから、彼らを見ていた野次馬達の中傷や邪魔もあったことでしょう。

雨が降る気配など微塵になく、灼熱の太陽に照らされ、汗がポタポタと流れるような時、自分の労働の意味が問われ、「もう、こんなこと、止めてしまおう」というような時もあったことでしょう。

そんな彼らは何によって結ばれていたのでしょうか。確かに不信仰な思いが心にわいた時もあったでしょうが、彼らは神が言われたような大雨がくる、またやがて陸地が見えるようになるという信仰によって互いに結びつけられていました。

私達の人生において、このような地球規模の洪水が来るというようなことはおそらくないかと思います。しかし、私達を襲う嵐や洪水ならあります。この世界には四季があり、晴れの日もあれば、嵐の日もあるように、そのような日々を私達、家族も経験します。

明日はどんな日になるのだろう、この状態をどうすればいいのだろう、そのような明日が見えない中を通る時に私達、家族に必要なのは「信仰」です。共に神を信じて仰ぐ心です。私達はこの信仰によって一つとなり、人生で起きる諸々の洪水を乗り越えていくのです。否、神はそれを乗り越えさせてくれるのです。

四つ目のことをお話しましょう。それは「家族と十字架」ということです。

家族と十字架

ノアと家族は信仰と共に箱舟を造り、約束どおりに起きた洪水を互いに助け合って乗り越えました。今や彼らは乾いた土地で暮らすようになり、彼らの生活も安定しました。

しかし、ホッとしたのでしょうか、ノアは陸地でぶどう畑を作る人となったのですが、その自らが作ったぶどう酒に酔って、裸で天幕の中にいたというのです。

創世記9章20節‐27節―23を読みましょう。「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、21彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。22カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。23セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった」

その時に彼の息子セムとヤペテは父の醜態を着物をもって、その姿を見ないように父をおおったのです。しかし、ハムはノアの裸を誰にも知られないように、そっと隠すことなく、それを言いふらしたというのです。

皆さん、家族であるということは互いに全てをさらけ出すということです。友人であるのなら、口にしないことも、家族であるゆえに私達は口にすることがたくさんあります。

そして、血を分け合った親子であっても、互いに見下すようなこともあります。私達には罪がある故に互いを愛と慈しみで見ることができません。神の前に正しい人であったと言われたノア(創世記6章9節)であっても、彼も人間、自らの心をコントロールすることができず、泥酔し、醜態を子供達の前にさらけだしたのです。

そして、その父の姿を子供はさげずみ、その父の恥をおもしろおかしく言いふらしたのです。こうして彼らの間に深い溝ができ、このことが後の彼らの子孫に影響を与えていくことになったと聖書は記しています。

私達は家族であるのに、いや、家族であるゆえに、互いの間に確執が生まれ、その関係が壊れてしまっているということを見聞きします。それは珍しいことではありません。

今日、家族の間で何の問題もないという人を探すのは難しいことなのです。何百万もの人間の命が失われる民族問題は大抵、とても近い民族同士の争いです。昔も今も「骨肉の争い」ほど悲惨な結末を生むものはないでしょう。

先に申しましたように家族は血縁関係を含むのです。私達の親と私達とは血で繋がっているのです。子供達も孫達もしかり。夫と妻は健やかな時も病める時もあなたを愛しますと神と人との前に誓約して結ばれたのです。

しかし、子を愛しているといいながら、自分の自己実現と見栄のために子供を見ているのが私達。「愛しているわ」といいながら、それは「あなたが愛するに価する時まで」という期限つきの事が多々あるのです。

一番、身近な家族を愛することができないのに、どうして他の人達に愛を注ぐことなどできましょうか。富士山に登頂できないのに、どうしてエベレストに登ることができましょうか。

ゆえにキリストの十字架はまず私達の家庭に第一に必要なものなのだということを心に刻みましょう。イエスの十字架がまず必要なのは、紛争地帯でも町のスラムでもなく、私達の家庭、そのただ中にこのキリストの十字架が必要なのです。

最後のことをお話しましょう。それは「家族と祝福」ということです。

家族と祝福 

創世記9章1節-13節を読みましょう。1神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。2地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。

今日は私達の生活には優先順位があるといういことをお話しました。そして、その中で家族の大切さをお話しました。ここで、誤解していただきたくないのですが、聖書は自分の家族以外のことは何も考慮する必要はないというような、利己的な者になりなさいとは言っていません。

そうではなく、私達の人生の最優先をまず神におくこと、そして神から与えられた家族を大切にすることによって、私達は自分達が考えもしなかった祝福を他者に分け与えることができるものとされると聖書は約束しているのです。

人類はノアとその家族によって世界に広がったのですから。ノアは「家族を救うために」箱舟を造ったのですが、実はそれは「世界を救うこと」だったのですから。

先のマザーテレサの言葉、「もし、あなたが世界を変えたいのなら、家に帰りなさい、そして家族を愛しなさい」という言葉もそのことを言い表しているでしょう。そう、世界を良きものに変えたいのなら、まず家族を愛しなさい。家族を愛することが、ひいては世界をよきものへと変えるのです。

今日、家族の問題が世界には満ちています。骨肉の争いが絶えません。本来一番、身近にいるはずの家族が一番遠くにいる者のように感じるのはなぜでしょうか。

なぜ家庭の中に笑いがなくなってしまうのでしょうか。なぜ、家族の一人一人がそれぞれてんでバラバラの方向を見るようになってしまったのでしょうか。私達なりに一生懸命生きているのに、なぜそのような結末を見なければならないのでしょうか。

今朝、もう一度、私達の家族観を点検しましょう。神第一、そして家族、それから・・・と私達の人生設計をもう一度確認しましょう。我々が立つべき土台を確認しましょう。家族の事柄において手綱を神様に握っていただきましょう。

家族が最善の道を進むことができるような判断ができるように、神様が私達に与えておられる基準を心にもちましょう。この基準がなければ私達は大抵、自分の好きなようにするのです。そして、それが私達の関係を壊してしまうのです。

神様は私達の思いを超えた祝福を私達に注いでくださろうとしています。そのために神様はノアとその家族を救ったのですから。そして、私達にもこの祝福が受け継がれるようにと、かけがえのない家族を神様は私達に与えてくださっているのですから。お祈りしましょう。

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