希望を語る前に、絶望について語ろう

神の前に「私達は主が仰せられたことをみな、従順に行います」と誓い、神との契約を結んだイスラエルの民は、時経ずして、心を翻し、自分達に先立つ偶像を求めました。

彼らは神を知らない者達ではありません。彼らをエジプトから救い出し、紅海をわたらせ、日毎にマナを与えてくださった存在を彼らは知っていました。しかし、彼らはいとも簡単に、その神に変わって、自分達の先頭に立ってくれる偶像を望んだのです。

その彼らの望みは大祭司アロンに伝えられました。アロンはモーセの右腕であり、畏れるべきお方を知っていた人です。しかし、アロンは民の願いを聞き入れ、彼らのために金の子牛を作り、彼らの前に置いたのです。そして、彼らはその前で熱狂したのです。

神を知っている者達が、いとも簡単に金の子牛を慕い求め、その置物に神に向けるのと等しい思いを託したということ、「ノー」と言うべきことを託されている者が「ノー」と言わなかったこと、これらのことを「絶望」と呼ばずに何と言いましょう。

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希望を語る前に、絶望について語ろう

2020年11月15日

先週、私達はイスラエルの民を前に、シナイ山の麓でモーセが神様から与えられた契約の書を読み、それを民に聞かせたとお話ししました。そして、それを聞いた民ははっきりと言いました「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」(出エジプト記24章7節)。

これらを見届けて、モーセを含む74名のリーダー達は山にのぼり、最終的にモーセだけが山頂に向かい、彼はそこで40日40夜を過ごしたとお話ししました。そのところで彼は出エジプト記に記されている諸々の律法を受け取り、山を降りてくるのです。

そのモーセの帰りを待つイスラエルの民は山の麓で何をしていたのでしょうか。今日はその彼らの姿を見ていきたいと思います。出エジプト記32章1節-10節を読みましょう。

1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。 (出エジプト記32章1節-6節)

シナイ山の麓にいた民はモーセの帰りを待っていました。モーセと共に上ったアロンをはじめ73名の者達はその時、既に下山していたようです。彼らは今日か、明日かとモーセの帰りを待っていました。

しかし、日が経つにつれて、イスラエルの民はモーセの下山が遅すぎると思うようになりました。彼らは待つことができなくなったのです。そこで、彼らはモーセの兄、大祭司アロンに言いました。「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。

モーセは40日40夜、一人で山にいたと言いましたが、その前がありますので、実際に民がこのことをアロンに願った時というのは、モーセが民と共に麓にいた時から、50日に満たない時となりますでしょうか。50日を長いととるか、短いととるかに個人差があると思います。でも50日を「昔」とか「大昔」と呼ぶ人はあまりいないと思います。それは「先月」のことなのですから。

そうです、先月、彼らは神様と契約を結んだのです。「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と彼らは言ったのです。モーセは中腹まで共に来た長老たちに、その時に言ったのです「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい」(14)彼らはモーセよりも先に下山していますから、この言葉を民にも伝えていたことでしょう。しかし、彼らは言いました「あのモーセがどうなったのか分からない」。「モーセがどうなったのか分からない」とは、すなわち「モーセと共にいる神がどうなったのか分からない」ということです。

彼らのこの言葉は全く見当違いな言葉でした。なぜなら、モーセはどうなったのか分からなくなったのではなくて、モーセはその時も神の前に立ち、民に必要なものを備えていたからです。しかし、民は自分の目にモーセが見えないので、モーセの言葉を聞くことができないので「どうなったのか分からない」と判断し、己れの思いのままに動き出そうとしていたのです。

このことはイスラエルの民に限らず、思えば同じことをあの初代の王、サウルもしています。かつてペリシテとの戦いがありました時に預言者サムエルはサウルに自分が来るまで待っていなさいと言いました。この言葉を受けながら、サウルはどうしたのでしょうか。

8 サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。9 そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。(Ⅰサムエル13章8節-9節)。

サウルは祭司サムエルが「自分が来るまで待つように」と言ったにもかかわらず、民が自分を離れていくことに心が揺れたのでありましょう、祭司、立ち合いのもと捧げられるべき燔祭と酬恩祭を彼自ら、捧げたのです。そして、このことゆえに神は彼に与えた王座を彼から取り去ったのです。

主にある皆さん、私達はいかがでしょうか。神様が事に臨まれる時と、その神の御手が既に動いている、そのスペースを私達は念頭に置きながら、この世界を見ていますか。この一年間、これでもかというほどに色々なことがこの世界には、この国には起きました。

私達は今、あのイスラエルの民のように「神がどうなったのか分からない」と嘆いているのでしょうか。私達はその一つ一つの出来事の中に、神様の御手を信じ、その御手の業が私達の前に明らかにされる時というものがあることをしかと心に受け止めているでしょうか。

イスラエルの民は「荒れ野」という不安定と不確かさに支配された場所におりました。そこは明日の保証がない土地でした。私達も今や、それに近い状況の中に置かれているのかもしれません。確かにそのところで神の御業を期待し、待つということは簡単なことではありません。しかし、私達の希望は神がしかるべき時にその御手を動かされるということです。神の民はそのことを待ち望むべきだったのです。しかし、彼らにはそれができなかったのです。

預言者イザヤは言っているではないですか、15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。(イザヤ30章15節)

私達はまかり間違っても、神様に変わって、自分に変わって事を成してくれるだろうと思われるものを求め、それに神様に向けるのと等しい思いを向けてはならないのです。

イスラエルの民のリクエストは大祭司アロンに向けられました。アロンはその時、何をしたのでしょうか。2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

「わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってくれ」と言われたアロンは、彼らに向かって「お前たちは何を言っているのか。そんなこと聞き入れられるはずがないだろう」というべきでした。しかし、彼は言わなかった。

この時の彼の気持ちはあのサウルに通じるものがあったのかもしれません。サウルは民が彼を離れていくことを恐れました。アロンも大衆を前に恐れを感じたのかもしれません。彼は言ったのです。「あなたの妻、息子、娘の金の耳輪をもってこい」と。そして、型を作り、鋳て金の子牛を作り、こう言ったのです。

「これはあなたのエジプトの国から導き上ったあなたの神である」とイスラエルの民は言ったのです。彼らは「これは!」と言ったのです。そう、彼らはその時、その金の子牛を指さしたのでしょう。そして、彼らはその指の先にある「それを」見て、それに燔祭と酬恩祭を捧げました。

燔祭と酬恩祭は先月、神様の前に誓いを立てた彼らが山の麓でモーセを前に神に捧げたものです。彼らはその記憶が鮮明に残っている時に、おそらく同じ場所で、同じものを捧げた。彼らは自分のピアスから作った、金の子牛にそれを捧げた。

今日のメッセージタイトルは「希望を語る前に絶望について語ろう」としました。本心を言えば、「絶望」などという言葉はメッセージタイトルに使いたくないのです。しかし、絶望と言いました理由はここにあります。

イスラエルの民は先月の神との契約を無残なまでになきものにした。彼らは神を知らない者ではなかった。神を知っていた。その神は彼らをエジプトから救い出し、紅海をわたらせ、日毎にマナを降らせたお方、彼らはいとも簡単にその神に変わって、自分を守り、自分の願いを聞いてくれる偶像を望み、それを自分の前に置いた。

時に、私達は本来、神様がおるべき場所に何かを置きます。何かを担ぎ出します。イスラエルの民は、担ぎ出すだけではない、その金の子牛を前にして、本来、神にのみ捧げるべく燔祭をささげ、酬恩祭を供え、祭壇を築き、その前に座しては飲み食いし、そして戯れたのです。熱狂して、それをほめたたえたのです。

そして、このことに対してその誤りを諭すべき者が、ノーと言わず、そのことに関わり、それに加担したということ、すなわち、そのことゆえにもはやこのことに対して、歯止めがきかない状況になったということ、その時のイスラエルを思う時に、私の脳裏に浮かんだ言葉は「絶望」を他にして何もなかったのです。

アロンはモーセの右腕です。彼は神の臨在に触れることがあったことでしょう。畏れるべきものを知っていた人です。しかし、その彼ですら、神ということを本当に理解していませんでした。神は「これは」と指し示すことができるようなお方ではない、そんなことすらアロンは分からなかったのです。

ノーと言うべきことを神様から託されている者がノーと言わずに、神を畏れずに民を恐れた時に腐敗が起きました。私達はこのことを心に刻まなければなりません。大祭司アロンを今日に置き換えますのなら、それは牧師のことを指すのでありましょう。さらには、それは牧師だけを指すのではなくて、私達、クリスチャンは本来この世界に対して祭司の役目を果たすべき者達なのです。私達は神を畏れ、そして、この世界を見なければなりません。

私達は心に刻みましょう、祭司の役目とは民の要求にこたえることではなくて、神の御心、神の要求を人々に伝えることなのです。

古代オリエントでは金の子牛は、光り輝く金であることから繁栄、成功、権力、富を象徴するものとされ、それを神とするということは、すなわち自分の欲望をかなえるシンボルのようなものでありました。いつの時代も人はこの金の子牛を求めています。それを自分に先立つ者として求めているのです。そして、それは私達の時代も例外ではないのです。

私達が聖書の中にこのような出来事を読む時に、聖書はいつも私達に語りかけるのです、あなたはどうなのかと。このことに対して主は御言葉を通して私達の心に語りかけます。そして、その御言葉に私達が耳を傾ける時に、私達はその絶望の中に、一筋の光を見るのです。

主にある皆さん、私達は自分のために金の子牛を作り上げていないか。自分達の先頭に立つ金の子牛を作り、それを担ぎ上げ、それは単なる置物に過ぎないのに、時にそれは全く不完全な人間に過ぎないのに、まるでそれが神に変わるものであるかのようにして、その子牛に心酔していないか。その心酔は神へと向けられる、それに等しいもの、否、それよりも大きなものとなっていないでしょうか。

ある方が正直にその心内を語っていました。今の私は聖書よりも諸々のネット情報に目を向け、それを自分の最大の関心とし、そこで見聞きすることに一喜一憂している、そしてそこにある情報を心の拠り所としている。主の言葉が心の中心にあるのではなく、ネットが伝える言葉が私の一日の中心にある。その言葉を聞き、私も主の前に悔い改めました。

主にある皆さん、今日の世界において、もしかしたら、このような日常が私達が金の子牛を担ぎ出しかねない原因となっているのかもしれません。そして私達は知らぬうちに金の子牛の前に立っており、そのことにその本人すらも気がついていないのです。立っているだけではない、その前で戯れ始めるのです。やがて人はその子牛に熱狂し、拳を振り上げるのです。

イスラエルの民は自分たちが山の麓にいることを忘れていました。神が天地万物を支配しておられるお方であり、それに比べたら、自分達は大地にはいつくばって生きている者であることを忘れました。

彼らには生きなければならない生き方がありました。それは神の前にへりくだって生きることでした。しかし、それを忘れ、彼らは自分の分際を超えました。畏れるべきお方を忘れました。畏れるべきお方を忘れる時に何が起こるのでしょう。私達の心には高ぶりが、高慢が生まれるのです。

箴言は我々、人間に語り続けています18 高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。19 へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。20 慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである」(箴言16章18節ー20節)。

ミカは神の心を明確に言い表しており、時代は変われど、揺るぎなく私達が生きる道を示しています。人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。(ミカ6章8節)

私達が真に神の前に立つ時に、私達から必ず出てくる神が与えてくださる徳性があります。それは謙遜なのです。自分がどんなお方の前に立っているのかということを私達が知る時に、この実は必ず結ばれていくのです。

私はここまで十戒について話しました。今は40日40夜、モーセがシナイ山において神から受け取った律法についてお話ししています。

その全てを御存じである主イエスは、そのモーセが神から受けた律法をたった二つにまとめました。そのモーセの律法が言っていることはこの二つに尽きる、この二つがその全てを言い表していると言われました。

34さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。35[そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38これがいちばん大切な、第一のいましめである。39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。40[これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22章34節ー40節)

主にある兄弟姉妹、今日、私達は神様の前に立っています。イスラエルの民の姿は私達と全く無関係と言えるものではないことでしょう。もし、そうであるのなら主の前に悔い改めましょう。もう一度、神様がおるべきところに神様にいていただくように、そのことをしかと確認して、新しい週を、私達の生涯を歩んでいこうではありませんか。

この世界がどんなことになろうとも、私達がすべきことは昔も今も変わりません。私達は私達のできる限りを持って公義を行い、祭司としての役目をなし、いつくしみを愛し、へりくだって我らの神と共に歩むこと。

金の子牛を前に置かず、仮にそれが実在していても、そのようなものには一目も置かず、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる我らの神だけを愛する、そして、自分を愛するように、私達の隣人を愛する。

これからも諸々の出来事に対して世界は混乱することでしょう。しかし、その世界を冷静に見つめつつ、大きな視点で神の心を探り求める者達がこの世界には必要なのです。世界の諸々は変化します。しかし、神の御心とそこに立ち続けようとする者達の心は変わらないのです。

今日のタイトルは「希望を語る前に絶望について語ろう」でした。そうです、希望とは絶望のただ中で見るものであり、希望を語るためには私達人間の絶望をまず直視するところから始めなければなりません。

そして、このタイトルの通り、次回、来週はサンクスギビングですので、再来週、神様が私達に約束しておられる希望についてお話ししましょう。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2020年11月15日

1)出エジプト記32章1節-6節を読みましょう。この時イスラエルの民はどんな状況にいましたか。このところから私達が驚くことは何ですか。

 

2)2節のイスラエルの民の要求から民のどんな心内が見えますか。あなたは「神様がどうなったのか分からない」というような思いを持ったことがありますか。その時、神様は消息不明だったのでしょうか。

 

3)イスラエルの民はモーセの帰りを待つことができませんでした。あなたは神様の御業を期待し、待ち望むことができますか。

 

4)Ⅰサムエル13章8節-9節を読みましょう。サウルはなぜサムエルを待つことができなかったのですか。このことは私達にどんなチャレンジを示していますか。

 

5)イザヤ30章15節を読みましょう。結局のところ、このことは私達に何を言っているのでしょうか。

 

6)民の要求に対して、アロンはどのように反応しましたか。ノーと言うべきポジションにいる者が、ノーと言わない時に、その状況はどこに導かれていきますか。人間の歴史の中で思い起こされる、これに類する出来事がありますか。

 

7)箴言16章18節-20節、ミカ6章8節に共通して言われていることがあります。なぜ、そのことは大切なのですか。

 

8)私達はモーセが神様からいただいた十戒や諸々の律法について見ていますが、これらの律法をイエス様は二つにまとめました。今日の世界でマタイ22章34節-40節に書かれていることに生きるは、なぜ大切ですか。


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