度々、取り上げられる不倫について

日本では有名人が不倫をしていたということがニュースとなります。このことに関して、最近は、それはプライベートなことだから、その人の仕事とは区別すべきだという意見が多くあり、実際に欧州ではプライベートとその人の社会的な立場や仕事は区別されており、マスコミも国民も関心を寄せないと聞きます。

その背後には「結婚して、家庭を育む、死ぬまでそのままである必要はない」「本人が決めたことなのだからいいだろう」「人生は一度きりだし、各々が自由に生きればいい」というような考えがあり、そのような考えが私達の社会に定着しつつあるのでしょう。しかし、これら私達が考えうる思いに対して、聖書は一言、言うのです。

あなたは姦淫してはならない(出エジプト記20章14節)

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度々、取り上げられる「不倫」について
2020年10月4日

十戒を一戒から見てきています。今日はその第七番目の「姦淫してはならない」という箇所です。今日、はじめてキリスト教の礼拝で語られる牧師のメッセージを聞いたという方がいるかもしれません。そんな時にはじめて聞く話が「姦淫するな」ということで驚いているかもしれません。

そもそも「姦淫」という言葉自体、今日の日本社会ではあまり使いません。どのような意味なのか、広辞苑によりますとそれは「不正な男女の交わり」「不倫な情事」と書かれていました。

1997年、「失楽園」という小説が渡辺淳一という作家によって書かれ、映画にもなりました。その内容は妻子ある男女が不倫の恋に落ちていくというものです。「失楽園」というタイトルはもともとミルトンという人が書いたアダムとエバがエデンの園を追放されていく話から書かれたものでありますが、その古典が「男女の情愛」と内容を変えました。

これが大きな反響を呼び、「失楽園」という言葉はその年の流行語大賞にもなりました。この小説と映画により「不倫」という言葉が、それまで以上に日本社会で多く使われるようになったようです。

日本では有名人が不倫をしていたということがニュースとなります。このことに関して、最近は、それはプライベートなことだから、その人の仕事とは区別すべきだという意見が多くあり、実際に欧州ではプライベートとその人の社会的な立場や仕事は区別されており、マスコミも国民も関心を寄せないと聞きます。

その背後には「結婚して、家庭を育む、死ぬまでそのままである必要はない」「本人が決めたことなのだからいいだろう」「人生は一度きりだし、各々が自由に生きればいい」というような考えがあり、そのような考えが私達の社会に定着しつつあるのでしょう。しかし、これら私達が考えうる思いに対して、聖書は一言、言うのです。

あなたは姦淫してはならない(出エジプト記20章14節)

今日の世界は「あなたが生きたいように生きればいいよ」という、もはや後戻りできないほどに強い流れに、身を委ねつつあり、その背後には「個人の自由」という動かしがたい言葉があります。しかし、それらのことを前にしても、聖書は言うのです。「あなたは姦淫してはならない」。私達は今日、この言葉に向き合いたいと思います。

先ほどもお話ししましたように、神様はこの戒めに対して事細かに、その理由を書いていません。しかし、私達が聖書を通して知っていることは、人に命を与え、その人間に男と女という性別を与え、その体の機能をそれぞれ創造され、男と女により新しい命が誕生することをよしとされた神は、すなわち私達の心と体について、全てを知っておられるお方が「姦淫するな」と私達に言われているということです。

以前、「父と母を敬え」というところでもお話しましたが、なぜ、神様はこの「姦淫するな」という戒めを幾千もありうる戒めの内、10の戒めの一つとして選ばれたのでしょうか。今や姦淫などは問題として取り上げられず、肯定さえもされる世界にあって、この戒めには神様のどんなメッセージが込められているのでしょうか。

まず「姦淫するな」ということを語る前に結婚について触れなければなりません。結婚は私達にとりましては「好きだから、いつも一緒にいたいから、経済的に助かるから、子供ができたから」というものなのかもしれません。しかし、聖書は男と女が夫婦となるということについて、それ以上のことを語っています。

聖書の創世記には人は神によって造られたといいます。最初に男であるアダムが作られ、そして女であるエバが作られました。女のエバはアダムが眠っている間に、そのあばら骨から造られたのです。そこは私達が心のある場所として表現する部位です。そこから女は作られ、この男女が人類最初の夫婦となりました。

そのことについて創世記2章24節はこう言います それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。後にパウロはこのことを結婚の奥義だと言いました。

ここで一体ということですが、それはまさしく二人が一つとなることです。夫婦となった男と女は肉体的にも精神的にも文字通り、一つとなるということです。

このことに対してイエス・キリストは幾つかの例外を別として「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを人は離してはならない」(マタイ19章6節)とまで言っています。

今、申しました例外とはⅠコリント7章15節、マタイ5章32節に記されていることであり、何があっても二人が別れてはならないとは聖書は言ってはいません。それは、どうすることもできない状況にある者達の信仰と平和を守るためです。

人間のストレスを計るホームズ・レイ・スケールという表があります。これはアメリカの社会学者ホームズと内科医のレイによって造られたもので、私達が人生で経験するライフ・イベントに対して、どれだけのストレスを感じるかということを表したもので、私達のストレス要因を探るデータとして世界的に有名なものです。

この彼らのスケールによりますと、人間のストレスのトップは「配偶者の死」だそうです。そして、2番目に「離婚」、3番目に「別居」があります。皆さん、私たちが受けるストレスのトップスリーは全て伴侶に関することなのです。

この調査結果は、私達が聖書の言っている「結婚は二人が一つとなる」ということなのだということを裏づける確かなデータとなります。そうです、このスケールは一つとなっている者達が引き離されるということには、とてつもない痛みを伴うことだということを示しているのです。

私達の顔の一部となっている耳が、そぎ落とされるなら、その痛みは想像を絶しますでしょう。手の一部である指が切り落とされるなら、私たちは気を失うでしょう。

アダムはその妻エバに初めて会った時に、嬉しくて、嬉しくて語ったというより私はこれは人類最初のラブソングだと思っているのですが、創世記の2章にはこう記されています「これこそ、ついにわたしの骨の骨、私の肉の肉。男からとったものだから、これを女と名づけよう」(創世記2章23節)

 このような大きな喜びに反して、自分の骨の骨、肉の肉になった半身が自分から引きちぎられることは想像を絶する痛みなのです。

ある日、男と女に出会いが起こり、結婚に導かれ、二人は結ばれる。二人が神の前に一つとなる。不倫とはその二つが一つとなった、そのところに何者かが入ってくること。

そのことを今日、人は純愛と呼ぶかもしれません。しかし、それは私達を作られた神から見たら、一身なる体に異物が混入して、その異物がその体を二つに引き裂くことなのです。

引き裂かれることも耐えがたき痛みを伴いますが、そこに本来あるべきではないものが混入してきた時の痛みはどんなものでしょうか。つなぎ合わされている骨と骨の間に異物が混入したら、私達は悶絶して苦しみますでしょう。

このことを私達が知っておりますのなら、確かにあれやこれやと説明は入りませんでしょう。ですから、主は言われるのです。あなたは姦淫してはならない(出エジプト記20章14節)。

互いに人生を共に歩んでいこうと歩んできた。経済的な困難も通ったし、健康を損ねた時もあった、励ましいたわり合って、肩を寄せ合って死の谷を歩んでこられたという方もいるでしょう。そして、苦労して、神が授けてくださった子供を育ててきた、そんなパートナーを私たちは妻、あるいは夫と呼ぶのです。

そのようなところを共に歩んできた者に対して私達が投げかける言葉は私の妻、私の夫ということもそうですが、そのパートナーを私達は共に人生を戦ってきた同志と呼ぶのです。その人生の同志を裏切ってはならない、痛めつけてはならないのです。

私達がその同志を痛みつけることは結局のところ、自分を痛みつけているのと同じなのです。二人は一体なのだと聖書は言うのですから、その時は分からないかもしれない、心が無感覚になっているかもしれない、しかし、相手に突き刺した矢は自分の心をも刺し通しているのです。

そして、さらにこのことは二人だけの問題ではなくなります。夫婦の間には新しい命が神から与えられることがあります。子供の誕生とは100%、父と母に寄り頼んでしか、生きていくことができない一人の人間が自分の目の前に現れることです。子供は親のケアーと愛情なしには育つことはできないのです。

私がよく触れる言葉です。この言葉を私は事ある度に自分の心に言い聞かせます。

子育てに関する著書を書いているジョン・ドレッシャー博士は「若い父親のための10章」(いのちのことば社)の中で父としての自分の経験から「もし自分がもう一度、父親をやり直すことができればこうしたい」ということを10、挙げています。そして、その第一に「妻をもっと愛すること」と書いています。

私はこの第一のことを見た時に衝撃を受けました。なぜなら、博士の言葉は私が考えたこともない言葉だったからです。父親は子供の前にインテグリティーを持つとか、常に心を広く保つとかなら分かる。しかし、博士は言いました。「父親が子供にできる最善のことは子供の母親を愛することだ」と。

博士は書いています。「両親が互いに愛しあっていることを、子供が知っている時、子供は他の何ものをもってしても得られない安心感、安定感、また人生の尊さを感じることができる。また、他のどんな手段でも実現できない喜びを、その愛し合う両親の関係の中で感じとる。両親が互いに愛し合っているのを知っている子供には、神様の愛がどうとか、男と女がいることの意味など説明する必要はない」。

このような言葉に向き合う時に私達は知ります。父親が子供に対してできる最高のことが妻を愛することであり、母が子供に対してできる最高のことが夫を愛するということであるのなら、子供にとって一番、傷つくことは、父が、母が、互いに不真実になることです。大切なお父さん、お母さんの間に自分の承認もないのに、何者かが入ってくることです。

子供は男と女について、夫と妻についてどこから学ぶのか?テレビドラマや雑誌の特集記事によって学ぶのか。いいえ、父と母の関係を見て学ぶのです。子供にとって、一番心に喜びと安心を与えることは、最新のテレビゲームを買い与えることや、毎年、海外に家族旅行に行くことではなく、夫と妻の愛を生活の中で子供に見せていくことです。

しかし、このことを考える時に私達は頭を抱えます。果たしてそのような夫婦がいったいどれだけいるのか。私達が見せているのは反面教師となるようなことばかりではないかと思われる方がいるかもしれません。

様々な事情により父により、母により、育てられる子供が今日、たくさんいるのです。父と母の愛を示そうにも、それができない、もしかしたらそのような家庭の方がこの世界には多いのかもしれません。私自身も父親を知らずに母に育てられました。ですから私達は夫婦の愛というものを見たことがありませんし、父と母の間で育まれたという経験が全くありません。

今になって話せるようになりましたが、私がまだ幼稚園に行っていた時、私は父の日が大嫌いでした。その日が近づくと先生がお父さんの絵を描かせるのです。友達は皆、思い思いに父親の絵をかくのです。そんな時、私は何を書けばいいのでしょうか。

私がその時にしたことは、私には父がいないということを隠すことでした。今でも覚えています。私はあたかも自分には父がいるかのようにして、工場で働いている父の絵を描いたのです。そのようなことが数年、続きました。私は父がいないということに後ろめたさを感じていたのです。そして、そのことはおそらく私の人格に何かしらの影響を与えたと思います。

しかし、今、振り返って、このような話をすることができるということは、私はこのことにおいて自分なりの解決を得たということが自分でも分かるからです。そうです、そのことをなしてくださったのは、私の父なる神と主イエス・キリスト、そして聖霊様の働きなのです。私達、親子に欠けていたものを神様は補っていてくださったのだということが今、分かるのです。

夫婦の関係において色々な問題がある、色々な事情で伴侶と別れることを余儀なくされている方達、相手のあること、これまでの歩みを再び取り返すことは難しいかもしれません。

しかし、どうかこれからの人生を父なる神と共に、主イエスの言葉に従い、生きる道を選び取ってください。私達が失ったものを癒し、回復してくださる力を持っているのはこのお方なのです。

かつてイエス様のもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたことがありました。ヨハネ8章に書かれています。当時の律法ではその女は石で殺されることが定められていました。しかし、イエスはその女を赦し、彼女に言いました。「わたしはあなたを罰しない。おかえりなさい。今後はもう罪を犯さないように」。主イエスは私達の今後に目を注いでくださり、そこに望みを与えてくださるお方であることを心に刻みましょう。

私達は誰しも避けて通れない現実に身を置いています。それは長年、顔をつき合わせている伴侶と共に単調な生活をしていくことから新鮮な刺激が失われていくということです。燃えるような男女の姿は小説にもなり、映画にもなります。その二人が世界の主人公になったかのような瞬間があるからです。

しかし、それに対して、様々な試練を乗り越えながら、平凡な家庭生活を黙々と続けている二人のことなど、映画にしたところで見る人はいません。一日の仕事を終えて夫婦で食事をとり、お茶をすすり、家計について、子供の教育について話し合う、そんな日常から脚本を書くのは難しいのです。

ドラマになった情熱的な男女にもやがて平凡な日常が訪れます。しかし、この日々の生活をドラマが映しだすことはありません。ドラマはその前に終わるのです。

しかし、実際にはその映し出すことがない世界こそが私達にとりまして、最も大切な時なのです。そこに私達が人生を生きる本当の価値が隠されているのです。

あの失楽園のクライマックスは、互いに情愛を燃やした男女が心中することにより終わるといいます。地上では多くの反対を受けた、でも私達は天で結ばれるかのように死んでいくというのです。あたかもそれは愛し合う者の愛が永遠に結ばれた、これこそが純愛というような印象を私達に与えます。しかし、私達は目を覚ましましょう。私達はそれを美しい物語と呼ぶべきではないということを。

最近も日本ではオリンピック選手の不倫が報じられました。このようなことがありますと、後に必ずといって起こることは、そのアスリートのスポンサー企業が契約を解除するということです。実際に、この選手と契約を結んでいた企業もすぐに対応し、このような声明をだしました。

「我々はスポンサー契約の解除を本人に申し入れ、連盟にも報告いたしました。これまで私共は彼がアスリートとして努力する姿勢をサポートしてまいりましたが、今回の事案は当社のイメージにふさわしくなく、この決断に至りました」。そして、二方の契約解除は合意に至ったのです。

この企業がもっている「当社のイメージ」とは何なのでしょうか。不倫は個人の自由なのだと一方で言いながら、なぜ、そのことは我々のイメージにそぐわないというようなことを私達の世界は言うのでしょうか。その「イメージ」とはどこからきているのでしょうか。

私達の心には消すことができない、神が私達の魂に残した残像があるのではないでしょうか。たとえどんな理由を持ち出しても、自分達の最後の砦、自由という言葉を持ち出しても、私達の心には「このことは私達のイメージにはふさわしくないのだ」という内なる語りかけがあるのではないでしょうか。その内なる語りかけはどこから来るのでしょうか。創世記1章27節、

『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』So God created mankind in his own image, in the image of God he created them; male and female he created them.(創世記1章27節)。

 その内なる語りかけは、私達は皆、神のイメージに創造されているということです。「姦淫をする」ということは、その最初のイメージにそぐわないことなのだと父なる神は私達に語りかけるのです。

私達が生きるべき道は、選ぶべき道は、この原則に従う生き方、この原則に従う道なのです。私達の日々の歩みの上に我らの父なる神の御目が注がれ、私達はその主の見守りの中を歩むことができますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年10月4日

1)今日の世界は「あなたが生きたいように生きればいいよ」という、もはや後戻りできない強い流れに身を委ねつつあり、その背後には「個人の自由」という動かしがたい言葉があります。このような世界で私達はどのように生きていくべきでしょうか。子供達に何を教えるべきでしょうか。

 

2)なぜ、神様は「姦淫するな」という戒めを幾千もありうる戒めの内、10の戒めの一つとして選ばれたのでしょうか。なぜ、神様はこのことをき極めて大切なこととして取り上げているのでしょうか。

 

3) それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである(創世記2章24節)という短い一文からあなたは神様のどんなメッセージを受け取りますか。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、私の肉の肉。男からとったものだから、これを女と名づけよう」(創世記2章23節)から分かることは何でしょうか。

 

4)かつてイエス様のもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたことがあり、イエス様はその女を赦し、彼女に言いました。「わたしはあなたを罰しない。おかえりなさい。今後はもう罪を犯さないように」。この言葉は私達に何を語りかけますか。「今後」というところにどんな主の私達に対する期待がありますか。

 

5)『神は自分のかたち(his own imageに人を創造された。すなわち、神のかたち(in the image of God に創造し、男と女とに創造された』(創世記1:27)。この箇所は「姦淫」は本来の私達のイメージにそぐわないことを言い表しています。本来のイメージから離れていく時に私達は何を経験するでしょうか。

 

6)夫として、妻として、父として、母として自分を、自分達を見る時に私達は自らの足りなさを感じます。今、置かれている状況で私達ができることは何ですか。“今後”、私達がすべきことは何ですか


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