弱いからこそ強い

これまで私の人生に出会ってくださった方達、ごめんなさい。正直申し上げなければなりませんが、私はこれまで本当に強いという人に一度も出会ったことはありません。本当に強い人を思い起こそうと思っても、誰の顔も思い浮かばないのです。(言うまでもなく、その中に当然、私もおりません)。

私達は度々、「強くなります」とか「強い人になってください」と言いますが、はたして本当に強い人など、この世界にいるのでしょうか。

わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と聖書は私達に語りかけます。人生、後半に向かうにあたり、日毎にこの言葉に心が惹かれていく自分がいます・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

弱いからこそ強い

2020年5月10日

聖書のコリント人への第二の手紙12章9節に「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というみ言葉があります。「わたしの力」とは「神の力」ということであり、「神の力は私の弱いところに完全にあらわれる」ということです。

そして、さらに、その後を見ると「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」(コリント人への第二の手紙12章10節)とまで書かれています。はたして、皆さんはこの聖書の言葉についてどう思われるでしょうか。

これまで私の人生に出会ってくださった方達、ごめんなさい。正直申し上げなければなりませんが、私はこれまで本当に強いという人に一度も出会ったことはありません。本当に強い人を思い起こそうと思っても、誰の顔も思い浮かばないのです。(言うまでもなく、その中に当然、私もおりません)。

私達は度々、「強くなります」とか「強い人になってください」と言いますが、はたして本当に強い人など、この世界にいるのでしょうか。

「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と聖書は私達に語りかけます。人生、後半に向かうにあたり、日毎にこの言葉に心が惹かれていく自分がいます・・・。

このことを念頭に置きながら、今日はモーセの生涯を見ていきたいと思うのです。先週は彼が40年の間、ミデアンの荒野で過ごしたということをお話しました。

それは人間的に見たら、エジプトの王宮からの逃亡であり、生涯を刺激のない荒野で終えることを意味していました。そのようなミデアンの荒野で年を重ねたモーセに神様から声がかかるというのが、今日の箇所なのです。

ある日、彼は羊と共に神の山ホレブにやって来ました。その山は私達がフリーウエイから眺めるアリゾナやネバタの田舎に見るような禿山ではなかったと思います。そのような所で、どうにかこうにか羊達が食べることができるような草でも探していたのでしょう。

ふと見ると、しばが燃えているのが見えました。乾燥しきった土地のしばが燃えるのですから、それは勢いよく燃えていたことでしょう。でもその分、燃え尽きるのも早いはず。

しかし、火は確かに燃えているのですが、そのしばはなくならないというのです。物が燃えれば、それはやがて燃え尽きて、火は消えます。しかし本来、ありえないのですが、そのしばは燃え尽きませんでした。

モーセは思いました。「行って、なぜしばが燃えないのかを見てみよう」。そうして、そのしばに近づいた時です。神様はしばの中から彼の名を呼びました。「モーセよ、モーセよ」。モーセは答えます「ここにいます」。

神様は言われました「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」(出エジプト記3章5節-10節)。

燃えるしばの傍でとてつもない言葉がモーセに語られました。そう、神様は「あなたをエジプトのパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」というのです。

ちょっと待ってください!この時、モーセはいくつになっていましたか?彼はその年、80歳となっていたのです。人間の年齢として考えるならば、どう考えても、一線を退き、子供や孫に自らの仕事を託して身を引く年齢です。

かつてのように知恵と体力がみなぎり、人生経験を積んだ40代、50代ならまだしも、それらを全てパスしたような時になぜ神様は声をかけるのか。

皆さん、この出来事は現在80歳前後の方達を叱咤激励するために聖書に記録されているのでしょうか。いいえ、神様がこのモーセを用いようとされる、そこには神様が私達に知ってほしいメッセージが込められているのです。そのメッセージとは何でしょうか・・・。

かつてその齢、40の時、モーセは思いました。「私の手により、神はこの民を救ってくださるに違いない」(使徒行伝7章25節)。しかし、その言葉もむなしいものとなりました。

 モーセのうちにあった自信は失われ、俺にはあれがある、これがあると思っていた諸々のことも既に彼の手の中にはありませんでした。彼の手の中は空っぽだったのです。

その彼に神様は数百万ものイスラエルの民の命を託し、彼らと共にさらに40年の荒野の生活に解き放とうとされたのです。言うまでもなく、それはモーセの力に余るものでした。

神様はそれを知らなかったのでしょうか。いいえ、全て承知の上で神様はモーセの名を呼んだのです。そして、そのとてつもないミッションを成し遂げるために、モーセの手にあるものを全てそぎ落したのです。なぜ?

神の力がモーセの弱いところに完全にあらわれるためにです。

モーセの今後の日々は上からいただく神の力以外にはない。私がこれから成そうとすることは、あなたの力によらず、完全に私の力によるのだということを神様はモーセに示されたのです。その時がくるまで神様はモーセに40年のミデアンでの生活を課したのです。

そして、その事をモーセにさらに確認させるために神様は燃えるしばの中から彼に言われたのです「ここに近づいてはいけない。足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト記3章5節)

エジプトに奴隷となっている同胞の民を救うために、神様はモーセのために鎧と剣を備えてはいませんでした。最強の軍隊を与えませんでした。これから色々と必要だろうと軍資金を彼に手渡すこともありませんでした。

これらをモーセに与えるということがないばかりか、一言、神様は彼に言われたのです。「あなたの靴を脱ぎなさい」

なぜでしょうか。なぜならモーセがいる場所は神様の臨在の前だからです。彼は神のきよさの前にいるからです。そこは土足でいられるような場所ではないのです。

そこは「ああ、なんかきよい感じがするわー」というような呑気なことを言っていられる場所ではなく、神の臨在という、その完全なきよさを前に我々、罪ある者は瞬時に打たれて死んでしまうような場所なのです。それが神のきよさです。

神様は圧倒的に、絶対的にご自身とモーセとは異なる存在なのだということを、その言葉の中に託されました。

私達は普段、靴やサンダルをはかず、外出することはありません。私達は素足でこの世界の路上に直(じか)に立ちえないのです。靴やサンダルは私達の足を灼熱のアスファルトから救い、道に落ちている諸々の危険から私達を守ります。

モーセがその時にいた場所、それは灼熱の太陽によって焼けるほどに熱くなり、砂の中に生存する危険な昆虫や動物がいて、ごつごつした岩や石が転がる場所です。

そのサンダルがあるからモーセは羊を放牧できるし、水を汲みにいけるのです。そのような場所でサンダルを脱ぐということは何を意味するのでしょうか・・・。

彼のサンダルは彼の命を支える頼みの綱でした。しかし、主はその靴をも脱げと言う。

モーセがいた場所は神を前に靴をはいたまま、ぬけぬけと居れるような場所ではない。さらに、そこで自らの靴、すなわち自分の命の綱をとり除くということは、すなわち「モーセよ、これから私はあなたを用いてイスラエルを救う。しかし、それはあなたの力によるのではない。私に信頼して、あなたを通して私が成すことを見なさい」という神様からモーセへのメッセージでした。

彼が「エジプトの学問を究めた時」にイスラエルの民の救出のためにモーセに声をかけずに、彼が「完全に神様だけに寄り頼まなければならなくなった時」に「さぁ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」というお声がかかったのです。なぜ?

「モーセが弱い時にこそ、モーセは強いからです」(コリント第二の手紙12章10節)。神の力は弱いところに完全にあらわれるからです。そして、それは何もモーセに始まったことでもないし、モーセ一人で完結したことでもないのです。

あのアブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12章1節-2節)と神様のお声がかかったのはいつでしたか?

彼が75歳の時でした。モーセと同じように、アブラハムの手の中に何もなくなった時でした。しかし、そこから神様は彼を用い始めたのです。

なぜ?アブラハムが弱い時、神が共におられるゆえに彼は強いからです。神の力がアブラハムの弱いところに完全にあらわれるためにです。

あのギデオンが敵と対峙する時に、彼のもとには32000人の兵士がいました。しかし、神様は彼に「あなたと共におる民はあまりに多い。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、わたしは自身の手で自分を救ったのだと言うのであろう」(士師記7章2節 )と語りかけました。

そして、神様は彼と共にいる32000人の兵を10000に減らし、それではまだ多すぎると最終的に300人にまで減らし、勝利をとりました。

そう、ギデオンの手の中にあったものは取りのかれ、そのところから神様は彼を用い始めたのです。

なぜ?ギデオンとイスラエルが弱い時、神が共におられるゆえに彼は強いからです。神の力がギデオンとイスラエルの弱いところに完全にあらわれるためです。

心意気としては死ぬまでイエス様に従いと願いつつも、自己保身のためにイエス様を三度も知らないと裏切ってしまったペテロ。言い訳など決して、できない。再度、強がることなんか絶対にできない。

でも、そのペテロを前にイエスは言われました。私を愛するか?私の羊を養いなさい。イエス・キリストがペテロにそう語りかけた時、ペテロの手の中には何もありませんでした。しかし、そこから神様は彼を用い始めたのです。

なぜ?ペテロが弱い時、神が共におられるゆえに彼は強いからです。神の力がペテロの弱いところに完全にあらわれるためです・・・。

神様はその時、モーセにこのようにご自身を説明されました「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)

この言葉を受けて私達はこう言います。「あなたはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、そして私の神」と。

神様はアブラハムにはアブラハムのお取り扱いと使命を与え、イサクにはイサクのお取り扱いと使命、ヤコブにはヤコブのお取り扱いと使命を与え、そしてモーセにはモーセのお取り扱いと使命を与えました。

そして、彼らが受けたお取り扱いと使命は互いに断絶しているものではないのです。時代や世代は違っても彼らの神は全く同じ、唯一なる神でありました。神様は彼らが神と共になしたことを互いに紡ぎ合わせて神の歴史を導かれたのです。

同じように神様は私にもあなたにも私達が為すべき使命を与えておられ、それもあなただけで終わるのものではなく、それは将来につながっていくのです。

そして、そのあなたの使命もあなたの力ではなく、私の力があなたのうちに力強くはたらくことによって成し遂げられていくものなのだと主は言われます。

昔も今も私達の神はこのように人間を用いられる。主にある皆さん、私達が弱い時、神の力は完全にあらわれる。あなたはこのことを信じますか。

ある日本の経営者が「今、この時は10年に一度の大掃除の時だ」と言っていました。私達がこの大掃除にとりかかる時、私達はこれまで大切だと思われていたことも、実際は大して大切ではなかったということに気がつかされます。

ましてやモーセのように完全に聖なるお方の臨在の前に立つのなら、私達が「頼みの綱」と呼んでいたものはなんとはかないものでしょう。私達が神様の前に立つ時、私達は自らが何と弱く、無力かと思います。そして、神の偉大さ、大きさを知ります。その時です、神はそこから私達と共に動かれる。

2020年、全世界がコロナウイルスで包まれている時、それまで私達の手の中にあったものを整理して私達は、今、主の前に自らの靴をぬぎ、主の前に出ようではありませんか。そして、こう言いましょう「あなたこそわが神、あなたこそ私の主権者、全能なる主です」と。

主にある皆さん、神様は私たちが自分の力ではなく、神様に委ねて生きていくことを願っているのです。それこそが聖書が私達に語りかけていることなのです。

「あなたの靴を脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる場所である」。靴を脱いで神様に自分の人生を委ねていきませんか。あなたが主と共に踏み出すその先に、神様は私達のために新しい世界を開いてくださるに違いありません。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年5月10日

1)「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」(Ⅱコリント12章9節、10節)という言葉があなたに語りかけることは何ですか。

 

2)出エジプト記3章5節-10節を読みましょう。神様は「あなたをエジプトのパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」と言いました。なぜ、これは無謀な言葉のでしょうか。

 

3)なぜ神様は40歳の時のモーセを用いずに80歳になったモーセを用いたのですか。同じようになぜ75歳でアブラハムは声をかけられたのでしょうか。

 

4)一人の人間が120パーセントの力を注いで成し遂げることと、神様の力添えが注がれた時に成し遂げられることの違いは何ですか。

 

5)「ここに近づいてはいけない。足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト記3章5節)。この神様の言葉にはどんな意味がありますか。

 

6)神の聖(God’s Holiness)というものはどんなものだと思いますか。そこから分かることは何ですか。

 

7)あなたの「頼みの綱」は何ですか。それはこれからも「完全に安泰」なものですか?

 

8)神様が聖書中の人物を用いようとされる時、まず彼らが知るべきことは何でしたか。

  

9)神様はモーセに「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である(出エジプト記3章6節)と自らを言い表しました。この言葉にはどんな意味がありますか。

 


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください