心の姿勢の大切さ

飛行機に搭乗し、しばらくしますとフライト・アテンダントが飲み物を積んだカートを押しながらやってきます。私達は「コーヒー」なり「ジンジャーエール」なり、自分が飲みたい飲み物を告げ、それをいただきます。そうこうしているうちに日本行きの国際線ですと食事が配られ、「和食」か「洋食」かと聞かれ、私達はどちらかを選択します。隣の人が自分と違うものを選ぶと、ちょっと気になり、横をチラッと見ます。時に「あー、あっちがよかった」とため息をつきます。でも仕方ありません、自分で決断したことなのですから。

神様は私達に自由な意思を与えられましたゆえに、私達は何を食べようかということを自ら決める自由が与えられています。たとえ機内食の選択を間違えても、到着した国でおいしいものを食べればいいでしょう。しかし、これが私達の人生の分かれ目に立つような決断となるなら話は別です。

私達はこれまで数えきれないほどの決断をしてきました。そして、その決断は私達の人生に大きな影響を与えてきました。そして、その決断ゆえに導かれてきたのが、今朝の私達なのです・・・。

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心の姿勢の大切さ
2020年11月22日

先にお話ししましたように、私達は今週、木曜日にサンクスギビングディーを迎えます。今日はその前の日曜日ですので、毎週メッセージシリーズとしてお届けしています「出エジプト記」から離れて、主への感謝を心に思いつつ「心の姿勢の大切さ」というタイトルでメッセージを取り次がせていただきたいと願っております。

皆さん、既にご存知かと思いますが、米国のサンクスギビングディーの起源を簡単に申し上げますと1620年、イギリスからマサチューセッツ州のプリマスに信仰の自由を求めて移住して来たピルグリム・ファーザーズと呼ばれる入植者の一団が、冬の厳しさを前に大変な苦境に立たされていたところを、アメリカ先住民の助けを受け、その危機を乗り越えることができたので、その感謝を表す目的で1621年に彼らを招いて収穫を祝う神への感謝の食事会を開いたことに由来しています。

なぜ彼らは母国イギリスを離れ、新大陸にやってきたのか。言うまでもなく、彼らはここに観光に来たのではなく、母国では自分達のクリスチャン信仰の自由を確保できないことを憂い、その自由を求めて新天地に骨をうずめる覚悟でやってきたのです。そして、その決断は命がけのものだったのです。この彼らの決断がなければ、今日のアメリカは全く異なっていたことでしょう。

飛行機に搭乗し、しばらくしますとフライト・アテンダントが飲み物を積んだカートを押しながらやってきます。私達は「コーヒー」なり「ジンジャーエール」なり、自分が飲みたい飲み物を告げ、それをいただきます。国際線ですとそうこうしている内に食事が配られ、日本行きのフライトですと「和食」か「洋食」かと聞かれ、私達はどちらかを選択します。隣の人が自分と違うものを選ぶと、ちょっと気になり、横をチラッと見ます。時に「あー、あっちがよかった」とため息をつきます。でも仕方ありません、自分で決断したことなのですから。

飛行機が着陸しますと「入国手続き」をしなければならず、そのための窓口が幾つもあり、私達はその時、どの窓口に並ぶかを考え、列が短そうなところを選びます。そうです、早く空港を出たいからです。しかしです、せっかく短い列に並んだとしても前の人が手間取り、隣の列がどんどん先に進んでいくというようなことがよくあります。でも仕方ありません、自分で決断したことなのですから。

このように私達の日々の生活は常に自ら決断して何かを選ぶ生活です。神様は私達に自由な意思を与えられましたゆえに、私達は何を食べようか、どこに並ぼうかということを自ら決める自由が与えられています。

たとえ機内食の選択を間違えても、到着した国でおいしいものを食べればいいでしょう。入国手続きなら、せいぜいリムジンバスを一本、見逃すことを受け止めればいい。しかし、これが私達の人生の分かれ目に立つような決断となるなら話は別です。

私達はこれまで数えきれないほどの決断をしてきました。そして、その決断は私達の人生に大きな影響を与えてきました。そして、その決断ゆえに導かれてきたのが、今朝の私達なのです。

このことは私達の決断がどんなに大切なものであるかということを私達に気がつかせます。言うまでもなく、過ぎ去った日に戻ることはできません。しかし、私達には明日があり、そこにはこれからしなければならない決断があり、それらがこれからの私達の将来を決めていきます。

信仰者である私達が明日のことに目を向ける時、私達が心から願うことは、私達の決断が「神様の御心に叶ったもの」となるということです。私達はそれこそが私達の最善の決断なのだということを信じているからです。知っているからです。

しかし、私達の心にはエゴというものがありますから、なかなか神様の御心に従うことができませんし、その神様の御心を知ることもできません。私達の心の目が閉ざされてしまっているからです。それでは、どうしたら神様に従い、その御心を知ることができるのでしょうか。どうしたら私達の心の目を主に開くことができるのでしょうか。

誰かの心を知りたいと思うのなら、その人から離れず、その人の一挙手一投足を見るべきです。聞くべきです。同じように、もし、私達がいつも主の御傍にいて、その御言葉に耳を向けているのなら、私達は主の御心を知ることができるでしょう。そして私達の心がいつも主に開かれているのなら、主の御心を受け止め、それに従うことができるでしょう。それでは、どうしたらそのようなことができるのでしょうか。

そのことには色々なことがありますでしょう。その中で一つ、思わされますことは、このことは私達の日々の心の姿勢にかかっているのではないかということです。私達が神様の前に日々、どんな心の姿勢で暮らしているのか、その姿勢から、私達の日々の態度、Attitudeが決められていくのです。

サンクスギビングを前に、今日は詩篇の御言葉を見ていきましょう。 1全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。2喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。3主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。4感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。5主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである』(詩篇100篇1節-5節)。

このところにおいて記されていることは神様の前にあるべき私達の心の姿勢です、そして、その姿勢から生まれる私達の生活の中における態度です、Atitudeです。

すなわち、ここには「喜べ」「声をあげよ」「主に仕えよ」「歌え」「神を知れ」「己れを知れ」「感謝」ということが記されており、これら一つ一つが私達が持つべき日々の主の前にある態度なのです。今日はこの詩篇100篇をとおして、私達の主に対する態度、心構えということについて見てまいりましょう。まずこの詩篇はその心構えとして「喜べ」ということについて書いています。

喜べ:『全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ』(1,2)。

聖書には数多く「喜びなさい」という言葉が書かれています。「作り笑い」という言葉はありますが「作り喜び」という言葉はないとよく聞きます。「笑い」は私達の表情に現れるもので、顔の神経をうまく使えば、取り繕うことができるのですが、「喜び」は私達の心の底からあふれ出て来るもので、そこまでは私達も取り繕うことができないからです。

そして、この喜びは一般的には期間限定、状況限定とされています。喜びはいつも、あり続けるものではないと私達は思っています。しかし、パウロはピリピ4章4節でこう言っています『あなた方は主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい』

 ここには「いつも喜びなさい」と書かれています。いつも喜ぶということは期間限定、状況限定ではなく文字通り「いつも」ということです。ここに記されている喜びは一時的なものではなく、継続可能なものなのです。その喜びが私達の自力によって生産されているものであるのなら、それは全く不可能でしょう。

ですから私達は思うのです。このパウロという男、なんと能天気なのだろうと。しかし、パウロがどこでこれを書いたかということが、私達にチャレンジするのです。そう、彼はこの書を獄中で書いたのです。なぜ、明日の身も分からない獄中で彼はいつも喜べ、もう一度言う、喜べと喜ぶことを繰り返し私達に勧めているのでしょうか。

なぜなら、この喜びは、ここに書かれていますように「主にあって」喜ぶ喜びだからです。それはたとえ彼が最悪な環境の中にあっても主が彼と共にあり、主イエスの諸々の約束の言葉が共にあるゆえに、彼は獄中で喜びを連呼したのです。

この喜びは「主キリスト・イエスにあって」私達に与えられるものです。キリストこそ私達の心に喜びを満たしてくださるお方であり、その喜びが私達の心に満ち溢れるのです。喜びが自分で生み出すものではなく、湧いてくるものであるのなら、それが溢れれば、私達の心から喜びが尽きることはないのです。二つ目の事、それは「声をあげる」ということです。

声をあげよ:『全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ』(1)

聖書の中には「声をあげよ」という言葉も度々出てきます。それは私達の喜びを心に留めおかずにそれを口に出しなさいということです。かつて私が小学生の頃、国語の授業には朗読というものがありました。皆の前で席を立ち、教科書を音読するのです。勉強ができない私にとりまして、それは実に恐ろしい時間でした。

しかし、今日、読書離れが進み、学校でもこの音読というのも最近はあまりしなくなったと聞いたことがあります。しかし、ここ数年、その現状に警笛を鳴らし、声を出して本を読むということがどんなに子供達の心の形成に必要なことかということが注目されています。

その発端となりましたのが斉藤孝という明治大学教授の書いた「声を出して読みたい日本語」という本で、その中で斎藤教授は私達に過去の名文を声に出して読み上げると、そのリズムやテンポが身体に染み込んでき、身体に活力を与え、ひいてはそれが私達の心の力となるというのです。私達が思っている以上に私達が自らの口から出す言葉というのは私達に大きな影響を与えています。

感謝(言+射る)という字は言葉を射ると書きます。心に感じて、言葉という矢を射る、すなわち、感じたことを言葉で言い表すということです。私達が心にある喜びを、感謝を言い表すことを主は喜ばれ、そのことは私達、人の関係を潤し、何よりもその恩恵を受けるのは私達自身なのです。三つめのこと、それは「仕える」ということです。

主に仕えよ:『喜びをもって主に仕えよ』(2)

私達が喜びをもって主に仕える時、私達の心には仕えさせていただいている喜びがわいてきます。「仕える」ということは自分の時間を捧げることであり、自分の労力を捧げることです。捧げるということは自分から何かが出ていくことであり、すなわち自分が所有しているものが減ることを意味します。しかし、そこに留まっている限り、私達には内なる喜びは生まれません。

その働きが主のために成されるのであるのなら、それは格別なことなのです。私達の心は喜びで満ちるでしょう。さらに不思議なことに主に仕えることができるということに対して、感謝がわいてくることでしょう。

「野球を楽しむ」ことができる人は実際にグローブとバットをもって野球をする人ですとか登山を楽しむことができる人は、実際に登山靴とリュックを背負って山を登る人ですという言葉は至言です。私達の生涯に喜びと感謝を取り戻したいのなら、私達は実際に主に仕えてみることです。

イエス様はご自身がエルサレムに向かわれる時、借り物の子ロバにお乗りになりました。子ロバと話すことはできませんし、ロバが人間のような感情を持っているとは思いませんが、ご自身の背中に乗っているのが神の一人子であるということを知ったのなら、そのお役に立てていると思う時に、それは何と誇らしく、嬉しかったことでしょうか。イエス様の御役に立てたのです。

私達は誰かに仕えられる時に喜びは与えられると思っています。しかし、主なる神はそうは言いませんでした。主に仕える時に私達の心には喜びがわきあがるのです。四つ目のこと、それは「歌う」ということです。

歌え:『歌いつつ、そのみ前にきたれ』(2)

聖書の中で一番長い詩篇は多くの「歌」が記録された書です。そこに書かれている言葉の多くはかつて実際にメロディーがつけられて歌われていたものです。私達は礼拝の中で賛美を歌います。集会や祈祷会でもまず何はともあれ歌います。神に造られた人間には色々な方法をもってその造り主なるお方をほめたたえる手段がありますが、その最たるものが歌うことです。

コロナ下、生活が制限され、ストレスに包まれてしまうようなことがあります。そんな時、私は皿洗いをしながら、教会の賛美チームの歌を何度も聞きます。心と体がリフトアップされ、時間を忘れて皿洗いに没頭できます。皿洗いが終わった時には、心にある雑念が全て洗い流されているようです。賛美には力があるのです。

新聖歌325番には「うたいつつ歩まん」という歌があり、その中の一節にこんな詩があります。

主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみもとに 荷をおろせば
歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を
恐れは変わりて 祈りとなり 嘆きは変わりて 歌となりぬ
歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を

私達が歌う時、恐れが、祈りと変わるのです。私達の嘆きが歌となるのです。だから私達は歌いつつ歩むのです。この世の旅路を!

皆さんは時に主への賛美を口ずさむことがありますか。嬉しいから歌うのではなく、歌うから私達は嬉しくなるのです。主への喜びの歌を歌うということ、それが私達を引き上げ、私達の心から嘆きは消え、主への感謝を私達は取り戻すのです。五つ目のこと、それは神を知るということです。

神を知れ:『主こそ神であることを知れ』(3)

この世界には色々な学問があります。しかし、それらも突き詰めていきますと、最後には神学となります。そうです、科学にしても、哲学にしても、最後には突き止めきれない神秘の世界が私達の前に立ちはだかるからです。そして、その時に私達はその存在の前に頭を下げるのです。

その生涯をかけて神様とはどんなお方を知るということを追求していくこと、こんなにやりがいのある、生きがいのある人生はありません。そのために神様はその道に分け入るためのガイドラインとして、私達の手元に聖書を残されました。

聖書を通して私達は神様が望んでいらっしゃることを知ることができます。私達と全く同じ肉体をとられたイエス・キリストの生き様を通して、私達は具体的な神様のお心を知ることができます。それは知識として神について知るということではなく、人格的に神を知るということです。そして、その神の意に従って生きること、これ以上の幸いはないのです。

この世界は情報社会です。あらゆる情報が溢れ、飽和状態となっています。その中には良き情報もあれば、まさしくジャンクのようなものも多くあります。今日、私達はよく聞きます。あのニュースは偏っていると。そうです、その通りです。ですから、私達は「聖書」の中に私達が従うべき指針を得る必要があるのです。私達の残された人生、私達が時間を注ぐべきことは、主を知ることです。

5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。6すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。7自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。8そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える(箴言3章5節-8節)。

この箴言の言葉は私達の目を主に向けさせるでしょう。自らの知力の限界を知り、主のお考え、主の備えたもう道、そこに心を寄せる。主のなされることを知ろうとし、それにより委ねる生涯。これが私達の歩む道です。六つめのこと、それは己を知るということです。

己を知れ:『われらを造られたものは主であって、われらは主のものである』(3)

このところで己を知るということは「自分がどこに属しているものであるか」ということを知るということです。かつて終身雇用制という世界でも稀な制度により日本人はその生涯、ひとつの会社にとどまり、そこに帰属しているということがありました。会社に忠誠を尽くせば、会社もその社員の雇用をリタイアまで保障したのです。

社員旅行や社員運動会はこの会社の帰属意識を強め、会社はその人にとって家族のように帰属する場所となりました。しかし、最近のギャロップ社の調査結果によると日本人の会社への帰属意識は主要14カ国の中で最低ということです。

かつて、自分が属していたものが今や失われています。現代社会は私達が最も拠り所とする家族に対する帰属意識をも失わせています。今やもはや根なし草のように私達はこの世を浮遊しているようなものなのかもしれません。

しかし、私達が神を知る時に、私達は自分が属しているべきお方の存在を見出すのです。そして、その神を見出した瞬間というのは、己を見出した、己を知った瞬間でもあります。自分が帰属すべき父なる神様を知る時に、おのずと私達は自分のことを知ります。新聖歌248番に「人生の海の嵐に」という歌があります。多くの人達が愛唱歌としている歌です。

人生の海の嵐にもまれ来しこの身も
不思議なる神の手により命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

私達には帰る港がある。属している場所があります。その本来、私達があるべき場に立か返る時に、私達は自分が何者であるかを知るのです。その時に私達の心には父なる神への感謝と喜びで満ちるのです。最後のこと、感謝についてお話して今日のメッセージを終えましょう。

感謝:『感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ』(4)

 このところに記されている「門に入り、大庭に入れ」というのは神を礼拝する宮に私達がやってくることを意味しています。この言葉は私達が礼拝すべき場所に向かう者達であることを明らかにしています。

私達は今、主の宮に礼拝をすることができない状況にあります。しかし、やがていつの日か、私達は再び、毎週、主に感謝をしつつ、主をほめたたえる主の宮に集まるのです。主を喜び、主への感謝を声にあげ、主に仕え、人に仕え、主を知り、己が属していることをもう一度再確認するべく、私達は主のみ前にやってくる、それが主を礼拝するということなのです。それが私達の一週間の始まりなのです。

今週も、そしてこれからも私達は諸々の決断をして生きていきます。このことから逃れることはできません。私達はその決断が主の御心にかなったものであることを心から願います。そして、そのためには主の御心を知らなければなりません。主の御心を知るためには私達の日々の心備えが必要です。私達が毎日の生活に対して向ける主に近くあることができる態度が必要となります。

そして、その態度こそが今日、お話ししてきたことです。すなわち、いつもキリストにあって喜び、声を上げて主をほめたたえ、喜びをもって主と人に仕え、主を賛美し、神を知ることを願い、その神の前にある自分を見出し、主に感謝の礼拝を捧げ続ける。これらの心の備えを私達が日々していくのなら、私達は神の御傍におり、その御心を知り、主の喜ばれる決断をしていくことができるのです。そして、その一つ一つの決断が、私達が思い描いていた以上の生涯へと私達を導いてくれるのです。お祈りしましょう

本日のおもちかえり
2020年11月22日

1)もしピリグリム・ファーザーズが米国に行くという決断をしなかったら、この国の歴史はどう変わっていたことでしょうか。私達の日々の決断はどれぐらい大切ですか。本当に大切な決断にはどんなものがありますか。

 

2)あなたは将来に向けて、どんな決断をしたいと思いますか。どうしたら、そのような決断をすることができますか。

 

3)「神の御心を知る」ために私達の側でできることは何ですか?何がこのことの障害となりますか?

 

4)詩篇100篇1節-5節を読みましょう。ここには私達の主に対する日毎の姿勢(態度)が記されています。あなたの心に残る言葉は何ですか。

 

5)どうしたら「喜ぶ」「声に出す」「主に仕える」「歌う」「神を知る」「自分を知る」「感謝する」ということを私達の日々の心の姿勢にすることができますか。

 

6)パウロはなぜ獄屋で喜べということができたのでしょうか(ピリピ4章4節)

 

7)喜びや感謝を口に出すことはなぜ大切ですか。主に仕えることによって知ることができることは何でしょうか。歌うことはなぜ大切ですか。感謝することはなぜ大切ですか。

 

8)神を知ることはイコール、自分を知ることにつながります。なぜですか。なぜ、この二つのことを知ることは大切ですか。


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