心の断捨離

不思議なもので身の回りがすっきりすると心までもすっきりしたような気持ちになります。私はかつて「あなたの机の上の状態があなたの頭の中をあらわしています」と言われて「なるほど、そうかもな」と思わされ、以来、机の上を整えるようになり、確かに心も整理されているような気持ちになりました。

今日のタイトルは「心の断捨離」というタイトルです。その意図するところは文字通り、私達の心を整理しましょう。処分すべきものは処分しましょうということです。

「これは必要ないだろう」とゴミに出したものを、家族の者が見つけ、また元の場所に置かれていたなんてことを聞いたことがありますが、手放すことはなかなか簡単ではないことがあります。

それが靴とか雑誌なら私達の生活や人生に大きな影響を与えることはあまりないかもしれませんが、今日、私達が見ていきますことに関して言えば、それを私達が持ち続けていることは人生に影響があるだろうと思われることです。

結論から言いますと、そのことを解決することができなかったことがイスラエルの民、また彼らを率いたモーセすらも約束されていた土地、カナンに入ることをできなくしてしまいました。そう、そのことゆえに彼らの人生の目的は達成することができなかったのです・・・。

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心の断捨離
2020年7月19日

3月15日から礼拝をオンラインに変えて、4か月がたちました。この間、直接、人と会うことは減りましたが、色々な方達と話していますと、「今、断捨離をしています」という方達がけっこういました。「断捨離」という言葉はもう定着していると思うのですが、その意味は「不要な事や物を断ち・捨て・離れることにより、人生を改善する」ということです。この4か月の間に家の中がすっきりとしたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

不思議なもので身の回りがすっきりすると心までもすっきりしたような気持ちになります。私はかつて「あなたの机の上の状態があなたの頭の中をあらわしています」と言われて、「なるほど、そうかもな」と思わされ、以来、机の上を整えるようになり、確かに心も整理されているような気持ちになりました。

今日のタイトルは「心の断捨離」というタイトルです。その意図するところは文字通り、私達の心を整理しましょう。処分すべきものは処分しましょうということです。

「これは必要ないだろう」とゴミに出したものを、家族の者が見つけ、また元の場所に置かれていたなんてことを聞いたことがありますが、手放すことはなかなか簡単ではないことがあります。

それが靴とか雑誌なら私達の生活や人生に大きな影響を与えることはあまりないかもしれませんが、今日、私達が見ていきますことに関して言えば、それを私達が持ち続けていることは人生に影響があるだろうと思われることです。

結論から言いますと、そのことを解決することができなかったことがイスラエルの民、また彼らを率いたモーセすらも約束されていた土地、カナンに入ることをできなくしてしまいました。そう、そのことゆえに彼らの人生の目的は達成することができなかったのです。

それは何でしょうか?「つぶやき」です。

ここまで見てきましたようにイスラエルの民は400年もの間、エジプトに奴隷となっていました。その彼らをモーセは神様の指示を受けながら、導き出しました。今日、これから見ていきます聖書箇所はエジプトを出てから2ヶ月の時を経た時のこととなります。そう、彼らの旅は始まったばかりでした。

彼らにはモーセに感謝すべきことがありました。なぜなら400年もの間の奴隷の身分からの解放のために、リスクを承知でその先頭に立ったのがモーセなのですから。しかし、彼らがモーセに感謝をしたり、その働きをサポートしていたかといいますと、そのような記述は聖書の中にほとんど記されておらず、彼らの口からは何度も「つぶやき」が出てきました。

「つぶやき」という言葉を辞書で調べますと「小さい声でひとり言を言う」とありました。英語では私達も聞き慣れている「ツイッター」の語源である「Tweet」という言葉が使われます。聖書に記されている「つぶやき」は「不平・不満」と等しいものと考えていいと思われます。

先週もお話ししましたように、イスラエルの民がエジプトを出てからつぶやいた数は記録されていることだけでも50を超え、その不平・不満はモーセに向けられましたが、それは結局のところ神様に向けられていたのです。

記念すべきという言い方はとても不名誉なことなのですが、先週、彼らがエジプトを出てから一番最初にしたつぶやきに触れました。

イスラエルの民がエジプトを脱してきた後に、エジプトの王パロが率いるエジプト軍が彼らを追って迫って来た時のことがこう書かれていました。

パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主に向かって叫び、かつモーセに言った。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜ私たちをエジプトから導きだして、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて「わたしたちを捨てておいて、エジプト人に仕えさせてください」と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプト人に仕える方がわたしたちにはよかったのです」(出エジプト14章10節―12節)

この時、彼らは紅海の沿岸におりました。神様は彼らのために、紅海に強い東風を起こし、海を右と左に垣とし、民は海の中の乾いた地を対岸に向かって進みました。その後をパロとその騎兵も追いかけてきたのですが、彼らがまだその海の真中にいる時に、神様は水を流れ返されて、彼らは一人も残らずに滅びてしまいました。こうしてモーセと神につぶやいた民を神様はエジプトから救われたのです。以後、彼らがエジプトの脅威を受けることはなく、完全な自由を獲得したのです。出エジプト記はこのことについてこう記して14章を終えています。

「このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」(出エジプト14章30節―31節)

彼らはこの光景を見て、主を畏れ、主とその僕モーセを信じたのです。こうして続く15章はその冒頭から、この主が成されたことに対して、喜びと勝利の歌を歌う民達の姿が描かれています。

「主にむかってわたしは歌おう、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる」(出エジプト記15章1節―2節)。

これはその勝利の歌の導入部分で、延々と彼らの賛歌はこの後21節まで続きます。そう、確かに彼らはその時、神をほめたたえ、神を喜び、神を畏れ、神に感謝したのです。

それではこの思いと共に彼らは以後、歩んでいったのかと言いますと続く22節からこのようなことが記録されているのです。

22 さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。23 彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。24 ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」(出エジプト記15章22節―24節)。

 彼らがエジプト人から救ってくれた神様を讃えてから、彼らは荒野に分け入っていきます。その日数が三日となった時、彼らは水を得ることができないことを知ります。やっと見つけたメラというところに水はあったのですが、とても飲めるような水ではない。そこで、民は再び、つぶやきます「わたしたちは何を飲むのですか」。

彼らのこの思いは400年の奴隷時代で彼らの心に沁みついたものです。彼らは与えられているものを受けるだけの400年を過ごしていました。彼らの心にはいつも「今日は何をもらえるのか、明日は何をくれるのか」という思いがありました。

ですから、彼らは「どこで水を見出しましょうか」とか「井戸を掘りましょうか」とモーセに問うのではなく「わたしたちは何を飲むのですか」と彼に詰め寄ったのです。言い方を変えますのなら「あなたは私達に何を飲ませてくれるのですか」ということです。

彼らの旅は始まったばかり。民の心はこのような状態。彼らは自分が受けることしか考えていないのです。

このイスラエルの民に対して主はどうされたのでしょうか。出エジプト記15章25節、モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった

主はイスラエルの民のつぶやきに対して主に叫んだモーセをあわれみ、一本の木をモーセに与えます。モーセがそれを水に投げ入れますとその水は飲める水、上質な水となりました。そして;

その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、26 言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した(出エジプト記15章25節―27節)と聖書は記しています。

神様は「俺達は何を飲んだらいいんだ」とつぶやいている者達に「彼らが安心して飲める最高の水」を与えました。その不平・不満が沸き上がった所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みたのです。そして、彼らが主の声に聞き従い、それを守ることの祝福について語られました。

さらに彼らは水の泉12となつめやしの木70本がある場所に導かれ、そのほとりに宿営したのです。「水がない」とつぶやいた彼らは今や水の泉が12個もある、その傍らに置かれたのです。こうして出エジプト記15章は閉じられていきます。

彼らが求めたものは有り余るほどに満たされました。さぁ、彼らはその泉に感謝し、心をあらためて主に信頼し、その定めに向き合いましたでしょうか。

出エジプト記16章1節―3節、1 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、2 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。

はたして、ここで彼らが主張しているように、かつて彼らが奴隷の身分であった時、エジプトの地で彼らは肉の鍋のかたわらに座して、飽きるほどのパンを食べていたのでしょうか。

当時、エジプト王朝の宮殿は贅を尽くしていたことでしょう。しかし、庶民の生活は決して豊かではなかったことでしょう。そのような中でエジプト人ではない、奴隷であるヘブル人にエジプトは飽きるほどの食事を提供していたのでしょうか。

大きなクエスチョンがつきます。おそらく、そこには彼らの多分な誇張があったと思われます。

そもそもこの出エジプトの発端はどこにあったのでしょうか。覚えていますか。モーセがまだミデアンの荒野にいた時、神様はモーセに語りかけたのです。

出エジプト記3章7節から8節、 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている」。

その前の2章の終わりにはこう記録されています。そう、彼らの先祖のヨセフが死んだ後、23 多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。24 神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、25 神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた(出エジプト2章23節―25節)

神様は彼らの悩みをつぶさに見、彼らの叫びを聞きました。苦役の務めゆえのうめきを聞き、彼らの叫びが神に届いたのです。ですから、神はモーセを立てて彼らを救い出したのです。しかし、彼らはそんなかつての自分の叫びやうめきなどなかったかのようにして神様につぶやいたのです。

おそらく彼らはその時に置かれていた荒野での現状が、自分達にとってどんなに不快で居心地が悪いものなのかということを強調すべく、過去がどんなに良かったかと言うことを誇張して語っているのです。言うまでもない、その過去とは彼らがかつてしえたげられ、うめいた過去です。

私達は時々、このイスラエルの民が経験したようなことを見聞きすることがあります。いいえ、自分の心に彼らのような思いを見つけてはっとすることがあります。

かつて色々な試みにあい、そこから逃れることを心から願っていて、そして、主はそれに応えて、その試みから救い出してくださったのですが、今、新たに直面している試みを前に、あの時のほうが良かった、あの時に帰りたいと嘆く。

普通、まともな人間が傍からこういうことを見聞きしていますと「いい加減にしろ!あの時、あんなにここから逃れたいと言っていたじゃないか。何を今になって言っているのだ。勝手にしたらいい」と思うものです。主なる神はイスラエルにどうされたのでしょうか。

出エジプト記16章4節から5節、

4 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。5 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。

ここに記されているのは後にマナと呼ばれる食物です。朝になると宿営の周囲に霜が降り、その霜がかわくと、それが薄いうろこのようなものになったと聖書は記しています。ある人はそれはウエハースのようなものであったと書いていますが、そのマナは民が約束の地に入るまで、すなわち以後40年、イスラエルの民に与え続けられたのです(出エジプト記16章35節)。

その食物には人間の体に十分な栄養が含まれていたのでしょう。それを食べている限り、彼らは飢えることなく、生きながらえることができたのです。彼らは自ら蒔くことなく、耕すことなく、収穫することもないのに、いつもこのマナが天から与えられたのです。

ここで皆さん、心の中に「もしや?」と思われていることがあるかもしれません。そう、「民はこのマナにもつぶやいたか」ということです。民数記11章がこう記録しています。

4 また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。5 われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。6 しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」(民数記11章4節―6節)。

 主にある皆さん、私達はおそらくこのイスラエルの民の一連の心を前に「なんという民だ」と驚き怪しんでいるのではないかと思います。「人間、ここまで自己中心になれるものか」とあきれているかもしれません。

しかし、いかがでしょうか。私達の心にもこのような思いがないでしょうか。イスラエルの民がしたことを聖書は記録していますが、そのことが転じて「あなたはどうなのか」と私達に問いかけてくる時に私達は何と答えることができるのでしょうか。

週に二、三回、健康のために一時間ほど歩くようにしています。その時に色々な牧師のメッセージを聴いています。最近、その中で牧師ではないのですが「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」という一回、10分ほどの番組を聞いているのですが、その中で武田さんが興味深いことを話していました。

かつて「金で買えないものはない」と言った若いIT長者がいた。彼は自家用ジェットを持つほどに確かにお金持ちとなりました。でも武田さんは、彼が言っていることは間違っていると言いました。そう「世の中には金で買えないものがある」というのです。皆さん、この世の中で金で買えないものはなんだと思いますか。

武田さんは言いました。それは「贈り物」だと。

そう「贈り物」は文字通り、その人に贈られるもので、それに代価を払ってしまうと、それはもはや贈り物ではなくなってしまいます。ですから「贈り物は金で買えないのだ」と。なるほどと思いました。

武田さんは近内悠太という方が書かれた「世界は贈与でできている」という書物を紹介しておりました。その書物のタイトルを聞いた時、またまたなるほどと思いました。そう、確かに私達が暮らすこの世界は贈与、贈り物でできている。

私達を育ててくれた親達は私達から養育費を受け取っていません。すなわち、彼らが私達にしてくれた全てのことは私達に対する贈りものです。このことを皮切りに、私達が気づく、気づかないにかかわらず、私達はどれだけの無償の贈り物によって、ここまで生きてきたのでしょうか。

そして、さらにこの贈与について考えるのなら、最終的には、この世界は神の贈与で満ち溢れているということに行きつきます。私達にはお金が足りなくて買えないものがたくさんあります。しかし、その数と比較にならないほど、私達には既に神様から贈られているギフトがある。実際に今日という一日、私達は神様からどれだけのものを贈り物としていただいているのでしょうか。

そもそも私達の命からして、これは神様からの贈りものであります。私達の父母は我が子の代価を神様に支払っていないのです。私達が食べる食物の代価を私達は払っていますが、元々、その食物は神様が私達に与えてくださっている大地の恵み、贈り物です。その恩恵を私達は日々、いただいているのです。

サンディエゴというこの土地で私達が日毎に浴びるまぶしい太陽、この日差しの請求書が送られてくることはないのです。今月はたくさん酸素を吸っちゃったから、酸素税の支払いが大変よと嘆いている人はいないのです。

イスラエルの民が受けたもの、今日、お話ししました水にしてもマナにしても、それらは神様からの無償の贈り物です。神はそのことに対して請求書を送りませんでした。しかし、彼らはその水を、そのマナをつぶやいたのです。

私は今回、このメッセージを作りながら、このメッセージは今、私達が置かれている状況の中では少し重いかなと思いました。なぜなら、皆さん、今まで経験したことのない制限のある中で毎日を一生懸命に暮らしているからです。

私達が今、置かれている状況は私達の口から不平、不満が出てしまう可能性が十分にある環境です。そのことに対して私にも心当たりがありますし、皆さんが何かにつぶやいていたとしても同情できるのです。しかし、思わされたのです。

私達はこの状況の中で既に神様からいただいているもの、今朝、与えられているものに目を向けるべきだと。そして、私達はやはり神に対してつぶやくべきではないと。

今日、見てきました出エジプト記16章には「主はあなた方が主に向かってつぶやくのを聞かれた」という言葉が四度も書かれています。そう、主は私達のつぶやきを聞いておられるお方なのです。

私達のつぶやきにも色々ありますでしょう。愚痴というものもありますでしょう。確かに愚痴を語り、それを黙って聞いてくれることにより心が保たれるということもありますでしょうし、そのようなガス抜きは時に必要なことかとも思われます。

しかし、私達がいつも主に向かってつぶやく、既に与えられている無償の贈り物に対してつぶやくということは私達の常となりうることであり、それを主は聞き逃すことなく全て聞いておられるということを私達は心に刻もうではありませんか。

このイスラエルの民の40年での荒野の日々で主が繰り返しイスラエルの民に伝えようとされたことはとてもシンプルなことだったのです。そのことを申命記の言葉が語り尽くしています。

1 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。5 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。6 あなたは、入るにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。(申命記28章1節―6節)

もし私達が不平と不満ばかりを言って毎日を過ごすのなら、その人生はどんなものとなるでしょうか。そのような人生が行きつくゴールを想像してみましょう。そのゴールを前に未来のあなたは「あぁー、いい人生だった」と言っていますか。

イスラエルの民は、かつて苦しみ叫んでいていたエジプトでの奴隷時代がよかったとまで言い、今、向き合っている荒野に対してつぶやくということまでしたのです。この彼らの心を私達も持ち得るのだということを考えますと、我々はこのつぶやきの連鎖からそう容易には逃げられないということが分かります。私達は常に不平と不満を探しながら生きているのですから。

神様は主の言葉に従い生きる者を祝福されるというのですから、その約束の言葉に生きようではありませんか。不平と不満を探す生き方ではなく、主が惜しみなく与えてくださっているものに対する感謝を日々、探し求める者になろうではありませんか。神の無償の愛と恵みに生かされて、今日という一日を生きようではありませんか。そのような日々を送る私達が導かれていく終着点こそが、主が私達に今日、与えようとされている約束の地、そのものなのです。お祈りしましょう。

おもちかえり
2020年7月19日

1)あなたは断捨離をしたことがありますか?身の回りが整えられた時、どんな思いをもちましたか。「身の回りを整理整頓すること」は「心を整えること」と関係していますか。

 

2)エジプトを脱出してからすぐにイスラエルの民はつぶやきました(出エジプト14章10節―12節)。神様はそんな民をエジプト人の手から救い出し、彼らはそれを喜び、神様に賛美を捧げました。しかし、その直後、彼らは再び、つぶやきました(出エジプト記15章22節―24節)。このことは人間のどんな性質を明らかにしていますか。

 

 3)「わたしたちは何を飲むのですか」とは「あなたは私達に何を飲ませてくれるのですか」ということです。私達にはこのような心がないでしょうか。この心はどんな思いから来ているのでしょうか(出エジプト記15章24節)。

 

4)水を求めた民に神様は答えられ、最高の水を与えました。しかし、その直後、彼らはまたつぶやきました(出エジプト記16章1節―3節)。彼らがかつてのエジプト時代を懐かしく思うことは彼らの本心だったと思いますか(参考:出エジプト記2章23節―25節、3章7節-8節)。このようなことが私達の心にもありませんか。

 

5)神様は約束の地にいたるまで民に天からマナを与えました。しかし、彼らはそれに対してもつぶやきました(民数記11章4節―6節)。このような心が私達にはありませんか。

 

6)「世界は贈与でできている」 この言葉は真理を語っています。あなたは神様からいただいているものについて考えたことがありますか。

 

7)あなたは自分の人生の最後にどんな思いと共に主のもとにかえりたいですか。

 

8)申命記28章1節-6節を読みましょう。私達が神様から祝福を受ける秘訣がここに書かれています。それは何ですか(祝福は勝ち取るものではなく、いただくたものです。贈与です・・・)。


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