想定外な一歩

大川従道先生がその著書に記している言葉で私の心にとめているものがあります。今から35年も前、先生は世界的に有名なアルゼンチンのペンテコステ派のエバンジェリストの集会に行きその講師に「信仰が熱心であることは大切だが、同時にそれも深い知識によるものでなければバランスが崩れるのではないか」という厳しい質問をしたというのです。 

その質問に対して、その講師は想像に反して先生の質問に同意し、自分も熱心なグループに生まれたけれど、よく勉強をしてバランスのとれた伝道者になったといい、あなたと一緒だねと握手して一言、こう言ったというのです。「しかし、兄弟よ、神様は極端と思われる人物や方法や集団を用いなさることもあるから注意したほうがいいよ」(大川従道著、いのちのことば社「教会成長うらおもて」より参考)。 

言われてみれば、確かに人々の目にイエス様は異端として映り、それゆえにイエス様には多くの敵がいました。ペテロにしてもヨハネにしてもルターもウエスレーも極端と言われるような人達でした。パウロにいたっては裁判の席において「この男は疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起こしている者であり、また、ナザレ人らの異端の頭であります」(使徒行伝24章5節)と言われているのです。人間、願ってもそうそう「お前は疫病のような奴だ」と言われる人はいません。

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想定外な招きに応えよう                                                                                                                       創世記7章1節―24節                                                                                                                         2010年10月31日 

私達はこの2010年度、イザヤ54章2節の「あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」という言葉から「杭は強固に、幕を広く、綱を長く」という標語と共に歩んでいます。そして先週までは特に「杭は強固に」という言葉に注目して、七月から「耐震補強」というテーマで、まず私達の立つ土台というものを堅固なものにしようではありませんかということをお話させていただきました。何事も土台をしっかりとさせて、その上に大切なものを築きあげるということはとても大切なことですから、それは道理にかなったものであったと思います。

そして、今日から二月までは「幕を広く、綱を長く」ということに注目して、堅固な土台を維持しながら、今度はその場に留まるのではなくて、そこから一歩でも前に進み出でようではありませんか、その幕を広く、綱を長くしようではありませんかということをお話したいと願っています。そしてそのために聖書中の13名の人達を通して彼らはどのようにその自分の幕や綱を広げたのかということを色々な角度から見ていきたく願っています。まずその最初として今日はノアの生涯から「想定外な招きに応えよう」というタイトルでお話をさせていただきます。創世記6章13節‐15節を読みましょう。 

そこで神はノアに言われた、「わたしはすべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでその内外を塗りなさい。その造りかたは以下のとおりである・・・」(創世記6章13節‐15節)。

このところからまず「突拍子のない招き」ということをお話しさせていただきます。

「突拍子のない招き」

時代はさかのぼり旧約聖書の時代。その時、世は諸々の悪と暴虐で満ちていました。そこで神様は地を滅ぼそうとされました。そのために神様の前に真実に生きていたノアに神様は「あなたは箱舟を造りなさい」と語りかけ、そのための具体的な箱舟の大きさを指摘したのです。

すなわちメートルに換算しますならば、長さ133.5メートル、幅は22.2メートル、高さは13.3メートルという、巨大な船です(余談となりますが、この「長:幅:高=30・5・3」という比率は、現在、タンカーなどの大型船を造船する際に、最も安定している比率とほぼ同じだといいます)。

この箱舟が完成するまでにかけられた年月というのは数十年から120年と色々な説があるのですが、どちらにしてもとにかく何十年もかかったことでしょう。よく子供のアニメなどを見ますと、ノアとその家族が雨など降る気配もない山の中で木を切り出してこの箱舟を造っている、その側で彼らを馬鹿にする人達の姿が描かれていますが、まさしくそれほどまでに彼らが神様から受けた使命というのは突拍子のない、彼らにとってもそれを観察する人達にとっても想定外のものだったのです。私達も、もしジュリアンで洪水に備えて、巨大な箱舟を造り出す人がいたら同じ思いを持つことでしょう。 

大川従道先生がその著者にしている言葉で私の心にとめているものがあります。今から35年も前、先生は世界的に有名なアルゼンチンのペンテコステ派のエバンジェリストの集会に行きその講師に「信仰が熱心であることは大切だが、同時にそれも深い知識によるものでなければバランスが崩れるのではないか」という厳しい質問をしたというのです。 

その質問に対して、その講師は想像に反して先生の質問に同意し、自分も熱心なグループに生まれたけれど、よく勉強をしてバランスのとれた伝道者になったといい、あなたと一緒だねと握手して一言、こう言ったというのです。「しかし、兄弟よ、神様は極端と思われる人物や方法や集団を用いなさることもあるから注意したほうがいいよ」(大川従道著、いのちのことば社「教会成長うらおもて」より参考)。 

言われてみれば、確かに人々の目にイエス様は異端として映り、それゆえにイエス様には多くの敵がいました。ペテロにしてもヨハネにしてもルターもウエスレーも極端と言われるような人達でした。パウロにいたっては裁判の席において「この男は疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起こしている者であり、また、ナザレ人らの異端の頭であります」(使徒行伝24章5節)と言われているのです。人間、願ってもそうそう「お前は疫病のような奴だ」と言われる人はいません。 

同じように時に、「神様は私達には思いも寄らない事をするように、そのために一歩を踏み出すようにと示されることがあります。そうです、神様がこのノアに「箱舟を作るように」と言われたように。高齢のアブラハムに「私が示す地に出て行きなさい」と言われたように、年若いエレミヤに「若者にすぎないと言うな、そうではなく、私が遣わす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない」と言われたように、神様は私達にも時に想定外の、突拍子もないように思われることをするようにと、その内なる心に語られるのです。 

はたして、どんなことが私達にとって、想定外なことなのか、そもそも想定外なことは、それに対する受け止め方によって各自異なります。ある人にとって突拍子のないと思えることは、他者にとってはそう感じないかもしれません。50歳の人に与えられているチャレンジが70歳の人に与えられたとするならば、それは突拍子のないものと思われます。逆も言えるでしょう、50歳の人に与えられるようなチャレンジが20歳の人に与えられたとするなら、それは突拍子もないものに思われます。 

しかし、今朝、私は皆さんにチャレンジしたいのです。そんな突拍子もない、想定していなかったようなチャレンジをもし私達が神様から受けるのならば、それをしかと受け止めて、勇気をもって一歩前に進んでみませんか。今まで、この年齢だから、この状況では、私には向いていないからと簡単に却下していた事柄を、思い巡らし祈り、その御心を聞いてみませんか。神様は私達の年齢も、状況も私達の向き不向きも承知で私達に働きかけてくださるお方なのですから。二つ目のことをお話しましょう。それは「最初から共におられる神様」ということです。

最初から共におられる神様

創世記7章1節において箱舟を完成させたノアに対して神様は語りかけました「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」。 

ここで神様は「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい」と言われました。この神様からの招待をノアは、どう受け取ったのでしょうか。創世記7章5節、9節、16節を見るとノアは「神がノアに命じられたようにした」と記されています。誰でもノアのように神様からの招きを受けいれて、生きる者は幸いです。 

彼はその家族、また神が望まれたように、動物たちのつがいと共に箱舟にはいりました。すると、神様が予め言われたように40日40夜、地上には雨が降りました。外は想像を絶する嵐です。地を湿らしていた雨がやがて濁流となり、木々は押し倒され、家も人も動物も飲みこんでしまったのです。ちょうど、このメッセージの準備をしている時に奄美大島において記録的な大雨を伝えるニュースが流れていました。それは二時間の間に714ミリという激しい雨で、平年の10月の月間雨量の約2・6倍に達したというのです。二時間で714ミリです。40日40夜、雨が降り続ければ、聖書が記しているようにこの地の全てのものは水に飲み込まれてしまうことでしょう。 

皆さん、このすさまじい出来事の中で、私達が注意深くこの出来事を創世記の中に読みます時に、こんな言葉を見出します(創世記7章16節)「その入ったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたように入った。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と書かれているのです。 

これはノアがその家族とつがいの動物たちを全てこの箱舟に入れ終わった後の出来事です。その時に、神様はこの箱舟の戸口を自ら閉ざされたというのです。この箱舟は6章16節を見ると、戸口が一つだけあったようです。なぜ一つだけなのでしょうか。なぜなら船にとって外界と通じる場所はなるべく少ない方が安全だからです。どんなに頑丈に、すべての部所が造られて、松やにで防水されても、この一枚の戸が開いていれば、船は簡単に沈みます。たとえノアが何十年も費やしてこの箱舟を造ったとしても、雨が降った時に戸が開いていたらその年月は無駄になるのです。 

以前、宇宙船の特集番組を見たことがあります。船員が全員、宇宙船に乗り込みます。そして、いよいよその戸口が締められる時、担当者はその戸口についている塵や埃を丹念にタオルでふき取っていました。宇宙船に外気が入ってしまったらそれは惨事につながるからです。宇宙船にしても潜水艦にしてもどこで致命的な事故が起きるでしょうか。それは、この外界と内を隔てる戸口で起きるのです。 

その外界と箱舟の中を隔てる、とても大切な箱舟の戸は最後にノアの手によらず、神様によって閉ざされたのです。つまり、このことはノアとその家族、動物たちの突拍子もない航海は神の御手の中で始められたということを意味します。彼らに箱舟を作るようにと突拍子もないビジョンを与えられた神様は、与えたゆえに、その旅の始まりからそのみ手をもって彼らを支えてくださったのです。三つ目のことをお話しましょう。それは「最後まで共におられる神様」ということです。 

最後まで共におられる神様

ノアは全地を覆った水の上にいます。外は人類史上、後にも先にも例のない暴風。灯台もレーダーもない揺れに揺れる船の中に生きるノアとその家族です。その雨は40日40夜にもおよびましたが、いよいよ止んだのです。そのことを創世記8章1節-12節はこのように記しています「神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。また淵の源と、天の窓とは閉ざされて、天から雨が降らなくなった。それで水は次第に地の上から引いて、百五十日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった。水は次第に減って、十月になり、十月一日に山々の頂が現れた。四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、からすを放ったところ、からすは地の上から水がかわききるまで、あちらこちらへ飛び回った。ノアはまた地のおもてから、水がひいたかどうかを見ようと、彼の所から鳩を放ったが、鳩は足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。彼は手を伸べて、こえを捕え、箱舟の中の彼のもとに引き入れた。それから七日待って再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。さらに七日待ってまた、鳩を放ったところ、もはや彼のもとには帰ってこなかった。 

雨が降り止んでからさらに150日後(5ヶ月)に水が減り始め、箱舟は7月17日にアララテの山にとどまり、10月1日には、山々の頂が現われたとノアはその場所を事細かく観察し、記録しています。さらに、それから40日たって、外の世界を知るために、その偵察としてノアはカラス、また鳩を放ちました。船の周囲にはもう水がないが、遠方はどうだろうかという探るためです。そして、その鳩がオリブの若葉をくわえて帰ってきたのです。それを見てノアは地から水がひいたのを知ったのです。ノアの細かな観察と記録、そして偵察によると、彼はいよいよ箱舟の戸を開けることができるその時にいたったのです。 

しかし、彼は戸を空けることがありませんでした。 

サンディエゴ湾に行きますと、時々巨大なクルージング船が停泊しています。人々はあれに乗ってバハやアラスカに行くのでしょう。その船には映画館あり、ダンスホールあり、エステあり、プールありと至れり尽くせりということらしいですが、それはそれは快適な船旅なのでしょう。しかし、想像してみてください。ノアは嵐の中を波と雨でもてあそばれる木の葉のような箱舟の中にいたのです。

クルージング船なら毎日バフェを食べ、日夜繰り広げられるコンサートやダンスなどのイベントを楽しむのでしょう、しかしノアとその家族はキーキー、モーモー、ニャンニャンという動物たちの泣き声、叫び声、雄叫び、そして、それに伴う自分たちはおろか動物たちの食事と排泄の世話、もしかしたら、この期間に出産する家畜もいたかもしれない、様々な重労働と戦いの最中にこのノアと家族はいたのです。そのストレスというものは私たちの想像を絶するものであったに違いありません。そんな生活を何ヶ月もしていた彼らにとって、彼らが毎日毎日、降りしきる雨、ゴウゴウと聞こえる濁流を耳にしながら、思うことは何でしょうか。 

「早くここから出たい」ということです。 

かつて台風銀座と呼ばれる沖永良部島にいたある夏、過ぎ去った巨大台風が戻ってきたことがありました。生まれて初めて過ぎ去った台風は戻ってくることもあるのだということを知りました。その時は数日間の停電(南国の島、真夏なのに扇風機は使えず、外は嵐ですから窓を開けることもできません)、そして一週間、教会から外に出れなくなりました。正直、その時、私は自分の精神状態がおかしくなっていることを感じました。 

普通で考えれば、ノア達も一刻も早く外に出たいはずです。神様によって閉じられたドアを開けたくなるはずです。しかし、ノアはその扉に手をかけることはありませんでした。創世記によりますと、鳩がオリーブの葉をくわえて帰ってきてから一月後の一月一日になり、地の上の水は枯れ、土のおもては乾いたというのですが、それでも彼らは箱舟から出ることはなかったのです。結局、彼とその家族が箱舟から出たのはそれからさらに2ヶ月をへた2月27日になって、つまり「もう出てもよかろう」という確認をしてから3ヶ月たっていよいよ彼らは箱舟から外に出たのです。綿密な観察をして外の情況を事細かく知っていたノアははたして、どのようにして外に出ることを決意したのでしょうか。 

ノアは神様のゴーサインを待っていたのです。すなわち創世記8章15節に記されている「あなたは妻と、子らと、子らの妻たちと共に箱舟を出なさい・・・・」という言葉です。そしてこの言葉を受けてから、19節、「ノアは共にいた子らと、妻と、子らの妻たちとを連れて出た。またすべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上に動くものは皆、種類にしたがって箱舟を出た」のです。 

皆さん、私たちの突拍子のない冒険は神様によって初めから終わりまで守られ、導かれます。その始まりに扉を閉じられた主は、その同じ扉が開けられ、そこから出る、その時も私達と共におられます。人生の選択はどのようになされるのでしょうか。自分の念入りな観察と調査と勤勉さが裏打ちされて、私たちは1歩を踏み出します。それは間違ってはいないでしょう。しかし、ノアの決断は何によってなされたか。彼の決断は自分の綿密な計画によってなされたのではなくて、それは神の言葉でした。静かに神のみ声を聞き、そして、彼は腰を上げ、神様が閉じられたドアを開いたのです。

私の恩師に今、沖縄の那覇ホーリネス教会の牧師をしておられ、今は天国にいらっしゃる高橋秀夫という先生がいます。先生ご夫妻とご家族はかって、愛媛県の新居浜で伝道をしていました。先生には説教の賜物があり、新居浜教会の目覚しい成長は当時、注目されて本にもなりました。しかし、その時に「沖縄へ行ってくれないか」と先生はオファーを受けたのです。先生は悩みました。人間的な心情でいうなら動きたくない。牧師夫人の健康、子供の教育、習慣や気候が異なる土地、それらに加えて那覇教会には当時、大きな問題を抱えていました。 

しかし、先生は最初からそのオファーを想定外のこととして、捨てるのではなく、まず祈りました。その時に使徒行伝8章26節の「立って、南に行け」という言葉が示されたというのです。立って、南に行け。そうです、確かに新居浜から見れば沖縄は最果ての南です。離島であるということを考えても、新居浜の生活とは異なるだろう。私にそこに行けと神様は言われるのか。 

しかも、この短い言葉には続く言葉が記されています。「立って、南に行け」。そこは荒野である」「そこは荒野である」。誰も好んで荒野に行く人はいません。それは想定外の問いかけです。しかし、それを神様が望んでいるのなら、たといそれが荒野であっても、それに従う。そして、そのように従った時に神様は私達を祝福してくださったよと先生ご夫妻はかつて私達夫婦に眼を細めて話してくださいました。

皆さん、神様は私達の人生にも神様はこのような考えたこともないことをするようにと語りかけることがあります。しかし、そのことに対して、私達はそれが神様によって示されていることなら、私達の幕を張り広げ、綱を長くしようではありませんか。たとえそこが雨など降りそうもない場所であっても、木々を切り倒して箱舟を造り始めようではありませんか。一歩を踏み出そうではありませんか。私達にはとんでもない想定外のことでも、神様には十分に想定内のことであることを信仰をもって受け止めようではありませんか。私達の生涯は自分でソロバンをはじいて決めていくものではなくて、神様の導きによって歩むのだということを知りましょう。私達がそのみ声に従う時、その始まりから、終わりまで主は私達と共におられるのですから。お祈りしましょう。

 

2 thoughts on “想定外な一歩

    • 加藤さん コメントをいただき、ありがとうございました。高橋秀夫先生は私達夫婦の仲人になっていただきました恩師です。高橋先生からは多くのことを教えていただきました。

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