愛で始まり、愛の中を生き、愛で終わる

ある映画監督が言いました「人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするな」。

サンディエゴ・パドレスのゲームを観ている私の姿を見て、家族は笑います。スクリーンに向かって私が声をあげるからです。どんな時に私は声を上げるのでしょうか。「なんで、そこで見送るの!どうせアウトになるのなら、思いきり振って、三振しようよ!」バッターとして一番悔しいのは空振り三振をすることではなく、見送り三振をすることだと私は思うのです。

自分で選んだのではない、神に愛され与えられた人生、その人生の道すがらも私達に注がれる神の愛、そして、その人生の最後、もろ手をあげて私達の帰りを待っていてくださる神の愛、人生のバッターボックスに立っている私達がもし、このことを知っているのなら、主にある兄弟姉妹、見送りの三振だけはやめようではありませんか。このご愛に思いきり応えるべく、打席に立ち続けようではありませんか。

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愛で始まり、愛の中を生き、愛で終わる
2021年5月2日

かつて日本で「若者たち」という歌がヒットしました。「君の歩く道は果てしなく遠い。でも、なぜ歯をくいしばり、君は行くのか、そんなにしてまで」という歌で、ご存知の方も多いかと思います。その歌は「君の道、すなわち、あなたの道、わたしの道」について歌っています。

「人道支援」という言葉があります。人の道にのっとった支援ということです。私達には人として歩く道があるようです。私達、日本人はこの「道」という言葉が大好きです。柔道、華道、剣道、茶道、果ては極道というものまでもあります。そうです、これらの言葉はそこには歩むべき道があるということを言い表しています。

山本周五郎という作家は「人の一生は曲がり角だらけだ」と言いました。彼はその道はまっすぐであったと思ったとたんに、すぐに曲がり角にぶつかってしまうのだと言いたかったのでしょうか。

「この道はいつも上り坂ばかりで、上りきれば、しばしの下り坂を経て、さらにその向こうに別の上り坂がある」と思っている方もいるかもしれません。

私達がこの道をどのように観ているかということは、私達の今日の生き方に影響を与え、明日の受け止め方が変えます。そして、その日々の連続を私達は「私の人生」と呼びます。

今日は、このことを心に留めつつ、3つのことをお話したいと願っています。まず最初に「道の始まりには愛がある」ということをお話します。

道の始まりには愛がある
年末になりますとギフトカタログなるものが送られてきます。そこにはサーモンがあり、ハムがあり、フルーツがあり、私達は贈り先の方を心に思い浮かべながら、贈り物を選びます。

私達はこれらの贈りものをカタログの中から選びますが、誰一人として我が子をカタログの中から選んだ親はなく、誰一人として、我が親をカタログの中から選んで生まれてきた人はいません。

人生で一番、互いに影響し合う者達を私達は自分で選ぶことなく、この地に生まれてきました。そうです、私達の始まりに私達の意思とか力は何も関与していないのです。このように自分の力のおよばないことを私達はしばしば「ご縁がありまして」と言いますが、この「縁」という言葉を広辞苑で調べてみますと「人と人、または人と物事を結びつける不思議な力」と書かれています。私達、クリスチャンはこの「不思議な力」を「神の摂理」と呼びます。

ヨハネ15章16節-17節にはこんなイエス・キリストの言葉が記されています。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えてくださるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。

ここには、驚くべきことに「あなたは選ばれたのだ」と書かれています。誰が私達を選んだのか。神が私達を選ばれ、この肉体に命の息を吹き込み、私達の人生は始まりました。その始まりは神が意思をもって決めたものです。主にある皆さん、私達は望まれて、生まれてきたのです。

悲しいかな、時に「あなたは望まれて生まれてきたのではない」というような心ない言葉を聞きます。もし親からそのような言葉を投げかけられたら、私達の心は鋭利な刃物で切りつけられたような傷を負います。

人の心は時にそのような言葉を我が子に語ってしまうほどに病み、傷んでいます。しかし、人が何と言おうと、私達は神が望まれたゆえにこの世界に生まれました。

神は私達を選び、私達を立てたとイエス・キリストは言われます。そして、そのことにより、私達が生きる場所でこのキリストのために実を結ぶことを主イエスは私達に望まれます。そのことのためにキリストの名によって、父なる神に求めるのなら何でも神は私達に与えてくださるというのです。

そして、最後にキリストは言います「これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである」。この世界に自分で自分の人生を選んで生まれてきた者はいません。一人もいません。そのような意味で私達は神の前に等しいものです。全ての人の始まりは神の愛と共に始まりました。そして、その私達の人生が神の前に目指すべきところは、私達が互いに愛し合うということなのです。

2つ目のことです。それは「道の途中には愛がある」ということです。

道の途中には愛がある

このようにして始まりました私達の日々の歩みには色々なことが起こります。その道中には喜びや楽しみもあれば、時にその道のりは私達の手に負えない時もあり、悲しみや痛みを経験することがあります。故に先にあげた「若者たち」は「なぜ君は歯を食いしばり、その道を行くのか」と歌うのです。山本周五郎は「その道は曲がり角だらけだ」と書いたのです。

聖書はそのような私達の道のりについて何と言っているのでしょうか。聖書は「あなたの道のりには愛がある」と私達に語りかけます。たった今、お話したように私達の道の始めは愛であり、その道すがらにも愛があるのです。

しかし、そうとは言いながら、時に予期していなかった悲しみや仕打ち、失敗が私達に降りかかってくることを私達は知っています。これらのことが起きてくる時に、私達は神の愛というものを見失ってしまうことがあります。これは私達の普通の姿です。しかし、ここに不思議なことを言っている人間がいます。先週も取り上げましたが、詩篇の記者は私達に語りかけます。

苦しみにあったことは、私には良いことです。これによって、わたしはあなたの掟を学ぶことができました。あなたの口の掟は、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるものです」(詩篇119篇71節-72節)。

この作者は「苦しみにあったことは、私に良いことだ」と言うのです。そして、そのことはいかなる金銀財貨よりもまさるというのです。なぜですか?なぜなら、それによって私達は「神の掟」を学ぶことができるからだというのです。神の掟?神の掟とは何でしょうか。

ここに1から10までのトランプがあります。この10枚のトランプをシャッフルして、その数字を見ないで、一枚ずつ取り出していきます。一回目に1が出る確率は10分の一です。その1が出ましたら、その1のカードを戻して、またシャッフルして、その10枚の中から引き出したカードが1に続く2となる確率は100分の一となります。

1,2と続いても三枚目が4なら、最初からやり直します。この方法で1から10までのトランプがすべて順序通りに並ぶ確率は100億分の一となります。100億分の一というのはどれくらいの時間がかかるかといいますと、一秒に一回の割合で一枚のトランプを取り出していく時に、1から10までが順番通りに出るためには317年かかることになります。

このようにほとんど起きえないこと、すなわち、このトランプがた1,2、3と順番通りに続いて出てくることを、私達は「偶然」と呼びます。言うまでもない、偶然とはトランプを引く人間の意志とか、ましてや情熱などということとは全く関係のないことです。

私達は日々、色々な出来事に直面します。時に、その一つ一つの出来事はトランプのカードのように思われます。引いたカードが辛いものであるならば、私達はそのカードを握り締めて悩み苦しみます。そして、必死になってその問題を解決しようとします。しかしさらに、そうしている内に次のカードをひかなければならなくなります。

そして、そのカードもまた別の新たな問題であることがあります。こうなってきますと私達は「俺はついていない」と思い、反対に3回続けて望んでいることが起これば「最近の俺はついている」と言うようになります。もし、私達が人生をそのようにとらえるならば、私達の人生とは博打のようなものです。

しかし、もし誰かがこのトランプの数字を見ながら1から10を並べるのであるなら317年はかからず10秒あれば事足ります。そこには、そのトランプを見つめる者の知性と意志があるからです。

聖書は私達の人生の道のりにはこの一つ一つのトランプの数字を並べることができるまなざしが注がれているといいます。そして、そのまなざしとは神のまなざしであり、神様は私達に対するそのご愛ゆえに、私達一人一人にとって最もよい時に、最も良い方法でこのカードを並べてくださると神に信頼して生きることを私達に語りかけています。

先に「苦しみに合ったことは自分にはよかった。なぜなら、それによって彼は神の掟を知ることができたからだ」と読みました。すなわち、この詩篇の記者は自分が避けて通りたいと思われる苦しみを通して、そこに神の掟を見ることができたから、私の苦しみは良かったというのです。

「神の掟」とは何か。「神の掟」とは「神の御心」です。それは私達が「点」でしか観ることができなかった人生の諸々の出来事を、神が「線」として結び合わせてくださるということなのです。そこには私達の人生と共に寄り添い歩いてくださる神の意思と神の愛があるのです。

私達は時々、息を飲むような美しい手縫いの刺繍を見ることがあります。その製作者の技術に感動します。ただし、その作品も裏地を見れば、色々な糸がグチャグチャになっているだけで、とても人に見せられるものではありません。この裏地を額に入れている人はいません。全てが全く統一もない、てんでバラバラの糸くずに見えるからです。

でもひっくり返してみるならば、そこには素晴らしい作品があるのです。裏を見ていた時には、なんでこんな暗い悲しい色がと思われる糸も確かにあるのですが、実はその糸が作品全体には必要不可欠なものであることを私達は知ります。それが神の掟、神の御心を知るということなのです。

私達の人生の旅路には色々なこと起こります。しかし、そこにも神の愛が注がれているということ、そのことを見逃さないように、見過ごすことのないように私達はこの道を歩んでいこうではありませんか。最後のことをお話します。それは「道の終りには愛がある」ということです。

道の終りには愛がある

聖書に記されているヨシュアという人は人生の晩年に言いました「世の人のみな行く道に行く」(ヨシュア23章14節)。言うまでもない、彼が言っている、世の人がみな行く道とは「死」ということです。この死の確率は100%です。絶対に避けられないことですから、今も昔も私達の脳裏にはこの死がいつもちらついています。

ヘルマン・ヘッセはかつてこう言いました「馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない」。

多くの人は死を恐れます。なぜなら「死を迎えるということは、明日がなくなるから」です。明日の自分の所在が分らなくなるように思うからです。そして、そこには愛する者達との永遠の別れがあると思うからです。しかし、聖書は言います。「死とは通過点に過ぎない」と。

皆さん、私達の人生の終りをマラソンで例えますなら、そのゴール、すなわちあのテープを切る時、その先に何があるのか分らないというなら、そのテープを超えてゴールをすることをためらうでしょう。それを超えることに恐怖すら覚えますでしょう。分からないから、怖いから、そのことについてはあまり考えたくない、その日を先送りにしたいと私達は願いますでしょう。

夜、遅くなって誰もいない家に一人で帰る寂しさを私達は知っています。でも、夜、どんなに遅くなっても、私達を待っていてくれる人がいる喜びも私達は知っているのです。聖書は私達のテープの先には今より、さらに勝った世界があるといいます。

そのテープを切った時に、その先で両手を広げ、私達の歩んできた道をねぎらい、抱きとめてくださるお方がいるというのです。そのお方は先に言いましたように、私達を選び、命を与え、この地に送り出してくださったお方です。そう考えますのなら、私達の死とは実に私達がかつていたところに帰るということです。私達にはその帰宅を待っていてくださるお方がいるのです。

ルカ9章51節を見ますと「イエスはエルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられた」ということが書かれています。この時にイエス様はエルサレムに行くということを決意したというのです。

この言葉は不思議です。なぜなら、私達はこのような言い方をしないからです。「私はロサンゼルスに行くことを決意した」とか「私は東京に行こうと決意した」と普通、私は言いません。

しかし、イエス様はエルサレムに行く決意をされた。それはエルサレムで自分の身に降りかかることを受け止める決意でした。その決意とは何でしょうか。エルサレムで町の有力者になる決意なのか。軍隊を借り出して革命を起こす決意なのか。いいえ、イエス様が決意されたことは自らが十字架にかかるということでした。

イエス様は死ぬということをよく理解していました。死がどれだけ人を悩まし、悲しませるかということを。死は人を失意のどん底に落としうるものであることをイエス様はよく理解しておりました。あの親友ラザロの死を前に、なすすべなくただただ涙を流して悲しむ、愛する者達の姿を見て、イエス様は自らも涙を流されたと聖書は記しています。

時に「愛」は愛する者が受けねばならない悲しみを回避しようと自らを差し出します。イエス様の流された涙は、到底、人間には勝ち目のない死という宿命を嘆き悲しむ者達に向けられた涙でした。

イエス様がエルサレムに強い決意をもって顔を向けた時、そのお心にはこの人の悲しみの根源、死から彼らを守りたいという強い決意があったのです。それゆえに、イエス様は自分がおかかりになる十字架を直視し、そこから目を離さなかったのです。なぜ?

聖書はイエスが十字架にかかり、その後に甦ったことを記しています。死に勝利した人類の初穂として、イエス様は私達の先陣を切り、死の先にある世界への扉を私達のために開いてくださったのです。このことの根底にあるイエス様の思いは私達に対する愛なのです。

先週、私は「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5章16節ー18節)という聖書の言葉をお話ししました。もしかしたら、この言葉は皆さんの耳にとても非常識な言葉として聞こえたかもしれません。なぜなら、この言葉は私達のリアリティーにそぐわない、あまりにも現実離れした言葉に思われるからです。誰がいつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝などできましょうか。

 

しかし、この言葉には「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5章18節)という言葉が続きます。今日、お話してきましたように私達の始めに愛をもって関わり、私達の人生の旅路に愛を注いでくださり、私達の最期にも愛をもって私達の帰りを待っていてくださるイエス・キリストが私達の心におりのなら、驚くべきことにいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝するというような到底、不可能に思われることも可能なことになるのです。キリスト・イエスが人知を超えたお方であるのなら、その「キリスト・イエスにある」ことは私達の想像を超えているのです。

主にある皆さん、皆さんは自分の人生をどのように観ていますか。私達の人生は偶然の産物であり、全ては運次第なのでしょうか。偶然にも運にも目的などないのですから、そこから導かれる私達の日々は、願かけて生きる、そんな毎日となることでしょう。

さらにそのゴールが、何が待ち受けているかも分からない恐ろしい闇であるのなら、私達はその怖れをごまかして今を生きることになりますでしょう。その最後を考えまいと、世の一時的な虚しいことに私達の目は注がれていくことでしょう。

ある映画監督が言いました「人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするな」。

サンディエゴ・パドレスのゲームを観ている私の姿を見て、家族は笑います。スクリーンに向かって私が声をあげるからです。どんな時に私は声を上げるのでしょうか。「なんで、そこで見送るのか。どうせアウトになるのなら、思い切り振って、三振しようよ!」バッターとして一番悔しいのは空振り三振をすることではなく、見送り三振をすることだと私は思うのです。

自分で選んだのではない、神に愛され与えられた人生、その人生の道すがらも私達に注がれる神の愛、そして、その人生の最後、もろ手をあげて私達の帰りを待っていてくださる神の愛、人生のバッターボックスに立っている私達がもし、このことを知っているのなら、主にある兄弟姉妹、見送りの三振だけはやめようではありませんか。このご愛に思いきり応えるべく、打席に立ち続けようではありませんか。

私達は神の恵みによりクリスチャンとさせていただきました。その私達は自分がどこから来て、どこに行くのかが分かっているのです。その初めも終わりも、その真ん中も神の愛で満ちているということを知るのなら、私達の今の生き方はおのずと決まるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。お祈りしましょう。

仰ぎ願わくば、十字架と復活をとおして、私達への愛を余すところなく示してくださいました我らの主イエス・キリストの恵み、私達の命の始めにかかわり、以後、その最後の日まで私達を見守り、支え、祝福してくださる我らの父なる神の御愛、この神の御愛を日々、私達の心に教え示してくださる聖霊様の豊かなるお働きが今日、この礼拝に出席させていただきました私達一同の上に今も後も世々限りなくありますように。

本日のおもちかえり
2021年5月2日

1)人生の道のりを振り返った時、現在、歩いている道に心を留める時、前方にある道を展望する時、あなたはどんな思いになりますか。

 

2)ヨハネ15章16節-17節を読みましょう。このことはあなたの人生の始まりがどんな始まりであったことを説明していますか。

 

3)あなたは愛されて、望まれて、期待されて生まれてきたということを知ることはなぜ大切ですか。その初めの愛にあなたは応えて今を生きていますか。

 

4)私達が今、歩き続けている道のりにも神様の愛が注がれているということをあなたは認めますか。

 

5)詩篇119篇71節-72節を読みましょう。私達の道のりの中に「神の掟」を見出すことはなぜ大切ですか。その掟の中には私達に対する神様のどんな愛が隠されていますか。

 

6)ヨシュアは晩年に「世の人のみな行く道に行く」(ヨシュア23章14節)と言うことにより自分の死を自覚しました。あなたは「死ぬ」ということをどのように受け止めていますか。

 

7)ルカ9章51節には「イエスはエルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられた」と書かれています。イエス様の心にあった決意とは何だったのでしょうか。

 

8)愛する者の悲しみ、苦しみ、恐れをあなたは取り除きたいと願いますか。人間の究極的な悲しみ、苦しみ、恐れは何ですか。このことのためにイエス・キリストがなさったことは何ですか。


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愛で始まり、愛の中を生き、愛で終わる」への2件のフィードバック

  1. マック先生、いつも先生のメッセージで養われております。コロナ禍で教会に行く事が出来なくても、いえコロナ禍以前から、毎週途切れる事なく続けて世界中にメッセージを届けてくださる先生に感謝致します。先生のメッセージは時々プリントして、オンラインでメッセージを見たり聞いたり出来ないお年寄りの先輩に、郵送して、喜ばれております。今後もこの尊い働きが続けられますようにお祈りしています。
    追伸:パドレーズとドジャースの試合をテレビ観戦している時は、いつも先生の事を思い出しつつ、”先生、この試合に熱い歓声をあげているだろうなあ!”など思いながら見ています。すみません、わたくしドジャーズファンです。最近悔しくて泣いてます。NCM2 マダム

    • Yuriさん、ご無沙汰しております。日々、いかがお過ごしですか。メッセージを聴いていてくださいますこと、ありがとうございます。背後にあるM師匠の大きな力添えにより、毎週、メッセージをアップさせていただくことができています。感謝です。

      もちろんYuriさんはドジャースファンですよね。今年のドジャースとパドレスのゲームは昔の巨人と阪神戦のようで、熱くなります。ダルビッシュとカーショーの投げ合いは見ごたえがありました。さすがにドジャースは強く、いつも胸を借りているような気持ちです。お手柔らかによろしくお願いします(笑)。

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