愛には制約がある

世界的に有名な隈研吾という日本人建築家からとても興味深いことを教えられました。彼は日本のみならず世界数カ国で同時に仕事をしている世界的に有名な建築家です。東京オリンピックに向け、新国立競技場も彼によって設計され、現在、建築されています。この方の仕事の流儀というものがとても興味深いのです。

一つの土地に何かを建築する時に、当然そこには敷地面積、周りの環境、建築素材、予算などさまざまな制約があります。しかし、彼はその制約を「創造の源」としてとらえているというのです。その制約があるからこそ、そこに深い考えが生まれ、工夫が生まれるというのです。彼はそのインタビューの中で、「もし予算や敷地に制約がなかったらどうしますか?」と尋ねられ、「制約がなかったら制約を探しに行きます。まさに宝ですよ、制約は」と答えています。

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愛には制約がある
2019年2月17日

聖書、創世記には「神が天地を創造された」ということが書かれています。そして、その創造の中に神が最初の人間、アダムとエバを造られたということが書かれています。そのアダムとエバはエデンという園で、そこにはえる木々になる実を存分に食べながら生きることになります。

しかし、そのエデンの園に神は一本の木を置かれました。神はその園にある木々のいかなる実を食べていいと言われました。しかし、その一本に関しては「決してその実を食べてはならない。食べると死ぬであろう」(創世記2章16節―17節)と言われたのです。

結論から言いますと、この木を前にしてアダムとエバはこの実を食べてしまいます(創世記3章6節)。この一本以外、どの木からも好きなだけ食べていいと言われていたのに、そして、それは彼らの心身を満たすのに十分すぎるものであったにもかかわらず、彼らはこの禁じられた実を口に含んだのです。そして、その時から私達人間は罪を犯す者となり、人に死が入ったと聖書は記しています。

この出来事に対してスルドイ質問をなさる方がいます。それはこの禁じられた一本の木に関して「なぜ神はそんな物騒なものを平和なエデンの園に置かれたのか?」という質問です。「神が愛ならそんな危険なものをそこに置く必要はないでしょう。子ども部屋にピストルを置いておく親はいないではないですか」という質問です。

聖書は「神は人と同じかたちに人間を創造された」(創世記1章27節)と書いています。この「かたち」とは外見ということではなく、私達は神と交わりを持つことができる存在として創造されたということです。

ここに人間とその他の動植物との区別があります。この「神のかたち」という言葉は人間のみに向けられていて、人間以外の動植物には語られていません。

すなわち、人には神様と交わりをもつ特別な賜物が与えられたのですが、エデンの園にある一本の木をアダムとエバに禁じることによって「人と神とは違う」ということを神様は示されたのです。

すなわち「神は人に制約を与えうる存在なのだ」ということが示されたのです。神は園に禁断の木を置くことによってご自身と人間を全く異なるものとして区別されたのです。

すなわち「人は神のように自分が思うがままに生きる」のではなく「人は神の与えられた制約のもとに生きる」ということがここで明らかに示されたのです。

このことはすなわち「あなたたちは私が与えた園の環境をあなた方は存分に楽しめばよい。しかし、私が示した一線は越えてはならない」ということです。

私達は時々、制約から解き放たれているような経験をします。例えば親の保護のもとにあった子がいよいよ家を出て、自分で生活をし始めるというようなこと。大空を前に翼を得た鳥のように彼らは巣立ちをすることでしょう。

その日から彼らの一日は自分の自由な采配に委ねられます。子供達はその日が来るのを待ち望み、嬉々として家を出て行きます。しかし、同時に彼らはとても厳しい世界に身を置くことになります。どういうことでしょうか。

聖書には旧約聖書と新約聖書という二つの区分があります。主に旧約聖書にはイスラエル、すなわちユダヤ民族の歩みというものが書かれています。その中にこのユダヤ民族が400年もの間、エジプトに奴隷として捕らえられていたということが書かれています。すなわち彼らはその時、一つの権威のもとに置かれており、彼らには自由がありませんでした。

しかし、そこに神が介入され、彼らはその奴隷状態から解放されてエジプトを出て行きます。俗に言う「出エジプト」、英語でいうところの「Exodus」です。

ユダヤ人はその時、エジプトで束縛されていました。しかし、その束縛の鎖が解かれ、彼らの前に彼らと外の世界を隔てる壁はなくなりました。その時から彼らはどこに向かうのか、どこに留まるのか、何を飲み、食べるのか、いつ眠るのか、いつ起きるのかと、自らのことを決めることができる自由が与えられたのです。こうして彼らはその自由と共に荒野において40年間を過ごすことになります。

当時のこのイスラエルの民の数は数百万と言われています。今まで自由がなかった彼らの前に自由が置かれました。それは喜ばしいことと思われますが、自由が彼らに与えられた時、なんと彼らは試練と混乱へと導かれていきます。

なぜなら、その日から彼らは「生きる糧」を自ら見つけなければならなくなったからです。自由とは何を飲み、何を食べるかを自分で好きに決められることを意味しますが、それらを自分で獲得していかなければならないことも意味するからです。

さらに彼らにはとても大切なことがありました。それは「彼らの生活の規範」となるべきものをもたなければならないということでした。「この線を越えてはならない」というものが彼らには必要となりました。解き放たれた人間にこの制約がなければ、彼らは遅かれ早かれ互いに噛み合い、果てには互いに滅びてしまうからです。

故に神はこのイスラエルの民に「十戒」という10の戒めを与えました。以前、この礼拝でも一つ一つの戒めをお話したことがありますが、ご存知のようにこの戒めの前半には人間と神との関係の戒めがかかれており、残りの全ては人間として守るべきこと、すなわち

1  神は唯一であること                          2  偶像を作ってはならないこと                     3  神の名をみだりに唱えてはならないこと
4  安息日を守ること                          5  父母を敬うこと                           6  殺人をしてはいけないこと                      7  姦淫をしてはいけないこと                       8  盗んではいけないこと                         9  偽証してはいけないこと                         10 隣人の家をむさぼってはいけないこと

が書かれています。この十戒はそれまで奴隷であった彼ら、肉体的な自由が与えられた彼らの生活の中に越えてはならない線が引かれたということを意味します。

こうしてイスラエルの民たちの荒野での生活はモーセという一人の指導者を通して神が人間に与えられた制約と共に進められていきました。

そのことが申命記5章30節-33節にも書かれています。これは神がモーセにその率いているイスラエルの民達に伝えなさいと言われた言葉です。

30おまえは行って彼らに「あなたがたはおのおのその天幕に帰れ」と言え。31しかし、おまえはこの所でわたしのそばに立て。わたしはすべての命令と、定めと、おきてとをおまえに告げ示すであろう。おまえはこれを彼らに教え、わたしが彼らに与えて獲させる地において、これを行わせなければならない』。 32それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。33あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。

また、この制約はモーセの次にリーダーとしてたてられたヨシュアにも引き継がれていきました。ヨシュアにも神様はイスラエルの民に伝えるようにとこのようなことを語られました。ヨシュア記1章8節-9節にそのことが書かれています。

「8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。9わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

これらの言葉がイスラエルの民に語られ、神様から十戒が与えられたのですが、彼らはその戒めから外れて生きようとしました。しかし、その結果、彼らは惨憺たる日々を過ごすことになりました。

そして、それは他人事ではなくて、私達の日常でも、神様が私達に与えている制約から外れて生きていく故に、生じる惨憺たる毎日というものを私達は見聞きし、また時に私達は自らそのことを経験しているのです。

先のエデンの園のことを思い起こしてください。彼らの周りには彼らが楽しむべきものが満ちていたのです。神はその彼らにたった一つの制約を与えられたのです。イスラエルの民に神はたった十の戒めを与えられたのです。250個とか830個の戒めではないのです。そして、モーセとヨシュアに神はこの戒めの内を歩むならば、あなたたちは幸いを得る、その道は栄えると言われました。

主にある皆さん、さいわいな生涯の秘訣はこの神の制約の中を生きることだと聖書は言うのです。

世界的に有名な隈研吾という日本人建築家からとても興味深いことを教えられました。彼は日本のみならず世界数カ国で同時に仕事をしている世界的に有名な建築家です。東京オリンピックに向け、新国立競技場も彼によって設計され、現在、建築されています。この方の仕事の流儀というものがとても興味深いのです。

一つの土地に何かを建築する時に、当然そこには敷地面積、周りの環境、建築素材、予算などさまざまな制約があります。しかし、彼はその制約を「創造の源」としてとらえているというのです。その制約があるからこそ、そこに深い考えが生まれ、工夫が生まれるというのです。彼はそのインタビューの中で、「もし予算や敷地に制約がなかったらどうしますか?」と尋ねられ、「制約がなかったら制約を探しに行きます。まさに宝ですよ、制約は」と答えています。

ふんだんな独創性が問われるその建築の現場で制約こそが宝と言い切ること、ここに私達は神様が私達に与えられる制約、今日の言葉で分りややすくいいますならば、神が私達に与えられる道徳・倫理の真髄を見るのです。

制約?なんと不自由な!私達は思います。倫理、そんなのもうないよ。今はポストモダンの時代、それぞれが自分の好きな判断を自由にしていけばいいんだよ。「あなたにとって正しいと思うことこそが、正しいんだから」。皆さん、そうですか?

本当にそうですか・・・?。

そう生きることによって私達は本当に自由を満喫していますか。「私が正しいと思うこと」と「あなたが正しいと思うこと」が違うなら、そこには争いや憎しみが生まれます。私達が正しいと思うことは本当に正しいのですか?

制約のない自由は時にとめどもなく他者の自由を侵害します。自由の名のもとに、誰かの自由が奪われていること、これが私達の世界の現実です。それでも制約なんて堅苦しい。本当にそうですか?

聖書は制約の中に本当の自由があるというのです。そして、その中に生きることこそが幸いな生涯なのだと私達を造られた神は私達に語りかけるのです。
そのことをキリストの言葉が完璧に言い表しています。イエスは自分を信じたユダヤ人達に言われました、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、本当にわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして、真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章31節‐32節)。

「とどまれば」という言葉と「自由を得る」という言葉。この驚くべき逆説!と「とどまる」ことは「自由を失う」ことと思っている私達。しかし、聖書はキリストの言葉にとどまるなら本当の自由を得るという約束をしているのです。

皆さん、とかく若い時というのは自由を求め、「自由になりたい」と無茶をするものです。青春とはこの「自由」と「虚無」が混在する時です。「自由」は常に「虚無」と隣り合わせなのです。

年を重ねれば私達の自由はさらに増すことでしょう。もはや私達に「あなたはこれをしなさい」とか「これをすべきではない」と言ってくる者はいなくなりますでしょう。しかし、聖書は私達の人生経験が何年あろうが、私達が指導的な立場にある者であろうが、私達のとどまるべき制約を語り続けるのです。
私はアメリカ市民です。このアメリカという国への感謝は尽きません。私達、アメリカ人が何よりも大切にしていること、それは「自由・フリーダム」です。我々、アメリカ人はその自由を維持するために犠牲を惜しみません。

しかし、水を差すようなことになりますが、実のところ、この自由が私達を追いつめ、私達を苦しめ、私達の関係を壊しています。制約のない自由は暴走したら周りにあるものをことごとく壊してしまうからです。これは明らかなことです。必ずしも私達が言う「自由」が私達に幸いをもたらすとはいえないのです。
このようなことを話している私自身も「自由の中に生きていることの不自由さ」(とても矛盾する言い方ですが)を今日まで何度も体験してきましたし、今もこのことを実感することがあります。ですから聖書が語り続けるメッセージの大切さが骨身にしみてよく分かります。私達が本当に人生を楽しみたいのなら、クリエイティブに生きたいのなら神の制約の中に生きる以外にないと今は心から思います。

先の建築家の言葉を借りて言うならば、今、私は本当に「私にとって神の制約は宝です」と言うことができます。この制約なしに私は自分の人生を楽しむことなどは決してできません。そして、この神の制約の内を生きることがどんなに素晴らしいことであり、そががなんと自由で満ちているかということを日々、体験しています。

親の保護の元にある子供もいつの日か親元を離れていきます。そんな子達にもし、私達が伝えることがあるとするならば、このこと以外にはないと思います。そうです、その心境はまさしくモーセやヨシュアと同じなのです。

「君たちの行く先には可能性に満ちた世界が開かれている。神が許したもうならその可能性の扉が開かれていくだろう。そして君達には神がくださった自由がある。その自由を君たちは当初、喜ぶだろう。しかし、気をつけなければならない。その自由が君達を混乱に陥れてしまうということだ」。
「もし君たちがたった一度のその生涯を本当に内なる喜び、そして楽しみと共に歩んでいきたいと願うならば、あなたの神、主が命じられる言葉の内を右にも左にもそれずに歩んでいきなさい」

「君たちが本当に自分に与えられている才能をこれ以上ないほどに有効に用いたいと思うなら、そして将来、家庭をもち父、母となるのなら、夫婦共々、家族共々、この神の制約の中でのびのびと生きなさい。神様は君たちが自分で思い描いた以上の祝福を必ず注いでくださる」

皆さん、私達はもう一度、自分の人生を見直そうではありませんか。もし、あなたの人生が言い知れぬ虚しさで満ちているなら、混乱のただ中にいるのなら、それはとても大切なことを神様が今、あなたに伝えようとしていてくださるに違いありません。まず点検しましょう。私達にとってグッドニュースはこの人生は今日から方向を転換することができるということです。

もし、あなたが自分の人生をやり直したいと思っておられるなら、その新しい一歩をこの神の戒め、すなわち神の愛の中を歩んでいかれることから始めることを強くお勧めします。もし、我が子の幸いを望むのなら、私達には伝えなければならない神が定めた人生の大原則があるのです。

8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。 9わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記1章8節-9節)。

いまだかつて私は「俺は絶対に重力に勝つんだ」と言って、天に向かって思い切りジャンプすることにより、空中に浮かび続ける術を会得した人を見たことはありません。なぜならこの地球に生きる私達に、重力は定められた法則だからです。その不変の法則に臨んでも勝ち目はありません。

同じように私達は「自分の采配のもと自由を生きる」ように予め定められているのではなくて「神の制約のもとに生きる」ということが私達を造られた神の不変の法則であるのなら、これに逆らって私達の人生がうまくいくことはないのです。

この神の制約の中に生きること、これが私達にとりまして最も賢明な生き方なのです。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年2月17日

1)アダムとエバに対して神様は何を禁じられましたか。なぜ「神は人がしてはならない」ことを定めたのですか。

 

2)今日、人は「自由」をどのように理解していると思いますか。あなたにとって「自由」とは何ですか?

 

3)なぜエジプトの奴隷状態から解き放たれ自由が与えらえたイスラエルの民に神は十戒を与えたと思いますか。出エジプト記20章1節-17節を読んでみましょう。もし、この戒めがなかったらイスラエルの民の荒野での40年間はどうなっていたと思いますか。

 

4)イスラエルのリーダーであったモーセは神の言葉を受けて民に向かい語りました。申命記5章30節-33節を読みましょう。ここには何が書かれていますか。

 

5)モーセの後継者であったヨシュアもイスラエルの民に向かい語りました。ヨシュア記1章8節-9節を読みましょう。ここには何が書かれていますか。

 

6)4)と5)のモーセとヨシュアの言葉に共通していることは何ですか。これらの言葉は私達に何を語りかけますか。

 

7)あなたはこれからの生涯、神の制約のもとに生きることの価値を見出していますか。その制約のもと、生きたいと望みますか?


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