捨てられたのは誰のためか?

crossイエス様の十字架から時を隔てずに生まれたギリシア人でフレゴンという歴史家がいます。フレゴンの専門はオリンピックの歴史で、彼は第1回から229回までのオリンピックについて調べまして『The Olympiads』という16冊にもなる記録を残しました。その一節に202回目のオリンピックについて、このような一文があります。

「第202回のオリンピック大会の時に壮大な日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であり、六時間にわたり天の星が見えるほどの夜となった。またビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した」(『The Olympiades』Phlegon  )

イエス様が十字架にかかった“時”には諸説がありますが、だいたい紀元33年前後ということになります。第一回のオリンピックは紀元前776年で、以降、現在もそうであるように四年ごとに開催されてきましたから、第202回というのはだいたい西暦33年前後となり、また聖書はイエスが息を引き取られた直後に大きな地震があったということも書いています。ですから、このイエスとは何ら関係のないギリシア人、フレゴンが書き留めた「闇」と「地震」の記録はイエス様が十字架にかけられたその日、その時と合致するものなのです。

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十字架の言葉 その4
捨てられたのは誰のためか?
2015年10月4日

イエス・キリストが十字架にかけられ、そのところで語られた言葉が七つあります。最初に語られた三つの言葉はすべて他者に関するもので、以降、息を引き取るまでの間に言われた言葉は4つあり、それらはご自身について語っています。

私達は第一の言葉として「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23章34節)というイエス様を十字架にかけた者達への執り成しの祈りを見、第二の言葉として「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ23章43節)とご自身と共に十字架につけられていた犯罪人に語られた言葉を見てまいりました。そして、先週はその第三の言葉として母マリアに向かい、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」(ヨハネ19章26節)と言われ、愛弟子に向かい「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19章27節)と言われたことについてお話ししました。

イエス様はまず自分を十字架へと追いやった者達のためにとりなしの祈りをささげ、ご自身の横に同じように十字架につけられている犯罪人が自分と共にパラダイスにいることを告げ、自分を生み、育ててくれた母に対する想いを語りました。そして、今日は四番目の言葉となります。ここにきてイエス様ははじめてご自身について大声で叫ばれたのです。

45さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。46そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27章45節-46節)。

イエス様は午前9時頃より十字架にかけられ,午後3時までの6時間,十字架の上におられましたが、その様な状況の中で大声で叫ばれた言葉が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉なのです。

その時、「昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ」(45)とここには書かれています。暗闇は聖書の中で意味のある自然現象でありました。出エジプト記はエジプトが闇に包まれたということを記録していますし、聖書の預言書は終末に起こる闇について書いており、どちらもこの闇の深さを神の裁きをあらわすものとしています。そうです、イエス様が十字架にかかられた時に包まれた闇も神の裁きを意味するものでありました。

イエス様の十字架から時を隔てずに生まれたギリシア人でフレゴン(Phlegon )という歴史家がいます。フレゴンの専門はオリンピックの歴史で、彼は第1回から229回までのオリンピックについて調べまして『The Olympiads』という16冊にもなる記録を残しました。その一節に202回目のオリンピックについて、このような一文があります

「第202回のオリンピック大会の時に壮大な日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であり、六時間にわたり天の星が見えるほどの夜となった。またビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した」(『The Olympiades』Phlegon  )

イエス様が十字架にかかった“時”には諸説がありますが、だいたい紀元33年前後ということになります。第一回のオリンピックは紀元前776年で、以降、現在もそうであるように四年ごとに開催されてきましたから、第202回というのはだいたい西暦33年前後となり、また聖書はイエスが息を引き取られた直後に大きな地震があったということも書いています。ですから、このイエスとは何ら関係のないギリシア人、フレゴンが書き留めた「闇」と「地震」の記録はイエス様が十字架にかけられたその日、その時と合致するものなのです。

フレゴンはそこに「日食」と書き留めていますが、実際のところ、それは通常の自然現象としての日食ではありませんでした。なぜなら、聖書が記しているようにイエス様の十字架はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの間に起きたことであり、その時は満月であり、満月では日食は起こらないからです。また日食は大抵、数十分だけ続くものですが、この時の闇は数時間におよんだのです。すなわち、天地万物を支配しておられる神はその裁きのあらわれとして、人知を超えた御力をもってそのところを闇で包んだのです。

またイエス様が息を引き取られた午後三時とは午後の捧げものをする時間でした。捧げものとは一体、何のことですかと思われる方がいるかもしれません。お話しましたようにこの十字架の出来事は一年に一度の過ぎ越しの祭りの間に起きたことであり、この祭はユダヤ人が最も大切なものとしている祭で、今も世界中でその時がきますとユダヤ人はこの日をお祝いしています。

この祭はこの時からさかのぼること約1500年も昔、聖書の出エジプト記に記録されていますようにかつて彼らの祖先がエジプトを逃れる晩、ユダヤ人がいる家の鴨居に子羊の血を塗り、その家だけに神の裁きがくだらなかったということを記念する日です。すなわち、ユダヤ人の命のために子羊の命が犠牲として捧げられたことを記念する祭なのです。

その犠牲が捧げられる時間が午後三時であり、その時間にイエスが息を引き取られたということは、今までお話しましたことを全てまとめて言いますとイエス・キリストが十字架で息を引き取られた時というのは、全地が暗闇に包まれるような神の裁きをキリストが受けて、かつてその血が鴨居に塗られた子羊のように、ご自身も十字架の上で血潮を流し、犠牲として捧げられた子羊として死んだということなのです。そして、そのキリストが受けた裁きと流された血というのは、私達の罪の身代わりであったのだということを聖書は何千年来、語り続けているのです。

もしかしたらこれだからキリスト教の神は嫌なのだと思われる方がいるかもしれません。あまりにも血なまぐさいと。私達はそんな神を望んでいるのではなくて、いつも穏やかにニコニコしている、私達を癒してくれるような神々を望んでいるのだと。なんでも「いいよ、いいよ、オーケー、オーケー」と受け入れてくれる神を望んでいると。

しかし、いかがでしょうか、こんな私ですら日常で見聞きしている出来事は「まぁまぁ、いいじゃないですか」ということで素通りできるような問題ではないということを常々、実感しています。私達の周りで起きていること、すなわち私達、互いの罪から生み出されているものがどんなに私達を苦しめているのかということをいたるところで見聞きするのです。それが夫婦の間に亀裂を生み、親子の関係を壊し、地域社会に分断が生まれ、無実な者達の命が失われ、国と国の関係が崩れていきます。これらのことを私達が直視するのであるならば、それはまさしく生々しいものであり、これらのことのためにどれだけの心が引き裂かれ、命が失われているかということを私達は知るのです。もし、これらの現状をを全て知っておられる神がおられ、それらを見聞きしつつも「まぁまぁよかよか」と言っているとするのなら、それこそ、それはなんと私達にとりまして絶望的なことであり、また悲劇でありましょうか。

そもそも事の次第は創世記にまでさかのぼります。アダムとイブ、私達の祖先です。彼らは神が備えたもうエデンの園にある全ての草木になるものを食べることが許されていました。しかし、園の中央にあります一本の木の実だけは食べてはならないと神に命じられました。言うまでもなく彼らはその木の実を食べることがなくとも、十二分に豊かな生活が保障されていたのです。しかし、彼らは蛇(サタン)の言葉を聞くのです。『それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』(創世記3章5節)。彼らの心はその言葉に揺さぶられ、彼らはその実を口に含むのです。以来、彼らは自らを恥じる者となり、生涯かけてそれを隠そうとするようになり、また神を恐れ、最後には神が彼らに備えられた園を追われ、すなわち人が本来とどまるべき場所を出て、世界に散っていくのです。そして、その末裔があなたであり、私なのです。

このことを踏まえて私達の世界を見ます時に、私達の間に起きる問題の源は全て、この時にあることに気がつくのです。「この実をとって食べると神のようになる」。彼らが実に手を伸ばしたのは、己がいかなる者であるかを忘れ、それ以上の者として、すなわち神のようになりたいという思いがあったからです。そして「神のようになりたい」ということは、結局のところ「自分の思いを押し通す者になりたい」という願望が私達の内にあるということであり、これらのことを突き詰めていくのなら、それは私達の「我」というものに行きつきます。そして、このことをもってこの世界を見つめ直しますのなら、この世界で起きている些細な問題から、深刻な悲劇にいたるまで、すなわち我と我のせめぎあいであるということが分かるのです。

この創世記の出来事以来、人はこの自ら制御できない我のせめぎあいによる歴史を積み重ねてきました。そして、私達もその一部に今、属しているのであり、あいも変わらず3000年も4000年も前から人間が抱えていた問題を繰り返しているのです。そのような意味で私達はこの罪に対しては全く無力であるということです。

私達の心の思いというものを表す方法は色々ありますが、その最たるものは私達の言葉でありましょう。私達の我が一番、多く表現される場所が私達の口です。ヤコブはそのことを的確に書いているではありませんか。

7あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。8ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。11泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか(ヤコブ2章7節ー11節)。

何百万トンもの水をせき止めたり、ウィルスが拡散していくことを食い止める技術を持っている人間は、そんな大変な仕事をしていながら、自宅に帰ると愛する者に向かって話す言葉一つすら私達は制御できないのです。その言葉を受ける相手も同じように自分の言葉を制御できませんから、そこには争いが絶えません。さらにそこからエスカレートします時に、人は拳を振り上げ、さらには銃口を互いに向け合うのです。

さて、それではこんな私達人間はどうしたらいいのでしょうか。私達に希望はあるのでしょうか。創世記は最初の人間を造るにあたりこう書き記しています『26神はまた言われた、 「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』(創世記1章27節)。

最初に神は神のかたちに人を造りました。それは目にみえる姿かたちを表すのではなくて、神と人とが互いに知り合う、もっと言いますと、神と愛の交流ができるものとして神は人を造ったのです。そして、その時に聖書は「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と書いています。言うまでもなく、それは複数を表しています。それでは、ここに記されている「われわれ」とは誰なのでしょうか。そうです、それは父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神をあらわし、これを神学的には「三位一体の神」と呼びます。すなわち、キリストは神であられ、天地創造の前からイエス・キリストは父なる神、聖霊と共にあったということです。そのことをイエスの愛弟子であったヨハネは書き残しています。

『1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は初めに神と共にあった。3すべてのものは、これによってできた。 できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった』(ヨハネ1章1節-5節)。

 ヨハネはここに記されている「言葉」を「イエス・キリスト」として、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)と記すことにより、人としてこの世界に来られた栄光と恵みとまことに満ちていたイエスについて語っています。そして、ヨハネは一節で言うのです「ことばは神と共にあった」と。そのことを強調するかのように二節で再び「この言葉は初めに神と共にあった」と言うのです。彼はこの言葉によって先ほどの創世記が示すところの「われわれ」をあらわしているのです。

さて、ここでイエス様が十字架で叫ばれた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(ルカ23章34節)という言葉にもう一度、注目したいのです。

一体この言葉は何を意味するのでしょうか。神の子であられるイエス様は神から捨てられたのでしょうか。既にお話ししましたように聖書の神は三位一体の神です。三つにして一つ、一つにして三つの神であり、天地創造以前からイエス様と父なる神はまさしく一つの神であったのです。しかし、イエス・キリストが自ら背負った十字架におかかりになった時、父なる神は瞬時にイエスを十字架から救うことができるにもかかわらず、極刑により死んでいくイエスから御顔をそむけ、イエスに対する裁きゆえに、辺りは闇に包まれたのです。

すなわち、それまで初めから父なる神,子なる神として一つでありましたその関係が絶たれたのです。そのことをイエスは「私をお見捨てになられたのですか」という叫びで言い表したのです。言い方を変えますのなら、「私をあなたから引き離されるのですか」という叫びです。

皆さん、私達は見も知らない人から何かしらの仕打ちを受けても、それはなんとかなります。しかし、その仕打ちが何十年も共に暮らして信頼しきってきた家族であったり伴侶であった時の痛みは計り知れません。イエス様が十字架上で受けたものは、永遠の昔から一つであった父なる神から捨てられること、すなわち引き離されるということでした。イエス様がなぜ、ここにいたる前にゲッセマネの園で血の滴るような汗をかいて、「できることなら、この杯をわたしかた取り除けてください」とまで祈られたのか、その意味がここにきてよく分かるのです。

そして、私達はそのようなイエス様のお気持ちと同時に父なる神の心にも思いを向けるのです。そう、我が子を捨てる、引き離すということをなされた神のお心です。愛する幼い我が子が高熱を出して、フーフーいいながらベッドに横たわっておれば、親なら代わってやりたいと思います。骨折をしてしまい、その状態でイマージェンシーに駆け込み、痛みをこらえている子と何時間も名前が呼ばれるまで、そこで痛さをこらえて待ち続けている子を見れば代わってやりたいと思います。そうであるのなら、罪のない我が子が目の前でなぶり殺しにされていくのを黙認できる親がどこにいますか。子に剣が向けられるのなら、その子の前に立ちはだかるのが親でありましょう。父なる神が我が子になさったことは、その子が面前で死んでいくのをよしとしたということです。

なぜ、イエスはそれまでの父なる神との関係を断絶し、捨てられたのでしょうか。それは、このお方が人類の罪を全て、それを身に全て受けられたからです。人類などというと私達と無関係のように思われるかもしれません。そうです、イエス様は私達一人一人が本来、その罪ゆえに神からの裁きを受け、断絶されなければならなかった、その罪を一切、御身に背負い、その裁きを私達に代わり、受けてくださったのです。皆さん、申し上げておきますが、私達人間にとりまして本当の恐怖は原発でも、不慮の事故でも、不治の病でもありません。私達が完全に神と全く断絶をした時、そのことこそが人間にとって最大の恐れなのです。

もしかしたら、皆さんの中に捨てられる痛みというものを経験した方がいるかもしれません。この痛みははかりしれないでしょう。この傷を癒すことは大変なことでしょう。そして、もし、この傷を癒すことができる方がいるとしたら、その人はあなたのために自ら捨てられたという経験を持っている方でありましょう。

イエスと同じ時期に生まれたバプテスマのヨハネはイエスの宣教の先駆けとなり、その道を備えました。そのヨハネはかつて自分のところに来られるイエス様を見て、こう呼んだのです見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1章29節)。言うまでもない、彼はこの言葉をもって、彼の祖先達がその昔、小羊の血により救われたことを意識し、このイエスこそが私達の罪を取り除くために、犠牲として捧げられる神の小羊なのだと言ったのです。

かつてキリスト教徒の迫害者であったパウロは回心し、神について、イエスについて的確な言葉を書き残しました神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである(Ⅱコリント5章21節)。

イエスの弟子のひとりであり、おそらく一番、深くイエスと関わりを持ったでありましょうペテロもはっきりとイエスの十字架がどんなものであったかを書き記しています。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである』(Ⅰペテロ2章24節)

私達は誰しも心のどこかに何かしらの罪をもって生きています。足の裏に切り傷があればそれをかばうために、歩き方が変わりますでしょう。右手の指が骨折していれば左手をもっと使いますでしょう。腰痛があれば、自然と姿勢も歩き方もぎこちなくなるでしょう。同じように私達のその罪は私達の生き方をぎこちないものとし、私達の言動をも捻じ曲げていきます。

われわれのかたちに私達人を造られたということは、私達が今日、お話しました神の驚くべき愛を受け入れることができる存在として、そもそも造られているということです。そして、このキリストの十字架の愛を私達が受け入れる時に、私達の人生が根本から変わるのです。すなわち、私達の罪がイエスの愛によって赦されたということになりますと、私達の本当の人生が始まるのです。そして、その人生を歩き始めた時に、ある衝撃的な事実に直面するのです。かつてキリストの迫害者であったパウロも、そのことに気がついたのです。そして、彼の人生は変わったのです。彼は書いています。

『19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい』(Ⅰコリント6章20節)

そうです、イエス様が父なる神に捨てられるという断絶を通り、私達が受けるべき罪の裁きを受けてくださったということ、その命の代価によって私達が買い取られたものであるということを知る時に、私達は自分に残された人生を何に注ぎ込むのかということを明確にされるのです。

そうです、それはもはや私達は自分自身のものではなく、私達キリストの命によって買い取られた者であるということ、ゆえに、私達の本分は自分のからだをもって神の栄光をあらわしていくということなのです。そして、それは神が人に願われる、人間、本来の生き方であり、そこに私達を置く時に、私達は生きていく喜びと希望をそこに見出すのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり

2015年10月4日

1)マタイ27章45節-46節を読みましょう。あなたは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの言葉からまず何を思いますか。イエスはこの時、どんな気持ちでいたのでしょうか。

 

2)この時になぜ全地が闇に包まれたのでしょうか。このような自然の超常現象をあなたはどう受け止めますか。聖書における闇の意味は何でしょうか。

 

3)なぜ神の裁きがイエスの上に下されたのですか。

 

4)イエス様が息を引き取られたのが午後三時であったということは何を意味しますか。イエスはなぜ「神の子羊」と呼ばれたのでしょうか。

5)ヤコブ2章7節ー11節を読みましょう。この言葉は自分には当てはまらないという方はいるでしょうか。なぜ私達は舌を制することができないのですか。

6)創世記1章26節‐27節、ヨハネ1章1節‐5節を読みましょう。これらの言葉は何を語っていますか。これらを踏まえて、イエス・キリストが神に捨てられるということは何を意味しますか。

7)イエスが神に捨てられらということは、私達とは無関係ですか。この真理を知る時に私達の人生はどのように変わりますか。 Ⅰコリント6章20節を心に刻みましょう。

 

Words of the cross. #4

For whom was Jesus forsaken?

October 4, 2015

When Jesus Christ was being crucified, he spoke 7 times. The first three times, he spoke for other people, while he spoke four more times and they were related to Jesus himself.

His first words Father, forgive them, for they do not know what they are doing” (Luke 23:34) were words pleading that the people who had driven Jesus to the cross be forgiven; Secondly, Jesus said: Truly I tell you, today you will be with me in paradise” (Luke 23:43). This was aimed at a criminal being executed on the cross with him. And on last Sunday, we learned the third words of Jesus. Jesus said to his mother Woman, here is your son” (John 19:26) and Jesus also said to his disciple Here is your mother” (John 19:27).

Jesus first prayed that those who had driven him to the cross be forgiven; then he told a criminal being executed with him that he would be in paradise with Jesus; and finally, talked to his mother Mary so that she would be well taken care of. This morning, we study the fourth words of Jesus. Here, for the first time, he spoke in a loud voice for himself

45 From noon until three in the afternoon darkness came over all the land.46 About three in the afternoon Jesus cried out in a loud voice, “Eli, Eli, lemasabachthani?” (which means “My God, my God, why have you forsaken me?”). (Matthew 27:45-46).

Jesus was hoisted to the cross around 9 in the morning and was on the cross for 6 hours until 3 in the afternoon. That was when Jesus cried out: “Eli, Eli, lemasabachthani?” This meant “My God, My God, why have you forsaken me?”

Here, it is written that “From noon until three in the afternoon darkness came over all the land” (45). Darkness was a natural phenomenon recorded often in the Bible. The Exodus recorded that darkness covered the land of Egypt; and the Revelation foretells about the darkness that would come at the end of the world. Both of these signify the judgment by God. The darkness that came upon the land when Jesus was crucified also indicated the judgment of God.

There was a Greek historian by the name of Phlegon who was born soon after the crucifixion of Jesus. The specialty of Phlegon was the history of the Olympic Games. He wrote a 16-volume book called “The Olympiads” covering the Olympic games from the first to 229th games. And this book contains a passage about the 202nd Olympics which reads:

“In the 4th year of the 202nd Olympiad, there was a great eclipse of the Sun, greater than had ever been known before, for at the sixth hour the day was changed into night, and the stars were seen in the heavens. An earthquake occurred in Bythinia and overthrew a great part of the city of Nicæa.” [http://www.textexcavation.com/phlegontestimonium.html: The Olympiads, Phlegon]

About the timing of the crucifixion of Jesus, there are many speculations. But, it is considered to have taken place around 33 AD. The first Olympic Games took place in 776 BC, and games were held every four years since then just like today. So, the 202nd games were held on 33 AD. Further, the Bible says that a great earthquake happened when Jesus passed away. So, this historical record by a Greek layman Phlegon about the “darkness” and “earthquake” seems to match the events that were recorded in the Bible around the time of the death of Jesus Christ.

Although Phlegon mentioned “eclipse of the Sun”, it was not a naturel solar eclipse that we are familiar with. The reason why it was not a natural solar eclipse is that the crucifixion of Jesus happened during the time of Passover which was a time of full moon. A solar eclipse cannot happen when the moon is full. Further, a solar eclipse usually lasts only several minutes. But, this darkness lasted for many hours. In other words, the almighty God who rules the heaven and earth caused the darkness as a manifestation of his judgment.

Another point to note is that 3 in the afternoon when Jesus died was a time of afternoon offering. Why am I talking about the offering? As I said, this crucifixion took place during the annual festival of Passover, one of the most important festivals for Jewish people. Jewish people throughout the world still observe this Passover each year.

This festival commemorates an event that took place around 1500 years prior to this time. As is recorded in the Exodus, Jewish people smeared their doorframes with the blood of a lamb on the night before leaving Egypt so that they were spared the judgment of God. The Passover commemorates the sacrifice of the life of a lamb that saved the lives of the Jewish people.

The sacrifice is offered around 3 in the afternoon, and Jesus died at that time also. To summarize, Jesus died when the whole earth was covered by the darkness of the judgment of God. And, just as a lamb was sacrificed to offer the blood to smear the doorframes, Jesus died on the cross to offer his blood to pay for the sins of us. Jesus accepted the punishment for our sins to save us. This is the story that the Bible has been conveying to us over thousands of years.

This might upset some people. They might say Christianity is too bloody, violent and cruel. These people might prefer a god who is mild, gentle, and always smiling. They want a god who would cure people, be kind, and condone deeds of people without any punishment. They want a god who says “OK. OK” all the time.

But, there are so many things that take place around us all the time. We cannot condone or ignore them all the time. These are serious problems. There are many problems happening around us in this world that originated from our sins. We are all affected by these problems. These problems break up our marriages, parents-children relationships, cause local and national conflicts, and take away many innocent lives. When we face these problems first hand, we realize that these are grave matters since they tear up our hearts and they destroy so many lives. I am sure our God knows about such situations first hand. We would be disappointed and heart-broken if our God condones them and says “Oh, it’s OK. Everything is OK.”

The origin of these problems dates all the way back to the days of Adam and Eve recorded in Genesis. They were allowed to eat all of the fruits in the Garden of Eden that God had provided them. But, God specifically told them not to eat the fruit from one tree growing at the center of the garden. They were provided more than sufficiently. They did not have to eat the fruit from that tree. But the cunning snake (Satan) whispers to them: “For God knows that when you eat from it your eyes will be opened, and you will be like God, knowing good and evil.”(Genesis 3:5). They could not resist the temptation and ate the forbidden fruits. Ever since, they are ashamed of themselves. They tried to hide their face from God; they were afraid of God, and they are driven out of the garden. They had to give up the place God had provided them and they scattered to all corners of the world. And, we are the descendants of them.

So, when we look at the world today, we realize that all of the problems around us is caused by one thing. Adam and Eve thought that if they ate the fruit, they would become like God. They forgot their place and desired to be more – to be like God. The desire to be like God is a desire to advance one’s own desire. This desire to enhance our ego resides within us. So, the core of the problem is our mistaken desire to be like God, to be all-mighty like God. This leads to an ego-centric desire. All of the problems we see around us in this world are caused by such ego-centric desire and the conflicts of colliding egos among people.

Ever since the days of Genesis, we human have walked the history driven by our egos which we cannot control. We are not exceptions. We have been making the same mistake throughout 3000 and 4000 years of our recorded history. This tells us that we are powerless against the power of the sins within us.

There are many ways to express our thoughts. The most obvious way is through our words we speak. Our ego manifests itself most often through our words coming out of our mouth. The book of James writes:

All kinds of animals, birds, reptiles and sea creatures are being tamed and have been tamed by mankind, but no human being can tame the tongue. It is a restless evil, full of deadly poison. With the tongue we praise our Lord and Father, and with it we curse human beings, who have been made in God’s likeness. 10 Out of the same mouth come praise and cursing. My brothers and sisters, this should not be. 11 Can both fresh water and salt water flow from the same spring? (James 3:7-11).

We are technically advanced. We can stop a vast amount of rushing water. We can stop virus from spreading out of control. But, we cannot control the words we speak to our loved ones at home. And, those who receive our words are not able to control their words, either. That is why we have family conflicts. This could easily escalate into fist-fights, violence, and even gun fights.

Then, what are we to do? Is there any hope for us human being? Genesis tells us how human beings were created at the beginning: 26 Then God said, “Let us make mankind in our image, in our likeness, so that they may rule over the fish in the sea and the birds in the sky, over the livestock and all the wild animals, and over all the creatures that move along the ground.” 27 So God created mankind in his own image, in the image of God he created them; male and female he created them.(Genesis 1:26-27).

 God made mankind in the image of God. This was not about physical appearance. God created us so that we can relate to God closely. Please note here that the Bible said God made mankind in their image. This used a plural form. Then what was this plural form referring to? The Bible used a plural form since it was talking about God the Father, Christ the son of God, and the Holy Spirit. This is what the Trinity means. This also means that Christ is God, and that Jesus Christ was with God, the father, and with the Holy Spirit from the time of creation. John, one of the disciples of Jesus wrote:

1In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was with God in the beginning. Through him all things were made; without him nothing was made that has been made. In him was life, and that life was the light of all mankind. The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome it. (John 1:1-5).

Here John said the “word” when he was talking about Jesus Christ. John said: ”The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the one and only Son, who came from the Father, full of grace and truth.”(John 1:14). John was talking about Jesus who came this world with glory and grace. John said “the word was with God” and also said “He was with God in the beginning.” This also confirms the idea that the God is in a plural form as I explained.

Now, let us go back to study the words that Jesus cried out on the cross: “My God, my God, why have you forsaken me?” (Matthew 27: 46)

What do these words mean? Was Jesus, the son of God, being abandoned by God? As I said earlier the God of the Bible is the God of Trinity. Three as one. And one as three. From the days of the creation of heaven and earth, Jesus and the father were inseparable. But, when Jesus Christ was dying on the cross, the Father God, who could have easily saved Jesus, turned away from Jesus and did not save him. And when Jesus died on the cross because of the judgment of God, the world was covered in darkness.

At that very moment, the relationship between Father God and the Son of God was shuttered. That is why Jesus cried out “Why have you forsaken me?”

Sometimes, strangers treat us badly. But, we could endure that. But, we would have a hard time taking such treatment if it came from a member of the family with whom we have lived for many decades together. Jesus had been one with his Father God ever since the beginning of time. Jesus was being abandoned from that God. Now, we can understand why Jesus prayed in the Garden of Gethsemanes with sweat of blood pleading to God to remove the cup from him if it was possible.

As we understand what Jesus was going through, we can see what was going on in the heart of God the Father. He was abandoning the loved son. He was forsaking him. If a loved child is lying in bed burning up from fever, any parent would be willing to change places with him. Similarly, if your child had broken his bone and you took him to the emergency room and are forced to wait with your child there for hours until his name is called, you would want to swap places with him. If your child is being slaughtered in front of your eyes, can you control your emotion and just watch him suffer? If a gun is pointed at a child, the parent would step in front of the gun to protect the child. But, what this Father God did was to watch his son die in front of his own eyes doing nothing to stop it.

Why did Jesus severe the relationship with Father God, and allowed himself to be abandoned? The reason is that Jesus knew that he had to do it to receive the punishment of sins of all mankind. To speak about the mankind sounds like it has nothing to do with each of us. But Jesus had to receive judgment on behalf of each of us. He was punished for our sins. For that, he had to be separated from God and die a lonely death, bearing all of the punishment that are meant to be ours. Let me point out that the greatest fear for us is not the nuclear bombs, accidental death, or incurable disease. The greatest fear is that we should be separated completely from our God.

Perhaps some among you have suffered the pain of being abandoned by a loved one. The pain must have been unbearable. It would be difficult to cure the wound from it. If there is someone who can cure such wound, it would be someone who had experienced the pain of being abandoned first hand.

John the Baptist who was born around the same time as Jesus was sent to prepare the way for Jesus. When this John saw Jesus approaching him said: “Look, the Lamb of God, who takes away the sin of the world!” (John 1:29). John remembered that the blood of a lamb had saved his ancestors long time ago, and John said that this Jesus was the sacrificial lamb that would be offered to save us from our sins.

Paul used to persecute Christians. When he was converted, he wrote these words about Jesus: ”God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.” (II Corinthians 5:21)

One of the disciples of Jesus, the one who had been closest to Jesus, namely Peter, also wrote about the cross of Jesus in this way: “He himself bore our sins in his body on the cross, so that we might die to sins and live for righteousness; by his wounds you have been healed.” (I Peter 2:24).

All of us harbor sins in our hearts in some form. If we have a cut wound on the sole of our foot, we walk differently. If a finger on our right hand is broken, we would use our left hand more to make up for it. If we have a back pain, this would naturally change our posture and stride. In a similar way, our sins are impacting our way of life and have influenced the way we speak and behave.

God created us in the form similar to God. We were created to be close to God and are capable of receiving the love of God. When we receive the love of Jesus Christ and his cross, our life would change fundamentally. When we realize that our sins have been forgiven through the love of Jesus, we can start a brand new life. And, when we start a new life, we face a shocking reality. Paul who used to persecute Christians also faced this reality. This would change his life completely. Paul wrote:

19 Do you not know that your bodies are temples of the Holy Spirit, who is in you, whom you have received from God? You are not your own; 20 you were bought at a price. Therefore honor God with your bodies. (I Corinthians 6:20)

 When we realize that Jesus had to endure the gut-wrenching pain of being abandoned by God to accept the punishment for us, and that we have been redeemed with the blood and life of Jesus, we begin to realize to see our life in a different light.

We realize that our bodies are not our own any longer. We were bought at a price paid by the life of Jesus Christ. And we must therefore honor God with our bodies and our life. This in fact is the way God wanted us to live. When we begin to live that way, we will find the true joy and happiness in our life.

Let us pray.

Translated by Dr. Yasuhisa Hosomatsu

2 thoughts on “捨てられたのは誰のためか?

  1. ハレルヤ!今日は、十字架を見上げる信仰の原点に戻りました。ライブのメッセージではなく、噛み締めながら読めたことにも感謝です!

  2. このようなかたちでメッセージを読んでくださっていますこと、主にハレルヤ!です。また近いうちに、共に礼拝を捧げる日がきますことを信じ、お祈りしています。

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