敵の前に備えられた宴

tableinthewilderness主は「道が遠くて耐えられないでしょう。心も体もまいってしまうでしょう。だから私は今、あなたが敵の前にいたとしても、その前であなたが食べることができるように、十二分に栄養を得て、力を取り戻すことができるような食事を備えておきましたよ。さぁ、元気を出して食べなさい」と私達に言われます。

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『敵の前に備えられた宴』
2016年8月15日

礼拝プログラムに書きましたように、今日からカップヌードル・フェローシップを始めます。いったいカップヌードル・フェローシップとは何でしょうか。私がまだ神学生の時に毎日曜日、東京の市ヶ谷にあります韓国人教会に一年間、訓練のために遣わされていたことがあります。子供の日曜学校から始まって、礼拝があり、その後も色々なミーティングあり、目まぐるしい日曜日だったのですが、その教会では毎週、ランチタイムに教会スタッフに「辛(しん)ラーメン(韓国のカップラーメン)」が配られるのです。朝から動き回り、空腹となったお腹に、お湯を注ぎ、フーフーと汗をかきながら食べる時間が待ち遠しく、またスタッフ同士でホッとしながら過ごす束の間の時を今でも忘れられないのです。このことを最近、思い起こし、教会のランチは必ずしも時間をかけて準備しなければならないものではないとハッと思ったのです。

今年度の私達の教会標語は「友情を育む」です。多くの方達は毎日、とてもお忙しい日々をお過ごしでしょう。ウィークディーに教会の兄弟姉妹と会うことが難しいという方もいらっしゃることでしょう。礼拝後の様子を見ておりますと、時にその様は楽天市場のような光景であり、ある方を呼び止めてパーキングに行き、庭でとれたものをお渡しになったり、DVDの束が目の前を行きかったりと、とても活気があります。一週間で積もった話もありますでしょう、中には共に語り合い、祈りあっている姿をお見受けすることも多々あります。

私は基本的に皆さんに日曜日はなるべく早く家に帰って家族との時間を大切にしてくださるようにと願っています。しかし、時にはもう少し、「この人の話を聞きたい」、「話を聞いてもらいたい」、「祈りあいたい」、「学びたい」ということもあるでしょう。ランチに行くといっても、また場所を変えてというのも面倒だということもありますでしょう。そんな時にこのカップラーメンを気軽に用いていただけたらと思うのです。そのようにして互いの主にある友情を育んでいただきたいと願うのです。

このためにこの度はマルちゃんの「緑のたぬき」と「赤いきつね」を用意しています。この世界には「たぬき派」と「きつね派」という分派があるのを承知しています(ちなみに私は「たぬき派」ですが、きつねのジューシーな油揚げも捨てがたいと思っています)。無料で提供ということになりますと歯止めがきかなくなりますので、もともとの値段にちかく、提供できたらと願っております。希望なさる方はどうかお声をおかけください。さて、それでは今日も詩篇23篇を見てまいりましょう。

1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう(詩篇23篇1節-6節)。

今日はこの中の『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設けます』という言葉に注目したく願っております。そこには牧者なる主と羊なる私達の姿が描かれています。その牧者なる主に対してダビデは言うのです「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設けます」。

この度のサバティカルの間に読んだ本の中に「国土が日本人の謎を解く」(大石久和著 産経新聞社)という書があります。その書には世界の多くの国々は隣国と地続きであるために、他民族の侵略というものを繰り返してきた長い歴史があり、そのために失われた人命というのはおびただしい数になるというのです。それらの国々と比べてみます時に、日本は四方が海で囲まれておりますので、他民族の侵略とか大量虐殺というものを免れることができ、日本人にとりまして多くの人命が失われる出来事は、その時々に起きる大きな自然災害だったのです。この違いは大きく、この本を読みながら「銃の規制」とか「戦争」ということについて、日本人の思いと世界各国の思いとに隔たりが今あるとするのなら、それは各々の過去の歴史をさかのぼって紐解いていかなければ、私達はお互いを理解することができないかもしれないと思わされました。今の私達の思想とか価値観というのはとかく過去の経験とか歴史によって生み出されているものです。

ダビデの生涯はまさしく敵に囲まれる生涯でした。隣接する他民族からの侵略や略奪の危機が常につきまとう時代でした。宿敵が山の向こうにいて、自分達の出方をうかがっている、自分の首を狙うべく使者が送られてくるというようなことがイスラエルの王であり、武将であったダビデの日常でありました。その現実は非常に緊張感のともなうもので、もし彼がその敵に敗北するのなら、イスラエルの民、全てが殺されてしまうというような状況に彼はおかれていたのです。そんなダビデが『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設けます』という詩を作ったということを私達は忘れてはなりません。

と言いましても、この時代に米国に住んでおります私達にとりまして「敵」というのはダビデが言うところの敵とは異なりますでしょう。もちろん国と国ということになりますと、ある国を敵対国家と定めて、銃口を向き合わさなければならないということもあります。しかし、一般的に「私」という一個人の命を狙うべく、そのチャンスをうかがっているという敵は私達の回りにはそう滅多にはいません。

しかし、この社会で私達は複雑な人間関係の只中にあり、その中では騙されたり、脅されたりしなければならないことがあり、明らかに敵意をもって私達を攻撃してくる人がいるということなら十分ありうることです。この詩篇の言葉をさらに広げて解釈して「敵」というものを「自分を悩ます諸問題」とするのなら、さらに私達には思い当たるものが見えてきますでしょう。主はそのような状況の中にありながらも私達のために宴を設けてくださるというのです。

先週、お話ししましたようにダビデの息子、アブサロムが父ダビデに反旗をひるがえし、追われるようにしてダビデが都落ちした時、メピボセテの僕によって大量の食事がダビデに提供されました(サムエル記下16章1節-2節)。さらにダビデが窮地に陥った時、彼はアンモン人により、豪勢な食事が提供されました(サムエル記下17章27節-29節)。

このことは実際にダビデが敵に追われているる時に起きたことで(我が子を敵と呼ばなければならないことは辛いことですが)、今でならそれが逃亡先であっても、その土地にあるレストランにでも入れば食をとることができたでしょうが、当時、食事一つとってもそれを取ることは難しいことであったに違いありません。ダビデが与えられた食事は確かに人を介して彼に提供されたものですが、ダビデはそれを神様が敵の前で自分のために備えてくれた宴なのだと信仰をもって受け止めたのです。

思えばこれはダビデだけに神様がなされたことではなくて、さかのぼることエジプトを脱出したイスラエルの民は行く先々で色々な困難に向き合い、他民族の脅威と戦わなければならない時がありましたが、神様は朝ごとに彼らが食べるマナを備えてくださったと聖書は記録しています。

預言者エリヤはバアルの神々との戦いに勝利した後、アハブの妻、イゼベルから殺戮の予告を受け、恐れます。力を失います。そして彼は荒野へと逃げます。そうです、エリヤは彼らとの戦いに勝利したのですが、その脅迫に全く意気消沈してしまい、神に訴えるのです「主よ、もはやじゅうぶんです。今わたしの命を取ってください」(列王記上19章4節)と。そこまで彼は追い詰められていました。主はそんな彼に何をしたのでしょうか。神様はその時、御使いを彼のもとに送りました。

5彼(エリヤ)はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、6起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。7主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。8彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた(列王記上19章5節-8節)。

エリヤを殺めることを誓う敵の前に、疲労困憊して眠っているで彼に神様から遣わされた御使いは言いました「起きて食べなさい」。エリヤが起きてみると彼の頭の傍には焼け石の上で焼いたパン一個、そして一びんの水がありました。今日でいうならカリッと焼けたトーストと出来立てのコーヒーが枕元に置かれていたということになりますでしょう。彼はそれを食べ、そしてまた眠りました。しばらくの時が立ったのでしょう、御使いは再び彼のもとに来て言いました。「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。そうです、「もう、限界だ、私は死にたい、殺してくれ」と願うほどに追い詰められていたエリヤは主が敵の前で彼のために備えたものを十二分にいただき、新たなる力を得たのです。

主にある皆さん、このエリヤの出来事を読みながら思ったのです。私達も確かに敵と向き合うような時、もう越えられないだろう思われるような問題と直面することが人生にはあります。恐れと不安が私達の心を支配してしまう時です。それこそ、エリヤのように「もう十分だ。このまま死んでしまったほうがいい」なんて思いが心をよぎるような時もあるかもしれない。しかし、私達はそんな人生の危機も必ず乗り越えることができます。心身追い詰められていたエリヤは眠り、そして神様が彼のために備えられたものを食し、そして再び立ちあがったのです。

主は「道が遠くて耐えられないでしょう。心も体もまいってしまうでしょう。だから私は今、あなたが敵の前にいたとしても、その前であなたが食べることができるように、十二分に栄養を得て、力を取り戻すことができるような食事を備えておきましたよ。さぁ、元気を出して食べなさい」と言われるのです。

私達が羊を見ます時に、どう考えても彼らが野獣から自ら身を守るべきものは備えていないことが分かります。野獣は隙があれば、羊に襲いかかるでしょう。しかし、そうであっても彼らは食を取らなければ、休息をとらなければ弱ってしまいます。そんな彼らが敵からの攻撃の餌食になることから守られるとしたら、安心して敵の前に伏し、牧草にありつけることができるとしたら、それはただ一つ、彼らと共にいる羊飼いの存在以外にありません。羊飼いが彼らと共にいるのなら、羊を見守っているなら、羊のために食を備えてくれるのなら、彼らはたとえ敵の前でも食することができるのです。私たちも恐れや不安にさいなまされることがある。しかし、自分の側にいて下さるお方が誰かを知る時に、そのお方が提供してくれる命の糧、魂の糧をいただくことができるのです。

ユダヤ人にとりまして共に食卓に着くということは最高の親密さを表しました。それは今でもそうです。食事に招いて、食事を備えて、食卓を共にするということは、その相手に対する最大級の好意を意味しました。皆さんご存知のように、聖書の中でイエス様は度々、誰かと食事をしています。ある時はそれが罪人や遊女であったり、ある時は弟子達と親しくイエス様は食事を共にされたのです。イエス様と同席した者達はきっとその食事を楽しんだことでしょう。彼らの体は養われたでしょう。しかし、同時に彼らはイエス様の語る言葉に養われたのです。主は心の糧を彼らに十二分にお与えになったのです。彼らが再びその食卓を立ち上がる時、彼らは明らかにイエス様と共に席についた時とは異なる思いと決意でそこを立ち上がったことでしょう。主は今も24/7、私達にそのような宴を備え、私達を招いてくださっているのです。

エリアがイゼベルという恐るべき敵を前にしていた時に、神様はそのイゼベルをエリヤのもとから除かれるということはなさいませんでした。もちろん、それが可能であってもです。そうではなく、神様はたとえエリアの前にイゼベルという邪悪な人間がいたとしても、自らの前で食を彼のために備えて、彼を再び建ちあがらせたのです。

先週のお話を覚えておりますか。神の愛は「母の愛」、そして「父の愛」を凌駕するものであり、その「父なる愛」には私達に「要求をなさる愛」が込められているということを。母の愛は我が子を悩まし、苦しめる敵を我が子の前からとりさろうとしますでしょう。しかし、父の愛はそれを乗り越えていくことを子に求めるのです。ただし、父はそのために子を一人にはしません。父も子と共にあり、その子の必要な力と知恵を与え、その子がその敵を克服していくことを願うのです。なぜなら、それらを乗り超えるところに大きな収穫があるからです。

主にある皆さん、我々はこの主の備えたもう食卓についているでしょうか。私達が敵の前に立たざるをえない時、私達は主の備えたもう食をもって自らを力づけているでしょうか。なぜ、こんなことを皆さんにたずねるのでしょうか。イエス様はかつてこんなたとえ話をされました。

16「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。17晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。18ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。19ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、20もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。21僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。22僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。23主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。24あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」(ルカ14章16節-24節)。

食が喉を通らないほどの大きな問題にぶち当たっている、もう前にも進めず、後ろにも退くことが出来ない、驚くべきことに、そんな時に私達は主が備えておられるものをも拒む可能性があるのです。「いくらなんでも、そんなことはしないだろう」と私達は思うかもしれません。しかし、実際どうでしょうか、事が起きた時、問題と敵対した時、打ちのめされてしまいそうな時、私達はまず主が私達のために備えたもう食卓につくことをしていますでしょうか。いいえ、「あの対策をしよう」「あの人に電話しよう」と主が備えたもう、主イエスが座っておられるその宴卓に座ることなく、その前を忙しなく行き来します。私達はまず何よりも主の前に、主が語りかけてくださる主の御言葉に耳を向け、その糧をいただくべき者でありますのに、私達は主の招きにこたえようとしないのです。

落穂にも書きましたように、日本で最初にカップラーメンが売り出された時、そのラーメンが日本に定着した一つのきっかけとなりましたことは浅間山荘事件でした。立てこもる赤軍と対峙した機動隊員が真冬の長野県で、白い湯気を出しながらすすったカップラーメンが彼らを心身ともに支えたのです。底冷えするような夜、彼らに提供されたカップラーメンはどんなに彼らの体を温め、彼らの心をもう一度、敵に向かわしめる力となったことでしょうか。

たとえ私達の目の前に敵が立ちはだかったとしても、私達は主の備えたもう食卓にまずつきましょう。そこで主に祈りましょう。主が聖書の言葉を通して語りかけてくる霊の糧をいただきましょう。

私達は新しい一週間、ここから出ていきます。もしかしたら心の中にこの週の間に対峙しなければならない、今週、私達を悩ますであろう人の顔が思い浮かんでいる方がいるかもしれません。主が私達に語りかけます。「恐れるな、私はあなたの敵の前であなたのために宴をもうけているから。来て、私と共に食べなさい。道が遠くて耐えられないだろうから」。

私達はこんな恵みをも主からいただいています。すなわち、私達の信仰の友と共に主の備えたもう宴に座り、互いの思いを分かち合い、共に祈り合い、励ましあって、この主の宮から戦いの前線に出ていくことができるということです。モーセを、ダビデを、エリヤをその敵の前で力づけた主が私達と共におります。さぁ、ここから出ていきましょう。お祈りしましょう。

A Feast in the Presence of Our Enemies
August 14, 2016

As mentioned in today’s program, we will start a thing called the “cup noodle fellowship”. You may be wondering what this cup noodle fellowship is about. When I was still a student at seminary, I was sent to intern at a Korean church in Ichigaya, Tokyo. The day began with Sunday school, then we had our worship service, and various meetings followed afterwards making it a hectic day, but every Sunday during lunchtime each staff member received a cup of instant ramen. I can still remember how after a busy morning, I couldn’t wait to pour that hot water and eat ramen with the other staff. Recently as I was reminiscing over those days, it dawned on me that perhaps we don’t always have to take so much time and preparation just to enjoy lunch at church.

This church’s slogan for the year is “To Cultivate Friendship”. Many of you are living on a busy schedule. You may find it difficult to meet with a friend from church during the weekdays. I am reminded of this when after service, I would see a church member calling out to someone in the parking lot to give them some fresh produce from their backyard, while another person is seen carrying a stack of borrowed DVD’s, and the church seems like a lively marketplace. We talk to each other after service about what happened over the week and I would often see people praying together.

For most Sundays, I would like you to go home as early as possible so you can spend time with your family. But there are times when we want to stay a little longer so we can talk to someone, pray together, or spend time in the Word. And sometimes it’s a hassle to change location just to have lunch together. So if you find yourself wanting to hang out a little longer, get yourself some cup ramen. I hope this will enable us to spend more time in cultivating our friendship with our brothers and sisters in Christ.

For this new fellowship we bought some Maruchan brand “Midori no Tanuki” and “Akai Kitsune” noodles. I’m aware that there are two kinds of people in this world, those who favor the Tanuki noodles and those who prefer the Kitsune (Tanuki is soba with tempura, Kitsune is udon with fried tofu, Pastor Okura prefers Tanuki). Because we have a limited supply we can’t provide the noodles for free, but we are hoping to provide them for a very reasonable cost. Please let me know if you are interested. Okay now let us continue from last week and turn to Psalm 23:

The Lord is my shepherd, I lack nothing. He makes me lie down in green pastures, he leads me beside quiet waters, he refreshes my soul. He guides me along the right paths for his name’s sake. Even though I walk through the darkest valley, I will fear no evil, for you are with me; your rod and your staff, they comfort me. You prepare a table before me in the presence of my enemies. You anoint my head with oil; my cup overflows. Surely your goodness and love will follow me all the days of my life, and I will dwell in the house of the Lord forever.” (Psalm 23:1-6, NIV)

The focus of today’s message will be the words “You prepare a table before me in the presence of my enemies”. This psalm shows the relationship we have with the Lord as our shepherd and we His sheep. David says that the Lord our shepherd prepares a table before us in the presence of our enemies.

During my sabbatical I read a book on how geography shaped the mind and culture of the Japanese people. The book describes how most nations in the world are connected by land to neighboring countries, and that they have a long history of invading each other because of this, which has resulted in the loss of countless human lives. In contrast to these nations, Japan is surrounded by water and so has been protected from invasions by other countries and for the Japanese people, natural disasters were a greater threat to their existence. As I read this book, I thought of the difference between Japan and the rest of the world in their views on topics like war and gun control, and I’m beginning to think that unless our countries trace back and learn each other’s history, it would be difficult to understand one another. Our thoughts and value systems are often the product of our past experiences and the history of the cultures we belong to.

Throughout his life, David literally lived in the presence of his enemies. He lived during a time when the threat of being invaded by enemy nations was always present. As the king of Israel and the supreme commander of the military, he had to face enemies who were always looking for a chance to assassinate him and his life was constantly in danger. If he was defeated by his enemies, it would mean death for the entire nation of Israel, so the pressure he faced was enormous. We must remember these things as we read this psalm in which he says “You prepare a table before me in the presence of my enemies”.

But it is also true that for most of us, the enemies we face today are different from the enemies David faced. Of course we still have wars and our nations have to fight enemies who pose a threat to our existence. But generally speaking, most of you don’t have a specific enemy that is targeting you personally and literally trying to take your life.

At the same time, we live in a society full of complicated human relationships, in which we experience various kinds of personal attacks and deception, and there may be people in our lives who are intent on doing us harm. Also we may take the various problems that we face in life and consider them our “enemies”. And the psalm is saying that the Lord prepares a table before us even when we find ourselves in these circumstances.

As I mentioned in my last message, David’s son Absalom plotted against him and he had to flee from the capital, and it is recorded that as David was fleeing, a servant of Mephibosheth provided a large supply of food for him (2 Samuel 16:1-2). Also when Absalom and his soldiers were closing in on David, an Ammonite provided food for David and his people to eat (2 Samuel 17:27-29).

Both of these incidents occurred as David was being pursued by his enemy, and to make matters worse this enemy was his own son. If it were today he might have at least been able to find a restaurant to walk into but in those days, finding food to eat while being a fugitive must have not been easy. Although the food was given to him by human hands, David knew that it was God who prepared a table for him in the presence of his enemies.

In the Bible we find that David was not the only one who experienced this, as it is recorded that when the people of Israel escaped from Egypt and was wandering in the wilderness, where they faced threats from their enemies, God provided manna for them to eat every morning.

Also it is recorded that after the prophet Elijah fought and won against the prophets of Baal, Ahab’s wife Jezebel sent him a death threat which terrified him and made him flee into the wilderness. Though Elijah came out victorious against them, this new threat filled him with fear and discouragement, and he says to God “I have had enough, Lord…Take my life” (1 Kings 19:4). We can tell from these words that Elijah was on the edge of despair. So what did God do in response? As Elijah lay asleep under a bush, God sent him an angel:

…All at once an angel touched him and said, “Get up and eat.” He looked around, and there by his head was some bread baked over hot coals, and a jar of water. He ate and drank and then lay down again.The angel of the Lord came back a second time and touched him and said, “Get up and eat, for the journey is too much for you.” So he got up and ate and drank. Strengthened by that food, he traveled forty days and forty nights until he reached Horeb, the mountain of God.” (1 Kings 19:5-8, NIV).

As Elijah lay there exhausted and in fear, God sent an angel who told him to “Get up and eat”. He woke up to find some baked bread and a jar of water. If it were today this would probably be some hot toast and a cup of coffee. He ate the meal and again fell asleep. After a while the angel came back a second time and said “Get up and eat, for the journey is too much for you.” Though Elijah was in such a state of hopelessness that he no longer wanted to live, the Lord prepared him a meal before his enemies and Elijah was renewed and strengthened.

As I read this passage, I was reminded of how we too experience the same kind of desperation when an enemy is against us, or we face an obstacle that seems too great to overcome. Fear and anxiety fills our hearts and takes control of us. Like Elijah, sometimes we too become so overwhelmed that we feel it would be better if we were no longer alive. But even in these great trials of life, God will give us the strength to get through it. Elijah was exhausted both physically and spiritually, but after he ate the food that the Lord prepared for him and got some rest, he got back on his feet and kept going.

As we see in this passage, our God is a loving God who says to us, “The journey is too much for you, you must be exhausted physically and spiritually. Though your enemy is before you, I have prepared a table for you so that you will have more than enough strength to go on. So get up and eat.”

When we see a sheep, we can tell that it does not have any strength on its own to protect itself out in the wild. They are an easy target for wild beasts. But they still need to find food and get rest in order to live. If there is one thing that would guard them from being attacked and keep them safe as they lay down to sleep or feed on the grass in the fields, it would be to have a shepherd watching over them. If a shepherd is there to protect them and give them food, the sheep are able to eat even if they are in the presence of their enemies. There are times in our life when we are overwhelmed by fear and anxiety. But if we know that the shepherd is by our side, we can go to Him and receive the food that will nourish our souls and fill us with peace.

For the Jewish people, sharing a meal with someone has been the greatest expression of fellowship and this holds true even today. By inviting someone for a meal, preparing the food, and eating that food together, they showed their guest how much that person meant to them. As you know, the Bible records many instances where Jesus is sharing a meal with someone. He ate with tax collectors and prostitutes, and He often shared a meal with His disciples. We can imagine how excited they were to share a meal with Jesus. The food nourished their bodies, but they were also nourished by the words Jesus spoke to them. Jesus gave them plenty of spiritual food for their hungry souls. When they got up from the table, they must have noticed a change in their hearts from when they first sat down to eat. And today, the Lord has a table prepared for us 24/7 and is inviting us to sit down to eat with Him.

When Elijah had to face his enemy Jezebel, God did not choose to remove Jezebel away from Elijah. Of course, it would have been easy for God to do so. But instead, God provided Elijah food to strengthen him before his wicked enemy and helped him get back up again.

If you remember from last week, I spoke on how the characteristics of both a mother’s love and a father’s love can be found inside the supreme love of God, and one of the characteristics of a father’s love is the desire for a child to accomplish a goal. A mother’s love may try to take remove any enemy that troubles or causes pain for a child. But a father’s love expects and hopes that a child will overcome this enemy. But the father does not leave his child alone. He is always there for the child, and gives the child strength and wisdom to conquer the enemy. This is because the father knows that there is a greater reward that can only be won by overcoming the enemy.

Dear brothers and sisters, are we seated at the table that the Lord has prepared for us? When we have to face our enemies, are we strengthened by the food the Lord gives us? You may be wondering why I asked these questions. Jesus once told the following parable:

16… “A certain man was preparing a great banquet and invited many guests. 17 At the time of the banquet he sent his servant to tell those who had been invited, ‘Come, for everything is now ready.’18 “But they all alike began to make excuses. The first said, ‘I have just bought a field, and I must go and see it. Please excuse me.’“Another said, ‘I have just bought five yoke of oxen, and I’m on my way to try them out. Please excuse me.’ “Still another said, ‘I just got married, so I can’t come.’“The servant came back and reported this to his master. Then the owner of the house became angry and ordered his servant, ‘Go out quickly into the streets and alleys of the town and bring in the poor, the crippled, the blind and the lame.’22 “‘Sir,’ the servant said, ‘what you ordered has been done, but there is still room.’“Then the master told his servant, ‘Go out to the roads and country lanes and compel them to come in, so that my house will be full. 24 I tell you, not one of those who were invited will get a taste of my banquet.’”” (Luke 14:16-24, NIV)

Ironically, when we are facing a great obstacle, we have a tendency to let it take control of us and we refuse the very thing we need the most, that which the Lord has prepared for us. You may be thinking, “Oh not me, I would never do that”. But when a problem arises and you are overwhelmed by it, do you really sit down at the table that the Lord has prepared for you before doing anything else? Oftentimes our first reaction when something happens is to think of our own solution to the problem or to make a phone call to someone we know, and by doing these we ignore and hurriedly walk past the table that the Lord has prepared for us, where Jesus Himself is waiting for us. Even though the first thing we need to do is sit down with the Lord to listen to His Word and receive the food only He can give us, we instead make excuses and refuse His invitation.

When cup ramen was first introduced in Japan, the event that made it a staple food was the hostage crisis known as the Asama-Sansō incident. As they waited outside in the freezing weather for the communist radicals to come out and surrender, the members of the riot squad were sustained, both physically and mentally, by the cup noodles that were supplied to them. We can imagine how those steaming cups of ramen warmed their hearts and bodies and gave them strength as they prepared to go back and face their enemies.

Even when there is an enemy right in front of us, we must first sit down at the table that the Lord has prepared for us. As we sit at His table, let us talk to Him in prayer. And let us receive spiritual food by reading and listening to His Word.

Today is the first day of a brand new week. Maybe you are thinking about a problem you have to deal with or a certain person who might be giving you trouble this week. But listen to the Lord who is saying to us, “Do not fear, for I have prepared a table for you in the presence of your enemy. The journey is too much for you to bear, so come and eat with me”.

And we have yet another blessing from the Lord, that we can sit at His table with our fellow brothers and sisters, and there at the table we share our burdens, pray for and encourage one another, and with renewed strength, we can return once again to the frontlines of our daily battles. As we go out into the world from this sanctuary, let us remember that the same Lord who strengthened Moses, David, and Elijah before their enemies is with us today. Let’s pray.

Translated by Keita Machida

本日のおもちかえり
2016年8月14日

1)詩篇23篇を読みましょう。5節の『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設けます』という言葉からあなたはどんな光景を思い浮かべますか。

 

2)あなたには「敵」と思われるものがありますか。その敵が視界に、心中にある時にどんな気持ちになりますか。

 

3)列王記上19章1節-8節を読みましょう。この時のエリヤの心の状態はどのようなものだったでしょうか。

 

4)なぜ神様はエリヤの前から宿敵、イゼベルを取り払わずに、食物と休息を与えたのでしょうか。「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」という言葉はあなたの心にどのように響いてきますか。

 

5)「敵」という言葉をもう少し広げて「私達が抱えている問題」とする時に、私達はそれらの問題を前にして神様が宴を設けてくださるということは具体的にどんなことを意味しますか。ヒント:「霊の糧」

 

6)ルカ14章16節-24節を読みましょう。私達は主が備え、招いてくださっている祝宴を色々な理由で断っていることがありませんか。祝宴と私達のイクスキューズはどちらが大切ですか。

 

 

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