日曜が変われば、生き方が変わる!

私が高校から大学の頃、日本はバブル経済のただ中にいました。日本がアメリカのランドマークのような不動産を買いあさり、世界の空港の免税品店には必ず日本人の店員さんがいた時代です。あの時代を象徴するCMが当時、流れており、私も高校生ながら口ずさんでいました。時任三郎が演じていた、リゲインという栄養ドリンクのCMです。売り文句は「24時間、戦えますか」でした。

あれから30年経ち、今日に至るまで私達は「過労死」「引きこもり」「バーンアウト」「ブラック企業」という言葉を生み、日本国では最近になって働き方の改革が見直され、休むということが注目され、最近になりますと定時になると会社の電気をすべて消して、従業員に帰宅をうながす会社があるというようなニュースも見聞きするようになりました。

かつての「リゲイン」のCMは今も健在のようです。しかし、そのキャッチフレーズが変わったようです「24時間、戦えますか」が「3、4時間戦えますか」と変わったのです・・・。

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日曜が変われば、生き方が変わる!
2020年9月6日

神様がイスラエルの民に与えた十戒を私達は礼拝にて毎週、見ております。ここまでそのうちの最初の三つの戒めを見てまいりました。

十戒は最初の四つ、すなわち、今日お話しします四戒までは神と人の間に関することで、それ以降は人と人の間柄について触れているといわれています。今日は四つ目の戒めを出エジプト記から拝読させていただきます。出エジプト記20章8節から11節までを拝読します。

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。(出エジプト記20章8節―11節)

これが今日、見ていく御言葉であり、その中心聖句は「安息日を覚えて、これを聖とせよ。 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」ということになります。

 この四つ目の戒めほど、後に人間によって多くの解釈がつけ加えられたものはありません。イエス・キリストの時代に生きた当時の律法学者はこの戒めを「安息日には働いてはならない、どんな仕事も一切してはいけない」と受け止めたのです。

こうなりますと、それでは「働くことはどういうことであり、何が仕事なのだろう」という議論となり、この四戒には数多くの細かいルールがつけ加えられるようになりました。

例えばこのこと故に、安息日に荷物を運ぶことは労働とみなされ、禁じられました。そうなると「荷物」とは何かということが考え始められ、「安息日にわが子を抱くことはどうなのだろう」という問いかけがなされるようになります。

そして「子供は荷物ではないからいいだろう」というところで落ち着き、しかし「それなら、わが子が手に石をもっていたらどうなるのか」ということ議論されるようになります。

そうなると今度は「石とは何か」という問いが出てきて、このことにはきりがなく、延々と議論がなされ、果てには紐を結ぶこと、火を起こすこと、ランプを動かすこと、旅にでること、これらは安息日にしていいのか、してはいけないのかということまでも議論がなされ、そのルールはどんどん増えていき、それゆえに人は自分で自分の首を絞めるようになります。そこには喜びなどなく、実行が極めて難しい重々しい義務感だけが残りました。

そして、これらを守っている者たちは守ることができない者達を見下し、裁くようになり、神が「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と言われた最初の意図からは全くかけ離れたものになってしまったのです。

覚えていらっしゃるでしょうか、第一の戒めの時にお話ししましたように、この十戒は本来、人を束縛するものではなくて、私達を解放するものなのだということを。この四戒も当然、それに準ずるものであり、この戒めは本来私達を縛りつけるようなものではなく、この四戒は私達にはかけがえのない希望であり、喜びであり、魂と肉体に真の休息を与えるものなのです。

ですから、今日はこれらのことについてお話ししたく願っております。まず、最初に安息日は「希望の日」だということをお話ししましょう。

なぜ、安息日は希望の日なのでしょうか。イエス・キリストの時代、安息日は土曜日でした。しかし、ある日を境に、ユダヤ人クリスチャンの間で安息日が土曜日から日曜日になったのです。それはいつからなのでしょうか?そうです、その日はイエス・キリストが復活した日でした。弟子達はその日こそ、これまでになかった希望の日の始まりとして、日曜日を安息日としたのです。

思えば、このことは驚くべきことなのです。なぜなら、それまで、ユダヤ人にとって土曜日の安息日を守るということは何よりも大切なことでした。今でもイスラエルに行きますと、この安息日はユダヤ教徒の生活の中に浸透しており、彼らは金曜日の夕刻から土曜日の夕刻までを特別な時としています。

かつて一人で三週間ほどイスラエルを旅した時、金曜から土曜の夕刻まで何をしたらいいかということで頭を悩ましました。なぜならユダヤ人の経営する店は閉まり、公共交通機関は停まってしまい、エルサレムは静まりかえってしまうからです。既によく知られていることですが、聞いていた通り、その日にはエレベーターが各階停止する全自動運転になるということは今でも本当の話です。

その理由はエレベーターのボタンを押すことにより、スイッチ内に火花が飛び、点火する、すなわち火を起こすことを避けるためです。ボタンを押すことは、火を起こすことであり、それは安息日にはしてはならないこととされているのです。

安息日のイスラエルは万事、こんな感じです。限られた旅程の中、この一日を空白にするのはもったいない。そのような状況でキリスト教徒の私が楽しめることはあるのか。いつくかのことを見つけました。それは、その規定とは無関係のアラブ人街を散策したり、その日にはベツレヘムやジェリコというパレスチナ自治区に行って一日を過ごすということでした。

このように今でもユダヤ人にとりましてこの安息日はとても大切な時なのです。その安息日が変わってしまうということは、およそ考えられないことでした。しかし、イエス・キリストの復活を目の当たりにした者たちは、身に危険がおよぶことも承知の上で、それまで数千年来、ユダヤ民族が守ってきたその聖なる安息日を土曜日から主イエスが復活された日曜日に変えたのです。

皆さん、ご存じのようにイエス様が十字架にかけられた金曜日から日曜日にいたるまで、イエスの弟子達はエルサレムにある隠れ家のようなところに鍵をかけて閉じこもり、恐れに支配されていました。

自分たちの希望の星であったイエス・キリストは十字架にかけられ、もう自分たちと共にいなかったからです。イエス様は死んだのではなく、殺されたのです。そして、その殺意は弟子である自分たちにも向けられるかもしれないという恐怖があったからです。

これから俺達はどう生きていけばいいのか。恐怖と不安に包まれた思いと共に、彼らは息をひそめていたのです。しかし、その彼らは、その日曜日に、イエスが復活されたことを知るのです。復活のイエスに出会ったのです。

このイエスの復活は彼らにそれまで考えたこともなかった希望を与えました。イエスが天に昇られる時には彼らにこう言われたのです「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。この言葉はイエス・キリストが死を打ち破り、復活したからこそ語られた言葉であることは言うまでもなく、この言葉は文字通り、彼らがそれからの生涯にいかなる所を通ることになってもゆるぎない希望となったのです。

このことが起きて以来、毎週めぐってくる日曜日は彼らにとって特別な日となりました。いつも、日曜日になる度に彼らは「この日は主イエスが復活なされた日なのだ!主は世の終わりまで私達と共にいるのだ」ということを思い起こしたことでしょう。日曜日が来るたびにキリストが共におられる故に、もう恐れることはないということが彼らの変わることがない希望となったに違いありません。

私達の一週間には色々なことが起こります。そのほとんどは単調で平凡な日々です。しかし、時に肩を落とすような日や打ちのめされてしまうような日々、恐れや不安に包まれてしまうような時を送ることもあります。しかし、主の日は毎週、めぐってくるのです!

日曜日を迎えるということは「あぁ、また日曜がやってきたよ」ということではないのです。たとえ、それがどんな一週間であっても、キリストにある希望を取り戻し、新しい一週間に向きあうことができる、それが私達の安息日、日曜日なのです。

主にある皆さん、それが今日というこの一日なのです。皆さんは今日、このキリストにある不動の希望を確認し、そこに立って、これからやって来る一週間に向き合っていますか。

二つ目の事、それは、安息日は「喜びの日」であるということです。先ほど読みました出エジプト記20章11節には、なぜ主は私達に安息日をお与えになったのか、その理由が書かれています。

「主は六日のうちに、天と地と海と、その中の全てのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記 20章11節)

 創世記を見ますと、神様は六日をかけて天地万物、また人間を創造されたと記録しています。そして、それぞれの創造の一日が終わる度に、神はご自身がその一日に創造したもの、すなわち光や、陸や空、食物、動物、月星を見て「良し」とされたと創世記の一章には書かれています。

そして、その創造の最後の日、すなわち第六日目には「神が造った全ての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1章31節)と聖書は記しています。

こうして神の創造の六日は終わります。それでは七日目に神は何をしていたのでしょうか。創世記2章1節-3節、 こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである

神は天と地と万象の作業が終わった後の七日目に休まれたのです。神は七日目にご自分が六日、かかってお造りになったものを見て、はなはだ良くできた被造物を大いに喜び、それを祝福されたのです!

皆さん、お気づきですか、その創造物の中に私達もいることを。すなわち、私達の日曜日は神様が素晴らしいと言われた世界を、私達自身を喜ぶ日なのです。

しかし、私達にとって、このことはそう簡単なことではありません。なぜなら、私達は自分を喜ぶなんてこと、教えられたことなどなく、また考えたこともないからです。

私達の暮らす世界は、時にあからさまに、時に無言で私達に語りかけてきます。「あなたはまだまだですよ。十分じゃありませんよ。課題はまだありますよ。もっとしっかりやりなさいよ」と。

私達はこのような言葉を聞きながら一週間を過ごします。いいえ、生涯、このような言葉に追いかけられながら生きるのです。

しかし、私たちは今日、主の御声を聴きます。「あなたを私は素晴らしい者として創造した。あなたは私のかけがえのないパートナーだ。あなたは私の前に高価で尊いのだ。あなたはそのことを知っているか」

私達はそんな聞いたことのない言葉に驚き、尋ねます。「主よ、私はあなたの前に高価で尊いのですか?そんなこと聞いたことがありません」。主は言われます。

「あなたがどれだけ高価であるかということを、私は既にあなたに明らかにしているだろう。イエスはあなたのために、あなたの生きている世界に生まれ、あなたのために命を捨てたのだ。イエスの命を与えるほどに、その命を代価にして、あなたを買い取るほどに、あなたは私の前に高価な存在、喜ぶべき存在なのだ」

ノーマン・ピルという作家がこんな言葉を書いています「僕は自分を信じる。自分を造ったのは神様だから、僕がつまらない人間のはずがない」ある人はこの言葉を聞いて「自己満足で能天気な言葉だ」と笑うでしょう。しかし、聖書に書かれていることに照らし合わせて考えれば、この言葉は正確に聖書の言葉を、神の御心を言い当てているのです。

主にある皆さん、今日という安息日、あなたはこのことを思い起こしていますか。思いめぐらしていますか。一週間、色々あった。へこんだ。傷ついた。自分など評価されるような者ではない。

しかし、我らの父なる神は、私が私であるということを喜んでくれる。私達を承認し、「よし」と太鼓判を押してくださる。このことを思い起こし、喜ぶ、それが今日なのです。

最後のこと、それは文字通り、安息日は「休息の日」ということです。

以前「白い巨塔」というドラマを妻と夜更かししながら観ていたことがあります。御覧になられた方もいるかと思いますが、大学病院内で繰り広げられる、医局制度の問題点や医学界の腐敗を鋭く追及した社会派ドラマです。その主題歌は「アメイジング・グレイス」でして、色々な人間関係から生じる人の心が二転三転しながら表現されていました。

そのドラマに製薬会社に勤め、休むことなくセールスをする35歳の女性が出てきました。彼女は休むことなく働き続けたために、セールスに来ていた病院で倒れてしまい、そのまま入院します。医師からはその場で余命、数ヶ月の重病だと診断されます。

その彼女が寝巻きのまま、病院の廊下から、会社に電話をするのです「私は大丈夫です。この入院もチャンスとして、入院中にも病院関係者にセールスを続けます」

そのドラマの光景を見ていて、思いました。このことはドラマだけの世界ではないなと。さすがに余命宣告を受けながらも、入院中にセールスをしようとする人に私は出会ったことはありませんが、仕事とは比べ物にならないほど大切な人や、自分の健康、また命を失っても、立ち止ることがない方達に出会ったことはこれまでに何度もあったからです。

私が高校から大学の頃、日本はバブル経済のただ中にいました。日本がアメリカのランドマークのような不動産を買いあさり、世界の空港の免税品店には必ず日本人の店員さんがいた時代です。あの時代を象徴するCMが当時、流れており、私も高校生ながら口ずさんでいました。時任三郎が演じていた、リゲインという栄養ドリンクのCMです。売り文句は「24時間、戦えますか」でした。

あれから30年経ち、今日に至るまで私達は「過労死」「引きこもり」「バーンアウト」「ブラック企業」という言葉を生み、日本国では最近になって働き方の改革が見直され、休むということが注目され、最近になりますと定時になると会社の電気をすべて消して、従業員に帰宅をうながす会社があるというようなニュースも見聞きするようになりました。

かつての「リゲイン」のCMは今も健在のようです。しかし、そのキャッチフレーズが変わったようです「24時間、戦えますか」が「3、4時間戦えますか」と変わったのです・・・。

人間がこのように「もういいよ、やすみなさい」という所にいたったのは、遠い昔のことではなく、つい最近のことです。ここに至るまで、人の歴史は王や権力者が労働者を所有物のようにして、搾取する時代が長く続いてきました。

しかし、ここにきて、そこに至るまでの、数えきれいない犠牲に気がつき、私達は重い腰をあげたのです(言うまでもなく、このように腰を上げた国地域というのは世界の中では決して多くはありませんが)。これが私達、人間の歩んできた歴史であり、現在の私達、人間の状態です。

それでは神はどうか?神はその一番、初めから、休むということを七日の一日に、組み込まれて、ご自身も休まれたのだということを明らかに示しました。以来、私達は神により語りかけられているのです

8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」(出エジプト記20章8節ー10節)。

 神は言われるのです「私は七日目にやすんだのだ、それゆえにあなたも休みなさい」人間は長い歴史を刻み、神が全ての始まりの時から言い続けている、このことに今、目を向けようとしているのです。

かつて日本の教会に仕えておりました時、どうしたら日本人は日曜日に教会に来るようになるのだろうと、あれやこれやと考えていました時に、いつも最後にぶち当たっていた課題がありました。それは日本の構造的なシステムでした。

そもそも、日本の労働システムが日曜日に教会に行くことを阻むシステムなのではないか。毎日が忙しく、ストレスが大きく、心身共に神とか、人生とか、生きる意味とか考える余裕などはない、日曜日の朝、起きて外出する余力がない。

そして、このことに思いが至りますと、諦めに近い思いと共に「私、一人でどうこうできることではないな」という思いであり、もうこの先に進めないのです。

しかし、今、そのように私の内に保留されていた思いが変えられようとしています。そうです、今、この労働システムはコロナを通して、確実に変えられようしているのではないかと思われるからです。

神様はこのコロナを通して、日本のみならず、世界のすべての国々の労働環境を変えようとされているのではないだろうか。なぜ?私達、人間にはそれを断固、変える力がこれまでありませんでしたから。

コロナを通して、適応するのには、まだしばらくの時が必要かもしれませんが、家族との時間を持てるようになった、それまで通勤に二時間をかけていたところを睡眠に充てている、ストレスの多い大都会から空気が新鮮な地域に移り住もうというようなことが連日、伝えられています。これまでの固定概念は壊され、働くということは、そもそもどういうことなのかということを私達は考えるようになったのです。

神様は六日で天地を創造されました。七日目に他の惑星に行って、またそこを開拓創造したとは書いていないのです。神は七日目に休まれたのです。そして、それは創世記に限定された神のメッセージではないのです。興味深いことに、このことは人間にのみ当てはまるのではなく、出エジプト記23章10節-11節などにはこうも書かれています。

10 あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。11 しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない」(出エジプト記23章10節ー11節)

神は言われます。六年の間、あなたの耕作地に種をまき、産物をとりなさい。しかし、七年目にはそれを休ませなさい。耕作地を休ませることにより、人はさらなる収穫を確保することができるのです。

さらにこの言葉はこう続きます。12 あなたは六日のあいだ、仕事をし、七日目には休まなければならない。これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである」(出エジプト記23章12節)

これは今日、見ています四戒に付随して語られている言葉と合致しています。10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。(出エジプト記20章10節―11節)

神は「休息はあなただけのものではない」と驚くべきことを言われます。つまり、あなたのために働いている牛やろば、そして女奴隷や寄留の外国人をも休ませなさいというのです。それはオプションではなく、必ずしなければならないことなのです。

主にある皆さん、今から3500年も昔、イスラエルの民は400年もの間、エジプトの奴隷として生きたのです。その世界では力あるものと、そうでないものがはっきりと分けられ、弱き者の命は強き者の豊かさのためにぼろ切れのように使い捨てられていた時代に、このような言葉が語られることなどあるのでしょうか。

私は人の口からこのような言葉が出てくることはあり得ないと思います。いつの時代も権力者は自分が栄えることだけに関心があり、このような言葉が彼らから発せられることはありません。

しかし、自ら造られた全ての被造物を見て等しく「よし、はなはだよし」とされた神は違います。神の前に休息は全ての人間、全ての被造物が受けるべきことなのです。

私は最近、神の法則ということをよく皆さんにお話しします。そう、神が定められたことです。そして、この神が定められたことに生きることが人の最善なる道なのだということに気がつかされ、納得させられています。

なぜ納得させられているといいますと、自分の数えきれない経験を通して、すなわち、この神の定めたことに従わず、自分の思いと考えだけで生きてきたことを振り返り、しかし、そのような中でも神の定めに生きることを選び取った日々を天秤にかけましたら、聖書が記している通り、神の定めに生きる、そこに身を置くということが、どれだけ私を守り、それがどんなに大きな祝福になっていたのかということがやっとこの齢になって分かってきたからです。

私の考えはこうだ、最近のトレンドはこうだと色々な情報や考えが私達にはあります。現実は厳しい。そんな呑気なこと聞いていられるか。私達の心には色々な思いがあります。しかし、この神が言われていることに、それらの諸々の私達の思いや考えは及ばないのです。主にある皆さん、神が私達に求められる生き方に勝る生き方はないのです。

今日、お話してきた安息日に関することは、私達が私達のために定められたリズムに生きることを語りかけています。潮の満ち引き、宇宙の電磁波、この地球のシーズンを司るお方、我々の血流のリズム、心臓の脈拍に最善のリズムを組み込まれたお方は、私達に与えられている七日間にも最善のリズムを組み込まれているのです。そして、私達の一週間の中に安息日を置くということは、このリズムに生きるために不可欠なことなのです。

このリズムを熟知しているのは私達ではありません。人間を作られ、それに息を吹き込んだお方がそれを知っているのです。なぜなら、そのお方がこのリズムを設定したからです。組み込んだからです。この神の定めたリズムの中に身を置くことが私達、人間にとって最善の生き方なのです。

アメリカで手に入れることのできるカレンダーは、どれを見ても日曜日は週の初めにおかれています。このことは、日曜日は私達が余力を使い切り、疲れ果てた週の終わりにあるのではなく、神の新創造が始まる日、新しい一週の最初の日だということを示しています。

その週の始まりに私たちは毎週、主にある希望と喜びを確認し、主の前に心身ともに十分に休息を得た者として、神の定めたもうリズムに身を置いたまま、新しい一週間を歩みだすのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年9月6日

1)安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない』(出エジプト記20章8節―9節)。あなたはこの第四戒をどのように理解してきましたか。

 

2)ユダヤ人はこの戒めに自分達の解釈を加えて、さらなるルールをつけ加えました。なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。このことはユダヤ人に何をもたらしましたか。

 

3)なぜユダヤ人クリスチャンは安息日を土曜日から日曜日に変えたのですか。なぜその日は希望の日なのですか。このことは毎週、日曜を迎える私達にどんな意味がありますか。

 

4)『主は六日のうちに、天と地と海と、その中の全てのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた』(出エジプト記 20章11節)。このことが「安息日を覚えて、これを聖とする」理由です。ここに書かれていることは何ですか。

 

5)『神が造った全ての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった』(創世記1章31節)ということは、なぜ私達に「喜び」となるのですか。

 

6)エジプト記23章10節-2節を読みましょう。ここには神様のどんな思いが込められていますか。あなたは四戒を通して「やすむこと」に新しい光が当てられましたか。

 

7)「主の前にやすむ」ということはあなたにとって、どういうことですか。


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