最後に残るもの

私は27年前、インドのカルカッタにあるサルベーションアーミーにしばらく宿泊していたことがあります。大部屋に30ぐらいのバンクベッドがあって、私のベッドの横はブリキのトタンを挟んだストリートで、外の喧騒がいつも伝わってきました。まさしく安宿とはこのような宿のことを言うのであって、当時、一泊70セントぐらいだったかと思います。

自分が寝ている横を人が行き来しているのですから、常に人の気配を感じます。そして、朝になると必ず起こされるかけ声がありました。「チャーイ!、チャーイ!」とおじさんがミルクティーを大声で売っているのです。

そんな声に起こされて、ストリートに出ますと、あちこちで湯気がたち、そのチャイが売られています。その時に小さな素焼きのカップに並々と一杯3セントほどのチャイを注いでくれます。濃厚なミルクティーの味は、どんな高級なカフェで飲むものよりもおいしく感じました・・・。

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最後に残るもの
2018年10月28日

私は27年前、インドのカルカッタにあるサルベーションアーミーにしばらく宿泊していたことがあります。大部屋に30ぐらいのバンクベッドがあって、私のベッドの横はブリキのトタンを挟んだストリートで、外の喧騒がいつも伝わってきました。まさしく安宿とはこのような宿のことを言うのであって、当時、一泊70セントぐらいだったかと思います。

自分が寝ている横を人が行き来しているのですから、常に人の気配を感じます。そして、朝になると必ず起こされるかけ声がありました。「チャーイ!、チャーイ!」とおじさんがミルクティーを大声で売っているのです。

そんな声に起こされて、ストリートに出ますと、あちこちで湯気がたち、そのチャイが売られています。その時に小さな素焼きのカップに並々と一杯3セントほどのチャイを注いでくれます。濃厚なミルクティーの味は、どんな高級なカフェで飲むものよりもおいしく感じました。

インドの人たちは一日に何杯もこのチャイを飲み、飲み終わると、この土の器は所かまわずに捨てられます。素焼きですから、やがてそれらは土に帰っていきます。そのような意味でエコの最先端です。そのカップのかたちはどれもいびつで、故にとても趣(おもむき)があるのです。

聖書の中のイザヤ書64章8節にはこんな御言葉が書かれています「されど主よ、あなたは我々の父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです」

また、エレミヤ記18章1節―6節を見ますとこんな言葉が記されています①主からエレミヤに臨んだ言葉。②「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。③わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、④粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。⑤その時、主の言葉がわたしに臨んだ、⑥「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。

これらの聖書の言葉を見ると、神は私たちの陶器師であり、私たちはその作品なる陶器なのだということが分かります。これらの箇所を心に留めながら今日はこの「陶器師なる神様」について、そしてその御手の中にある「神の作品である私達」についてお話ししましょう。

五木寛之(ひろゆき)という作家が「人生の目的」という本を書いています。その結論を言いますと、彼は「人生に目的などはない」と言っています。何十年も考え続けてきた結果、そう思うようになったと言うのです。

この辺りのことを書いている人達の本を読んでいると、行き着くところがあります。それは、私たちが人生の目的というものを考えていく時に、最終的にそれは「この世界の始まりはどうだったのか」という問いに対して、どんな考えをもっているかということになるということです。

すなわち、もしこの世界の始まりに目的などなく、それが全くの偶発的な出来事であるのなら、まさしくその世界の一部である私達の人生にも目的などはなく、生きていることの意味を見出すことも難しくなります。

とても現実的な言い方をすれば、生きることはただの「化学反応」に過ぎません。体内に起きる化学反応により私達は年をとり、子を産み、やがてその化学反応も機能しない日が来て、私達はこの地上での最期を遂げるのです。単純に人間のからだを化学成分として見るのなら、その価値は70セントほどだと言います。それはコスコのホットドックの半額以下です。

言うまでもなくこのように「存在の価値」が失われますと「命の価値」が下落します。これから人工知能が私達人間がしている仕事を次々とこなすようになると、人間である価値すら失われる時代がやってくると学者達は警告しています。そうです、「その人の存在の価値」が考慮されずに、「その人が生産できるものに対する価値」に重きが置かれるからです。あたかも物を壊すかのように奪われる人の命、道具としてしか人間を見ない人間観、これらの根底にはその命の始まりというものに対する見方が反映しているに違いありません。

しかし、これらに対して、この世界の始まりは偶然などではなく、そこには意味と目的があったということになれば話は全く違ってきます。そのことゆえに私達の人生はでたらめな偶然のものではなくて、そこにも目的があるのです。私達の人生は単なる化学反応ではないし、私達の存在そのものに価値があるのです。

もう説明するまでもないと思います。このことは何を言っているのかと言いますと「この世界に創造主、すなわち神はいるのか、いないのか」ということが、私たちの人生には目的があるのか、ないのかということを決めるということです。

20代のはじめ、私は町工場でアルバイトをしていたことがありました。そして、そこで色々とお世話になったおじさんがいました。その人はよく言っていました「俺は夜の晩酌を楽しみにして生きている。その一杯が俺の生きている目的だ」。

ある時、同年代の友人がしみじみと言っていました。「一生懸命、働いて、家族を養い、子供が育っていくこと、とてもシンプルなことだけれど、これが私が生きている目的です」。

まさしく、一日の最後に晩酌を楽しみにしている人はいるでしょう。このような方は大勢いらっしゃるでしょう。愛する家族のために身を粉にして働き、その生涯をそのために捧げること。実際、このように生きている人もたくさんいるでしょう。それは価値のある人生でありましょう。

しかし、確かにこれらのことは「私達の人生の目的」と呼んでもいいように思われますが、それが表面的なものに思えるのは私だけでしょうか。神はそのような目的しか私達に与えないのかと考えるのなら、私にはそうとは思えないのです。

私達一人一人が神様から命をいただき、今、ここに存在しているということには、もっと根源的な目的があるように思われるのです。そして、聖書はそのことについて私達に語りかける書物なのです。

聖書はその第一ページ、開口一番で言っています「初めに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)そこには「創造した」という動詞が含まれています。すなわち、そこには神の意思が含まれています。そして、その神の創造の業は私達一人一人に当然、およぶものなのです。

詩篇139篇13節―17節を読んでみましょう。ここには、私たちがかつて母の胎にいた時のことが記されています。13あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。14わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。15わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。17神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。

私たちは誰一人例外なく母親から生まれてきたのです。私たちは父母の喜びの中、生まれてきたのです。母のお腹が大きくなっていく。その胎内に私たちもかつてはいたのです。子煩悩な父親であるなら、妻のお腹に自分の耳を押し当てて、胎内にいる我が子の動きを確かめようとしたことでしょう。

少し医学的なことをお話しますが、女性の卵子の大きさは0.2ミリ、そして男性の精子の大きさはその卵子の50分の一だといいます。そこから一人の人間が誕生する確率をご存知ですか。1500億分の一です。そして、最初たった一つの細胞であったものが10ヶ月をかけて60兆の細胞をもつ人間となって私たちは生まれてきたのです。今の世の中に奇跡などないと言う方いますが、いいえ、私達が今、ここにいることは奇跡です。

私たちが生まれた時、おそらく誰かが感動したと思います。もちろん、一番考えられるのは父母です。おぎゃーと私たちが生まれて、その血まみれの私たちが母の胸の上に「おめでとう」とのせられた時、私たちの母や父の頬から涙が流れたかもしれません。そこには大きな喜びがあります。

以前、日本のプロ野球で日本一となった千葉ロッテマリーンズにボビー・バレンタインという監督がいましたが、その彼が言っていました。「去年、優勝して以来、あの勝利の瞬間が人生最高の時かと何度も人に聞かれました。その時、私は確かにあの優勝は素晴らしい瞬間ではあったけど、息子が生まれた日や妻と結婚した日に比べたらたいしたことではありません」。この言葉はまさしく彼の嘘偽りのない真実な言葉でありましょう。

主にある皆さん、もし、私達が偶然の産物であるのなら、私達は1500億分の一というクジを当てて生まれてきた者です。もしそうであるのなら、私達の人生はギャンブルのようなものです。全ては運です。

しかし、聖書は「そうではない」などと、このことについて議論すらしていないのです。あたかもそのような議論をする必要は全くないと言うかのごとく、聖書は開口一番、神は天地万物を、それぞれ目的をもって創造されたと宣言しているのです。

この私達が神によって造られたということには二つの側面があります。まず、今、詩篇139篇から話しましたように、神様は私たちの「体」をその母の胎の中で造られるお方であるということです。そして、第二にこのお方は私達の「人格」というものも形造って下さるということです。肉体が造られる様が詩篇139篇に書かれているとしますならば、私達の人格というものが形成されていく様が先に読みましたエレミヤ記18章に書かれているのです

編み物や陶芸が好きな方がいるかもしれません。日夜、少しでもいいものを作ろうと励んでいる方がいるかもしれません。何かに没頭して、それを楽しむということは素晴らしいと思います。まさしく、それはその人の作品と言われるようなものでしょう。

しかし、それらの作品はいつか壊れていきます。木工にしても、模型にしても生前、多くのものを作った方が召されて、その家族がそれらの作品をどうしたらいいのか、当人には申し訳ありませんが、その処分に困ったという話を何度も聞いたことがあります。せっかく心を込めて作った作品であっても、その行く末はこのようなものなのかもしれません。

数か月前、ブラジルの国立博物館が火災となり、全焼してしまったというニュースが伝えられました。その博物館にはブラジルの歴史がありました。彼らの先祖が作った陶器や農耕器具や諸々の芸術品が並べられていたのです。もはや値段をつけることができないほどに価値あるものであり、そこにはブラジルという国がどのように建てあげられていったかという記録がありました。しかし、それら数千年の歴史が数時間のうちに全て灰となってしまったのです。これが私達がいうところの作品の行く末です。

そのような中にあって、神は「あなたが私の作品だ」と言われます。そうです、私達は神の御手の中にあり、作り上げられていく神の作品です。私達は生涯かけて、この作品造りを神様と共にするのです。そして、その人生の最後に私達が生まれた日から召される日までの間に作り上げられた「私」という無二の作品が完成されるのです。私達の肉は朽ちますが、この作品は永遠に残るのです。結局のところ、最後に残るのはこれだけです。

私たちは今も、陶器師である神様の御手の中にある者なのです。神様が丹精こめて造ってくださった世界にたった一つの作品なのです。そして、なぜバイブルが私達は陶器師なる神によって造られると“陶器師”という言葉をここで使っているのかは、陶器師がその陶器を造っていく様を観察する時に分かってくるのです。

プロの陶器師はまず、新しく掘り出された粘土を少なくとも一年は風雨にさらしながら寝かせます。なぜなら、これら新しい粘土はまだ粗雑で柔軟性に乏しいからだそうです。私たちも時にある働きのために整えられる準備期間として一定期間、風雨にさらされる必要があります。この手間を省いてしまい、すぐにその粘土に形を与えようとしても、それには柔軟性がないので、陶器師が思い描いているようなものを造ることはできないのです。

モーセは神に用いられる前にミデアンの荒野において40年もの年月を雨風にさらされました。ヤコブは20年の間、叔父ラバンのもとで酷使されました。彼にとって、それは雨風にさらされることでした。ヤコブの息子ヨセフもまた、17歳から30歳まで風雨にさらされて過ごしたのです。

神様は私たちを最高の作品と造り上げるために、これらの時を私たちにお与えになります。私たちがもし、神様は私の陶器師である、陶器師は私のために私を風雨にさらされるということを知らなければ、私たちはこのような時を嘆き悲しむのです。しかし、確かに私たちはこのような時、最高の神の作品となるために最も大切なプロセスの中にいるということを理解していれば、そのプロセスの中でも前を向き続けることができます。

その後、陶器師はこの寝かせた粘土を練ることから仕事に取りかかります(写真)。粘土は湿っている間は形を作る柔軟さを持ち合わせていますが、乾いてくると形を造ることもできなくなります。陶工が思いのままに、その作品を造るためには、粘土の柔軟さ、すなわち水分が保たれなければなりません。ですから、陶工は適度な水を加えながら粘土を練るのです。

水の潤いが粘土を柔らかなものとする。たとえばこの「水」を私達の「涙」や「汗」と置き換えるこのなら、確かに私達が涙を流すような時、汗を流すような苦労をする時に陶器師である神様が私たちを形造る最善の時なのかもしれません。

私たちの人生を振り返ってみたらどうでしょうか。物事に対する見方が変わった、そしてそのことに対する向き合い方が成熟したというような時というのは、私達が涙の谷を通り過ぎた後、諸々の労苦を通過した後ではありませんでしたか。神様は時に私達の涙と汗を用いて私たちという粘土を練られるのです。

そして、その時に粘土の中に小さな泥の塊でもあれば、陶器師はそれを注意深く砕いて、なめらかな泥とします。陶器師は出来る限り、自分の御手の中にある粘土をなめらかなものにすることにより、その作品を作りやすい素材とされます。そのことを聖書は「私達の心が砕かれる」ことと言い、その砕かれた心を神様は何よりも喜ばれると聖書は語っています。

『いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす(イザヤ57章15節)。

この時に砕かれるものは私達の心にある「我」かもしれません。粘土の中にそのような不純物が入っているのなら、陶器師なる神はその粘土を思いのままにかたち作ることができなくなります。ですから、神はまずそれを砕きます。それが砕かれるということは私たちにとって痛い経験なのかもしれません。しかし、砕かれることなくして、神様は私達という作品に手を加え、それを最高の作品とすることはできないのです。

陶器師が使う道具であるロクロの歴史(イラスト)はとても古いといわれています(先のエレミヤ書でもロクロが触れられていました)。それは今から4000年位前から使われていました。ロクロの原理は単純です。ただ回転するだけです。陶工はもちろんロクロなしでも器を作ることができますが、ロクロを使うことによって、さらに勝った作品が造られるのです。

ロクロは回ります。そうです、同じ所を何度も何度も回るのです。それは回転の繰り返しです。神様は私たちの日々の生活の繰り返しの中で私たちを整えられます。毎日の生活の中でロクロのように繰り返される事柄を通して、神様は私たちを形造ってくださるのです。神の作品造りは実に、私達の毎日の私生活を通して、今も、これからもなされていくのです。

陶器師はロクロから作品を取り外す時に、それに欠陥がないかを見ます。厚みは均等か、不用意につけてしまった傷はないかと。しかし、陶工は時に、その器の個性(味)と独自性を増すために、器の欠陥と見えるところをあえて直さないで、そのままにしておきます。

それら欠陥と思われるところこそが、後にその陶器の何とも言えない味となるのです。先のインドのチャイのカップはチャイはいびつで不完全なものでしたが、私にはどんなブランド物のカップよりも魅力的に思えました。なぜなら、不思議な言い方となりますが、それが完璧な形ではなく、曲がっていたり、ねじれていたからです。それがいい風合いとなっていたのです。そして、それゆえにインドのチャイの器には同じものが二つとありません。それらは不完全であるゆえに、無二のものなのです。

皆さん、私のこれがこうなったら、もっと私は魅力的になるのにと思った事がありませんか。もっとここが強ければとか、この傷がなければということが。しかし、そのようなことが深い味わいものとして出てくるというのが神様の御手の中にある陶器なのです。

私には右耳の裏に傷があります。7年ほど前にした手術の後です。結果を言いますと、この手術は失敗で、医師はその辺りの神経を切ってしまったようです。ですから、私は物を食べると、すなわち顎を動かすとそのあたりから汗のような体液が出てくるのです。ですから、食べる時にナプキンが必要な身となりました。興味深いことに山芋を食べると、その耳のあたりもかゆくなるのです。さいわいなことに話している時にそれは起こらないので感謝しています。

医師にどうにかならないかと聞きに生きましたら、「デオドラントを塗ったらいい」と言われ、それが医師のコメントかと思って、笑ってしまいました。このことは非常に面倒なことで、また不快なものですが、生涯、つきあっていこうと思います。この傷込みで、自分なのだと今は思うようになりました。

世の中にはこのように生涯、抱えていかなければならない何かを持っている方がたくさんいます。それは肉体的なものに限らず、私達の諸々の経験もそこに含まれるでしょう。自分の弱さというものもそこには含まれるでしょう。そして、その弱さとか傷は、それらを込みで、私達自身なのです。

パウロはコリント第二の手紙12章9節で主の言葉としてこう書いています「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。陶器の独自性と美は、実は陶器にとって欠陥と思われるところに表されるのです。あなたが「これが私の弱点だ」とか「これが私にあるから・・・」と引け目に感じること、実はそのところに神の力は完全に現されていくのです。

今日、私達は神の御手の中で造られたということをお話ししました。そこには、私たちを愛し、期待し、造られた父なる神の姿があります。そして、このお方は私たちに命を与え、その後は「どうぞご自由に」というのではなく、私たちを最高の作品とするべく、その御手の中で造りあげて下さるのです。

皆さんはこのことを信じますか。このことを私達が信じ、受け止める時に私達の人生は変わります。自分が経験する一つ一つの事を通して、神が私達を最善の作品にすべく手を加えてくださっているということを知る時に、私達はそこに希望を見いだすのです。これこそが最後に残る神の作品です。この作品を生涯かけて作り上げていく人生、こんなに大きな生きがいが他にありますでしょうか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年10月28日

1)あなたにはお気に入りの陶器がありますか。なぜ、それがお気に入りなのですか。あなたはロクロを回して陶器を作ったことがありますか。陶器作りを通して、何か学んだことがありましたか。

 

2)イザヤ書64章8節、エレミヤ18章1節-6節を読みましょう。なぜ神様はご自身を陶器師、私達を陶器として譬を語っているのでしょうか。この譬が明らかにすることは何ですか。

 

3)聖書は「初めに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節)という言葉と共にその物語を始めています。なぜこの前提は大切なのですか。

 

4)他人事ではなく、詩篇139篇13節―17節に書かれていることは自分の事なのだということを知る時にあなたはどんな思いを持ちますか。

 

5)私達の生涯の最後に残るものは何ですか。永遠に保持し得るものは何ですか。

 

6)陶器師はなぜ新しく掘り出された粘土を少なくとも一年は風雨にさらしながら寝かせるのでしょうか。このことを粘土である私達に置き換えると、どんなことを意味しますか。

 

7)寝かせた粘土を練ることから陶器師は具体的な仕事に取りかかります。「練る」という言葉から、このことを粘土である私達に置き換えると、どんなことを意味しますか。

 

8)陶器師が粘土の中にある不純物を砕いて、それをなめらかな粘土にしようとするのはなぜですか。このことを粘土である私達に置き換えると、どんなことを意味しますか(イザヤ57章15節)。

 

9)ロクロの上で私達が作られるということは何を意味しますか。

 

10)手で造られた作品には全て個性があります。時にそれはいびつな形であったり、欠け損じているものであったりします。このことを陶器である私達に置き換えると、どんなことを意味しますか(コリント第二の手紙12章9節)

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