権威のもとに生きる幸い

2006年3月11日、アトランタの裁判所で強姦罪で起訴され審理中だったブライアン・ニコラスという男が法廷で警官から銃を奪い裁判長ら3人を射殺して逃走した事件がありました。

彼は逃走したアトランタ北の住宅地で26歳のアシュリー・スミスさんに銃をつきつけて部屋に監禁しました。彼が数十分前にしたことを考えれば、人質となった母に何が起こるのか、私達の脳裏には最悪のことしか思い浮かびません。しかし、事は私達が想像するものとは全く違ったものとなりました・・・。

本日の礼拝映像、礼拝プログラム、一日一生、ポッドキャストはこちらから。

↓ 礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

権威のもとに生きる幸い
2019年1月20日

おそらくこの書物がなければ今の世界は違ったものとなっていたに違いないと思われる書物があります。それは私達の手元にあります聖書です。

この聖書が人類になければ私達の法律、医療、政治、福祉、教育、芸術、挙げればきりがありませんが、これらのものは確実に今日、全く違ったものとなっています。

落穂に書きましたようにこの書物は、多くの人間に影響を与えました。そして、それは過去の話ではなくて、今も、そしてこれからもこの聖書はその言葉に耳を傾ける者達に語りかけてきます。この聖書がもつ力についていくつかのことを今日は見てまいりましょう。

一つ目、それは「聖書の言葉は私達の人生を導く」ということです。

 聖書の言葉は私達の人生を導く

 我々日本人ほど細かいガイドブックを好む民族はいません。日本のテレビ番組にはたとえば“海草”や‟ヨーグルト”を徹底的に分析して、それがどう私たちの体にいいのか、どのようにそれらを摂取すれば一番、効果的かということを事細かに教え示してくれるものがあります。

おそらく世界広しといえども、あそこまで海藻やヨーグルトを調べ上げて、視聴者に提供する番組は日本以外にはないと思います。あの番組を毎週、欠かさず見て、そこで言われていることを実践している人の寿命は20年は伸びるのではないかと思うほどです。

そして、それは事実でありまして、実際に専門家が指摘しているように、これからの私達の平均寿命は確かに延びるようです。そう、私達は「100歳時代の到来」ということをよく聞くようになりました。

それは確かにありがたい話です。しかし、少し引っかかることがあります。仕事柄、私は色々な方々の病や死に立ち会うことがありますが、その中には「こんな辛い思いをするなら、早くあちらに行きたい」と言われる方達が少なからずいるということです。

そうです、寿命が延びるのであるのなら、延びる分、さらなる喜びを経験するでしょう。しかし、同時に同等のいや、それ以上の悲しみや苦しみというものを経験することも覚悟しなければならないでしょう。

「海藻」や「ヨーグルト」について私達は熱心にそれを深く調べあげます。そして、それらに対するガイドブックができあがります。しかし「生きる」というこや「死ぬ」ということについて、そこに光を当ててくれるガイドブックを見つけることは難しいのです。

というより、そのようなことを私達は一切、考えることなく、それぞれが我流で生きています。ガイドブックが好きな我々なのに、この肝心かなめのことに関しては行き当たりばったりなことが多いのです。

ここから北に一時間ほど行きましたサドルバック教会のリック・ウォレン牧師は言っています「今日、あなたがすることのできる最も重要な決断は、人生における最終的な権威をどこに求めるのかという問題に決着をつけることです。文化、伝統、論理、そして感情が何を言おうとも、聖書をあなたの最終的権威として認める決意をすることです。つまり、今後の意志決定の際には、まず「聖書は何と言っているのだろうか」と尋ねるようにすることです。神様が何かするように言われる時は、神の御言葉を信じて、たとえ納得できなくても従うようにすることです」。

いつも申し上げますように、私達の人生は「決断の連続」によって形づくられていきます。言うなれば、今日までになされてきた、これまでの無数の決断によって、今の私達がここにいます。そして、これからも私達が何を考え、どんな決断をしていくのかということが私達のこれからの人生を決めていくのです。

それではその大切な決断をする時に私達は何をもって事を決めていくのでしょうか。リック牧師が書いている「文化」や「伝統」でしょうか。文化、伝統とは「これまで多くの人達がつくりあげてきたこと」であり、そこには貴重なメッセージがありますが、必ずしも普遍的な真理を持つものではありません。万事、「論理的」に物事を進めていけばいいのでしょうか。いいえ、私達はこの人生が論理では通らない不思議と不条理で満ちていることを知っています。それでは感情でしょうか。その時の直観なのでしょうか。そうであるのなら、それはギャンブルのようなものです。

イエス・キリストはかつてこのようなたとえ話を語りました。24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。25雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである』(マタイ7章24節-25節)。

私達の人生にはどしゃぶりの雨が降るような時があります。全てを流し去ってしまうような洪水がおしよせることもあります。家庭が暴風によって揺れに揺れることもあります。

その時に家の外壁の色とか、その家の中に何が蓄えてあるのかというようなことはあまり意味がありません。その時に大切なことは、その家がどんな土台の上に建てられているのかということです。そして、それは確かに私達の人生という家にもそのまま当てはまるのです。

このような時に私達がどうあるべきかということを確かに指示してくれる権威ある言葉はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストは言われます。わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう』。聖書の言葉を聞いて、それを私達のガイドラインとして生きる時、たとえ人生の歩みの中で嵐のただ中に置かれても、私達は堅固なる土台に立つことができるのです。二つ目のこと、それは「聖書の言葉は私達を守る」ということです。

聖書の言葉は私達を守る

私がまだ子供の頃、近所の子供達と毎日、暗くなるまで山や川で遊びました。時にはまだオシメがとれない子の手をその兄や姉が取り、ガキ大将のもと、皆で色々なことを経験しました。

時には人の家の屋根によじ上ったり、人の家の柿をとったり。そうしますと形相を変えて追いかけてくる怖いオジサンやオバサンがいました。そして、捕まると我が子のように怒られました。それは子供にとっては喜ばしいことではありませんでしたが「こんな暗くなって何ウロウロしているんだ。早く家に帰りなさい!」と叱ってくれるおじさんの一言によって確かに私達は守られていたのです。

しかし、今日、私達を叱ってくれる人は少なくなりました。この国ではタバコのポイ捨てをしている人を咎めたら、もしかしたら、それがきっかけで命を失うかもしれません。こうなりますと互いに関わることにリスクが生まれてきます。

私達の間では「あなたがいいのなら、いいでしょう」という考え方が蔓延します。これほど無難な言葉を私達は知りません。この言葉を言い合っていれば、互いの間に軋轢は生まれず、命を失うこともありませんし、互いに「あの人は寛大な人だ」という高評価を得ることもできるのです。

しかし、言い方を変えればこれほどに無責任な、そして思いやりのない言葉はありません。一見、これらは相手の自由を認めているおおらかな言葉に見えますが、言い方を変えれば「あなたがどうなろうが私は知ったことではない」ということになるからです。

その人を本当に思う人は何でもかんでも「あなたがいいなら、いいんじゃない」とは言わないはずです。時にはその人の前に立ちはだかってでも、その人のしようとすることを阻止するでしょう。

しかし一度、流れ始めた世の潮流を変えることは難しいものです。というよりも、それはおそらく不可能かと思われます。そんな社会にあって、私達が守られるために本当に必要なことは、声を大にして私達に語り続けてくれる言葉です。そして、聖書こそ、その言葉なのです。なぜですか、なぜなら神様は本当に私達のことを愛しているからです。私達のことを何よりも大切なものとしてくださっているからです。

それゆえに神様は時に私達が聞きたくない言葉を語りかけます。それに対して私達は「そんなこと言うな。俺の自由を奪うな」と思われるかもしれません。しかし、それでもこのお方は私達に語り続けるのです。なぜならこのお方は「本当の自由」というものを明確に知っておられるお方だからです。

 多くの財産を得て舞い上がり、それを管理することを自慢げに語る者に対して『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』(ルカ12章20節)と命を管理することもできない自分のことを知らしめ、我にかえらせてくださる。

自分は常に正しいと人を裁いている者に対して『なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。・・・まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう』(マタイ7章3節~5節)と語りかけてくださる。

自分の過去から目をそらし、それを隠すように生きてきた五人の夫をもち、今は別の男と惰性的に喜びも希望もなく生きている女性に『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れて来なさい』(ヨハネ4章16節)とはっきりと彼女を苦しめている原因を指摘する。原因を知り、そこから手をつけなければこの問題は解決しないからです。

体に何か問題があるのなら、その問題を見つけ、それを指摘し、それを治療するのが医者。ですから聖書は私達の心の問題を指摘します。なぜなら、肉体の病がそうであるように、そのことに対する自覚がなければ私達はそこから癒され、回復されることがないからです。そして、このことにより私達はあらゆる問題や危険から守られているのです。

主にある皆さん、今、挙げたのは聖書の中に記されている私達に対する言葉のごく一部です。もちろん、聖書はこのような言葉ばかりを書いているのではありませんが、そこにはこのような言葉がたくさん書かれているのです。

もし、私達の親が、友が、「私達がすべきではないこと、こうあるべきこと」を真剣に語りかけてくれないのなら、私達はどうしてそれに気がつき、そこで自らを守ることが出来ますか。神は私達を愛するゆえに、ストレートに私達がすべきこと、すべきではないことを語る書なのです。最後の事をお話ししましょう。それは「聖書の言葉は私達の魂を救う」ということです。

 聖書の言葉はあなたの魂を救う

2006年3月11日、アトランタの裁判所で強姦罪で起訴され審理中だったブライアン・ニコラスという男が法廷で警官から銃を奪い裁判長ら3人を射殺して逃走した事件がありました。

彼は逃走したアトランタ北の住宅地で26歳のアシュリー・スミスさんに銃をつきつけて部屋に監禁しました。アシュリーさんは自分には5歳になる娘があり、夫は4年前に事件に巻き込まれ刺殺されたこと、自分が殺されたら娘は孤児になってしまうことを訴えました。

彼女は少しづつ落ち着き始めたその男にリック・ウォーレン牧師が書いた「人生を導く5つの目的」の中から“あなたの生きる目的は?どんなギフトがあなたには与えられているか?」といった部分を読んで聞かせたといいます。それは「私たちは絶えずどうすればよいかを神に問いながら生きていくべきだ」という強烈なメッセージでした。彼女は「あなたが私の部屋に来たのも何かの意味があるはず」と話しかけ、ニコラス被告に自首を勧め「服役囚にこの神のことを述べ伝えることがあなたの使命なのではないか」と語りかけたといいます。

説得に応じた同被告は銃をベッドの下に置き、娘を迎えに行くと家を出たスミスさんは警察に通報。被告は白いシャツを振りながら、アパートの外に出て投降しました。

私のオフィスにはスミスさんがブライアンに読んで聞かせたリック・ウォレンの著書があります。それは400ページほどの本ですが、その中には1000以上の聖書の言葉が記されています。ブライアンが投降したのは、リック牧師の感動的な言葉ではなく、リック牧師がその著書において引用している1000以上もの聖書の言葉に力があったからだと思います。

ブライアンは強姦罪で捕まり、その法廷で警官から銃を奪い、裁判長を含む三人を射殺して逃亡したのです。その彼がもし捕まれば終身刑は確実、あるいは死刑を宣告されるでしょう。そんな彼が立てこもった家でスミスさんに何をするのか、私達の脳裏には最悪のことしか思い浮かばないのです。しかし、事は私達が想像するものとは全く違ったものとなりました。

ブライアンは逃亡中の極悪犯でありましたが、その彼の心に聖書の言葉が語られ、彼は銃器を手放したのです。彼の心を抑えるのに、彼が銃を手放すのに、完全武装した特殊部隊はいりませんでした。そう「言葉」が彼の心を開いたのです。

聖書ヤコブ1章21節にはこのような言葉があります。「すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言葉を素直に受け入れなさい。御言葉には、あなたがたの魂を救う力がある

ブライアンの魂に起きたことは、まさしくこの御言葉の成就でした。そして、このような出来事は驚くべきことではなく、今、この時も世界中で起きているのです。

イエス・キリストが十字架にかけられました時にその両脇には強盗の罪により、同じように十字架に磔にされた二人の男がいました。このことは、その時からさかのぼること750年前に預言者イザヤが聖書の中に記録している預言の成就でした。

イザヤ53章12節『これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とが(罪)ある者と共に数えられたからである』。そう、イエス・キリストはカルバリの丘で罪人の一人として数えら、彼らと並んで十字架にかけられたのです。

自分と同じように手足に釘が打たれて磔にされているイエスを間近に見ながら、当初、この二人の強盗は『他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてみろ。それを見たら、信じてやろう』というような暴言をはき、イエス様を罵ります。

しかし、その内の一人がどんなに罵詈雑言が投げかけれても一切、その類の言葉を口にしないこのイエス様の姿に心が変えられていきます。そして、彼は間近にいるイエス様の口から、自らをむち打ち、十字架に手足を釘づけにし、唾を吹きかけた者達に対して父なる神に願われた言葉を聞いたことでしょう『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです』(ルカ23章34節)。

その言葉を聞き、この強盗は思わずその心から湧き上がってくる言葉を抑えることができなくなったのでしょう、こう言いました『お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだからこうなったのは当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしたのではない。イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』(ルカ23章41節、42節)。この強盗にイエス様は言われました。『よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』(ルカ23章43節)

三浦綾子さんという作家がいました。その御主人である三浦光世さんが私達の教会を訪ねて下さった時、共にランチをいただきました。光代さんは長い間、綾子さんの口述を筆記してきた方です。ある意味、三浦文学は綾子さんと光世さんの合作と言っていいものです。その文学界において長い間、綾子さんと共に生きてきた彼が言われた言葉を私は忘れることができません。

「小説、ドラマ、映画、これらの物語は全て人間の罪を描写しています。しかし、これらの中にその人間の罪に対する解決を私はこれまで一度も見たことも読んだこともありません」

罪ならいたるところに見る。いいえ、人の罪は映画や小説には欠かせない題材であり、その人の罪が具体的なかたちとなってストーリーとなります。ですから、私達はその罪がもたらす問題を日々、見ているのです。しかし、まるで私達の心に覆いがかぶさっているかのようにして、私達は肝心かなめ、その罪の解決には心をとめません。

ブライアン・ニコラスも二人の強盗も自分で蒔いたものは刈り取らなければなりません。聖書が記している通りです。このことゆえに私達は肉体の命が求められ、それを失うかもしれません。しかし、誰でもキリストにあるのならその魂は救われ得るのです。そうです『魂が救われる』というのは、罪からの救いを意味するのです。そして、その力が聖書の言葉にはあるのです。

私達は権威というものを嫌うかもしれません。しかし、その権威が私達への愛から発せられているということを知るのなら、さらにはその権威が私達が知りえないことを全て見通しておられるお方から語られているのなら、私達はその権威に従うべきです。そうです、このような権威は人の間にはありません。このような権威は神にしかないのです。

今日、あなたがすることのできる最も重要な決断は、人生における最終的な権威をどこに求めるのかという問題に決着をつけることです。文化、伝統、論理、そして感情が何を言おうとも、聖書をあなたの最終的権威として認める決意をすることです。つまり、今後の意志決定の際には、まず「聖書は何と言っているのだろうか」と尋ねるようにすることです。神様が何かするように言われる時は、神の御言葉を信じて、たとえ納得できなくても従うようにすることです」。

人は私のさいわいはどこにあるのかとさ迷います。そのために膨大な財産を使い、多くの汗を流し、それを見つけるために、ある人達は地の果てにまで出て行きます。しかし、その幸いはお金をかけずとも、汗を流さずとも、地球の裏側に行かずとも、私達のすぐ側にあるのです、そうあなたの手元の一冊の書の中に、そのさいわいは余すところなく記されているのです。

お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり

2019年1月20日

1)もしこの世界に聖書がなかったら、この世界はどうなっていたと思いますか。聖書が人間の法律、医療、政治、福祉、教育、芸術、これらに与えた影響を考えてみましょう。あなたは聖書に影響を受けた偉人を誰か知っていますか。

 

2)今日、人は何を人生のガイドライン(土台)にして暮らしていると思いますか?もしガイドラインがないとするのなら、私達は何を基準にして物事を決めているのでしょうか。

 

3)マタイ7章24節-27節を読みましょう。砂と岩を土台にして造られた家に同じものが襲いかかりました。その結果の違いは何ですか?この土台とは何を意味していますか。

 

4)あなたのことを本当に思うゆえに苦言を言ってくれる人がいますか。「あなたのお好きなように」という言葉は私達にとりまして親切な言葉ですか?

 

5)今日、私達はどのような誘惑や欲望によって足を踏み外す可能性がありますか。どうしたらこのような誘惑や欲望から守られますか。

 

6)アトランタの強盗犯、ブライアン・ニコラスの回心をあなたはどう思いますか。魂の救いとは何ですか?

 

 

7)イエス・キリスト以外に罪の解決を与えてくれるものがこの世界にありますか。悟り、修行(難行苦行)、まじない等はいかがでしょうか。

 

8)私達は権威の元に生きることを好みますか。なぜですか。

 

9)私達が神の権威の元に生きることは、どうして私達にとって最も幸いな生き方なのでしょう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください