歴史を貫いた計画

「そして、言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)。

ここには「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。少し説明がいるかと思いますが、この「言葉」とは「イエス・キリスト」のことをあらわし、そのイエスが人となり、私達の住む地に宿ったということです。そして、私達はこの出来事をクリスマスと呼んでいます。

このヨハネによる福音書に書かれている「宿った」という言葉を聖書のもともとの原語であるギリシア語から紐解きますと、その意味は「幕屋を張られた」ということになります。このことを踏まえて言いますならば「神と共におられた言葉、すなわち神と共におられたイエス・キリストは私達の世界に幕屋を張られた」ということになります。そして、それは神の一人子イエス・キリストが本腰を入れて、私達と同じように、この世界で起きること身に負われるという覚悟のあらわれでした。

それにしても「幕屋」と言われても私達はピントときません。しかしこの「幕屋を張られた」という言葉をヨハネがあえて使ったということには、とても深い意味があり、その背後には長い聖書の歴史がありました。

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歴史を貫いた計画
2018年12月16日

聖書の物語は「移住する人達の物語」と言ってもいいかと思います。それは人類の最初の夫婦、アダムとエバにさかのぼります。彼らは禁じられていた実を食べてしまったゆえに、不本意なことに園を出て行きました。

そして、その後、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセというような人達も自分の生まれ育った地を出て見知らぬ土地に移住していきました。さらには彼らを先祖とするユダヤ人のこれまでの歴史も移住の歴史であったということは周知のとおりです。私達はこれをユダヤ人の離散とも呼びます。

彼らは皆、自分の言語や文化とは異なった土地に移り住んで生活をした人達です。アブラハムはその年75歳になって住み慣れた故郷を出て神様の示される地へと旅立ちました。ヤコブは自分の実家にいることができなくなり、逃亡するかのようにして家を飛び出し、ヨセフは兄達の妬みを買いエジプトに売られ、モーセはエジプトから荒野へと移住を余儀なくされました。

彼らはその移住していく道のり、またその移住した先で神を知るにいたったのです。こう考えますと私達も移住者であります。多くの私達は生まれ育った国や他地域から、このサンデイェゴに移住してきました。文化や言語が異なる地で私達は神と出会いました。そのような意味では、私達も彼らと同じです。

そして、そのことはこのクリスマスの主役であるイエス・キリストも例外ではないのです。ヨハネによる福音書1章14節を見ますならば、そのことが明確になります。「そして、言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)。

ここには「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。少し説明がいるかと思いますが、この「言葉」とは「イエス・キリスト」のことをあらわし、そのイエスが人となり、私達の住む地に宿ったということです。そして、私達はこの出来事をクリスマスと呼んでいます。

このヨハネによる福音書に書かれている「宿った」という言葉を聖書のもともとの原語であるギリシア語から紐解きますと、その意味は「幕屋を張られた」ということになります。このことを踏まえて言いますならば「神と共におられた言葉、すなわち神と共におられたイエス・キリストは私達の世界に幕屋を張られた」ということになります。そして、それは神の一人子イエス・キリストが本腰を入れて、私達と同じように、この世界で起きること身に負われるという覚悟のあらわれでした。

それにしても「幕屋」と言われても私達はピントときません。しかしこの「幕屋を張られた」という言葉をヨハネがあえて使ったということには、とても深い意味があり、その背後には長い聖書の歴史がありました。

聖書の歴史において人々は古くから、神様を礼拝する場所というものを大切にしてきました。まずその原型を私達は創世記の族長の時代から見ることができます。彼らは神様から示された場所にそのつど祭壇を作り(創世記8章20節)、そこで動物を神への感謝の犠牲として捧げ、神を礼拝しました(この絵はノアが大洪水の後、箱舟から出た時に作った祭壇です)。

それがモーセの時代になりますと、彼らは荒野に神様が事細かに示した寸法で幕屋を造るようになります(出エジプト記25章―27章)。その幕屋の至聖所と呼ばれる部屋にはモーセがシナイ山で神様から授かった十戒が収められた契約の箱が置かれるようになります。神は「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト25章8節)とあるように幕屋は主なる神とイスラエルの民との会見の場であり、神の臨在を示す場所となりました。この至聖所は大祭司だけが一年に一度、動物の犠牲をもって入り、その血をもってイスラエルの民の罪の赦しを神に求める最も聖なる場所でした。

この幕屋はやがてイスラエルの二代目の王ダビデが受け継ぐものとなり、それがその息子ソロモン王のエルサレムでの神殿建築へと発展していきました(列王記上6章)。彼は基本的に幕屋の構造と同じように、その神殿の一番奥にやはり至聖所を造りました。幕屋と同じように大祭司のみが一年、その部屋に入ることが許され、民の罪の贖いをそこで成したのです。

その場所は全く聖なる場所でありますゆえに、大祭司であってもその絶対的な神の聖さの前に立ちえないようなもの心の内にあるようでしたら、打たれて死んでしまう可能性がありました。その至聖所で彼が死んでしまうともはや他の者はその遺体を取りに行くことが出来ませんので、そこに入る時にはその足に鈴とヒモが結ばれたという伝承があります。もし彼が神のきよさに打たれて死んだら、その体を至聖所から引っ張り出すためです。皆さん、聖書が言うところの「神のきよさ」とは「あぁ、神々しいとか、清々しい」と感想を述べていられるようなものではないのです、神の圧倒的な聖さの前に人は立ちえない、それが神のきよさなのです。

ちなみに現在、エルサレムには聖書に記されている時代の神殿はありません。紀元70年のユダヤ戦争によりローマ軍によってこの神殿は破壊されたからです。そして、現在は紀元692年にウマイヤ朝(The Umayyad Caliphate)によって建築されたイスラムの岩のドームが建っています。

そして、そのすぐ下に有名なヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁、今日でいう「嘆きの壁」が残っており、ユダヤ人はその壁に額を押しつけて、再び神がこのエルサレムに神殿を築いてくださるようにと日夜、涙と叫びをもって祈り続けているのです。

この最初の神殿を建てたソロモンは当初、自分の栄華や長命を求めることなく、神の知恵を求め、神殿建築を成し遂げ、神様もそれを祝福されました。

しかし、そんな彼はやがて異教の女性を妻として迎え入れることにより、他の神々が入りこみ、偶像礼拝がなされるようになり、イスラエルは後に分裂にいたり、BC586年にはバビロンのネブカデネザルにより、このソロモンの神殿は破壊され、イスラエルの民もバビロンに捕囚されます。しかし、その70年後、バビロンを征服したペルシャのクロス王がこのイスラエルの民のエルサレム帰還と神殿の再建を許します。

それらを経て、イエス様の時代にはこの神殿はヘロデ王により大改築がなされます。実にソロモンが神殿を建てから約1000年後、イエス様はこのヘロデ時代のエルサレムの神殿境内におりました。そして、そこで神殿が末期的な状況に陥っている決定的な出来事をイエス様は目撃されます。ヨハネ2章13節‐22節を読んでみましょう。

13さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。14そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、15なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、16はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。17弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。18そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。19イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。20そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。21イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。22それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

エルサレムでイエス様は牛や羊や鳩を売っている者達、そのために両替をする者たち神殿の境内にいるのを見るのです。神殿は動物が人の罪の身代わりとして神に捧げられる神聖な場所であり、そのために必要な動物が神殿の境内で売られていたのです。

律法の定めによれば、このようにして捧げられる動物は傷ついていてはなりませんでした。しかし、その宮に来る者達の中には遠方からやってくる者もたくさんおり、その長旅に伴う牛や羊、鳩などを無傷の状態に保つということは不可能だったのです。そのために、そこでは神殿当局で認められていた牛や羊が売られていたのです。

また、当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちが普段使っている貨幣には、ローマ皇帝の肖像が刻まれていました。歴代の皇帝たちは神格化され、礼拝の対象とされていましたから、その肖像が刻まれた貨幣は、偶像を刻んでいることになります。そんなものを、神を礼拝する神殿で献金として捧げることはできず、神殿に捧げるのにふさわしい貨幣と交換するため、両替が必要となったのです。

そして、皆さんご想像のとおり、そこではこれら諸々のことに対して商売人達の金儲けがなされていたようです。さらには神殿当局者、すなわち祭司達さえもその商売の許可証のようなものを取り扱って利益を得ていたようです。

彼らは神を第一とすべき場所で、その神を第一とせずに、自分達にとって「これは便利だ。この方が都合がいい。これは儲かる」ということを優先したのです。神殿に捧げる動物なら境内で売ることが一番、手間暇がかかりません。そう、手間暇がかからないということ、そして自らの益が、神様より第一とされたのです。

当時のエルサレムの神殿境内は動物たちの鳴き声と悪臭で満ちていたことでしょう。そして、両替商の客引きの声が響いていたことでしょう。イエス様はそれらを見るにつけ縄で鞭を作り、羊や牛をみな神殿境内から追い出し、両替商の金をまき散らし、その机を倒し、こう言います「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな!」と言ったのです。

このイエス様の激しい行動は形式化した、堕落した神殿祭儀の限界を意味しました。このことによって、もはや神殿というものがその本来のはたらきをすることができないということが明らかにされたのです。

このイエス様の過激な行動に対してユダヤ人達はこうたずねました「このようなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれるのか」(18節)。それに対してイエス様は答えます「この神殿を壊してみよ。わたしは三日のうちに、それを起こすであろう」(19節)。このイエスの発言はその場にいた者たちにとって衝撃的なものだったのでしょう。これらを神聖な神殿を汚す言葉として彼らは深く心に刻んだのでしょう。その証拠にイエス様がこの後、捕らえられて裁判にかけられた時にも彼らはこの言葉を持ち出してこう証言しました。

「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」(マルコ14章58節)。

気をつけて見ていただければ分かるのですが、これは彼らの偽りの証言でした。イエス様は「この神殿を壊してみよ」と言われましたが「自分が壊す」とは言っていません。しかし、この偽証は正されることなく、そのまま残ります。後に十字架につけられたイエスの前を通りかかった者達は頭をふりながら、この時のことを罵ってこう言ったのです「ああ、神殿を打ち壊して、三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」(マルコ15章29節‐30節)。彼らは通りがかりの人達です。彼らまでもが、イエスは神殿を打ち壊すとほざく愚か者だと思っていたのです。

イエス様はこのところで「わたしは三日でそれを起こすであろう」とも言っておられます。実はこの言葉にも実際にイエス様が言われた言葉と人々が言っている言葉には違いがあります。すなわち、イエス様はここで壊された神殿を「三日で建てる」とは言っておらず「三日でそれを起こす」と言っているのです。

そして、この「起こす」という言葉はギリシア語ではἐγείρω,v \(eg-i’-ro)と言う言葉で、これは聖書において別の出来事の際に使われている言葉なのです。何だと思いますか。そうです、この言葉はイエス様の復活を語る時に使われる言葉と同じなのです。すなわち、このところでイエス様は神殿なる自分が死んで、三日目によみがえるということを予め話され、そのことによってまさしく自分こそが神殿なのだと言われたのです。

皆さん、そもそも神殿でなされていた主なことは何なのでしょうか。そうです、それは神に動物の犠牲を捧げるということです。そのところではおびただしい数の動物の血が流され、それは人々の罪の身代わりを表すものでありました。しかし、人はそのような神聖な厳粛な場に自分の欲を持ち込んだのです。

このようにもはや神殿が神殿としての役目を全く機能していない、このことゆえにイエス様は自らがその神殿に代わる者だと言われたのです。すなわち、その犠牲そのものにイエス様がなられたのです。そのことをへブル書は的確に書き記しています(へブル9章11節-15節)

11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

それまで無数に大祭司が動物の犠牲を至聖所で捧げ続けてきたことに代わり、このイエス・キリストは自らを一度、十字架に捧げることにより、全ての人の罪を赦し、きよめるのです。

そして、その十字架の上でこのイエス様が「すべてが終った」と言われて息を引き取られた時にあることが起こりました。そうです、その時、エルサレムにある至聖所を隔てていた神殿の幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれたのです。

何かが裂かれる時、明らかなことは、それが下から裂かれるのなら、下にある何かの力が働き、それが裂けたということです。上から裂けたということは、上にある何かしらの力がそれを裂いたということです。言うまでもない、神と人とを隔てていたこの神殿の幕は神自らが引き裂いたのです。

その隔てが裂かれたということは、神様が人間とお会いになる神聖な至聖所がイエス・キリストの十字架によって全ての人に開かれたという意味なのです。そのことによって神殿における礼拝の終わりが告げられたのです。今や誰でも、あなたも私もイエスの名によって、神にお会いすることができるようになったのです。

ヘブル人への手紙にはそのことがどんな意味を持つかということを明確に記しています。

「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのである」(ヘブル10章19節、20節)

皆さん、私達は毎年、このクリスマスの時期に飼い葉桶に寝かされているイエス様について話を聞きます。しかし、今日はイエス様の誕生というのは、イスラエルの歴史の中で、イエス様がこの地に幕屋をはったことなのだとお話しました。そして、さらにこのイエス・キリストはそれまで1000年来、なされてきた神殿での祭儀をご自身を通して、新しいものとされたのです。

私はこのようなことを皆さんにお話しをすべく、準備していて鳥肌が立ちます。なぜなら、聖書に記録されている数千年を隔てている点が今や一つのラインで結ばれているからです。あのアダムとエバの罪から始まり、その罪を明らかにすべく律法が人に与えられたこと、しかし、人の罪は消えず、その罪の赦しのために動物の血が幕屋、そして神殿の至聖所によって流され続けた。

しかし、その最も神聖なことの中にも人間の我欲が芽を出した。その最も神聖なことに関わるために民を代表していた大祭司もそうであったのですから、もはや人間は自らの罪に対してどうすることもできなくなったのです。

しかし、このことのためにイエス・キリストが幕屋に住むかのようにしてこの地に生まれ、このお方は自らを神殿とした。言い方は変ですが、このような筋書きが世の初めから成されていたということに私は驚きます。そして、このような世界全体を包み込むような筋書きということになりますと、それは世の初めから終わりまで全てを見ておられるお方以外にそれを導くことができる存在はないのです。

皆さん、実際のところ、この世界、いや、私達自身が直面している問題の原因は何ですか。それは全て私達の心の中から出てきているものです。出所はここです(ハートを指す)。

今朝の夫婦喧嘩から始まり、国と国との争い、果てはこの世界の環境問題にいたるまで、その問題の出所はここです(胸をさす)。「俺こそが正しい。俺はこれを欲しるのだ。お前がどうなろうと関係ない。全てお前のせいだ」。そんな罪が私達を混乱させ、私達を破壊へと導いているのです。

この心の中にある私達の罪のために、主イエスは、我らとの隔たりなく、飼い葉おけに生まれ(イラスト)、我らのために自らが罪の犠牲として死なれ、そして我らのために甦られたのです。このことが私達に与えられている聖書のメッセージなのです。

最後に今日、お話しした全てのことについて語っておりますヘブル人への手紙9章11節-15節を読んで、今日のメッセージを終えましょう。

11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。13もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、14永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

私達はベツレヘムの馬小屋の飼い葉に寝かされたイエス様の姿を思います。そして、その姿はこの世界に幕屋を張るために来られたお方の姿なのです。飼い葉に寝かされているイエスのもとに行くことを隔てるものは私達の前に何もありません。そして、私達はこのお方のゆえに、今日、はばかることなく、神の臨在のもとに近づくことができるのです。今は恵みの時、救いの時です、もはや私達と神との間に隔ての幕はないのです。何を立ち止まっているのですか?主イエスのもとにはばかることなく近づこうではありませんか。お祈りします。

本日のおもちかえり

1)聖書の物語は「移住する人達の物語」と言ってもいいものです。そう考えるのなら、私達も日本からの移住者です。他国に移住する時に私達はそこで何を経験し、そこから何を学ぶことができますか。

 

2)ヨハネ1章14節の「わたしたちのうちに宿った」という言葉は「幕屋をはった」ということを意味します。その御誕生について単に「やってきた」というのではなくて「幕屋をはった」ということから、イエス様のどんな覚悟を私達は感じ取りますか?

 

3)イスラエルの民は「祭壇」から「幕屋」へ、そして「神殿」へと神様への礼拝の変遷をたどりました。特に幕屋と神殿に関しては神様は細部にいたるまで、その作成方法を指示しました(出エジプト記25章―27章、列王記上6章)。このことは何を意味していると思いますか。

 

4)ヨハネ2章13節‐22節を読んでみましょう。この時の状況はどんなものだったのでしょうか。なぜ、神殿の境内で動物が売られ、両替商が店を出していたのですか。私達は神様より自分にとっての便利さとか、利益を第一に考えていることがないでしょうか。

 

5)後に、この神殿で言われたイエス様の言葉(ヨハネ2章19節)は、イエス様を追いつめていきました(マルコ14章58節、マルコ15章29節‐30節)。なぜ、人々の証言は正しくないのでしょうか。このイエス様の言葉は何を意味していますか。

 

6)へブル9章11節-15節、10章19節、20節を読みましょう。ここからイエス様と神殿のどんな係わりが分かりますか。エルサレムにある至聖所を隔てていた神殿の幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれた意味は、あなたにとってどんな意味がありますか。


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