決断によって導かれる人生

牧師の仕事柄、大切な相談を受けることがあります。それが誰であっても大切な相談を受けるということには責任を感じます。その任に誰が耐えられるだろうかと思います。このことにおいて自らは完全な者ではないということを認識していますが、できる最善をさせていただこうと祈り、願っています。

そのような日々を通りながら、私はある時からあることを心がけるようになりました。それは、その相談者が私の母親の年代の方なら、最初に「あなたを私の母と思って、祈り、考えて私の考えをお話しします」と申し上げます。

そうです、その人の悩みを他人ごとではなく思うためです。他人ごとなら、その人の機嫌を損ねないように、「すべきではないこと」、「続けるべきではないこと」を「いいんじゃないですか」と言ってしまう弱さが自分にあるからです。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

決断によって導かれる人生
2020年5月24日

先週はその齢、80歳となったモーセに神様が「あなたをエジプトに遣わし、パロの手からイスラエルを救い出す」と言われたことを見てまいりました。彼はその言葉に怖気づき、それを何度も拒みましたが、神様は彼を励まし続けました。

そして、いよいよモーセは意を決して、エジプトに向かいます。そう、彼はエジプトに行くことを決断したのです。

今朝も世界中で多くの人達がコーヒーにミルクを入れるか、入れないか、どのシャツを着るかというような決断をしています。調べてみますと人間は一日に9000回の決断をするという方がいます。ある方はその数には根拠がなく、実際にその数を調べた文献には35000回と書かれているといいます。どちらにせよ、私達に自覚はなく、信じ難いことですが、私達は一日に千単位、いいえ万単位の決断をしているようです。

そのほとんどは私達の人生に特別、影響のないものでしょうが、その中には人生の分かれ道となるような決断も含まれます。その決断により、人生の方向が変わります。そして、そうなりますと当然、その決断によって導かれる到達点も変わってきます。

私達は今、これまでに経験したことのないような状況下に置かれています。これからの私達の生活環境は変わり、人生の歩みに対しても新しい対応をしなければならなくなることでしょう。私達の前途にはこれからいくつもの大切な決断があることでしょう。それらの決断を私達はどのようになしていくのでしょうか。

私達の決断はとかく主観的になり、私達の願望が何よりも優先されがちです。また、その多くは私達の五感に頼るものです。見た目がよさそう、気持ちよさそう、得となりそう、幸せになれそう・・・。そのようなことを基準に私達は物事を決めていきます。

 五感が人の心を捕らえるということは、今に始まったことではありません。あのエバが禁じられた実を見た時、「その実は食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と思われ、彼女はその実を取って食べ、また共にいたアダムにも与え、彼も食べたと聖書は記しています(創世記3章6節)。

この彼らの決断は全ての人間を死に導き、彼らは神の園から出て行かなければならなくなり、以降、人は神の前に失われた者達となったと聖書は記しています。

私達はよく「綺麗なものには毒がある」「ただより高いものはない」「人生、そんなに甘くない」と自らを戒めますが、それでもこれらのことにより失敗を繰り返すことがあります。そうしますと今度は「石橋を叩いて渡る」ようになり、なかなか決断できずに、遂には石橋を叩きすぎて、渡るチャンスを失ってしまう人もいます。

私達は全知全能の神を信じる者です。そうであるのなら、私達の願いは神の御心にかなった決断をすることです。そして、それが私達にとりまして最善の決断であることを私達は知っています。それでは私達はどのようにして神の前に決断をすることができるのでしょうか。

今日の聖書箇所を読みましょう。この箇所はいよいよモーセがエジプトに向かう時のことを記録しています。

18 モーセは妻の父エテロのところに帰って彼に言った、「どうかわたしを、エジプトにいる身内の者のところに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているか、どうかを見させてください」。エテロはモーセに言った、「安んじて行きなさい」。19 主はミデヤンでモーセに言われた、「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ」。20 そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った。21 主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。22 あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。23 わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。24 さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。25 その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。26 そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。(出エジプト記4章18節―26節)。

 まず最初にここから「神は人を用いられる」ということをみてまいりましょう。

神は人を用いられる

この箇所を見る時に、エジプトに向かうにあたり、モーセはまず妻チッポラの父、モーセにとっては義理の父エテロのところに行き、言いました「どうか私をエジプトにいる身内のところに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているか、どうかを見させて下さい」(出エジプト4章18節)。

その時、モーセは具体的に彼がイスラエルの民を救いに行くということをエテロに相談をしていません。しかし、ここにおいて、彼はエテロから「安んじて行きなさい」という祝福を得ています。彼は義理の父に黙って、住みなれた地を離れることはありませんでした。彼はその許可を父から受けたのです。

モーセが80歳の時ですから、エテロも相当の年齢だったと思います。彼は長年、共に生活をしてきた家族の長です。もはや互いに気を遣うような間柄ではなかったことでしょう。故に相手を思い、言うべきことは互いに言い合うことができる間柄であったに違いありません。

私達も何かを決断する時に、それが神様のみ心かどうかを決める時に、誰かのアドバイスを受けることは大切なことではないでしょうか。そのような時に相談する人がいる方はさいわいです。

後にモーセがイスラエルの民を導き出し、荒野にいました時にこのエテロがモーセを訪ねてきたことがありました。義理の息子がどうしているのか、気になって様子を見にやってきたのでしょう。

その時にエテロはイスラエルの民が朝から晩まで問題を抱えて、ひっきりなしにモーセのもとにやってくるのを目の当たりにしました。これを見て彼はモーセに言います。

「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。15 モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。16 彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。17 モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。18 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。19 今わたしの言うことを聞きなさい」(出エジプト記18章14節―19節)

 エテロははっきりと言います「あなたが民にしているこのことはなんですか。このことはあなたにも、あなたと共にいる人達にもよくない。あなたたちは疲れ果ててしまうだろう。あなた一人でこのことは負うべきではない。今、わたしのいうことを聞きなさい」

そして、エテロは民の中から千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長をたてさせ、平素は彼らに民を裁かせ、大事件だけをモーセのもとに持ってこさせるようにとアドバイスします。そして、モーセはその父の言葉に従いました。

そのままいけば近いうちにモーセはバーンアウトしていたでしょうし、民は問題を解決することができずに互いの秩序が乱れていったことでしょう。

しかし、エテロのアドバイスがモーセとイスラエルの民を救いました。そう「あなたのしていることは良くない」と言ってくれる人が彼らを救ったのです。

牧師の仕事柄、大切な相談を受けることがあります。それが誰であっても大切な相談を受けるということには責任を感じます。その任に誰が耐えられるだろうかと思います。

このことにおいて自らは完全な者ではないということを認識していますが、できる最善をさせていただこうと祈り、願っています。

そのような日々を通りながら、私はある時からあることを心がけるようになりました。それは、その相談者が私の母親の年代の方なら、最初に「あなたを私の母と思って、祈り、考えて私の考えをお話しします」と申し上げます。

そうです、その人の悩みを他人ごとではなく思うためです。他人ごとなら、その人の機嫌を損ねないように、「すべきではないこと」、「続けるべきではないこと」を「いいんじゃないですか」と言ってしまう弱さが自分にあるからです。

しかし、母に対してそのようなことはしません。母の幸いを心から願うからです。同じようにそれが我が子のような相談者であるのなら、我が子に語るように語ります・・・。

当然、私が思うことが正しいとは限りませんし、ノーということは互いの関係にリスクを負うことになりますが、それでも必要であるのなら、心を鬼にして言おうと思います。なぜなら、それまでにそのことをしなかったことによる悲しい結末を何度も見ているからです。

残念なことで、このことゆえに二度と教会に来なくなる方達もおりました。おそらく「私の考え」と「その方の願い」が違ったのではないかと思います。私の心からの祈りと願いは、そのような方達がかつての問題を乗り越えて、どこかで主につながりながら元気に過ごしていることです。

主にある皆さん、皆さんのことを心から思い、共に主の御心を探り、あなたの決断に一石を投じてくれる人がいる人はさいわいです。

神様はエテロを用いて、モーセに大切な決断をうながし、そのことゆえに彼もイスラエルの民も一つの危機を乗り越えました。神様は時にこのように人を用いて、御心にかなった決断を私達にさせてくださいます。

二つ目のこと、それは神は既に語られているということです。

神は既に語られている

神様の御心を知る二つ目のこと。このことが一番、大切です。20節を見ますと、このように記されています。

20 そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神の杖を執った。21 主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい

モーセが80歳にもなって、エジプトに行き、パロに向かい、奴隷となっていたイスラエルの民の解放を訴えるということ、それは誰もが尻ごみしてしまうようなことでした。

しかし、その決断を可能にしたのはモーセに対する、それまでの神様からの語りかけであり、神様がなされたかつての御業でした。

覚えていらっしゃいますか。ここにいたるまでに、神様は既にモーセの杖を蛇に変え、その蛇を再び杖に変える奇跡をモーセに見せておりました(出エジプト記4章2節-5節)。この度、エジプトに向かうにあたり、モーセはその時の「神の杖」を携えていたのです(出エジプト記4章20節)

そうです、彼の持っている杖は、神様がかつてその御業をなした杖です。神様はその杖を指して言うのです。「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい」(出エジプト記4章21節)

かつてモーセに見せた神の力、その力の象徴、神の杖を持って、パロの前で再び私のみわざを成せと神様はモーセに言われました。神の力はこれからエジプトで事が起こる前に既にモーセに明らかにされていたことだったのです。

このことは私達に大切なことを教えてくれます。そうです、私達が何かを決断しようとする時、神様は既にその御心を私達に明らかにしているということです。

どのようにして?聖書に記されている神の言葉を通して、神様は既に私達が進むべき道を明らかにしてくださっているのです。

聖書の中に記録されている私達と同じ人間がどのような決断をしたのか。どのようにして右か左かという時に左を選んだのか。そして、その結末はどうだったのか。そのことを知ることは私達の今の決断に指針を与えてくれることでしょう。

日ごとに起きる出来事を聖書のみ言葉に照らし合わせていくことにより、私達は今の私達に対する神の御心を知ることができます。この主のみ言葉が私達の心に蓄えられていけばいくほど、今、自分が直面していることに関係する聖書の言葉や出来事が私達の心に多く思い起こされます。

そう、その時に私達は主の語りかけを聴いているのです。その時、神様は人にどのように関わり、何を願われたのか、それに対してその人はどのように応答したのか、その結末はどうなったのか。それを知る時に私達は今の立ち位置を知り、何を決断すべきかということに導かれていきます。

それは聖書をパッと開いて、おみくじのようにみ言葉を読むということではありません。こうなりますと、私達は自分が願っている方向を肯定してくれるみ言葉が出てくるまで聖書のあちらこちらを開くことになります。言うまでもなく、それは神の御心なのではなく、私達の願いなのです。

聖書は一連の物語です。一つの出来事には前後があるのです。その文脈を今、置かれている私達の状況にあてはめて、主よ、あなたの御心は何ですかと主の前に静まるのです。そうします時に、主は私達の決断に対して、どうすべきか、何を選ぶべきか、その御心は既に聖書を通して私達に語りかけてくださるのです。

最後のこと、「聴従が求められる」ということをお話ししましょう。

聴従が求められる

モーセはエテロからの祝福と神様の言葉を受けて、エジプトに家族と共に旅立ちました。しかし、その時に理解に苦しむことが起こりました。24節にそのことが記されています「さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた

このところを読まれて疑問をもたれた方がいると思います。なぜ、神様から受けた使命に従い、エジプトに旅立ったモーセを神様は殺そうとされたのか。この箇所は度々、議論になる箇所です。

モーセはその時、重い病気にかかったのではないかと言われています。それによってまさしく死線をさまよったのかもしれません。「なぜ、そんなことがこんな時に起こったのでしょうか」

モーセの心にも、家族の心にもそんな思いがわいたことでしょう。しかし、その時に分かったのです。彼は自分の子供に割礼を施していなかったということが。

「割礼」。あまり聞きなれた言葉ではないかもしれません。割礼とは生まれたばかりの男児の性器の先の皮を切り取る医学的な処置をいいます。アメリカの病院では男の子が生まれると看護婦さんが割礼のための同意書をもってきます。

この国で、この処置をするかしないかは親の自由で、それをするかしないかということが今日の私達のクリスチャン信仰に影響を与えるということはありません。

しかし、モーセの時代、男の子が生まれた場合、八日目に割礼をするということは、ユダヤ民族の祖、アブラハムから始まった神様からの命令であり、それがユダヤ民族と他民族を区別する契約となりました(創世記17章9節、10節)

アメリカの病院では子供が生まれた時から退院するまで一度も母親の元から子供が離れることはありません。しかし、一度だけ子が母から離れて別室に連れていかれる時があります。それが生後一日の男児になされる割礼を施す時なのです。

その時というのは子供にとって人生最大の試練の日です。後の記憶には残らないでしょうが、彼らは大泣きします。でも彼らがこの割礼の処置で深刻な病気になったり、命を落とすことはありません。なぜなら衛生的な場所でキチンとした器具と薬を用いてこのことは成されるからです。

しかし、モーセの時代にこの割礼を受けると言うことはまさしく命がけでありました。そこが化膿したり、ばい菌が入り、命を落としかねないことです。しかし、神はそのことをイスラエルの民に求めたのです。彼らを神の民として聖別するためです。

注解書によりますとモーセとチッポラには二人の男の子がいたようです。そして、彼らは長男のゲルショムには割礼を施したようです。しかし、次男のエリエゼルには割礼を施さなかったのではないかと言われています。

モーセの妻チッポラはミデアン人であり、アブラハムの子孫ですから割礼にことは聞いていたと思います。しかしながら、割礼を施すということを真剣にとらえていなかったのか、あるいは最初の子が割礼を受けた時に、その子が痛み泣くのを見て、命をかけて、そんな辛いことをせずともといいいではないかという思いが心のどこかにあったのかもしれません。

しかし、神様はこのことを見過ごしになりませんでした。彼らが神との約束をないがしろにして、イスラエルの民を救いに行くということを神様は良しとはされなかったのです。

ですから、この神から託されたミッションを成し遂げるために神様はモーセ夫婦を、そしてモーセの家族を取り扱いました。モーセと妻チッポラ、そして彼らの子達は同じ所に立って、エジプトに向かわなければならなかったからです。

神の民を先導する任を受けている者達。神様は特にそのリーダーに対して厳粛な聴従を求めました。「聴従」とは「聴いて従う」と書きます。

それは「確かに割礼については常々、聴いております」ということではなく、聴くだけではなく、従うことを意味します。その私達の聴従と共に神様はその御業を始めるお方なのです。

我が子に割礼をした後、チッポラはモーセに言いました。「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」

「血の花婿です」。ある注解書はこの夫婦は、この時まであまりよき関係が築かれていなかったのではないかと書いています。互いに信仰の温度差があったのかもしれません。それゆえにすれ違いが生じていたのかもしれません。

しかし、神の御心に夫婦共々従った時にはじめてチッポラは「あなたこそ私の夫なのだ」と言ったのです。神の前に彼らはまことの夫婦となったのです。

主にある皆さん、私達が主が導かれている新しいフィールドに出て行く時に、なぁなぁにしていることはありませんか。捧げきれていないものはありませんか。

私達にとりましてAC(After Corona)は未踏の地です。そこに主から遣わされるにあたり、私達が取り扱われるべきことはありませんか。

モーセが死に直面するという困難により、この夫婦は一つになりました。時に困難は私達を神の前に引き出します。このコロナの時、私達は主の前に再献身しませんか。夫婦そろって、家族そろって、主の前に出ませんか。

色々な事情で現在、お一人の方もいらっしゃると思います。その方達も全く同じことが問われるのではないかと思います。これから主の御心と共に生きようという時に、私達の内に従いきれていないものはありませんか。

コンセントに差し込んだプラグが最後までしっかりと入っていなければ、電気が通らないように、神様もそのような状態では私達をお用いになることはできませんでしょう。これが主の御心だと受け止めたのなら、私達はそれに聴き従うべきです。

私は今朝、町で評判のコンサルタントや売れている自己啓発本の著者の話をしているのではなく、天地万物を支配され、モーセの杖を蛇に、蛇を杖に戻す力ある方。我々の命をいつでも手元に引き寄せる権威を持っておられるお方を前にこのことをお話ししているのです。

私たちの人生は決断の連続であり、その決断が私たちの人生を色々は方向に導きます。その節目節目に自分のことを本当に考えてくれる人のアドバイスに耳を傾けることができる人は幸いです。神様は時に人を用いられるからです。

また、既に聖書に記されているみ言葉が私達に神様の御心を示して下さっているということを知っている人はさらに幸いです。私達は主のみ言葉から決断にいたる主の御心を聞き取るのです。それに聴き、そしてその御心に従っていく時に私達は前途に開かれていく道を見出し、そこを主と共に歩むことができるのです。

人生の節目となるような地球規模の変化のうねりの中に置かれている私達、そのような中、これからの人生、どのように生きていくことが賢明なのか。今日の聖書の言葉はこの問いに答えを与えてくれます。主が私達の心に触れてくださり、その御腕に収めてくださいますように。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年5月24日

1)あなたは日々、どんな決断をしていますか。これまでの人生で一番、大きな決断は何でしたか。

 

2)あなたの決断は何によってなされていますか。なぜ、主の御心にかなった決断は大切なのでしょうか。

 

3)出エジプト記4章18節―26節、18章14節―19節を読みましょう。ここでモーセと義父エテロの関係はどのようなものであったと思われますか。

 

4)神様は人を用いて私達の決断を支えることがあります。あなたには思い浮かぶ人がいますか。私達にノーと言ってくれる人はなぜ大切なのでしょうか。

 

5)モーセは神の杖をとって(20)エジプトに向かいました。神様はその杖について「わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい」(出エジプト記4章21節)と言いました。以前に神様はその杖を蛇に変え、その蛇を再び杖に変える奇跡をモーセに見せておりました(出エジプト記4章2節-5節)。このことはなぜ大切ですか。

 

6)エジプトに向かう途中、神様はモーセを殺そうとされました。なぜですか?この出来事はモーセ夫婦(家族)にどのような影響を与えたと思いますか。

 

7)なぜ「聴く」だけではなく「従う」ことが大切なのでしょうか。神様が今、あなたがに語りかけていることがありますか。

 

8)コロナ後の世界という未踏の道を歩く時に、私達は多くの決断をしていくことになると思います。あなたは何をもってその大切な決断をしていきますか。

 


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください