現実的な状況で語られている言葉

時々、聞きます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」。皆さんの周りにも、そのように思われる人達がもしかしたら、いるかもしれません。

「牧師」という仕事の一つは一見、そんな「何の苦労もなく幸せそうねー」と思われる方達の悩みを聴くことです。そして、そのような中で思わされていることがあるのです。それは人が抱えている悩みというものは決して他者が知り得るものではないといことです。

理想的な夫婦、親子だと人に思われていながら、しかし、現実は誰にも言えない悩みを抱えていることがあるのです。ですから、今は心に刻んでいます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」などと誰が言えようかと。聖書の御言葉にあるように、私達は皆、自分の重荷を負いながら、日々を歩んでいるのです。

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現実的な状況で語られている言葉
2018年9月30日

唐突な質問ですが、皆さんは今、何か問題を抱えているでしょうか。悩みがあるでしょうか。試練と呼ばれるようなもののただ中を通っているでしょうか。これら問題とか試練は時と場所を選びません。時にはしばらく何もない平穏な時もあり、ある時は次から次へと問題が押し寄せてくることもあります。

ヨハネによる福音書16章33節でイエス・キリストはこう言われました「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

キリストは言われたのです「あなたがたはこの世では悩みがある」。これは極めて断定的な言葉です。普通、物事を断定するには、その裏づけと確信がなければなりません。そして、その裏づけと確信がどこからくるかと言いますと、その人自身が自らそのことを体験したということにあります。それがあってはじめて、この言葉には力があります。

イエス・キリストはその教えと活動をおよそ30歳になって始められました。それまではナザレという小さな町で大工をしていたであろうと言われています。それは人からの注文を受けて、家具を作ったり、修繕したりする肉体労働でした。このことを通して、イエス様はその家族の家計を支えたのです。

このこと一つとっても分かることは、イエス・キリストは私達と同じように苦労して働き、それによって日々の糧を得ていたということです。

仕事中に木材を削っていて指に深い傷を負って、後、一か月仕事ができずに収入が立たれたとか、家族の者がマラリアにかかったとか、親戚夫婦の問題、子供が悪しき道に行ってしまった友人の悩み、人に騙されたり、盗まれたり、幼馴染が突然、亡くなったというようなことも目の当たりにしたに違いありません。

これらご自身の33年の経験をふまえて、キリストは言われたのです「あなたがたはこの世では悩みがある」。

もしかしたら聖書の言葉を読んでも単なる慰めにすぎないと思っている方がいるかもしれません。「それはきれいごとでしょ」とか「そうは言っても現実はね」と思われる方もいるかもしれません。しかし、聖書を読む時に「イエス・キリストは現実からかけ離れて理想ばかり語っていた」ということを支持するその姿を見出すことはできないのです。彼はしっかりと地に足をつけ、そこでもがき喘いでる人達と共に生き、そのただ中から言葉を語られたのです。

聖書の中には人間が発するあらゆる匂いがあります。時に血生臭い匂いがします。夫婦の険悪な空気を感じます。子供が親に対して抱いている殺気をその文章の中から感じます。伴侶以外の者に魅かれていく男達、女達の生々しい光景がそこにはあります。裏切り、反逆がいたるところにあります。

イエス様は目の前にいる空腹の群衆を見、彼らにパンを与えました。同時にその魂の渇きに命の水を与えました。姦淫の現場で捕らえられ、引きずられてきた女性の羞恥心を受け止め、その女性に対して石を投げつけようとする者達の殺意を感じ取りました。自らの弟子ながら、接吻をもって自分を裏切ったユダの表情を間近に見ました。

自らの手首、足首の骨に釘が撃ち込まれ、痛みゆえに気絶してもおかしくない十字架の上で、イエス様が心にかけていたことは、その足元にいる寝食を共にしてきた母マリアのこれからの生活でした。そうです、自分が母のもとから居なくなった後にも、彼女の生活は続くという現実、すなわち彼女には寝食する場所が必要だということをイエス様は知り、命尽きるその直前まで、そのことを気にかけたのです。そのイエス様が言われるのです。「あなたがたは、この世では悩みがある

時々、聞きます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」。皆さんの周りにも、そのように思われる人達がもしかしたら、いるかもしれません。

「牧師」という仕事の一つは一見、そんな「何の苦労もなく幸せそうねー」と思われる方達の悩みを聴くことです。そして、そのような中で思わされていることがあるのです。それは人が抱えている悩みというものは決して他者が知り得るものではないといことです。

理想的な夫婦、親子だと人に思われていながら、しかし、現実は誰にも言えない悩みを抱えていることがあるのです。ですから、今は心に刻んでいます。「あの人には何の問題もなく、幸せそうでいいねー」などと誰が言えようかと。聖書の御言葉にあるように、私達は皆、自分の重荷を負いながら、日々を歩んでいるのです。

さて、それではこの「悩み」ということについて考えてみましょう。この「悩み」は言い方を変えれば「問題」とか、その受け止め方次第では「苦労」と言い換えることもできるかと思います。

私達は「苦労は買ってでも受けなさい」と言われて育ってきました。しかし、昔も今もこの言葉に対する私達の思いは「いいえ、けっこうです」なのです。正直、苦労はやはり嫌ですよ。「あなたが本当の偉人になりたいなら天から試練が降ってくるように願いなさい」なんていう恐ろしい言葉もあります。本当に思います「いいえ、偉人になんかならなくってけっこうですから、試練など降らせないでくれ!」。これが私達の本音ではないでしょうか。

でもたとえ私達が「嫌です、嫌です」と子供のように手足をバタバタしても、悩み、苦労、試練はいつも私達のすぐ側にあるのです。手足をバタバタすれば、これらが通り過ぎてくれるのなら、手足がちぎれるほどバタバタします。しかし、実際は違います。それは私達にめぐってきます。

日本語には「可愛い子には旅をさせろ」という言葉もあります。ユダヤ人の家庭では子供が大学を卒業すると、その後一年、子供にバックパックを背負わせ、世界を旅させると聞いたことがあります。

大学を出てすぐに職につかず世界を一人で旅する。働きもせず、一年もの間、世界をさまようということ、そこには何か意味があるのでしょうか。もちろん、意味があるから彼らも彼らの親もそれをよしとしているに違いありません。

そうです、彼らは一人で諸外国を巡ることにより、学校では学べないことを経験することができるだろうという価値をそこに認めているのです。ツアーの旅行なら添乗員が事前にあらゆる苦労を全て取り去って、私達を空港で待っていてくれます。私達がすることは用意されたバスに乗り、バスから降りて案内を受け、備えられた美味しい食事をとり、夜は事前に予約が入れてある宿で休むことなのです。万が一、トラブルが起きれば、あの手、この手をもって助けてくれるでしょう。私達は安くないツアー費を払っている大切なお客なのですから。

しかし、一人旅はこれらのことが一切なく、全ての事に対して一人で向き合い、それを解決しなければなりません。言葉が通じないような見知らぬ土地でのトラブルはとても大きなチャレンジとなります。

ユダヤ人の親は「お前は一つの学問をおさめた。しかし、世の中で生きていくということは、学校で学んだことだけでは太刀打ちできないということを異国で肌で感じてごらん。自分にとって全てであることが、世界の中では、それがほんの一部であることを知りなさい。これらの経験は全てあなたの宝となるから」と子供達の背を押すのかもしれません。こうして、彼らは本当の知恵というものを培っていくのです。そして、それらが彼らの生涯の宝となるということは言うまでもありません。そして、興味深いことに、そのために一役買っているのは、これまでお話ししてきた彼らの「悩み」であり「苦労」なのです。

なぜ、このようなことを彼らは考えるのでしょうか。そうです、お気づきかと思いますが、ユダヤ民族の歴史、そのものがまさしく異国の地を巡って生きるという歴史だったからです。彼らは先祖達が放浪しながら悩み、苦難に陥った、そのことの中に意味と価値を見出しているのです

アブラハムは「住み慣れた土地を離れて私が示す地に行きなさい」と神から言われ、それに従いました。そのことは言い方を変えれば「不便と苦労のただ中に身を置きなさい」ということです。ノアが神から受けた使命は乾燥した土地、そして海も川もないような場所で巨大な箱舟を造るということです。これを意味のない労苦と言わずになんと言いますか。ヤコブは父と兄との確執により、安住の家を逃れていきます。そう、その日から彼らはその日に食べるもの、その日に身を横たえる場所を自分で確保しなければなりませんでした。

ヨセフは兄達に裏切られ、エジプトに奴隷として売られていきます。このように聖書の中に登場する人間たちの日々は苦労で満ちています。そうです、そもそもイスラエルという民族は400年もの間、異国エジプトで奴隷となり、そこから脱するも今度は40年もの間、荒野をさまよいます。以降、イスラエルの歴史は滅亡と捕囚へと導かれていきます。なぜ、彼らはこのような茨の道を通るのでしょうか。

彼らがそのような道を通らなければならない原因は多分に彼らの側にありました。しかし、神様はたとえ彼らがそれらを巻き起こしたとしても、そこから彼らが得ることができることについて語りかけているのです。そして、それは単に試練や問題によって、私達がたくましくなるというようなことではなくて、聖書が言っている問題や試練の最大の意義は、それらを通して私達が神を知るようになるということなのです。

所有する全ての財産、10人の子供達、自らの健康を失ったヨブが、その最後に言った言葉は何でしたか。そうです、彼は言いました 2 わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。3 『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。4 『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。5 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします6 それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ42章1節ー6節)。

ヨブ記は冒頭、ヨブは類まれな人格者であり、神を畏れて生きていたと記録しています。そうです、その彼は神について耳で聞いていたのですが、彼はその受けた試練を通して、今や神をその目で拝見したというのです。これは彼が実際に神を見たというのではなくて、神のことがさらによく分かりましたということなのです

私達がこの地上で受ける試練に対して、私達は神に「このことはこうして欲しい」と祈り、願います。そして、その祈りが神様の御心にかなうものであるのなら、神様はその祈りを聞いてくださるでしょう。しかし、神様は私達の願いを何でもかんでも叶えることに第一の重きを置いているのではなくて、そのことを通して私達がご自身のことをさらに知るようになることをまず願っているのです。

あのエマオの途上の弟子達に対してイエス様は道すがら語りかけました。その時、彼らはどん底にいました。そんな彼らにイエス様は歩きながら、語りかけたのです。そして、彼らはそのことを振り返り、それがイエスであったと知った時に心が燃えたのです。

彼らにイエス様がなされたように、主は道すがら私達に語りかけるお方です。茨の道を歩んでいるような、その道すがら、ご自身はどんな者であるかということに私達が気がつくことを願われるお方です。試みと呼ばれるような道すがらに主は私達に神とはどんなお方であるかということを教えてくださるのです。

もし、私達が今、問題の中にいるならば、それは私達にとって神を深く知る極めて大切な時であります。そのことを詩篇を書いた記者は短く、しかり力強く、言いました「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」。(詩篇119篇71節)。この有名な言葉は明らかに試練を通して、あなたのことをさらによく知ることができました。ゆえにその苦しみは私には良きものでしたと言う信仰の告白なのです。

パウロはⅡコリント1章8節-9節においてこう言いました「わたしたちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心の内で死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするにいたった」。

彼の直面していた問題は極度のもので、耐えられないもので、生きていく望みすら失い、心の内では死すらも覚悟するものでありました。このような状態を私達は絶体絶命と言います。しかし、その時に彼は一つのことを悟ったのです。それは、自分自身を頼みとせずに、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするということです。そう、彼はその試練を通して、さらに自分を頼みとせずに、神を頼みとすることを知ったのです。

しかし、それにしても私達はまだ思うのです。「いいえ、主よ、あなたのことはあまり深く知らないで結構ですから、この試練を取りのぞいてください」と。そうです、私達はまだ知らないのです、分からないのです、神を知るということの本当の価値を。それではこのことを悟った人はいるのでしょうか。聖書にはそんな人が出てきます。パウロです。パウロはこのことに気がついたゆえに言ったのです。

 8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである』(ピリピ3章8節―9節)。

パウロはキリストを知る知識の絶大な価値を知ったのです。知ってしまったのです、そして、その時から物事の見方が変わりました。自らの試練を通してキリストを知ることができるということを天秤にかけた時、彼はキリストを知る、キリストのうちに自分を見出すということに絶大な価値を見出したのです。

しかし、くどいようですが、それにしても私達の悩み、試練は辛いものです。早く過ぎ去ってほしいと願うものです。ですから、そんな私達にイエス様は「あなたがたは世にあって悩みがある」と言うだけではなく、その後に一言、つけ加えておられるのです。

「あなたがたは世にあって悩みがある」。さぁ、このお方は次に何を言うのだろう。イエス様は短く一言いいました「勇気を出しなさい」。

最近、よく取り上げています、クリスチャン作家のフィリップ・ヤンシーは制しがたい暴力を持つことで知られていたこのちっぽけな惑星、地球に、しかも何度も預言者たちを拒絶したことで知られている人種の中にイエス・キリストが生まれることをよしとされた神には勇気が必要だったと書いています。

そしてG K チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)の言葉を引用しています。「あらゆる宗教の中でただ一つ、キリスト教だけが創造主の美徳の一つに勇気をつけくわえた」と。イエス様が地球で過ごされた最初の夜から、その最後の日まで、イエス様には絶えず勇気が必要であったのだと。そして、そのお方が私達にも語りかけるのです。「勇気をだしなさい」と(『私の知らなかったイエス』いのちのことば社)。

ここでイエス様が言われている「勇気を出す」ということは、「くよくよしていても仕方がない。とにかくがんばれ」というようなことではありません。私達にこの言葉を語りかけるその根拠は、その直後に言われているように「わたしは既に世に勝っている」という宣言にあります。

そうです、先日も礼拝の中でお話ししましたが私達の悩みはこの世に関することです。しかし、イエスはその世に既に勝っているというのです。だから私達に必要なことは、その主と共に今日も歩き続けるための勇気なのです。

このメッセージを備えるにあたり、「勇気を出しなさい」というこのイエス様の言葉に向き合った時に、私はこれはギリシア語ではどういう意味があるのか、私は牧師ですから、まず、その解釈に心が向きました。

しかし、その時、私はそのような解釈を一度、脇において、あえて私は一人になれる場所で何度も何度もこの一言を自分の心に語りかけたのです。

そうしましたら、心の中にイエス様の頼もしい大きな手が思い起こされました。その手は、悩みに直面して座り込んでいる自分に差し出されているのです。そして、その時にイエス様の言葉が私に優しく、しかし力強く語りかけるのです。「勇気を出しなさい」と。

主は私達に手を差し伸べることはできます。しかし、その手を握って「はい」と立ち上がるのは私達であり、その時に必要なのは私達の勇気なのです。そう、その勇気を私達は朝毎に必要としているのです。

荒野をさまよっていたイスラエルの民に神は10日分のマナをくださいませんでした。神様は彼らに朝毎にマナを与えたのです。ですから私達も今日、勇気を出してイエス様の手を握り、主と共にこの一日を生き、今日が終わったら明日、また同じように主と共にこの世を歩んでいくために勇気をもって、その手を握るのです。一日の苦労はその日に十分であると言われるイエス様は、その一日に必要な力を私達にくださるお方なのですから。そして、そのように一日、そしてまた一日と主と共に送る日々の先に、主は私達にとって最善のものを備えていてくださると私達は信じるのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年9月30日

1)あなたは今、何か悩み(問題)を抱えているでしょうか。その原因は何ですか。これまでの過去の悩み(問題)をどれくらい覚えていますか?

 

2)「あなたがたはこの世では悩みがある」(ヨハネによる福音書16章33節)というイエス様の断定的な言葉にあなたは同意しますか。なぜですか。

 

3)なぜイエス様は「あなたがたはこの世では悩みがある」と断定的に言うことができたのですか。

 

4)「可愛い子には旅をさせろ」という言葉の真意は何ですか?

 

5)「苦労は買ってでも受けなさい」とか「あなたが本当の偉人になりたいなら天から試練が降ってくるように願いなさい」という言葉がありますが、あなたはこの言葉を受け入れることができますか。なぜですか。

 

7)ヨブ42章1節ー6節を読みましょう。諸々の悩み(試練)を通ったヨブが最後に言っていることは何ですか。

 

8)詩篇119篇71節、Ⅱコリント1章8節-9節が言っていることは何ですか。この二つの御言葉に共通していることは何ですか?

 

9)ピリピ3章8節―9節を読みましょう。ここでパウロは何に価値を見出していますか。パウロにとって、それはどれほど価値のあることでしょうか。

 

10)「勇気を出しなさい」というイエス様の語りかけをあなたはどのように受け止めますか。


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