神に喜んでいただく生き方

沖永良部という離島の教会におりました時、その島ではじゃがいもを生産・出荷していました。その季節になりますと「これが今年の初ものです」と言って島の人が届けてくれました。私達が何かをいただく時、それが「初もの」であると聞くと、喜びと感謝がさらに大きくなります。

それは初ものが特別おいしいということよりも(確かにそれもあるでしょうが)、自分の畑で獲れた最初のものを手にした時に、その方が私達の顔を思い浮かべてくださって、「これはあの人にまず食べてもらおう」と思ってくれた、それが私達は嬉しいのです。私達はその方の心に感謝し、それを心から喜びます。

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神に喜んでいただく生き方
2018年8月26日

私達は生活の中で色々な喜びを感じる者です。目標としていたことを達成した時に私達は喜びを感じます。祈っていた祈りがかなえられた時、喜びを感じます。

レストランを営む人は、料理を食べたお客さんが「おいしかった」と喜んでくれた時に、それは自分の喜びとなります。車のセールスをしている人は「自分にぴったりの車を勧めてくれた」とお客さんに言われれば、それはその人の喜びとなります。このように喜びが自分の仕事にともなうと、それが私達のやりがいとなります。そして、そのようなやりがいを仕事の中に見出すことができる人は幸いな人だと思います。

あの人の、この人の喜ぶ顔、それが見たくて私達は一生懸命働き、自らを犠牲にすることがあります。そのために、多大な労力を使うとしても、誰かが喜んでくれるのなら、そんな苦労も吹き飛んでしまうのです。

聖書は神様が私達に命を与え、その神様は私達が母の胎内で造られていく様を見守られたと書いています。私達が産声をあげた瞬間、その誕生を喜ぶ父母と同じように、神様は微笑みながら温かく私たちを見守っていました。

神様は私達の誕生を心待ちにしていて下さり、私達に命を与えることを喜びとされたので、私達は母の胎でかたち造られ、この世界に生まれてきたのです。そんな私達はその神の栄光のため、その目的のために、そして、その喜びのために存在しているのです。

そうです、神に喜ばれること、それは私達の人生の目的の一つなのです。そこで今日は具体的にどのように神様に喜んでいただくことができるのかということをお話ししたく願っております。まず最初に神様を礼拝するということについてお話ししましょう。

 神を礼拝する

私たちは今日、この礼拝に集ってきています。なんのためでしょうか。会いたい人がいるからでしょうか。美味しい食べ物が用意されているからでしょうか。いいえ、「神様を礼拝するため」に集まってくるのです。

それでは神を礼拝するとはどういうことなのでしょうか。私達は時々、心の中で思います。「今日の礼拝では教えられた、励まされた」。それは素晴らしいことです。しかし、その思いは礼拝について全てを説明するものではありません。なぜなら、私達が教えらえるとか、何かをいただくということが礼拝において一番、大切なことではないからです。

新約聖書の原語であるギリシア語によれば、礼拝はプロスキュネオーと言います。そのうちのプロスとは「-の方へ」という意味で、キュネオーは「キスする」という意味です。すなわち、礼拝の意味は「-の方に向かって口づけする」という意味なのです。「口づけする」とは、相手に対して最高の敬意を表すことを意味し、その中には「ひれ伏する」とか「拝む」という意味も含まれています。

すなわち私たちは今「神様に向かい口づけするほどに、私たちの敬意を神に示し、ひれ伏して神を拝む」ためにこの礼拝に来ていると言えます。礼拝は自分を喜ばせるためのものではなくて、私達の存在の原因と理由である神の前にひれ伏して拝するためにあるのです。

ローマ書12章1節―2節において、パウロは言いました「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。

ここには「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と書かれています。そう、パウロは「神に喜ばれる」と書きました。礼拝の中心は私達自身を神様に捧げ、それを神様に喜んでいただくということです。そうです、神様は私達の心からの礼拝を喜ばれるお方です。

沖永良部という島にいた頃、その島ではじゃがいもを生産しており、その季節になりますと「これが今年の初ものです」と言って島の人が届けてくれました。私達が何かをいただく時、それが「初もの」であると聞くと、喜びと感謝がさらに大きくなります。

それは初ものが特別おいしいということよりも(確かにそれもあるでしょうが)、自分の畑で獲れた最初のものを手にした時に、その方が私達の顔を思い浮かべてくださって、「これはあの人にまず食べてもらおう」と思ってくれた、それが私達は嬉しいのです。私達はその方の心に感謝し、それを心から喜びます。

「礼拝する場所」についてサマリアの女がイエス様に尋ねた時に、イエス様は礼拝する場所よりも、その時の心の在り様について話されました。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」』(ヨハネ4章23節ー24節)

そうです、神様は霊なるお方でありますゆえに、私達も霊とまこととをもって礼拝するべきであり、それこそが父なる神が求めておられることだというのです。心からの礼拝を神は何よりも喜んでくださるのです。

創世記でアダムとエバの二人の息子が神様のもとに捧げものを持ってやってきました。その時のことを聖書はこう書き残しています。

1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた』(創世記4章1節-4節)。

言うまでもなく、これらの地の産物も家畜も神が大地に与えたものです。それらを彼らは神に捧げたのですが、そもそも、それは彼らのものではなく、神のものなのです。その神の所有物を二人はそれぞれの捧げものとして神の前にもってきたのです。「神に捧げるもの」というのは、それが何であれ、すべからず全てこのようなものです。そうです、それは神に与えられているものの一部をお返しするということで、「捧げましたよ!」と胸を張るようなことではないのです。

アベルもカインもそのように神にそれぞれが与えられているものの中から、神に捧げたというのですが、神は弟アベルのものを顧みられたました。

なぜですか?なぜなら、アベルが捧げたものは家畜の中でも肥えたもの、また初子だったからです。しかし、カインの捧げものは、きっと収穫した地の産物の中でもかたちの整わないものであったり、余りもののようなものであったのかもしれません。言うまでもなく、神様は捧げられたものを喜んだのではありません。それはそもそも神のものなのですから。神様が喜ばれたのはアベルの真実な心なのです。

これは日本で時々見かけるカレンダーです。こちらはアメリカで一般的に用いられているカレンダーです。違いが分かりますか。このカレンダーでは日曜日は週末なのです。そう、日曜日はウィークエンドなのです。しかし、私達にとりまして日曜日はその週の初めの日なのです。

この違いは私達が思う以上に大きいのです。私達は週の一番最初の時、それを自分のために使うのではなくて、心をこめてその時を主にお捧げするのです。心身のエネルギーを使い尽くした残り物のような週の終わりを神様に捧げるのではありません。過ぎました一週間の恵みを想い、その間も神の許しあって生かされて新しい週を迎えることができたことを主に感謝するのです。そして、これから始まる新しい週も主に期待し、まだ起きていないことを主にお委ねして、週を始めるのです。

週の初めの日の朝、まず第一に何よりも先に、神様の前にひれ伏し、礼拝を捧げる、そのようにして一週間を歩み出すことができ、それを全知全能の神が喜ばれているということ、このように始めた一週間ゆえに、私達の心は整えられ、主の御手の中に安んじて、毎日を過ごすことができるのです。

私達はふと思うことがありませんか。この礼拝の時間であの事もこの事もできる。ちょっとお待ちください。全知全能の神が喜ばれ、私達に微笑みかけてくださるということ以上の新しい一週間への備え、果たして、そのようなものはあるのでしょうか。

『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる』(マタイ6章33節)という御言葉は頭で理解するものではありません、実際にそうしてみて、納得させられるものなのです。二つ目の事です。

キリストに仕えることによって

そして、この礼拝とは日曜日の朝限定のものではないのです。それは生活の一部ではないのです。礼拝はこれから始まる一週間の私達の生活そのものです。

このローマ12章の続きに書いてある通りです。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ知るべきである」。そう、私達は常に何が神の御心であるのか、また何が神に喜ばれるのかということを考えなければなりません。

それでは、神に喜ばれるために私達ができることは何なのでしょうか。ローマ 14章18節にはこう書かれていますこうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ人にも受け入れられるのである」ここには私達が神に喜ばれるにはどうしたらいいのかということが明確に書かれています。そうです、私達が日々、神に仕える時に神はそれを喜ばれ、さらにはこのことゆえに私達は人にも受け入れられるというのです。

また、ヨハネによる福音書12章26節にはこうも書かれています。「もし、わたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もし、わたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう

私達が神に仕える時に、神はそれを喜んでくださる。さらには、そのような私達を神は重んじでくださるとここには書かれています。

私たちがどのような人間になるべきか、その目標となって余りあるお方がいます。その方こそがイエス・キリストです。私たちは多くの偉人を知っています。しかし、それらの偉大と呼ばれている人々の多くが自分の生き方に最も影響を与えた人として「イエス・キリスト」の名前を第一に挙げています。

人間が求めるべき理想はキリストの内にあるのです。コロサイ2章9節―10節には、そのことをこのような言葉で記しています「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである」。

キリストの内にこそ、全ての神の徳が宿っているというのです。そして、それはキリストの内に満ち満ちているというのです。神の徳の片鱗が少しあるというのではないのです。その徳がまさしく溢れんばかりに満ちているというのです。

熟練した僕とは、自分の主人が何を考え、こんな時にはどうするのかということを察知していく僕です。神の徳に満ちているイエスは何を感じ、何を思い、こんな時、どうするのだろうということを私たちが知り、そしてそのように私達が生きていくこと、それがイエスに仕えていくということです。

もし私達が主人であるなら、そのような僕を喜び、彼を重んじるように、父なる神様も神に仕える私達を喜び、重んじて下さるのです。主にある皆さん、あの人、この人ではなくて、神に重んじられる、これ以上の光栄と励ましがありますでしょうか。

さらにはこのように生きようとする時に私たちには一つの驚くべき祝福がついてきます。すなわち、その人は「人にも受け入れられる」ということです。

私達が互いに受け入れ合うことは難しい事です。しかし、神様は私達を完全に受容してくださいます。さらには私達がキリストに仕えていく時に、私達は周りの人達によって受け入れられていくというのです。そうです、神が重んじる人を人も重んじるようになるというのです。

数週間前に藤巻充という牧師についてお話ししました。家庭内暴力と引きこもりのはしりとなった若い時を過ごした方です。学校にもなじめずに17回も退学した方です。親も教師も学友も大嫌いでした。しかし、イエス・キリストと出会ってから、すなわちイエス様によってそのありのままの自分が受け入れられ、先生ご自身もイエスに仕えて生きていこうと決めてから、先生に起きた顕著な変化は、それまで敵意すら感じていた人達が皆、いい人に思えるようになったというのです。これまで憎悪の対象だった先生や友人が素晴らし人に見えるようになったのです。

そして、その素晴らしい人達が教えてくれることに耳を傾け、それを習得するようになりました。こうして以後、先生は学問の世界でも大きな貢献をなされますすなわち、それまでは腫れ物に触るかのように取り扱われていた先生を皆が受け入れはじめ、重んじるようになっていったというのです。

キリストに仕えることにより、キリストがそれを喜んでくださることを知る。その人を神は重んじ、ひいては人にも受け入れられていく。この生き方が私達におよぼす影響は声を大にして言っても言い尽くすことはできません。

故にここに私達の人生の秘訣が隠されています。人生とは人間関係なしでは成り立ちません。私たちを力づける、あるいは打ちのめす、その要因となるほとんどのことは人間です。人間こそが私たちの喜びの原因で、人間こそが私たちの悲しみの原因です。この人に受け入れられていく人生、これは何にも変えがたい私たちの収穫ではないでしょうか。

神の満ち満ちた徳を宿しているキリストに仕える僕は、人間にも愛され受け入れられていくのです。

神に立ち返ることによって

聖書の中に明らかに神様が喜んでいると記されている聖書箇所があります。それは、ルカによる福音書15章に集中して3つの譬えによって書かれています。そして、その喜び方ときたら半端ではないのです。もうその顔からは満面の笑みがこぼれ、飛び上がるような喜びがそこには記されているのです。一つ一つのイエスの譬を見てみましょう。

ルカ15章4節―7節
④「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。⑤そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、⑥家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。⑦よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にあるであろう。

ルカ15章8節―10節
⑧また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。⑨そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。⑩よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前で喜びがあるであろう」。

三つ目のたとえ話。それは有名な放蕩息子のたとえ話です。

二人の息子がいた。弟が父から将来、譲り受けることになっていた財産を受け取り、遠い国に行き、そこで放蕩に身を持ち崩しました。最後には豚を飼う世話をし、その餌すらも食べたくなるほどに彼は落ちてしまいました。しかし、その彼が雇い人の一人としてでもいいから父の元に帰ろうと家に帰ったのです。父は毎日、その弟息子を思い、外を眺めていたのでしょう。その姿を見つけると、走って近寄り、彼を抱きしめました。そして、最上の着物を着せ、彼のために一番美味しい肥えた子牛を引いてきてほふったのです。それを見ていた兄はすねてしまいました。自分は父の元でコツコツと仕えてきたのに、なんでこんな弟のためにここまでするのだ。その兄息子に向かい父は言いました「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」。

この3つの譬えは何を言っているのか。これは私たちが神の元には本来、失われているものであるということを言っているのです。そして、この私たちを神様は探しておられると言っているのです。私たちが神の元に立ち返ることを待ち望んでいるというのです。

そして、この3つの譬えに共通していることは、もし、私達が神のもとに立ち返るなら、神は大変に喜ぶと言っているのです。その喜びようは半端じゃないのです。ご自身だけではその喜びを抑えきれずに近所の人達を集めて、一緒に喜ぶという言葉がその喜びの大きさを物語っています。さらに天ではみ使いたちの間でも喜びがあがるというのです。

私たちが神を一番、喜ばせることができるのは、失われている私たちが神の元に立ち返った時です。その時に天においてビッグスマイルがあなたに向けられていることでしょう。

このたとえ話は神の愛を知らずに、神から離れて失われて生きていたものが見出だされたという喜びです。これをもう少し広く解釈するのならば、たとえクリスチャンであっても、神様以上にあのこと、このことに心が奪われ、神から離れているというような人をも考えることができるでしょう。このような者達も我にかえり、神のもとに帰るのなら、神はそれを喜んでくださるのです。

ネヘミヤは主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8章10節)と言いました。今日、お話ししてきましたように神様が喜んでいてくださる。、微笑んでいてくださるということを知る時に、私達はその神様を喜びます。そして、その喜びは私達の力となるのです。この喜びは一時的なものではなく、私達の生涯、最後まで続く喜びなのです。

今日は神様が喜ぶ3つのことをお話しました。神が私たちに微笑んでいてくれることを願うなら、私達は神様を第一として、心からの礼拝を神様に捧げるべきです。そして、心からキリストに仕えるべきです。そして、神に私達が立ち返るならば、それはそれは天において大変な喜びの歓声が挙がっているのです。

神様が私達を喜んでくださる、そのことによって私達があずかる恩恵はとてつもないもです。これを逃したらなりません。神が私達を重んじてくださる、これ以上、心強いことがこの世にありますでしょうか。お祈りしましょう。

 “A life that is pleasing to God”
Sep 2, 2018

We find happiness in many things in our lives. When a goal is achieved, or when a prayer is answered, we delight in these things.

When a customer eats a dish and is satisfied, that happiness also becomes the happiness of the owner of the restaurant. If a customer says, “You picked the perfect car for me”, a car salesman finds joy in this. In this way, when we find joy in our work, we find our work worthwhile and rewarding. I think people who find their work rewarding are blessed.

We work hard, and at times sacrifice ourselves to see the happy faces of others. Even if we labor, if it brings someone joy, our burdens are no longer become burdens.

In the Bible, it is written that God gave us life, and watched over us as we were made in the womb. When we gave our first cry for breath, God watches over us in the same way our parents did with joy.

We were formed in our mother’s womb, and we were born into this world because we bring joy to God. Therefore, we exist for God’s glory, and our purpose is for his delight.

To bring joy to God. That is one of our purposes in this life. This morning I want to talk about how we can bring joy to God. First let us talk about worshipping God.

 Worship God

Today, we are all gathered here. For what purpose? Is it because there are people we want to meet? Or because there is good food being served? No, we gather here today to worship God.

Then what does it mean to worship God? Sometimes we think in our hearts. “I was a taught a lot, and received a lot of encouragement at today’s worship service”. That is a wonderful thing. However, that does not reflect everything about worship. That is because learning something, or receiving something is not the most essential or important part of worship.

In the language of the New Testament, Greek, the word “worship” is Proskuneo. Pros means “forward to” or “toward” and kuneo means “to kiss”. Therefore, worship means “kissing forward to”. The act of kissing meant showing the highest respect, and this word is synonymous to bowing down and worshipping,

Therefore, right now we are here today to show our respect as if we are kissing towards God, and worshipping him. Worship is not something that is for our happiness, but is us bowing down and worshipping the one that is the cause and reason for our existence.

In Romans 12 1-2, Paul wrote,

Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship. Do not conform to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God’s will is—his good, pleasing and perfect will.

Here it says, “offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God-that is your true and proper worship”. Paul wrote here “pleasing to God”. The core of worship is for us to offer ourselves to God, and please him. Yes, God rejoices when we worship him from the bottom of our hearts.

When I lived on the island of Okinoerabu, people on the island produced potatoes, and when the season came, people came to me to deliver the first produce picked. When we receive something, and hear it is the “first picked” our happiness and gratitude increase.

That is not necessary because the first picked produce is the most delicious, but because when the person picked the first produce, they thought of me, and thought “I want to have this person eat this first”. That is what makes me happy. And I thank their heart for that.

When a Samaritan woman came to Jesus asking about where to worship, Jesus did not speak about the place to worship in, but the condition of the heart.

23 Yet a time is coming and has now come when the true worshipers will worship the Father in the Spirit and in truth, for they are the kind of worshipers the Father seeks. 24 God is spirit, and his worshipers must worship in the Spirit and in truth.”

Jesus says here that because God is spirit, so we must worship in the spirit, because that is what God desires. He is pleased by worship from our hearts.

In Genesis Adam and Eve’s two sons bring offerings to God. This story is written in the Bible like this.

Adam made love to his wife Eve, and she became pregnant and gave birth to Cain. She said, “With the help of the Lord I have brought forth a man.” Later she gave birth to his brother Abel. Now Abel kept flocks, and Cain worked the soil. In the course of time Cain brought some of the fruits of the soil as an offering to the Lord.And Abel also brought an offering—fat portions from some of the firstborn of his flock. The Lord looked with favor on Abel and his offering,

Everything on this Earth, the flocks, the soil, all are given to us by God. Cain and Abel offered these things to God, but all these things were God’s to begin with. Therefore, offering is giving God’s belongings back to him, and not something that we should be prideful about.

Abel and Cain both offered to God a portion of what they were given, but God looked with favor to Abel.

Why was this? That is because Able brought the fat portions from the firstborn in the flock. But what Cain gave may have not been rejected unripe produce, or leftovers. And God did not delight in this. The offering in itself belonged to God in the first place, and what God found pleasing was Abel’s faithful heart.

This is a calendar used in Japan. This is a calendar American’s generally use. Can you see the difference? In this calendar, Sunday is at the end of the week. But to us, Sunday is the first day of the week.

This difference is bigger than we may imagine. For us, Sunday is the beginning of the week where we offer our hearts to God. Sunday is not the end of the week, where we give what left-over energy we have from the week. Instead, we reflect on the past week, and come to God with thanksgiving for everything he has given us. Then we start the new week with expectation and trust in God.

On the morning of Sunday, out of everything we do in a week, we make worshipping God the first thing. And by this, God is pleased, and our hearts are reoriented to start the week in his hands.

We may think at times, I could be doing this or that instead of going to church. But what better way is there to prepare for the week than bringing joy to God and receiving his favor?

33 But seek first his kingdom and his righteousness, and all these things will be given to you as well.

This verse is not something we understand with our minds, but a conclusion we affirm and find for ourselves as we put into practice what Jesus commands.

By Serving Christ

Worship is not only limited to Sunday mornings. In fact, worship is not just a part of our lives, but how we live each week.

It is exactly how it is written in Romans 12.

But be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God’s will is—his good, pleasing and perfect will.

We must constantly be pressing into finding God’s will, and what pleases him in our lives.

Then what can we do to bring God joy? In Romans 14:18, it is written, 18 because anyone who serves Christ in this way is pleasing to God and receives human approval. Here it explains what we ought to do to please God. That is, whenever we serve him, we bring joy to God, and we also gain the approval of other people.

In John 12:26, it is also written,

26 Whoever serves me must follow me; and where I am, my servant also will be. My Father will honor the one who serves me.

When we serve God, he is pleased by us. But not only is he pleased, God honors us when we serve him.

When we think about the kind of person we want to be, there is a person who exceeds the desirable model, and that is Jesus Christ. We know many great famous people. And many of these people claim Jesus to be one of the most influential people in their lives.

The ideal we should seek is in Christ. In Colossians 2:9-10, this is written in these words,

For in Christ all the fullness of the Deity lives in bodily form, 10 and in Christ you have been brought to fullness. He is the head over every power and authority.

In Christ the Deity resides. It is not that a part of God resides in Jesus, but in complete fullness.

A skilled servant knows what the master wants and what the master would do in different situations. Serving Jesus means to pursue what Jesus feels, thinks, and would do in certain situations, and living it out.

If we were a master, we would be delighted and honor a servant who does this. In the same way, God is pleased and honors those who serve him. Dear brothers and sisters, it is not about seeking human approval, for there is no greater glory and encouragement than being honored by God

When we live to serve God, there is another surprising blessing, and that is that we also receive “human approval”.

It is difficult for us to accept each other. However, God receives us completely as we are. And when we begin to serve Jesus, we become accepted by people around us. In other words, those honored by God, are also honored by people.

A few weeks ago, I talked about a pastor named Mitsuru Fujimaki. He spent his youth in domestic violence and as a hikikomori-someone who never steps outside their house. He did not get along with people at school, and was expelled from 17 schools. He hated his parents, teachers, and peers. But he met Jesus Christ, and was accepted as he was. And as he began to serve Jesus, the remarkable change he saw in himself was that the people he hated so much began to appear as good people.

Pastor Fujimaki began to learn from these people and returned to academics. He goes on to make great contributions in the scholarly world. The person who was rejected by 17 schools began to be accepted and honored.

By serving Christ, we learn that Jesus takes delight in us. We are honored by God and accepted by people. I cannot explain the impact of this way of living through my words.

Therefore, the secret to our lives is hidden here. Our lives do not exist without human relationships. The thing that empowers us and discourage us is almost always caused by people. People cause joy and sorrow in our lives. To be accepted by people, that is a great yield for us.

Even the servants of Jesus Christ, who manifests the full deity of God, are accepted and loved by people.

By returning to God

In the Bible, there is a section that clearly reveals what pleases God. This is written through three parables in Luke chapter 15. And this joy is on a whole different level. This is a joy that causes people to jump up and down. Let us look at each of these parables in Luke.

Luke 15:4-7

“Suppose one of you has a hundred sheep and loses one of them. Doesn’t he leave the ninety-nine in the open country and go after the lost sheep until he finds it? And when he finds it, he joyfully puts it on his shoulders and goes home. Then he calls his friends and neighbors together and says, ‘Rejoice with me; I have found my lost sheep.’ I tell you that in the same way there will be more rejoicing in heaven over one sinner who repents than over ninety-nine righteous persons who do not need to repent.

Luke 15:8-10

“Or suppose a woman has ten silver coins and loses one. Doesn’t she light a lamp, sweep the house and search carefully until she finds it?And when she finds it, she calls her friends and neighbors together and says, ‘Rejoice with me; I have found my lost coin.’ 10 In the same way, I tell you, there is rejoicing in the presence of the angels of God over one sinner who repents.”

The third parable is a famous story of a prodigal son.

There were two sons. The younger son takes his half of the fortune and leaves home to spend his money recklessly. He ends up at a stable where he takes care of pigs and becomes desperate to the point where he eats the pigs’ feed. One day he decides to return to his father and ask to be made one of his servants. His father must have been thinking of him when he was looking outside that day. He sees his son in the distance, and runs to him and embraces him. He gives him the finest robe and kills a fattened calf to throw a feast for him. The older brother sees this and feels resentment towards his brother. Why is my brother rewarded when I have been working so hard all this time? His father sees him and says “We have to celebrate and be glad, because this brother of yours was dead and is alive again; he was lost and is found”.

What are these three parables illustrating? They are pointing to the reality that we are originally lost and far from God. And God is seeking and looking for us. He is waiting for us to turn back to him.

And the common aspect of these three parables, is that when we turn back to him, God rejoices greatly. And this joy is out of the ordinary. This joy cannot be kept to one person, and the father can’t keep the joy to himself. It overflows as people are invited to celebrate together and in heaven the angels are rejoicing.

What pleases God the most is when we return to God when we are lost. There is a big smile facing towards you in heaven in that moment.

Theme of this parable is God’s joy when the lost are found. This parable applies to everyone, even to Christian’s, who wander towards things that are not of God, and turn back to him. When someone returns to God, God rejoices greatly.

Nehemiah said, for the joy of the Lord is your strength. When we find that God is pleased with us and is smiling at us, we find joy in God. And that joy becomes our strength. This is not happiness that is temporary or situational, but everlasting joy throughout our life.

This morning we looked at three things that brings God joy. If we desire to please God, our first priority is to worship God from our hearts. Secondly, we are to serve Jesus Christ. And if we turn back to God, there are shouts of joy in heaven above.

To be pleasing to God, to cause God to rejoice, that is amazing grace. We cannot miss this opportunity. To be honored by God, is there anything in this world more reassuring than this? Let us pray.

Translated by Kou Okura

本日のおもちかえり
2018年9月2日

1)あなたはどんな時に喜びを感じますか?あなたはどんなことを喜びとして生きてきたいと願いますか?

 

2)今日のメッセージを聴くまで、あなたは「礼拝」というものはどのようなものだと考えていましたか?今日のメッセージから「礼拝」というものについてどんな発見がありましたか。

 

3)ローマ書12章1節―2節とヨハネ4章23節ー24節を読みましょう。礼拝に置いて神様がまず第一に私達に求めていることは何でしょうか?

 

4)創世記4章1節-4節を読みましょう。カインとアベルの捧げものの違いは何でしたか。ここから私達はどんなメッセージを受け取りますか。

 

5)ローマ14章18節には神が何を喜ばれると書いていますか。ヨハネ12章26節には「神に仕えようとする者」を神様はどのように取り扱ってくださると書いていますか。

 

6)私達の人生に「神に重んじられる」ということ以上の名誉がありますか?「神に仕える時に人にも受け入れられる」ということはどういうことでしょうか。

 

7)ルカ15章4節―7節、8節―10節、11節-32節の三つの譬に共通することは何ですか。ここから神様は何を喜ばれることが分かりますか。

 

8)ネヘミヤは「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8章10節)と言いました。なぜ主を喜ぶことは私達の力となり得るのでしょうか。


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