神のはたらかれる余地を確保する

怒りと復讐の心がある時に、私たちは完全にそれらの感情に支配されています。すなわち、私たちはそれらの苦い思いの奴隷となってしまうのです。朝から晩まで、その人のことを思うと、その顔を思い起こすと、脈拍は増え、心が騒ぎます。

ああ、悲しいかな、その相手は今頃、私達の気持ちなど露知らず、安らかに昼寝しているかもしれません。楽しく旅行をしているかもしれません。

しかし、私達の気持ちは怒りに燃え、体はそのストレスにむしばまれ、時には心身を病んでしまうのです。そんな私たちの状態を自由と呼ぶことはできません。それはあたかも見えないロープで心身共にがんじがらめに縛られたような状態なのです。

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神のはたらかれる余地を確保する
2019年1月13日

私たちは互いに関係を持って生きています。「人間関係」という言葉の中には夫婦関係、親子関係、友人関係、同僚関係、師弟関係と色々な関係があり、それは私達が関わりの中に生きていることをあらわしています。

私達は誰しもこの関係が良好であることを願います。争いよりも平和を、口論よりも楽しい会話を望みます。しかし、その望みに反して、その通りにならないことを私達は体験します。すなわち、その関係が混乱したり、壊れてしまうことがあるのです。

そのような関係において、何よりも辛いことは私達が誰かの攻撃や迫害を受ける時です。このようなことは私達のエネルギーを心身ともに奪っていき、私達は途方に暮れます。そのような時、私達はどうしたらいいのでしょうか。それに対する天来の処方箋がローマ人への手紙12章14節―21節には書かれています。

14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。 15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 20むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 21悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

このところには「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」と書かれています。さらには言い方を変えて「誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人に対して善を測りなさい」とも書かれています。

このような言葉を前に私達は驚きたじろぎます。なぜなら迫害する者、反対する者に対して、祝福をもって接すること、また誰に対しても善をもって対処するということは私達の常識ではとても考えられないことだからです。

当時、ユダヤ人には「18の祈り」が義務づけられていたといいます(これは聖書に記されている祈りではなく、彼らが作った祈りです)。そして、その12番目にはこんな「異端者の祈り」というものがあったそうです。

「自分をけなす者に希望がありませんように。すべての異端者とその開祖が立ちどころに滅び失せますように。速やかに思い上がっている政府が(当時のローマ帝国)、わたしたちの日に根こそぎ引き抜かれて、破滅しますように」。

正直、申し上げれば私達の心にある思いはどちらかというと、こちらに近いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ですから私達はこのローマ書に書かれている言葉に驚くのです。

ここには「できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(18)と書かれています。この「できる限り」という言葉に私達の心は向けられます。

パウロがこのローマ書を書いた時、彼は迫害されるということがどういうことか、よく知っていました。なぜなら彼自身、かつてはキリスト教徒を激しく迫害していたのですから。彼は迫害者であったゆえに、その迫害の中には、迫害されている者達ができる限り自分で対処しなければならないものがあるということを知っていたのでしょう。私達はこの「できるかぎり」という一線がどこにあるのかということを常に神様の前に祈り、考えなければなりません。

そして、パウロは20節以降にこんな不思議な言葉を残しています。20むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 21悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 これはとてもビジュアルな言葉でして、状況を想像しながら何度も読んでいると頭がだんだんと熱くなってくるような言葉です。すなわち、本来、敵であるが故に攻撃したり、争ったりする相手に対して、彼らにそのように向き合うのではなく、かえって悪に対して善をもって向き合うならば、彼らの頭には燃え盛る炭火を積むことになるというのです。

さらに注意深くここを調べますと興味深いことを発見します。この「彼に食わせ」という言葉の「食べさせる」という言葉ですが、この原語は「たくさん食べさせる」ということではなく、「少しづつ食べさせる」という意味がそこにはあるそうです。

そう、少しづつでいいのです。自分に対して敵愾心をもっている人に、無理して過剰に食べさせなくてもいいのです。このようなことを我々は「わざとらしい」とか「しつこい」と呼び、このことによってさらに関係がこじれることがあります。ゆえに機会があるのなら、自分ができる範囲で、心を込めて小さな善の応答から始めなさいというのです。

ちょっと考えてみましょう。例えばあなたの悪口を陰でコソコソと言い広めている人がいるとしましょう。

そのことで、その人は自分のストレスを解消しているのかもしれません。そう思えば、とても気の毒な人です。しかし、どうでしょうか、当の言い広められている人が、その陰口に気がついていて、それに対して反論ができ、攻撃に転じることができるにもかかわらず、その兆しを何も見せることがないとしたら。

それどころか、その人に対して敵対心を持たずに、小さな善が示され続けたらどうなるでしょう。そうなると、陰口を言い広めている人の心は、なぜ自分は陰口を語っているのか、その意味が分からなくなります。

さらにはその頭の上に燃え盛る炭火が積まれているような息苦しさを感じるようになるというのです。確かにこのことは私達に向けられる攻撃に対する有効な対処法です。実際にマーティンルーサーキングやガンジーはこの手段を取り、荒れ狂う暴力に対して勝利を治めたのです。

しかし、そうは言っても、おそらく皆さんは今、心の中でこう思っているかと思います。「牧師さん、そうは言っても、世の中にはこちらの善意に関係なく、炭火が頭にあるなんてことを全く感じることなく、相も変わらず攻撃してくる人がいるんですよ」。

その通りです。パウロがここで言っていることは、神が予め人の心に備えた良心に語りかけることです。しかし、悲しいかな、この世界にはその良心が失われている人達がたくさんいます。しかし、私達はそのことを驚き怪しみません。人が罪人である限り、それはさもあらんということです。

このような時、先に申し上げましたように"できる限り"、私達は平和を保つべきですが、時にはそのかたくなな心に向かって善意をもって、指摘しなければならないこと、行動に移さなければならないこともあるのです。

そして、それと並行して同時に私達が心に刻まなければならないことは、その時に、その問題は既にその人と私達の間の問題ではなく、その問題は神様の御前にも置かれているということを知ることなのです。なぜだと思いますか?

実は先の20節の言葉は箴言25章21節-22節からの引用でして、箴言にはこう書かれているのです「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もし乾いているならば水を飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる」。

ローマ書とほとんど同じことが、ここには書かれています。しかし、箴言の後にはこんな言葉がつけ加えられているのです「主はあなたに報いられる」。私たちに敵対している方に、その人に善をもって向き合うのなら、その人は神によって報いが与えられるというのです。

私は黙想しながら、そんな人達に与えられる神様からの報いとは何だろうと思いめぐらしていたのです。色々なことが頭をよぎりましたが、一つのことが心に迫ってきたのです。それは「自由」ということです。

怒りと復讐の心がある時に、私たちは完全にそれらの感情に支配されています。すなわち、私たちはそれらの苦い思いの奴隷となってしまうのです。朝から晩まで、その人のことを思うと、その顔を思い起こすと、脈拍は増え、心が騒ぐ。

ああ、悲しいかな、その相手は今頃、私達の気持ちなど露知らず、安らかに昼寝しているかもしれない。楽しく旅行をしているかもしれない。しかし、私達の気持ちは怒りに燃え、体はそのストレスにむしばまれ、時には心身を病んでしまうのです。そんな私たちの状態を自由と呼ぶことはできません。それはあたかも見えないロープで心身共にがんじがらめに縛られたような状態なのです。

コリント人への第二の手紙3章17節に書かれています「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある」。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。これは私たちにとって大きなチャレンジです。ましてや、敵に善意を示すということは本来、不可能なのです。これは私たち人間の本能に反することです。

しかし、もし、私たちと共に神の霊があるならば、それは可能になると聖書は言っています。不可能と思えることも、神の助けにより可能となるのです。それではその助けとは何なのでしょうか。

パウロはその助けをこう書いています。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

 ここに記されている「復讐」という言葉、その言葉には「罰する」という意味があります。そして、多くの場合、復讐、罰するという言葉の背後には「自分の正しさを確信しているし、相手の悪さも確信している」という思いがあるのです。

この後に「怒り」という言葉が出てきますが、私どもが怒っている時というのは、大抵、自分が正しいと思っている時です。自分の正しさを確信しないと怒りを貫く事はできないのです。

ゆえに、そう考える時に、ここでパウロは「自分の正しさの確信に基づいて復讐しないように」ということでもあるのです。なぜなら、その自分の正しさは完全なものではないからです。それではどうしたらいいのか。聖書はそれらを神に委ねよというのです。

実はこの箇所には日本語に訳されている聖書では見えない言葉が隠されているということを加藤常昭という牧師が言っています。それは19節に書かれている「神の怒り」という言葉です。実はこの聖書の原文となるギリシア語には「神の」という言葉はなく、そこには冠詞、すなわち英語でいうところの「THE」が記されているのです。すなわち、この箇所は「THE 怒り」と読むことができる箇所なのです。

そこで日本の翻訳者達は「神の怒り」と訳したのだと思います。すなわち、この聖書の言葉は、その時の怒りは人間のものではなく、その怒りは神のものなのだということを伝えています。そして、その神様が「復讐はわたしのすることであり、わたし自身が報復するから、わたしに任せよ」と言うのです。

「バーンアウト」という言葉は私達にとても身近なものとなりました。それは誰にでも起こりうると私達は知っています。このバーンアウトはあることにより起こります。それは自分では背負いきれないものを背負い続ける時に起きてくるのです。その背負っているものに私達はつぶされるのです。

もし、私がここでメッセージを語りながら、奏楽もして、献金も集めて、グリーターもして、礼拝後のコーヒーアワーの準備とあと片づけまでもしていたら、私は一月ももたないでしょう。さいわいなことにこれらのことを私は全て教会の兄弟姉妹にお任せしているから私は救われているのです。

バーンアウトに対する最大の解決方法は自分が背負っているものを、それに対処できる誰かに任せることです。今日、お話ししていることに関して言えば、公平な裁きを神様に全く委ねるのです。

ここに記されている「任せる」という言葉は、原文を直訳すると「場所を空ける」ということです。私共の怒りが占領していたその場所を退き、そのスペースを神様、あなたが占有してくださいと神の裁きに明け渡すことなのです。

今日のパウロの言葉は悪しきことに目をつぶれということではありません。それをそのまま放置しておけということでもありません。神はその悪を放っておくお方ではないとパウロはここに書いているのです。

私達が生きるということは、常に人との関係の中に身を置くということです。その時に私達は色々なことを経験します。激しい批判や攻撃の矢面に立つこともあります。その時に私達はどうすべきなのでしょうか。

神様の私達に対する御心は諸悪を黙認することではなく、できる限り、善意をもってそれに向き合うのです。さらにそのことはその相手と自分だけが向き合って対処している問題ではなく、そこには神様もおられるということを知ることです。そして、その神様がはたらいてくださる余地を確保し、その神様のはたらきにお委ねする時、私達は怒りと復讐心によって自分の心が支配されるという、不自由極まりない生き方から救われるのです。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年1月13日

 

1)ローマ人への手紙12章14節―21節を読みましょう。心に残る言葉がありますか。理解できない言葉がありますか。

 

2)『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい』(17)という言葉になぜ私達は驚くのでしょうか。

 

3)『あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい』(18)の「できる限り」という言葉にはどんな意味があると思いますか。

 

4)ローマ人への手紙12章20節を読みましょう。これはどのような意味を持っていますか。パウロはこのことを通してどんな力によって迫害する者の心を変えようとしていますか。あなたにはこのような体験がありますか。

 

5)私達が報復や怒りの思いを心に持ち続ける時、それはどんな影響を私達の心身に与えますか。それを持ち続けることは私達にとって益となりますか。このことにより自由を失うということはどういうことでしょうか。

 

6)私達はどのように報復や怒りから解放されますか。ローマ人への手紙12章19節を読みましょう。ここに書かれている「任せる」という言葉は「場所を開ける」という意味です。「神様に場所を開ける」ということはどういうことでしょうか。

 

7)20節の言葉は箴言25章21節-22節からの引用です。その内容はほとんど同じですが、箴言はその最後に「主はあなたに報いられる」と記しています。この場合、私達が受ける主からの報いというものはどんなものなのでしょうか。

 

 

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