神の前に静まる

皆さん、神様の存在を信じていますか。今、私達は礼拝を捧げているのですから、ここにいるほとんどの方は神様を信じていることでしょう。しかし「信じている」ということと「信じていることに基づいて生きている」というのは全く異なります。

私達はどれぐらい自分のことを知っているのでしょうか。もっと言いますと自分の限界をどれぐらい私達は知っているでしょうか。自分が依存しなければ生きられないということ、自分がどんなに間違いを起こしやすい存在であるかを私達は知っているでしょうか。

神はそんな私達の対極にあるのです。このお方に限界はなく、このお方は唯一無二、何かに依存しなければならない存在ではなく、完全に独立しているお方であり、このお方に過ちというものは一切、ありません。私達はこのお方を「信じている」と言っているのです。

それでは、なぜ、このお方のみ声をまず聴こうとしないのでしょうか。なぜ、このお方を第一としないのでしょう。このお方を第一にして生きることこそが、人たる者にとって最善の生き方であるのなら、なぜ私達はそうしないのでしょう。

この一時間を神様に捧げるよりもあのこと、このことをしておこう。神様は私達がその一時間で仕上げることを一秒でできることを知っていますか。私達が一時間かけて作り上げたものを一秒でなきものとすることができることを知っていますか。

それが対人関係に関することであるのなら、私達は自分が恐れている人にどうやって向き合おうかとあれやこれや、延々と思い巡します。しかし、その時にその人の全てを神様が掌握していることを知っていますか。それなら、なぜ、このお方が語られることを私達は聞かないのでしょう。

人生の秘訣はまず神を第一とすることです。自分が語る前に、神の御声をまず聴くことです。これに勝る秘訣はないのです。

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神の前に静まる
2019年2月3日

私は時間がある時に努めてジムに行くようにしています。できるだけ健康を保つことは大切な仕事の一つと思っているからです。ある時、そのジムで一人の婦人が怒っているのです。何事かと思いきや「行く所、行く所、聞きたくもない音楽が流れている。エキササイズする場所でも、ロッカールームでも、プールに行っても、うるさくてかなわない。さっき係員に苦情を言ってきたのよ」と言うのです。

確かに言われてみれば、そのジムではかなりのボリュームで音楽が流れていました。音というのは強引なところがありまして、聞きたい人にはいいのですが、聞きたくない人にとりましては気になるものです。

今日のアメリカや日本でこのように音に対してクレームをつける人はあまりいません。いちいち「うるさい」と言っていたら、私達はどこにも行けなくなってしまうほどに巷には音が溢れているからです。

今や公共のトイレにいっても音楽が流れています。せめて車の中でと思いきや、信号待ちしていれば、ズンドコ、ズンドコとものすごい大音量の車が横に停まります。若者達は音がなければ、落ち着かないとでも言うかのように、いつもイヤホンを耳に入れています。

このような世界に身を置いていると、「静けさ」とか「沈黙」というものは、もはや私達が求めるものではないかのように思われます。しかし、聖書において静けさの中に身を置くということはとても大切なものとされています。

今日はこれらのことを心に踏まえつつ、「神の前に静まる」ということについてお話しをしたいと願っています。まず最初に「静けさを確保する」ということについてお話ししましょう。

静けさを確保する

 聖書を開きますと、度々、静けさの中で神が語りかけるということが書かれています。旧約聖書の列王記上19章を見ますと、預言者エリアについて書かれています。このエリアは神を畏れますが、人を恐れることはない大胆不敵な人でした。

しかし、彼も人間、執拗に命を狙われるという状況に追いつめられて「もはや十分。私の命を取り去ってください」(4)と神様に弱音をはきます。

そのように意気消沈しているエリアに神様は語りかけるのですが、その状況はこのようなものでした。「地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」(12)。

時に大地が揺れるような衝撃と共に、燃え盛る火の中から神が私達に語りかけることを私達は期待します。しかし、聖書を読んでいきます時に、神はそのような状況ではなく、静寂の中、私達に細き声で語りかけたということを、あちこちで見つけることができます。

イエス・キリストは一人、静かになれる環境を確保しなさいと言われました。「あなたは祈る時には自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6章6節)。

諸々の音によって心が散漫となってしまわないように、人の声や生活の物音から離れて、戸をしめて一人となり、静けさの中に身を置きなさいというのです。そして、静けさの中、神に祈りなさいというのです。この状況は与えられるものではなくて、私達の意志によって確保すべきものなのです。

そして、イエス様ご自身もこの言葉の通り、度々一人でさびしい所に出て行かれ、そこで祈ったと聖書は記録しています。そうです、自らの意思と共に静かな場所を確保したのです。

詩篇4篇4節‐8節にはこんな言葉があります「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい」。ここに記されているように、クリスチャンになるということは、怒るという感情をなくすということではありません。

義憤という言葉があるように、時に私達には不正に対する憤りも必要です。しかし、その時はその怒りゆえに、諸悪に手をだしかねない状態でもあります。

ですから、そのような時には努めて静かな場所に身を置き、そこで自分の心に語りなさいというのです。そして、その時に私達は静けさの中に語りかける神の言葉にも耳を向けるのです。

そして、この詩篇の4篇はこんな言葉で閉じられているのです「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」(8)。たとえ私達の心に怒りがあっても、静けさの中、私達が神と向き合い、自分の心に語るのであるならば、激しい感情が安けさへと変えられるのです。そして、安らかに眠ることができる。「このことを可能にして下さるのは主よ、あなただけです」とここでは語られているのです。

「一人静まること」ということは、聖書の時代にはとても身近なものであったに違いありません。彼らにとりまして静寂は確保しなければならないものではなくて、それは彼らの生活環境だったからです。

しかし、今日のように忙(せわ)しなく、色々な雑音に囲まれている私達にとっては、やはり自分でこの静かな時間を自覚的に確保するということが必要なのです。神の前に静まる時間、その場所を確保することは現代を生きる私達には訓練の領域なのです。

結局のところ私達の人生というものを形つくるものは、私達の習慣です。私達が毎日、何をしているかということの集大成が私達の人生となります。毎日、毎日、許容量を超えたアルコールを飲んでいれば、その人の人生はアルコールに支配された人生となるでしょう。

同じように私達が毎日、静けさの中、神様と向き合い、その命の食物である聖書の言葉に触れ続けていくならば、明らかにそれは私達の人生をかたち造るものとなるでしょう。そして、このことから受ける報いは、はなはな大きいのです。

2つめのことをお話ししましょう。それは「静まることは黙ること」ということです。

静まることは黙ること

息子達が小さいころ、サッカークラブに属していたことがあり、よく練習に顔を出しました。そこには私と同じような保護者がおり、子供の練習もですが、親を観察しているほうがおもしろいことが度々ありました。黙って子供を見守っている親、子供そっちのけで井戸端会議をしている親、やたらと子供に口出しする親・・・。

今も忘れられません。そのチームの中にジェームスという子供がいまして、彼はいつもおじいちゃんに連れられて練習に来ていました。この子は何かを言われるたびに、自分の思いを主張しているのです。

「走れ」と言われれば「疲れた」といい、「ドリブルをしなさい」と言われたら、「いや、僕はパスがしたい」というように・・・。この孫の言葉を聞いているおじいちゃんはその度にジェームスに向かって叫ぶのです。「ジェームス、ハッシュアップ! (Hush Up!)」。ハッシュアップとは「黙れ。静かにしろ」ということです。

静まるということは、ただ単に場所を確保することではありません。その所で黙ることです。それは、私達の口から出てくる言葉だけではなく、私達の心にある騒ぎもおさめることです。

ジェームスは自分が話している間は、コーチの言葉は耳に入らなかったのです。彼がコーチの指導を受けるためには黙らなければならないのです。

騒々しい周りの環境から離れて一人静かになりながら、ああでもないこうでもないと心を騒がすことなく、口を閉ざすのです。心の口も閉ざすのです。そして、静かに神様の前にとどまるのです。

サムエル記上3章には、神様が寝床で眠っている幼子サムエルに語りかけるという箇所があります。その時にサムエルはこう答えたのです「僕は聞きます。お語り下さい」。サムエルは「神様、まず、私が話します。だから、まず聞いていて下さい」とは言わなかったのです。彼はまず心から湧き出る思いを封じ、心の耳を神様に向けたのです。

ゼカリヤ2章には「全て肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ち上がられたからである」(13)という言葉が記されています。この2章には神様がイスラエルの民を、その見えないみ手をもって助け救い出してくれるだとうという彼らの将来に対する希望を記しています。

そのことはイスラエルの民が自分の力と策略でなすのではなくて、神ご自身がはたらかれて、そのことをなしてくださるだろうというのです。すなわち、神はすでにその聖なる場から立ち上がってくださっているのだから、私達のために働こうとしていてくださるのだから、私達はその神の前に静まるのだというのです。

ここで「肉なる者よ」と彼らが呼びかけられているように、我々は霊肉共に限界のある人間なのだから、己が言葉を押し留めて、まず神の前に黙して静まろう。そして、神がなしてくださることを見届けようではないかというのです。

皆さん、神様の存在を信じていますか。今、私達は礼拝を捧げているのですから、ここにいるほとんどの方は神様を信じていることでしょう。しかし、「信じている」ということと、「信じていることに基づいて生きている」というのは全く異なります。

私達はどれぐらい自分のことを知っているのでしょうか。もっと言いますと自分の限界をどれほぐらい私達は知っているでしょうか。自分が依存しなければ生きられないということ、自分がどんなに間違いを起こしやすい存在であるかを私達は知っているでしょうか。

神はそんな私達の対極にあるのです。このお方に限界はなく、このお方は唯一無二、何かに依存しなければならない存在ではなく、完全に独立しているお方であり、このお方に過ちというものは一切、ありません。私達はこのお方を「信じている」と言っているのです。

それでは、なぜ、このお方のみ声をまず聴こうとしないのでしょうか。なぜ、このお方を第一としないのでしょう。このお方を第一にして生きることこそが、人たる者にとって最善の生き方であるのなら、なぜ私達はそうしないのでしょう。

この一時間を神様に捧げるよりもあのこと、このことをしておこう。神様は私達がその一時間で仕上げることを一秒でできることを知っていますか。私達が一時間かけて作り上げたものを一秒でなきものとすることができることを知っていますか。

それが対人関係に関することであるのなら、私達は自分が恐れている人にどうやって向き合おうかとあれやこれや、延々と思い巡します。しかし、その時にその人の全てを神様が掌握していることを知っていますか。それなら、なぜ、このお方が語られることを私達は聞かないのでしょう。

人生の秘訣はまず神を第一とすることです。自分が語る前に、神の御声をまず聴くことです。これに勝る秘訣はないのです。

もしかしたら皆さんの中に、神を信じていない方もいるかもしれません。どうか覚えてください、神がいるか、いないかは二分の一の確率です。もしいないのなら、皆さんの人生には何の影響もないでしょう。

しかし、もしいるのなら、いるのに、その存在と無関係に生きるのなら、皆さんはとてつもない神の助けと神がくださる可能性と祝福を一切、知ることなく、人生を終えるかもしれないのです。

神の御前で口を閉じ、黙するということは、何もしていないことを意味するのではなく、全知全能の神が既に働いていてくださるということを信じ、その神からまず私達がどうあるべきかということを教えていただく、最も生産的な時間なのです。

最後のことをお話ししましょう。それは「静まることは聞き従うこと」ということです。

静まることは聞き従うこと

私達は何のために静まるのでしょうか。何のために黙るのでしょうか。私達は聞くために静まるのです、黙るのです。そして、その時に私達が聞くことには、とてつもない価値があるのです。

なぜなら、私達の心から口を通して出て行くものは、もともと私達の心にあったものですから、それが出て行っても私達の内に何かが加わることはないからです。しかし、私達の心に新たに入ってくるものは、私達に本当の知恵と希望を与えてくれます。

それは私達をさらに良き人間へと変えていく力のあるものです。私達に命を与え、私達の命を今日も保っていてくださるお方、私達の過去を全て知り尽くし、今の現状を完璧に理解しているお方が、私達に語りかけることを聞き逃すということは、もうそれはとんでもない損失をこうむっていることになります。

皆さん、それでは私達は具体的に神様から何を聞くのでしょうか。私達は神のみ心を聞くのです。「あなたはどう思われますか。あなたはこのことに対してどのようなお心をもっているのですか」と私達は神にたずねるのです。

イザヤ55章9節には「天が地よりも高いように、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」というみ言葉があります。私達が神に聞くということは、この私達の思いよりもはるかに高い神の思いを知るということなのです。

詩篇46編10節は言っています「静まって、私こそ神であることを知れ。私はもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。このみ言葉は明確に言っています。静まりなさい。なぜ?神は全ての人間によって崇められるお方ですから。崇めるということは、見上げるということです。

すなわち、このお方は私達よりもはるかに高いところにおられるお方であり、そのお方が私達のためにどんな計画を持っておられて、私達に何を語りかけているのかを知るために、私達は静まり、心の耳をこのお方に傾けるのです。

そして、それはただ聞くだけではないのです。「聴従」と言う言葉がありますが、私達はその神のみ心を聞き、それに具体的に従うのです。

創世記はアダムとエバが神に禁じられていた実を食べてしまったことを記録しています。あの時以来、人の心の中には罪が入り、以降、私達の歴史はこの人の罪により混乱と破滅を繰り返しています。

その罪が人の心に入るきっかけが何であったかご存知ですか。創世記を読んでいて見落としてしまうある一文にその原因が書かれています。

 『更に人に言われた「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」(創世記3章17節)。

彼らはこれよりも先に神様の言葉を聞いていたのです主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」』(創世記2章16節-17節)。

彼らはこの神の言葉に聞き、そしてそれに従い続けるべきでした。しかし、アダムはこの神の言葉に聞き従わずに、妻の言葉に聞き従ったのです。聞き従うべき言葉に従わず、聞き従うべきではない言葉に従った、このことが彼ら以降、全ての人間の人生に諸々の悲劇を与えたのです。

それではその状況の中にいる私達の前に希望はないのでしょうか。いいえ、この創世記の出来事を知る私達には、このことゆえに私達が歩む道が示されます。そうです、アダムが神に聞き従わないことにより私達の世界に罪が入り込んだのなら、私達がすべきことは、もう一度、神の御言葉に聞き従うという生き方を定着させることです。ヤコブはそのことをヤコブ書一章21節-22節に記しています。

21だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。22そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

主の御言葉をただ聞き流すのではなくて、それを行う者になる。すなわち、その御言葉に聞き従う者になる。こうして得られるものはかけがえのない私達の宝となることでしょう。

かつてイスラエルでは羊や牛が神に捧げられていました。しかし、それは形骸化されていきました。かたちだけのもとなったのです。その状況についてサムエルは言ったのです。

「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(1サムエル15章22節)

神様は私達がそのみ言葉を聞くことを望まれます。しかし、それではまだ不十分なのです。聞いて従う者を何よりも喜ばれます。それは神に捧げられる犠牲にまさるものなのです。あの人、この人の顔色をうかがい、そんな人からの承認と称賛を受けることに心を注ぐのではなく、神から喜ばれる人生を送る、すなわち神の言葉に聞き、そしてそれに従うこと、これが私達の生きる道なのです。

お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2019年2月3日

1)あなたは静かに神様とのお交わりをもつ時間を生活の中に確保していますか。それは難しいことですか。なぜ、難しいのでしょうか。この事が習慣となると、どんな祝福がありますか。

 

2)一人で静まることをイエス様ご自身も実践していました。なぜ、一人で静まることは大切なのですか。

 

3)詩篇4篇4節‐8節にはこんな言葉があります「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい」。静かに自分の心に語りなさいということはどういうことですか。

 

4)なぜ上記のことにより「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」(8)というような心境になれるのですか。

 

5)「全て肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ち上がられたからである」(ゼカリヤ2章13節)。主の前に静まり、そこで黙することは非生産的なことに思われますが、実際には違います。なぜですか。

 

6)創世記2章16節-17節を読みましょう。ここでアダムが犯した失敗は何でしたか?あなたもこのような失敗をしたことがありませんか?(このことは人の言葉に従うことが悪いといっているわけではありません)

 

7)主の御言葉を「聞くこと」と「聞き従うこと」にはどんな違いがありますか。神様はどちらを私達に望んでいますか。神様は何を一番、喜ばれますか(ヤコブ1章21節-22節、1サムエル15章22節)。


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