神の測りがたい知恵

私達は思います。クリスチャンだといったって世界の現実を見てみろ。もはや、そこにはクリスチャンが何を叫んでも届かないような大きな力があるではないか。周りを見回してもあまりクリスチャンはいないではないか。

このことは日本で暮らしていると特に実感します。学校の教室を見渡しても自分以外には誰もクリスチャンはいない。いいや、それはクラスだけではなく、学校の中に一人もクリスチャンがいない。職場においても同じ。近所においてもそう。統計に従うなら都会では100人に尋ねてやっと一人のクリスチャンに出会い、田舎においては1000人、2000人に一人というような確率であります。

信仰生活においてこのような現実の中に生きるということは大きなチャレンジをともないます。しかし、このような現実こそが聖書の世界で繰り広げられてきたことであり、このような状況の背後には神様の大きな御計画があるのです。

聖書を読んでいますと分かるのですが、聖書は一貫して「数が少ない」ということが敗北だとは言っていないのです。かえって少ない者達、力のない者達が勝利を得ていくというのが聖書の根底にあるメッセージなのです。私達は物事の全貌をつかむことができませんから、時に多い、少ないということで一喜一憂しますが、神様はそのような視点でこの世界を見てはいないのだということを私達は心にとめなければなりません。

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神の測りがたい知恵
ローマ人への手紙11章1節―12節
2018年2月18日

1そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。2神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。3「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。4しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。5それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。6しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。7では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。8「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。9ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。10彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。11そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。12しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう(ローマ11章1節-12節)

このローマ書11章はこんな言葉で始まります「神はその民を捨てたのであろうか」。

これまで数週間にわたりお話ししてきました、このローマ書9章から11章まではローマ書全体の中でも特別な箇所でありまして、この3つの章の中でローマ書の著者であるパウロは「神とユダヤ人の関係」に焦点を宛てて書いています。

すなわち、何度かお話しましたように、彼がこの手紙を書いた紀元56年頃というのは、イスラエルはローマ帝国の圧制のもとにあり、彼らはその厳しい現実に生き、またイエス・キリストにある救いを異邦人が受けることを見るにつけ、もはや神はイスラエルを捨てられたのだろうかという思いがパウロの心の中にもユダヤ人の中にもあったのです。

しかし、彼はこの箇所において自らに語りかけるように「断じてそうではない」というのです。そして、自分自身を取り上げて「わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である」と言っているのです。すなわち、わたしも彼らと同じ生粋のユダヤ人であるけれど、こんな私に神はその御目を注いで下さって、私を救ってくださったというのです。

そして、パウロはここでエリヤという預言者を取り上げています。エリヤにかつて何が起きたかということは旧約聖書の列王記上の18章と19章に詳しく書かれているのですが、その時にエリヤは異教の神々、バアルとアシラの神々の預言者850人に一人で立ち向かったのです。そして、彼はこの戦いに神の圧倒的な力を得て、たった一人で勝利するのです。

しかし、勝利の後、喜びも束の間、彼の命が当時の王の后によって狙われていると知り、勝利の高揚からガクンとどん底に落ちてしまいます。今日でいう強烈なディプレッションとでもいいましょうか、はてには神に向かい「主よ、もはや、じゅうぶんです。今、私の命をとってください」(列王記上19章4節)とまで泣きつくようになるのです。

すなわちこのローマ書11章3節に書かれているとおりです「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしの命をも求めています

自分は蛇に睨まれたカエルのようなもので、周りを見回しても自分の側に立つ者は誰もいないように思え、一人で崖っぷちに立っているような思いになったのでしょう。しかし、そんな彼に神様はこう語りかけたのです「バアルにひざをかがめなかった7000人を、私のために残しておいた」(ローマ書11章4節4、列王記上19章18節)。

エリアは緊迫した状況の中で孤独を感じていたのです。実際にそうなのです、彼の周りには誰一人、彼を励ます者の姿は描かれていません。一人でどうして一国の王とその后に立ち向かうことができましょうか。しかし、そのような時に神様はエリアに問いかけたのです。

「エリヤよ、お前は一人じゃないよ。お前は彼らのことを知らないだろうが、この街には私を信じている者達が、かの異教の偶像バアルに膝をかがめない民が7000人いるのだ」。

ダビデ時代の国勢調査によると、イスラエルの総人口は戦闘員が110万人といいますから、女性・子供も入れると250万人余りであったことでしょう。その内の7千人とは0.3%にもなりません。これは今の日本のクリスチャン人口よりも低い数であり、数字だけみたら風前の灯のような人の数です。しかし、ここでエリヤに語りかけている神様は明らかにこの数字をもって、エリヤを励ましていることがうかがいしれます。

皆さん、私達は多くの賛同者があると励まされ、力を得ます。しかし、反対に賛同者がなく、孤立無援だと思えばエリアのように打ちのめされてしまいます。それゆえに神は彼の側に立つものの存在を、たとえその数が少なくともエリヤに告げ、彼を励ましたのです。

エリアが感じたように、私達は思います。クリスチャンだといったって世界の現実を見てみろ。もはや、そこにはクリスチャンが何を叫んでも届かないような大きな力があるではないか。周りを見回してもあまりクリスチャンはいないではないか。

このことは日本で暮らしていると特に実感します。学校の教室を見渡しても自分以外には誰もクリスチャンはいない。いいや、それはクラスだけではなく、学校の中に一人もクリスチャンがいない。職場においても同じ。近所においてもそう。統計に従うなら都会では100人に尋ねてやっと一人のクリスチャンに出会い、田舎においては1000人、2000人に一人というような確率であります。

信仰生活においてこのような現実の中に生きるということは大きなチャレンジをともないます。しかし、このような現実こそが聖書の世界で繰り広げられてきたことであり、このような状況の背後には神様の大きな御計画があるのです。

聖書を読んでいますと分かるのですが、聖書は一貫して「数が少ない」ということが敗北だとは言っていないのです。かえって少ない者達、力のない者達が勝利を得ていくというのが聖書の根底にあるメッセージなのです。私達は物事の全貌をつかむことができませんから、時に多い、少ないということで一喜一憂しますが、神様はそのような視点でこの世界を見てはいないのだということを私達は心にとめなければなりません。

かつてパウロは新しい町に行くと、まずユダヤ人の会堂に入り、そこで福音を伝えました。そして、そこではパウロのイエス・キリストに対する信仰に異を唱えるユダヤ人がいました。ゆえにパウロはその福音を喜んで受け入れていく異邦人に向かって伝えていくようになりました(使徒行伝13章46節)。

パウロは一生懸命に同胞ユダヤ人に福音を伝えようとしたのです。そして、もし、そのことを聞いたユダヤ人が皆、その福音に心が動かされて、続々と主イエスを信じたのなら、パウロの働きは彼らに向けられていったことでありましょう。

イエス様の弟子達も同様に、彼らのメッセージを同胞ユダヤ人が聞いて受け入れるのなら、彼らはユダヤ人伝道に力を注いだことでしょう。しかし、ユダヤ人の心は頑なで、心を閉ざしていたので彼らの伝道はますます異邦人へと向かっていったのです。

旧約聖書に記されているイザヤ書はそんな彼らに対する神の言葉としてこんなことを記しています。⑨主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい。「あなたがたは繰りかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたは繰り返し見るがよい。しかし分かってはならない」と。⑩あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」(イザヤ6章9節―10節)

 神は何度もユダヤ人に祝福を注ぎ、助けの手を伸ばしてきたのです。しかし、彼らの心は頑なであり続けました。そこで神様は彼らの心をさらに鈍くし、その耳はさらに聞こえなくなり、その目はさらに閉ざされるようになったというのです。

このイザヤの言葉とダビデの言葉を引用してパウロはローマ書でこう言っているのです「神は彼らに鈍い心と、見えない目と、聞こえない耳とを与えて、今日、この日に及んでいる」と書いてある通りである。ダビデもまた言っている「彼らの食卓は彼らの罠となれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲がっておれ」(ローマ11章8節-10節)

先週もお話ししましたが聖書の世界を生きてきた彼らが、その舞台に現れたイエス・キリストを受け入れることができないということは、私達にとって不思議で不思議でならないのです。異邦人である私達であっても旧約聖書を読み、それぞれの出来事の前後関係を知り、そこにある数々のキリストに関する預言を知るのなら、旧約聖書に記されているイエスラエルと神の物語は必然的にメシア、イエス・キリストに導かれていくことになるだろうと察するのです。しかし、彼らの目は昔も今もこのことに対して閉ざされており、イエスを受け入れることがないのです。

しかし、先の「あなたがたは繰りかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたは繰り返し見るがよい。しかし分かってはならない」(イザヤ6章9節―10節)などを読みますと、私達はこの神の言葉に畏れおののきつつ合点がいくのです。まさしく、彼らは誰よりも聖書に精通しておりながら、誰よりも見ることができない、分かることができない状況に置かれているのです。この姿こそがイスラエルの民の姿であり、そして今のユダヤ人の姿なのです。

今日、多くのキリスト教徒がエルサレムを訪れます。そこには一目でそれと分かる姿と恰好をした多くの熱心なユダヤ教徒がいます。彼らを見ていると彼らの目にキリスト教徒である私達は全く映っていないのではないかと思うことがありま す。このような気持ちを私は他の民族に感じたことがありません。しかし、自分達だけが神の選民であるということを自負している彼らにしてみれば、その枠に入っていない私達には関心がないのだろうなということは理解できます。それが現在のユダヤ教に熱心なユダヤ人です。そう、彼らの目はまだ閉ざされているのです。

それではローマ11章の冒頭に書かれているように神はそんな彼らを捨てたのでしょうか。いいえ、違う、断じてそうではないとパウロは言います。すなわち、神の御計画は「かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」(ローマ11章11節)というのです。

ユダヤ人の神様に対する頑なな心ゆえに福音はユダヤ人に止まるのではなくて、異邦人、すなわち私達にも伝えられていくようになったのです。そして、それによってユダヤ人が奮起されることを神は望まれているのです。

このようなことを聞きますと私達は心の中でこう思うかもしれません。「なぁんだ、そうならユダヤ人は結局は神が好き勝手に使う駒にすぎないではないか。彼らの歩みは神の手の中にあって、彼らはその運命を飲みこまなければならないのではないか」しかし、忘れないで下さい。先週、みましたようにこのローマ書10章の一番最後にはこう書かれているのです「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手を差し伸べていた」。

神様の手は常に彼らに差し伸べられており、それは今もそうなのです。彼らには自らの手を伸ばして神様の手を握る自由が与えられているのですが、彼らはまだそこにいたっていないのです。神様のご計画はまだその途上にあるのです。そうです、このような状態はいつまでも続くのではなく、やがてこのユダヤ人達も主イエスに立ち返る時がくるというのが聖書が言っていることなのです。パウロはこの11章の最後にこう書いています。

25兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、26こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう(ローマ11章25節-26節)

そう、我々、異邦人がキリストを信じ、救われる時までユダヤ人は頑なであり、しかし、その異邦人の時が満ちるのなら、彼らも救われるであろうというのです。

先にお話したようにこの世界には、決して多くの数ではありませんが、私達が知らない「今の時にも、恵みの選びによって残された者達」(5)がいるのです。

すなわち、今日、ユダヤ人でありながらイエス・キリストを信じている少数のメシアニック・ジューと呼ばれる人達です。その数は圧倒的に少ないゆえに、そこからは何も起こらないように見えます。しかし、その切り株は残っており、その切り株に根がある限り、再び木は成長し、実を残すようになるというのが聖書が言っていることなのです。

そして、私達、異邦人という枝がこのユダヤ人の切り株から芽を出して成長しているというのがこれまでの2000年の歴史であり、聖書に記されているようにこの異邦人の枝の成長の時が満ちる時に、いよいよこの切り株かユダヤ人の芽が出、彼らも救われる時がくるのです。そうです、パウロは書いています。

 『28福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。29神の賜物と召しとは、変えられることがない』(ローマ11章28節-29節)。

今は多くの異邦人が主イエスを信じて救われている。それに反して今も頑なに生きているユダヤ人の姿を見ているのなら、彼らは神に敵対して歩んでいるようにさえ見える。しかし、彼らも確かにかつて神に選ばれた者達であり、神に愛せられている者達である。神が彼らを選び、彼らとなした契約が変えられたリ、破棄されたりすることはない。神の愛とあわれみは今も彼らと共にあり、それが失われることはない。神の真実は決して変わらないのです。

これらのことをしてパウロはこのローマ書11章の一番最後にこんな言葉を記しているのです。「ああ深いかな。神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが主の心を知っていたか。だれが主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように。アーメン」(ローマ11章33節-36節)。

神が古の時代にイスラエルという国を選び、そこから救いの手を伸ばされてきた。しかし、彼らは神の恵みと祝福に対して、それを拒み、また反逆を繰り返してきました。しかし、実はそのことにより、神のみ心はユダヤ人のみならず異邦人にまでおよび、今日その教えは世界余すところなく伝えられている。このような千年単位でなされてきている神の連続したご計画を私達が見出し、理解することは難しいのです。

今日、私達が常識的に考えて理解に苦しむほどにユダヤ人達はいまだに福音に背を向けている(この事実がかえって聖書の真理を証しています)。これらの出来事、一つ一つを見れば私達には何も分かりません。しかし、これらの出来事の背後にある神の壮大な御心に目が開かれていきますのなら、私達の口からも「ああ深いかな。神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」という言葉がおのずと出てくるのです。

皆さん、明らかに全能者なる神の知恵は私達の持っている知恵とは異なるのです。その広さ、深さは次元が違うのです。このメッセージを準備していて、私は何度も神様の前にひれ伏したい思いに支配されました。なぜなら私達の世界はまさしくこのローマ書に書かれているように今日にいたり、今もここに記されていることを私達は目の当たりにしているからです。

神の知恵は深い、それは窮めがたいもの。その道を測ることは私達には出来ません。そして、その測りがたき神の知恵は私達の人生の上にも注がれていることを私達は信仰をもって受け止めるのです。人生に起きる不可解な事、理不尽と思われるようなこと、その背後に神は私達には測り難い計画をもって、私達の人生をも導いていてくださいます。

私達の生涯に色々なことが起きても、そして、その出来事の意味が私達には分からずとも、神はそれにもみ心に留めていてくださる。私達の一つの理不尽なる点が次の点につながり、それはやがて一本の道となるのです。そして、その道を私達は神の窮めがたき知恵、神の愛と恵みが作り出した道と呼ぶのです。

私達が今日、暮らす世界では多くの評価は数字であらわされます。多い、少ないというとてもシンプルな尺度でその評価はなされ、私達はこのことで自分を見失ってしまうこともあります。

しかし、そのような時に私達はエリアに対して全体のたった0.3パーセントに過ぎない者達について言及され、彼を励ました神様の存在を思い起こさなければなりません。そして、現在も本当に少数ではありますが、イエス・キリストを信じ救われつつある少数のユダヤ人が起こされており、やがてその数は私達の想像を超えて、増し加わるのです。ああ深いかな。神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたいのです。

ユダヤ人の側では何度も神との契約を破るようなことをしました。しかし、神様は彼らとの契約に対して真実を貫いてくださっている。同じように、たとえ私達が自分の落ち度によって困難や悲しみを招き起こしてしまっても、恥をさらすような失敗をしてしまっても、神は私達を捨てることなく、そこから新しいみ業をなすべてく、私達に終日、手を伸ばしてくださっているのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年2月18日

 

1)ローマ人への手紙11章1節―12節を読みましょう。なぜパウロは「神はその民を捨てたのであろうか」(1)と思ったのでしょうか。

 

2)列王記上19章1節-8節を読みましょう。ここにはエリヤのどんな姿が描かれていますか。あなたがエリヤだったらどうでしょうか。

 

3)神様はどんな思いをもって列王記上19章18節の言葉をエリヤに語りかけたのでしょう。

 

4)7000人は当時のイスラエルの民の人口の0.3パーセントにすぎません。あなたの心は「数の多さ、少なさ」にどれぐらい左右されていますか。聖書はこのことについてどんなメッセージを私達に語りかけていますか。

 

5)今日、イエス・キリストを信じるユダヤ人は1パーセントに満ちません。それはなぜですか。ローマ書11章8節-10節を読みましょう。

 

6)神様はなぜユダヤ人の救いを今日のように導かれているのですか。ローマ11章11節を読みましょう。今日、キリスト教はどれぐらい異邦人(ユダヤ人以外の者達)に伝えられていますか。

 

7)ローマ11章25節-26節を読みましょう。ユダヤ人はいつ、イエス・キリストを受け入れるようになりますか。

 

8)ローマ11章28節-29節を読みましょう。神様にとってユダヤ人はどんな人達なのでしょうか。ここから神はどんなお方であることが分かりますか。このことは私達に何を語っていますか。

 

9)ローマ11章33節-36節を読みましょう。神の知恵と計画は私達には窮めがたいものです。あなたの人生に起きる理解し難い諸々の出来事に対して、この神がおられるということを信じることはなぜ大切なのですか。

 

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