神の熱心と私達の信仰によって

「熱心になる」ということは「自分がもっているものに強い確信」があるということであり、その自分がもっているものこそが圧倒的に優れていると考える傾向がありますので、人はそれぞれ違った考えを持っているとか、皆、それぞれが自分の置かれた状況の中を生きているといったことを忘れて、ただ自分の主義や信念だけを主張し、強引にそれを貫こうとします。

爆弾を体に巻きつけて自爆する過激な者達は、それによって犠牲となる人達の命、その人にも家族がいるというようなことを考えません。彼らは自分が信じていることにあまりにも熱心だからです。

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神の熱心と私達の信仰によって
ローマ人への手紙10章1節―13節
2018年2月4日

1兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。2わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。3なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。4キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。5モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。6しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。7また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。8では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。11聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。12ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。13なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである(ローマ10章1節-13節)。

ローマ人への手紙9章―11章はイスラエルの民、すなわちユダヤ人に関してパウロが書いているということをお話ししてきました。なぜパウロが3章もページを割いてユダヤ人について書いているかというと、旧約聖書はそもそもユダヤ人を神が選ばれ、その彼らの救いの歴史が記されているのですが、パウロが生きた時代になりますと、ユダヤ人がローマ帝国の支配下に置かれているというような抑圧されている状態にあり、さらにはイエス・キリストにある福音を多くの異邦人が受け入れるようになったのです。そうなりますとユダヤ人の間では「私たちと神との関係はどうなっているのだろうか」という疑問がわくわけです。

このことに対して自身もユダヤ人であったパウロは同胞の仲間達に向かってとても心をこめて「兄弟達よ、わたしの心の願い、彼らのために神に捧げる祈りは、彼らが救われることである」と語り、この10章を始めているのです。

この言葉で始まった10章において、パウロは主に3つのことを書き記しています。今日はその3つについてお話ししたいと思うのです。まず最初に「私達の熱心について」ということ、そして二番目に「自分で勝ち取るのではない」そして、最後に「心で信じ口で告白して救われる」ということです。

私達の熱心について

パウロが同胞の仲間に対して一つ、認めていたことがありました。それは、彼らが神に対してとても熱心であったということです。そして、パウロ自身もその同胞の中で誰よりも信仰に熱心な人であったのです。そのパウロが彼らのことを思い、こう言うのです。

わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない」。

熱心であることが大切なことは言うまでもありません。熱心には力があり、命があるからです。熱心な者達がいる所に事が起きます。私達が成し遂げた多くの事の背後には、そのことに対する熱心があるのです。しかし、その熱心には深い知識がともなわなければならないとパウロはここで言います。どいうことなのでしょうか。

パウロの仲間達は確かにとても熱心だったのです。何に熱心だったのか。彼らは神が彼らに与えた律法を守ることに熱心でした。しかし、神様が安息日に働いてはいけないと命じられた律法を、さらに事細かに自分達で手を加え「安息日には何歩以上歩いてはいけない」とか、「二つの干しいちじくよりも重い物を持つことは労働である」と自ら定め、熱心にそれを守っていたのです。それを守ることこそが神のみ心であると彼らは確信して生活しており、また他の者達にもそのことを勧めました・・・いいえ、勧めたというよりも他の者達にも強いたのです。

このことについてパウロ自身も彼らの気持ちがよく分かっていました。なぜなら、かつてのパウロは彼ら以上に熱心な人であったからです。ピリピ3章6節では自分自身を「熱心の点では教会の迫害者であった」と彼は言っています。回心前のパウロは自分の信じるところにあまりにも熱心であったために、自分とは異なることを信じているキリスト教徒を捕えることに情熱をかけ、彼らを獄に入れ、殺害の息をはずませて教会を荒らしまわっていたのです。なぜなら彼はあまりにも熱心であったからです。

世の中では「原理主義」という言葉が聞かれます。イスラム原理主義と聞けば私達はテロリストを思い浮かべます。原理主義とはすなわち自分の信じている原理に熱心であるということです。彼らの原理に対する熱心さはバランスを失い、その原理のためならいくらでも人を殺害しても正当化される異常なものとなりました。

そこで心に手を置いて考えたいことは、私達の間に、もしくは私達の心にもありませんか、このようなことが。とても熱心なのですが、それゆえに盲目となり、自分も周りの人も見ることができなくなって、そのことにより周りにいる者達に混乱をもたらしているようなことが。

「熱心になる」ということは「自分がもっているものに強い確信」があるということであり、その自分がもっているものこそが圧倒的に優れていると考える傾向がありますので、人はそれぞれ違った考えを持っているとか、皆、それぞれが自分の置かれた状況の中を生きているといったことを忘れて、ただ自分の主義や信念だけを主張し、強引にそれを貫こうとします。

爆弾を体に巻きつけて自爆する過激な者達は、それによって犠牲となる人達の命、その人にも家族がいるというようなことを考えません。彼らは自分が信じていることにあまりにも熱心だからです。

私達がクリスチャンになるということは、神様から聖霊の火をいただくことです。時にそれは火のごとく、私達の心を燃やします。しかし、このことは狂信的な熱心さをもつ人間になるということではありません。何かに熱狂するということではありません。パウロはこのことを心にとめていたことでしょう、コリント第一の手紙にこう書き記しています。

すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう』(Ⅰコリント14章15節)。そうです、私達が祈る時、賛美をする時、その時に私達の心は引き上げられます。しかし、そのことで高揚した心を私達は熱心という名のもとに、歯止めが利かないものとしてはなりません。パウロは続けてこう書いています。なぜなら神は無秩序の神ではなく、平和の神である』(Ⅰコリント14章33節)。

神は無秩序な神ではありません。神こそがこの世界に秩序をもたらしたお方です。ですから熱心ゆえに他のものを混乱に落としめて無秩序にしてはならないのです。なぜなら、それは愛に反するからです。愛とは無秩序なものではなくて、その相手を思うゆえに私達の熱心を治めることができる心の状態のことをいうのです。

もう一度、申し上げますが、ここで誤解していただきたくないことは、熱心とか情熱というのは、とても大切なものであるということです。私達はキリストへの情熱を持つべきです。しかし、その情熱には深い知識が伴わなければなりません。客観性をもって、自分のような情熱を持ち合わせていない人もいるということも知り、その方達に向き合わなければなりません。心は熱く、しかし頭は冷静に。太陽は私達に不可欠な温もりをくれますが、その同じ太陽が大地を焼き尽くすことができるのです。二つ目のことをお話しします。それは「自分で勝ち取るのではなく」ということです。

自分で勝ち取るのではなく                           パウロが指摘している二つ目のことが3節に書かれています。それは「パウロの同胞の仲間達が神の義というものを知らないで、自分で自分の義をたてようとしたこと、すなわち自分で自分を正しい者としている」ということです。

すなわち「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(3)と書かれている通りです。ユダヤ人の熱心さは自分で自分の正しさを獲得できるという思いに彼らを導いていきました。正しさは自分で勝ち取るものであり、そのために私達はもっと熱心にならなければならない、もっと熱心になって律法を守らなければならないと彼らは信じていたのです。

そして、その律法を守るという彼らの生涯に完成ということはありませんでした。そうです、彼らの毎日は「律法を守れた、守れなかった」という二つの間を行き来する日々となり、守れたら守れたで、守れなかった者達への優越感と裁きとなり、守れなければ守れないで、自己嫌悪に落ち込んでいくような状態を繰り返し生きることになったのです。

パウロも自分の体験からこれが分かっていたのです。分かっていたから彼らのしていることに同情と痛みを感じていたのです。パウロ自身がどんなに人から優秀に思われていた律法学者であっても、自分の心の中を覗き込めば、そんな人の評価などは吹けば飛んでしまう偽善が巣くうことを彼自身が一番、よく知っていたに違いありません。人は騙せても神と自分を騙すことはできません。

主にある皆さん、人にはできないことがあるのです。その最たるものが人が神の前に自分の正しさを示し、それゆえに救いを自分で掴み取ることです。

今日、話していたその舌の乾かない内に、翌日、全然違うことを真顔で話しているような者が私達です。人から言われた一言を一日ひきずり、いや、一生涯その言葉に縛られて生きていくのが私達です。人を計る物差しと自分を計る物差しという二つの物差しを状況に合わせてちゃっかりと使っているのが私達です。

こんな不完全な私達は神様の側から救いの手を伸ばしていただかなければ、自らを義とすることなどできないのです。そして、このために神様がなしてくださったことがクリスマスの出来事であり、十字架の出来事であり、そしてキリストの復活の出来事なのです。

先ほど、私達の熱心についてお話しました。この熱心ということに関して、興味深いことに私達の熱心だけではなく「神は熱心なお方である」ということを預言者イザヤはイザヤ書の中に書いています。神様が熱心であるというのです。はたして神様は何に対して熱心なのでしょうか。イザヤがこのことを記した時、そのことはまだ起きていませんでした。しかし、後にその神の熱心が実現したのです。イザヤ9章6節―7節を読んでみましょう。

⑥ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。⑦そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされのである

神は一人のみどり子を私達のために生まれさせた。そう、これはイエス・キリストがこの地に誕生したクリスマスのことです。イザヤはこのことが実際に起きる750年前にこの預言を記しました。そして、このキリストが地上に生まれた理由について、それは「万軍の主の熱心がこれをなされる」と言ったのです。

私達の熱心が私達を救うことはありません、しかし、神の私達に対する熱心が私達を救うのです。私達はどんなに熱心に背伸びしても天に届かぬ者でありますゆえに、あちらからこちらにイエス様が来てくださったのです。そして、このイエスによって人は救いを得ることができるようにされたのです。それは万軍の主の私達に対する熱い思い、すなわち愛ゆえなのです。それではキリストによって私達が救われるということはどういうことなのでしょうか。三つ目の事、「心で信じて、口で告白して救われる」ということをお話しします。

心で信じ、口で告白して救われる                      ここまで私達の側に救われる要素はないということをお話しました。それではどうしたら私達は救われるのでしょうか。私達はイエス様が私達のためになして下さったことを信じて、受け入れることによって救われるのです。パウロはそのことを10節において簡潔にこう言い表しました「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10章9節)。

信じるとは何か。何を信じるのか、信じることは多くはないのです。パウロはここで二つのことを記しているだけです。すなわち、「自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」。そして、13節にはこの言葉を補うかのように「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」と書いております。

かつてパウロとその仲間シラスがピリピという町の獄屋に捕らわれていたことがありました。この町は今も遺跡としてギリシアにあります。以前、このピリピの町を訪ねた時、彼らが捕えられていただろうという獄屋を覗き込んだことがあります。そして、思いました。「ああ、ここでパウロ達はあの有名な言葉を言ったのだろうな」。その有名な言葉とは何か。その獄屋に彼らがいた時に彼らを見張っていた獄吏がこんな質問をしたのです。

先生方、わたしは救われるために何をすべきでしょうか」(使徒行伝16章30節)。それに対してパウロとシラスはこう応えるのです「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。

二人は「救われるためには、これからエルサレムに行き3年の間、熱心に神について学びなさいとも荒野で断食をして身を清めなさい」と言いませんでした。彼らは一言、言ったのです「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたは救われる。あなたの家族も救われる」。

聖書の中に書かれている取税人ザアカイはそれまでの人生、不正な取立てをしてお金を儲けることだけに奔走するという人生を送っていました。しかし、このザアカイはイエスをその心に招きました。それは彼なりにイエスを主と信じたということでありましょう。その時にイエスは彼に向かっていったのです。「今日、救いがこの家に来た」(ルカ19章9節)。

キリストを挟んで右と左に共に十字架にかけられた犯罪人が二人いました。彼らは最初、イエスに向かい悪態をつき、イエスをののしってこう言ったのです。「あなたはキリストではないか、それなら自分を救い、また俺たちも救ってみろ」(ルカ23章39節)。

十字架の上で死を待つこの犯罪人は己が救われるために、自分がなしてきた悪行を全て帳消しにすべく、善行をすることはできません。自ら十字架に磔となっているのですから。その手と足の甲には釘が打ち込まれているのです。もし行いによって救いを獲得できるというなら、この犯罪人が救われる可能性は完全にゼロだったのです。

しかし、その犯罪人の一人は間近でイエスの姿を見て、心に感じるところがあったのでしょう、こう言ったのです「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」(ルカ23章42節、参考:マタイ27章44節)。彼はこの自分の横にいるイエスは御国の権威をもっているお方であるということを信じました。このことに対してイエスは十字架の上で即座に彼にこう答えたのです。「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23章43節)

パウロはⅡコリント6章2節で、数時間の内に死にゆくこの犯罪人に対してイエス様が言われた言葉について、こう書き記しています。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」。そう、今は恵みの時、今は救いの時です。私達はイエスを信じ、心に受け入れる時に、救われるのです。それはこれから数々のこなさなければならない善行をもってなされるのではないのです。それは全てあちらから私達に今、与えられているものです。

十字架に磔にされた犯罪人は人間的に見たら明らかにその救いを受けるのに値しない者です。そして、そのことはこの犯罪人だけではないのです。私達もそもそも神の救いを受けるに値しないような者なのです。しかし、神は私達に救いを与えようとされる。それが神の私達に対する熱心であり、ゆえに神はイエスをこの地に送られ、このキリストは私達のために十字架に架かられたのです。イエス・キリストの十字架の死は強いられたものではなく、イエス自ら私達のためにその十字架におかかりになったもので、このキリストの愛は無条件で今、私達に与えられているものなのです。このことに対して私達がすべきことは、それを信じることなのです。

私達はこのキリストに対して熱心であるべきでしょう。いいえ、イエス様が私達に対してなしてくださったことを思えば、私達の心は燃やされるのです。しかし、その熱心が私達を救いに導くのではありません。神の熱心が私達を救ってくれたのです。ゆえに私達は既に救われているのです。ゆえに今の私達はその神の恵みに応えて生きる者なのです。主の恵みに応えて生きる人生、これ以上の人生がありますでしょうか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年2月4日

1)ローマ人への手紙10章1節―13節を読みましょう。2節にはパウロの同胞であるユダヤ人が「神に対して熱心である」と書かれています。彼らの熱心とはどんなことだったのでしょうか。

 

2)ピリピ3章6節にはパウロも熱心であったと書かれています。熱心のよきところは何ですか。熱心であることについて気をつけなけれならないことは何ですか(他の参考箇所:Ⅰコリント14章15節、33節)。

 

3)それが何であれ「勝つ」ために私達がしなければならないことは何ですか。なぜ「救い」は私達が勝ちとるものではないのでしょうか。

 

4)聖書は私達がどうしたら救われると書いていますか(ローマ10章9節、 13節、使徒行伝16章31節)。

 

5)ルカ23章42節-43節を読みましょう。この犯罪人が与えられている命の残り時間は数時間です。この犯罪人に救われる余地がありますか。なぜ彼は救われたのですか。

 

6)イザヤ9章6節―7節を読みましょう。ここに書かれている神の熱心とは何ですか。

 

7)なぜ「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6章2節)なのでしょうか。

 

 

 

 

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