神(God) と神々(gods)との違いとは?

紀元50年頃にパウロがギリシアのアテネで語った言葉です。

『この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。(使徒行伝17章24節‐26節)。

この時、パウロは何を見ながらこの言葉を語ったと思いますか?答えはメッセージの中で・・・。

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神(God) と神々(gods)との違いとは?
2019年2月10日

シリコンバレーのIT企業に勤める人達であっても、現代文明に触れたことがない密林の中に暮らす部族の人達であっても、彼らには共通することがあります。それは、彼らは心の中に「神」という概念を持っているということです。

誰かに教えられたわけでもないのに、このことはアダムとエバが創造されて以来、人の心の中にあるものです。すなわち、このことは私達に最初から植えつけられているものなのだと思われます。聖書に従えば、神が人を造ったのでありますから、その造り主を求める、慕う思いが私達の心にあるということは当然なことです。

もし神が存在しないのなら、神を想うなんてことは無駄なことです。神を意識している時間を別のことに使ったほうが益となります。でも人は神を想い、ある者達はその神を人生の中心に置いて生きています。

この「神」について世界中で色々な考えがあり、私達の世界ではイワシの頭が崇拝の対象になれば、自らを神として崇拝を求める人達もいます。

1998年、日本のあるプロ野球チームが日本一になった時、その優勝の立役者であったピッチャーのフォークボールの握りをした金色の手の像をご神体とした神社が、とある駅にでき、当時、連日一万人以上がこの手に手を合わせ、最終的には約5ヶ月で延べ170万人がこの手に参拝したといいます。

しかし翌年1月、多くのファンに惜しまれながらこの神社は撤収されました。その後、この選手の活躍は続きますがある年、度重なる怪我に悩まされた時、関係者が占い師に相談したところ「あのご神体が影響している。本人できちんと管理すべきです」という助言を受けたといいます。

「あれは単なるブロンズ像ではなく、その投手の右手の分身。不思議な力が宿っている」と当時の関係者は話したというのです。そして、この手の像は現在、東北にあるお寺に祭られているということです。

それにしても、170万人の人が足を止めて参拝しているということや、この投手の不調の原因をこの「手の像」にしているところなど、この類のことは日本ではよく見聞きすることです。

かたやある国の人々は神の名の元に体に爆弾をくくりつけて罪のない人を巻き添えにして自害する人もいるのですから、一口に神様といっても色々あるのです。

そこで、今日は私達の手元にあるこの聖書に記されている神についてお話ししたいと思います。このことは神学の神論という分野のことで、細かくお話しますと数日を要してしまうことなのですが、今日はシンプルに3つのことをお話します。まず、最初に「神は霊なるお方」であるということについてお話します。

神は霊なるお方

以前、お話ししたことがあるかと思います。日本のとある神社で何百年も村の人々に恐れられ、拝まれてきた箱の中に保管されていた御神体なるものがありました。先祖代々、人々はその箱を開けるとたたりがあると信じ、その御神体はその中に安置され、人々はその箱を拝み続けました。しかし、ある時、好奇心を抑えきれない町の少年がその箱を開けてみると、その中にはねずみがかじって原型も分からない木屑があったという話です。

人々はねずみにかじられて、ぼろぼろになった木くずを代々、神とし、それを恐れて、拝んでいたのです。

先ほどの駅の神社の話ですが、そのご神体は期限が来たから撤収されたのです。具体的な理由は分かりませんが、もしかしたら、その神社の後に売店ができるために立ち退きが決まったのかもしれません。

人間の願いを聞くために、人間の手によって造られ、常にメインテナンスが必要で、その人間の都合でどうにもなる、そして最後は朽ちてしまう神々・・・。私達は自分の願いをかなえるために神々を練り、削り、塗り、時に大量に生産し、それが売られ、それらを前に私達は「さぁ、私の願いを叶えてくださいな」と祈るのです。

神が人に理性というものを与えてくださったのなら、この理性というものは、このようなことに対して、冷静に使われるべきではないかと思うのですが、皆さんはどう思いますか?

このようなことは今に始まったことではなく、このとに対してメッセージを語りました人にパウロという人がいます。その彼は紀元50年頃にギリシアのアテネを訪ねています。その時の様子について使徒行伝はこう記しています。

16さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。17そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた」(使徒行伝17章16節‐17節)

ギリシアと言えば、ギリシア神話であり、その神話にはざっと数えて50以上もの神々がいます。その中には雷を司るゼウスや、夜の神ニュクスや、恋心と性愛を司るエロースというような神々がいます。

パウロはそれらの神々のみならず、それこそ人間が考えだしたあらゆる神々が石や木に彫られて、アテネの町を埋め尽くしているのを見ました。果てには、彼がアテネの街中を歩いてみれば「知られない神に」という祭壇までも見たというのです。つまり、当時のアテネ市民が忘れてしまっている、人に知られていない神もいることだろうからと人々はそんな神々のためにも祭壇を作ったというのです。

パウロはそんなアテネの街中でイエス・キリストについて語ったのです。アテネといえば、当時、世界最高の学問の町。人々はこのパウロという男が語っていることに好奇心をいだき、アレオパゴスという評議場に連れて行き彼に話す機会を与えたと聖書は記しています。

10年以上前にこのパウロの足跡をたどるべくギリシア旅行に行きました。私にとってその旅のクライマックスは、この使徒行伝に書かれている今もギリシアに現存するパウロが立ったアレオパゴスの一枚岩の上に立ったことでした。そこには今、読みました使徒行伝に記されているパウロの一連のメッセージがギリシア語で掲示されていました。

そのかつてパウロが立った一枚岩の上に立った時に私は衝撃を受けました。聖書を読むだけでは分からない事実がそこにあったからです。その丘に立った時に、まず私の目に飛び込んできたのが今日、世界遺産となっている、あの壮大なパルテノン神殿だったからです。

パウロがアレオパゴスに立ったのがだいたい紀元50年、このパルテノン神殿は紀元前438年に完成していますから、その時には既にそこにあったのです。

パルテノン神殿はアテナという女神を祭っている神殿。まさしく神々が祭られている場所です。彼はその神殿を指差すようにして、アレオパゴスの岩の上からメッセージを語ったのです。

回りの風景は当時とは異なりますが、これがちょうど、パウロが今から2000年前にアレオパゴスから見たパルテノン神殿の光景だと思われます。この岩の上でパウロは力強く語りました。

 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』(使徒行伝17章24節‐28節)

私達が訪ねた時、それはオリンピックを翌年にひかえた年だったという理由もあったのでしょうか、このパルテノン神殿は大規模な修復工事がなされていました。女神を奉納している大理石の巨大な柱は人間の手によって床に倒され、今日の工事車両がクレーンでそれらを持ち上げたり、下ろしたりしていたのです。言うまでもない、これら神々の修復作業をしているのは人間なのです。

皆さん、あらためてパウロが言った言葉をどう思われますか?『この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない』(使徒行伝17章24節‐25節)

主にある兄弟姉妹、私達の信じている神は目に見えず、私達が触れることも、持ち運ぶこともできません。このお方は遥かに私達を超えたお方であり、天地万物を支配されているお方です。神が私達の手の中にあるのではなくて、私達が神の御手の中にあるのです。実に聖書に書かれているとおり「われわれが神のうちに生き、動き、存在しているのです」(28)。二つ目のこと。それは神は義なるお方であるということです。

神は義なるお方

先ほどのパウロの言葉の28節以降を読みます。

われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと見なすべきではない。 神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17章28節‐31節)

パウロはこの箇所の最後にこう言っています「神は義をもってこの世界を裁くためその日を定められた」。

聖書は「神は義なるお方」だといいます。すなわち、それは神は絶対に正しいお方であるということです。この言葉は神だけがこの世界を裁く権威を持っておられるということを意味します。すなわち、神がこの世界の主導権を握っておられるということです。

このことは、先にお話ししましたように「神は人の願いを造るために人間によって造られ、メインテナンスされ、必要なければ排除される」というような考えとは全く異なるものです。人間を含め、万物の主導権は完全に神の御手の中にある、それが聖書が指し示す神です。

聖書は言います「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3章10節)。人は全く正しい者ではありませんから、その人が人を裁くことは本来できません。しかし、それでは社会秩序が成り立ちませんので、私達は法律に基づき、人に裁きを与えています。しかし、究極的に人間を完全に公平に裁けるのは神だけなのです。

皆さん、もし神という存在がいるなら、その存在は絶対に正しいお方であるべきではないでしょうか。その神が気分によって裁きを変えたり、判断を間違えたり、公平なる裁きをできないのなら、それは不完全さを意味し、神とは呼べないのです。完全なる者だけが裁きの座に就くことが出来るからです。

私達はこの神の前に何一つ隠すことなどできないのです。人は言い逃れなどできない存在なのです。この意味において聖書は「義人は一人もいない」と言うのです。

ということはすなわち、本来、不義なる私達が完全に義なるお方と共にあるということはできないのです。それは全く異なる性質をもつものなのですから。さて、それでは我々と神とは断絶したものなのでしょうか。

このことに関して、聖書は私達の意表をつくようなことをもう一つ、言っています。それは「神は義なるお方」であると共に「神は愛なるお方」であるということです。

神は愛なるお方

神は、義をもたらすためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17章31節)。

神は義なるお方、その「義をもって、世界を裁く日を定め、そしてご自身が選ばれた者を通して、その裁きを成し遂げようとしているというのです。そのお方とは死人の中から甦られた方だ、そのことによって全ての人に確証を与えられたのだとパウロは書いているのです。この方とは誰か。イエス・キリストです。

神の義は確かに発動されます。いかなる人間もその義の前には立ちえません。それは私達には恐ろしいことに思われますが、そこには私達が抱えている一つの難問に対する答えも含まれています。すなわち、私達の目に邪悪が栄えるというようなことがたとえあったとしても、それはそのままで終わることはないということです。いかなる人間も等しく神の前に立ち、そこで相応の裁きを受けるからです。

しかし、それは他人事ではなく私達も裁かれる該当者となります。人生を通して神の義の前に完全な潔白を主張できる人間などは一人もいないのですから、我々は皆、この神によって裁かれなければならないのです。

「いいや、私は獄屋に入ったこともなく、皆がいい人だと言ってくれてますから、私には神に裁かれる理由はありません」と思われる方がいるかもしれません。

しかし、そんな方々が一つ、忘れていることがあります。それはこのことは、自分を省みて、自分の内なる基準に照らし合わせて「そこそこ私はいい人間だと思うよ」という話ではないからです。そもそも私達の内なる基準の目盛りがいいかげんなのですから。それは自分で勝手に主張している自己義認にすぎないのです。

神は私達の心の奥底、その心にある私達の思いや動機まで見つめられ、法では裁かれずとも、私達が誰も見ていないところで成したこと、実際に手を挙げて人を傷つけたり、殺さずとも、その言葉をもって人の心を切りつけ、時にはその心を殺してしまったというようなことまでも神は知っておられるのです。

このように自ら無罪を主張できない私達のために神はキリストを立てられたというのです。これは逃れることなどできない死罪に当たるような人間に対して、裁判官の側から確定無罪になる方法を提供してくださったということなのです。

もう一度、申しあげます。神の御性質は完全に義であるということ。その御性質を持っている限り、その義に反するものと共にあり続けることはできませんから、

それらは裁かれます。しかし、そうなりますと、私達人間は全て神の前に裁かれるのです。聖書はこの裁きの報酬は死であると言います。そうです、私達は全てこの死を免れないのです。

ですから、神はその神の一人子イエスを十字架にかけ、そこで私達の不義、すなわち私達の罪の裁きによる死を全てこのイエスの上に成し遂げたのです。そして、このことゆえに私達は永遠の滅びから、すなわち死から免れるのです。

私達がかかるべき十字架にイエス様が私達の身代わりとしてかかってくださった、そのことを信じ、このお方の前に既に明らかになっている私達の罪を悔い改め、このお方を信じるなら、あなたは神の前に完全に義とされるというのが聖書の約束していることなのです。

裁判官が確定死罪の判決が出ている被告に対して、無罪となりうる道を示すこと、こんなことは法治国家ではありません。しかし、驚くなかれ、神はまさしくその考えられないことをなさったのです。その方法としてご自身の愛する一人子の命が犠牲となったのです。

そして、ここに神の私達に対する完全な愛があるのです。

神は霊なるお方であり、神は完全に正しいお方、そして神は驚くべき愛をもたれたお方。世界を見回せば金銀で包まれた神々はいくらでもいます。人々の恐れの対象になっているような神々は多くいます。人間の欲望のために都合よく担ぎ出されている神々の数は数えきれません。

しかし、このお方は私達にその愛をもって近づかれたのです。「愛」というものを、何をその相手に与えることができるのかということで計るとするならば、神は最も大切なもの、すなわちその命をもって、私達に対する愛を示されたのです。

今日、お話しましたことは私達には「何を言っているの?」「そんな難しいこと考えないで、今が楽しけりゃいいじゃない」「自分はそこそこ全うで、いい人間だと思っていけばいいじゃない」と思われる方がいるかもしれません。

しかし、今日の世界を見て下さい。私達の身の回りを眺めて下さい。何が今日の世界の問題なのでしょうか。何が私達の直面している問題なのでしょうか。

人の手によって造られた神々は自分の自己実現のために用いられ、必要がなければ捨てられる。それは結局、自分が神のようにふるまうことを望む思いです。自分こそが正しい者であり、全ての問題は自分以外のものにある。私達が互いに自分で認める正しい人である限り、私達の間の問題がなくなることはないのです。

聖書は私達に私達と神との関係を明らかにします。この神は人の手で造った宮の中などには住まない。言い換えれば私達のこぶし大の脳みその中に納まるようなお方ではない。そして、このお方の完全な義は私達の不完全さを明らかにされます。これは事実を明らかにすることですので、とても大切なプロセスです。

しかし、その歴然たる事実により私達が裁かれ滅びることがないように、私達を愛される神はイエス・キリストを私達のもとに送られ、このキリストがその神の裁きを全て一身に受け、死んでくださったのです。

この神の愛と共に神の大きな御手の中で人生の旅路を歩むことができる、この喜びと平安、今朝、ここに集いました全ての方々にこの神と共に生きることを心からお勧めする次第です。お祈りしましょう。

 

本日のお持ち帰り

2019年2月10日

1)なぜ、いかなる時代の人でも心に神を想う思いがあるのでしょうか。人はなぜ自ら神々を製作するのでしょうか。人間が作った物が神となるということをあなたはどう思いますか?

 

2)使徒行伝17章16節―34節を読みましょう。パウロがアテネで見たものは何ですか。パウロはこの光景を見て、どんなメッセージをしましたか。私達の信じている神様はどんな神様ですか。

 

3)パウロが神々を祭るパルテノン神殿を前にこのメッセージを語ったことにはどんな意味がありますか?

 

4)「神はわれわれの手で造られ、配置されています」というのと「われわれが神のうちに生き、動き、存在しているのです」(28)というのでは何が違いますか。

 

5)「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3章10節)という言葉にあなたは同意しますか?この言葉に同意しない人はどんな思いを心に持っているのでしょうか。

 

6)物事の善悪を判断をするにあたり、私達自身の内にある基準は正しいですか。

 

7)神は私達を完全な公平さによって裁かれるということは、私達にどんな慰めとなりますか。また同時にそのことが私達にも向けられているということについて、私達がその裁きから免れる方法がありますか。

 

8)神の裁きの前に立つ私達に神様が提示してくださっていることは何ですか。

 

9)「神の義」と「神の愛」の関係について言葉で説明してみてください。


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