私が変わります

ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。その中で師は「家族のために祈るのをやめること」という一見、耳を疑うようなことを書いています。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしたのでしょうか。

師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています。「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。

ところが師はある夜、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がついたというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか・・・。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の「日英礼拝メッセージ原稿」、「おもちかえり」はこちらから ↓

「私が変わります」
2021年3月7日

ある男性が会社で働いていました。その人はその会社の中堅を担う人で、上司からの指示を受けて、部下と共に働き、さらにアルバイトで働いている人達も指導しなければならないポジョンにいました。

この人の上司はとても嫉妬深く、短気な人で仕事に自分の感情を入れてきました。また、部下の中にも一筋縄でいかない人がおり、アルバイトの方達は自分よりも20年も年上の人ばかり、なかなか自分の指導が行き届かないことがありました。彼は明らかに悩んでいました。何に悩んでいたのでしょう?人との関係です。

家に帰宅しますと、そこでは近所づきあいにも問題がありました。ある日、お隣の家と自宅の家の境となっている塀がとても傷んでいるので、それをどうにかしないかとお隣に相談に行きました。お隣はあまりいい顔をしなかったのですが、しぶしぶその半分の費用を出すということに同意してくれました。

それからしばらくして、「伸びている庭の芝を刈るように」というクレームのメモが匿名でポストに入っており、後にその手紙はお隣から来たものであることが分かりました。以後、お隣との関係がぎくしゃくしてしまい、顔を合わせるたびに何とも気まずい雰囲気となり、それは彼の頭痛の種となりました。何が彼を悩ましているのでしょう?古くなった塀でしょうか、芝でしょうか。いいえ、人との関係です。

もし彼が人との関わりを煩わしく思い、そこから完全に逃れたいと思うのなら、どこか山奥に隠居するしかありません。しかし、なかなかそういうわけにもいきません。

私は今、架空の人のことを話しておりますが、このようなことは形こそ違いますが、どこでもあり得る話です。ここでは職場と近所の人との問題についてあげましたが、実際のところ、現在、私達はコロナ下にあり、家で時間を過ごすことが多いという方達が少なからずおり、その分、家族との間で色々な問題があるという方もいるかもしれません。

かつてのように外部の人間との関わりが減り、それがストレスになっている方、もしくはホッと一息ついている方もいるかもしれません。どちらにせよ、コロナが落ち着けば、全く昔と同じにはならないかもしれませんが、私達は再び、かつての環境に戻っていきます。

このコロナを機にこの時、今一度、人との関係について見直し、それがより良きものとなるように備えをしておくことはとても大切なことではないかと思います。このためにこれから三回の日曜日、私達の人間関係についてフォーカスしてお話できたらと願っております。

人間に関する問題を考える時に、私達は自分を悩ませる人を心に思い浮かべ、彼、彼女が自分の思いにかなった人になってくれたらと願います。しかし、問題は私達が願ったようには、なかなか事が運ばないということです。そうです、私達が「人を変える」ということは並大抵のことではないのです。相手も私達に対して全く同じ思いをもっているとしたら、綱引きが延々と続き、互いに疲労困憊してしまうことでしょう。

私達は安定を求めて生きています。時々ならまだしも、私達は絶え間ない変化というものを望みません。変化にはプレッシャーやストレスがともなうことが多々あるからです。

しかし、実は私達がキリストにあって神の子となるということは、私達が大きな変化を既に成し遂げたということを意味します。そのことをパウロは分かりやすくコリント第二の手紙5章17節に記しています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、みよ、すべてが新しくなりましたコリント第二の手紙5章17節

私達がキリストを信じ、その生涯を歩み始めるならば、その時に私達は古き自分、すなわちそれまでの自分の罪によって、自分を責めたり、人を責めたりしていたような自分ではなく、全く新しい自分に生まれ変わって人生を歩み始める事になるというのです。そして、新しく生まれた私達の日々について、パウロは次のようなことも書いているのです。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである(コリント第二の手紙3章17節‐18節)。

この御言葉によりますとキリストにあって新しく生まれた者達は新しい人生を歩み始めるだけではなく、日毎に、そう日毎に、主と同じ姿に、栄光から栄光へと変えられていくというのです。

このようなことを言いますと、そんなこといったって、どう見ても私に変化などはないという方がいるでしょう。しかし、パウロがここで「これは霊なる主の働きによる」と書いているように、この変化は私達が一目瞭然、ぱっと見て分かるようなものではなくて、私達の内なる心が日々、変えられていくという事なのです。

そのことに気がつく、気がつかないに限らず、主の霊と共に私達は栄光から栄光へと変えられています。このように考えますと、私達は日々、変化しているのですから「自らを変える」ということは、決して身構えるようなことではないということが分かります。

時に私達は不動の者となる、何があっても微動だにしない者となることこそが信仰者の姿なのだと思う時があります。確かに私達の立つべき土台は堅固なものであるべきです。しかし、その動じない土台に立つ私達は日々、自らを安心して変革していくことができるポジションに置かれているのです。

私達が律法主義に生きる時、「このことが守れるか、守れないか」という間を私達は行き来します。それは「守れるか」「守れないか」という二者択一の生き方で「今日はまずまずの一日だった」という日と「今日は全然ダメだった」という日を繰り返し、それに伴い、心はアップダウンします。

「今月は13勝17敗、負け越した」と自己嫌悪に陥ったと思えば反対に、20勝10敗というような月がきますと、優越感が生まれ人を裁き始めます。言うまでもなく、そこにはキリストが私達に与えようとしておられる本当の喜びや自由がありません。私達はキリストにあって、そのような生き方に招かれているのではないのです。

キリストは私達に自由を与えてくださったのです。そして、その自由とは私達が日々、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えられていくほどに私達の心を柔らかく、柔軟なものとします。そして、このことこそが私達の人間関係に大きな力を発揮するのです。

そして、ここに生き始めますと私達は「神の本質」というものに目が開かれていきます。すなわち、私達が変えられていくことにより、私達は神というお方はどのようなお方なのかということが増々、分かってくるのです。

このことを見出し、変えられ、それに生きた人がパウロです。彼はかつて自分の信じるところだけに寄って立って、そこに共に立とうとしない人達を次々と捕えて、獄屋に放り込んでいた男です。自分とは異なる考えや生き方をしている人達が許せない男だったのです。

そのような意味で彼はまさしく、がんじがらめに生きていました。自分の枠に収まらない者達を攻撃し、彼らをねじ伏せなければ自分を保つことができない不自由な男でした。その視野はとても狭く、顔を主の栄光に向けることなく、目を上に向ければ、どこまでも続く空が広がっているのにも関わらず、ただ自分の足元だけを見て歩んでいるような人だったのです。

しかし、このパウロがイエスを心に招きいれ、イエスによって新しく生まれ代わり、日毎に主と同じ姿に変えられていきましたら、彼の心のあり方は180度変わってしまったのです。彼は第一コリント9章19節においてこう書いています。

19わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。20ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。21律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。22弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。23福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである (Ⅰコリント9章19節-23節)

なんということでしょう、これが本当にあのパウロが書いたの?と思われるような言葉です。キリストに出会う前のパウロなら、おそらくこんな気持ちでいたに違いありません。

「私はできるだけ多くの人を力づくで獲得するために、自ら進んで自分と異なった信仰をもっている人を全て獄にぶち込もうと励んだ。ユダヤ人には、自分が理想としている選民ユダヤ人となることを強く願った。律法の下にある人には、もっと彼らが修練して、自分のようになることを何度も強調した。律法に生きていない人には、律法に生きるように私は力の限りを尽くして彼らを説き伏せた。彼らは自分と考え方、生き方が全く違うために、私は是が非でも彼らを変えるように努めた」。これこそがかつてのパウロの生き方でした。

しかし、パウロはイエスに出会い、そのイエスがどんなお方であるか、何をなさったお方であるのかを知るにつけ、彼らが変わることを強いるのではなく、自分が彼らのために変わることに徹したのです。なぜですか、その理由をパウロは明確にピリピ2章1節-11節に書いています。

                                    1そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 (ピリピ2章1節-11節)

ここには「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」と書かかれています。「キリスト・イエスにあって抱いているのと同じ思い」とはどんな思いなのでしょうか。

その後にはこう書かれています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

ここに何が書かれているかと言いますと、キリストは神の形であられたのに、そこに留まることを固守すべきことではないとし、私達のために人の姿になられた、主は私達に変われと命じる前に、自らが私達と同じ姿に変わることをよしとしてくださったということです。

パウロの心の中にはこのキリストの姿がありましたので、かつてはあんなに自分の生き方に固守していた彼は、自分が向き合っている人のために、自由に自分を変えることを喜びとする生き方にシフトしたのです。このことをして彼はこのキリストの心をあなたの心とせよと言ったのです。

そして、この彼の姿勢こそ、そのまま私達の人間関係の中に適応することができるものなのです。そう、キリストが「私達に変われ」という前に、自らが変わってくださった、その生き様に私達も喜んでならうのです。

神の一人子が地に誕生し、この地に人として生きた。世界にこれほどの変化を経験した人間はいません。そして、まさしく私達の主イエス・キリストのお心の広さは、Heaven to Earth、天から地に来られたという幅の広さなのです。

私達はこのキリストの変わり果てた姿、すなわち飼葉桶から十字架にいたるまでの主のお姿に心打たれて、クリスチャンになったといいましても過言ではありますまい。あちらが変わってくださったからこそ、私達は救われ、私達も変えられたのです。

しかし、私達はこの主が私達のために成してくださったことをすっかり忘れ、脇に置き、心に思います。「まずはあなたが変わりなさい」と。

ジョン・ドレッシャーという牧師が「若い父親のための10章」という本を書いています(いのちのことば社)。彼はその本を「あなたが、もう一度、小さい子供の父親をやり直すことになったら、どんな父親になりますか」という問いを自身に投げかけながら書きました。以前、紹介しましたように、その第一番目に彼は「自分の妻をもっと愛すること」と挙げています。

そして、このドレッシャー牧師はその他に「家族のために祈るのをやめること」と一見、耳を疑うようなことを書いているのです。いったいドレッシャー牧師は何を言わんとしているのでしょうか。

師は「それまでの私の祈りはこんなふうでした」と自分の祈りについて告白しています「主よ、どうか私の息子を良い子にしてください。彼の態度がよくなるように、あなたの愛を注いでください。息子が従順になり、それによって家族の関係がうまくいくようにしていください。娘がキリストの愛を知り、成長するにつれ、色々な人間関係の中で何が真の愛なのかを理解できる者としてくださるようにしてください。妻が子供達に忍耐し、彼女が家庭を穏やかに保つことができるように、主婦としての義務を果たすことが出来るように。忙しさに負けないように」。

ところがドレッシャー牧師は、ある夜のこと、ひとりでいた時、突然、これまで祈っていたような祈りはやめねばならないと思ったというのです。このような祈りは意味がないと感じたというのです。当時、どういうわけか子供達は、幼い頃よりも、愛についてわからなくなってきており、思いやりや親切といった性格も以前より失われていたというのです。その時に、師は自分が見当違いの祈りをしていることに気がついたというのです。一体、師は何に気がついたのでしょうか。

それは、キリストの愛を子供達が知るためには、父親としての私がキリストの愛をもっと自分で体験し、それを表さなくてはならないと気がついたということです。子供達が他の人々との関係の中で神様の愛を学ぶためには、まず父親としての私が真の愛を家族のひとりひとりに示す事ができるようにと、神様の助けを求めねばならない。そこで、私の祈りは「主よ、あなたがいつも私に示してくださっているような愛といつくしみにふさわしい者と、私をなさしめてください」というふうに変わっていったというのです。

師は妻にこうなるように願ったり注文したりする祈りをやめました。師の役目は妻を良い妻にすることではなくて、むしろ彼女を幸せにすることが自分の務めだということに気がついたからです。師のこれまでの祈りは、妻がすべての家事を十分に果たすようにというものでした。しかし、それからは妻が働きやすく、仕事が楽になるように、私が助けとなれるようにと祈るようにしました。夫として妻を幸せにするために、何をしたらいいのか示してくださいと祈ったというのです。つまり、私こそ神様の特別な恵みと助けを受けなければいけない人間だということを自覚したというのです。

そして、そういうことに気がついた日から私の世界は変わり、家庭が変わったとドレッシャー牧師は言いました。新しい愛に溢れた雰囲気が家の中に満ち始め、自動車を運転している時は、その車内の空気まで変わってきました。子供たちの心もなごやかになってきました。こうしたことはすべて、私が彼らのために祈ることをやめて、神様が私を変え、新しい姿勢で生きるように支えてくださいと、自分のために祈りはじめた時に起きたのというのです。

師は言います。もちろん、私は今も前にも増して妻や子供のことを覚え祈る。しかし、私の祈りは基本的には家族のひとりひとりについての感謝の祈りとなりました。

(以上、ジョン・M・ドレッシャー 「若い父親のための10章」第5章 家族のために祈るのをやめることから)。

皆さん、私達はイエス様が神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、人の姿になってくださったから今日、ここにあるのです。私達はこのキリストによって新しく造られ、日毎に栄光から栄光へと変えられているのだと聖書は言うのです。そして、このキリストを知れば知るほど、私達は自らを他者のために変えることに喜びを見出していくことができるのです。

「人間の幅」とはその人がどれだけ自分を相手のために変えられるかということに関わっているのではないかと思います。そのような意味で先に申し上げましたように、イエス・キリストの幅は天と地の幅であり、当然、私達がそれだけの広さを持つことはできませんが、私達も誰かのために自らを喜んで変えることができますように御霊の助けを祈り願う者となりませんか。

私達は日々、色々な人間関係を抱えます。どうでしょうか。あの人をねじ伏せようとしていますか。どうにか変えようとしていませんか。不可能とは申しませんが、もう既にご存知かと思いますが、私達が成功する確率はとても低いのです。いいえ、相手はますます殻を閉じてしまうことでしょう。

そのようなことに試みながら、相手が変わる日を待ち続けるなら、その前に私達が変わりましょう。いつまでも変わらない人の様を見て、心の穏やかさが失われていく、悶々と過ごす日々を繰り返すよりも、待つのではなく、こちらから一歩前に出ようではありませんか。

もちろん、罪を犯してまで自らを変えてはいけません。このことは相手の全てに妥協するということではありません。そうではなく、主が許してくださることであるのなら、私はあなたのために喜んで自分を変える余地があるよ。その力をイエス様が私達に与えてくださっているのだからと自分を差し出そうではありませんか。この主イエスからいただいている力を存分にこの地上で使い果たそうではありませんか。

主は私達のために人の姿になられた。王座に座るのではなく、席から立ち上がり、弟子達の足を洗われた。そして、天地万物に対して権威をもつお方が、罪人の一人として数えられることをよしとしてくださった。

誰のため?私のため。あなたのため。私達は何を固守しているのだろうか。何が私達をとどめているのか。プライドか。果たして、主イエスは己のプライドに固守しただろうか。主にある皆さん、主にあって御霊の自由に生きようではありませんか。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2021年3月7日

1)人との関係は私達にどんな喜びや楽しみを与えてくれますか。同じように、その関係にはどんな悲しみや痛みが伴うことがありますか。

 

2)コリント第二の手紙5章17節、コリント第二の手紙3章17節‐18節によりますと、私達はキリストにあってどのように変えられたと書かれていますか。

 

3)人を私達が願っているように変えることはたやすいですか。なぜ難しいのでしょうか。あなたは変わりやすい人間ですか。

 

4)Ⅰコリント9章19節-23節にはかつての生き方から変えられたパウロの姿が書かれています。パウロのBEFOREと AFTERはどう違いますか。

 

5)ピリピ2章1節-11節を読みましょう。ここにはパウロが自らを変革した理由が書かれています。それは何でしょうか。

 

6)神の王座におられたお方が飼葉桶に寝かされ、王座に座るのではなく、座から立ち上がり、これから裏切ろうとする弟子達の足を洗われたこと、このお方を模範とする時に、私達に求められている生き方は何ですか。

 

7)ドレッシャー牧師は「家族のために祈ることをやめた」と言いました。師は何に気がつかされたのでしょう。あなたはここから示されることがありますか。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください