私は奇しき足跡を信じる

今から30年前、神奈川県の藤沢市からテントと寝袋を持って、自転車で九州、宮崎県まで行ったことがありました。京都までは一号線をひたすらはしりました。自転車といえども結構、はしれるもので一泊目が静岡市の阿倍川の橋の下だったことを覚えています。二泊目は確か愛知県の岡崎市あたりで、三日目には三重県に入りました。

野宿の旅には少々、事情がありまして、日が暮れる前に、なるべく静かに目立たず、雨露をしのいで朝を迎えることができる場所を探さなければなりません。かといってそのような場所が簡単に見つかるわけもなく、そうこうしているうちに三日目の夕刻、私は三重県の鈴鹿峠に来ていました。

その時、既に陽は傾きかけ、薄暗くなっていました。昼の山はいいのですが、暗くなればそこは闇の世界であり、決してわくわくするような場所ではありません。その日に身を横たえる場所も決まらず、これからあそこに入っていくのかと、山々を見上げた時の心細さと不安さを今でも覚えています・・・。

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私は奇しき足跡を信じる
2021年2月21日

今から30年前、神奈川県の藤沢市からテントと寝袋を持って、自転車で九州、宮崎県まで行ったことがありました。京都までは一号線をひたすらはしりました。自転車といえども結構、はしれるもので一泊目が静岡市の阿倍川の橋の下だったことを覚えています。二泊目は確か愛知県の岡崎市あたりで、三日目には三重県に入りました。

野宿の旅には少々、事情がありまして、日が暮れる前に、なるべく静かに、目立たず、雨露をしのいで朝を迎えることができる場所を探さなければなりません。かといってそのような場所が簡単に見つかるわけもなく、そうこうしているうちに三日目の夕刻、私は三重県の鈴鹿峠に来ていました。

峠という名のとおり、私の行く手にはうっそうとした山々が連なっていました。山には二つの顔があります。一つは山菜やキノコを採ったり、ハイキングしたり、川遊びをする山。しかし、その同じ山は時に姿が変え、私達に牙をむくこともあります。道に迷い遭難してしまう、天候が急に変わり、川が氾濫し、土砂が崩れる、人間に害を加える動植物が息をひそめ、時にそこは人間がらみの恐ろしい事件が発生する場所ともなります。

私が鈴鹿峠にさしかかった時、既に陽は傾きかけ、薄暗くなっていました。昼の山はいいのですが、暗くなればそこは闇の世界であり、決してわくわくするような場所ではありません。その日に身を横たえる場所も決まらず、これからあそこに入っていくのかと、山々を見上げた時の心細さと不安を今でも覚えています。その時、私の心にあったもの、それは暗闇、閉ざされた場所、未知の世界への恐れ、人気を感じさせない孤独でした。

この時から約3000年前、私と同じような思いをもち、山を見上げた人がいました。聖書、詩篇121篇1節から8節を拝読します。都もうでの歌、

1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。4 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。8 主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。(詩篇121篇1節ー8節)

この詩篇121篇の著者が誰なのかは分かりません。分かることは、ここには「都もうでの歌」とあり、この歌はイスラエルの地方の町から出てきた旅人が、エルサレムの神殿に巡礼に向かう、その旅路で歌ったものなのだろうということです。

言うまでもなく当時、車や飛行機はなく、彼は徒歩、もしくはロバに乗り、数日をかけて、エルサレムを目指したのでしょう。そんなある日、前方に山が見えてきます。その山の様は日本の山とは異なったでしょうが、その時、彼の心には色々な思いが心によぎったことでしょう。

イエス・キリストが語られた「良きサマリヤ人のたとえ話」にありますように、当時は追いはぎのような者達がいたといいます。山は彼らが隠れ潜むのに格好の場所であり、そこは襲われて、助けを求めても誰にも声の届かない場所でした。まさしくそんな山を前に、彼の心には色々な不安や恐れがあったことでしょう。

不安に思う、恐れる、これらは私達が人間である限り、影のように私達の後をついてまわるものです。全く何も心配をしない、恐れは何もないというのも問題です。我が子が昨日から家に帰っていない。心配しない親がいるのなら問題です。危険な場所に平気で行ってしまう。その心に恐れがないのは問題です。

ですから、中に何がいるか分からない山を前に不安や恐れを感じることはやむを得ないことだと思います。しかし、そこに分け入っていく前に、自らに問いかけなればならないことがあることをこの詩篇は私達に示しています。そうです、それは、この巡礼者が自らに問うた「わが助けはどこから来るのか」という問いかけです。

わが助けはサンディエゴ・ポリスにある。わが助けは学校のカウンセラーにある。わが助けは弁護士にある。わが助けは銀行口座にある。わが助けはわが伴侶にある。

確かにそうでありましょう、それは間違ってはいません。しかし、我々はこれらのものを思い浮かべる前に心に刻まなければならないことがあります。それは、この巡礼者が自らの問いかけに対して応えている言葉です。「わが助けは天と地を作られた主からくる」(詩篇121篇2節)

「天と地を作られた主」という言葉は「天と地の間にあるもの、すなわち全てのものを作られた主」であるということを言いあらわしています。そうです、そこにはうっそうとしげる山の中に潜むあらゆるものが含まれています。主はその山とその中にある全てものを作られたお方です。

私が鈴鹿峠から山に分け入っていく時、私の手元には一台の自転車とそれに積むことができる最低限のものしかありませんでした。その時、もし私が気持ちを紛らわすことができるラジオ、潤沢な食料、助けを呼ぶことができる携帯電話、自分を守ることができる武具をもっていたら、私の不安と恐れは払しょくされたでしょうか。

いいえ、私の想像力はこれらの備品をはるかに超えるのです。どういうことかお分かりになりますか。そうです、真夜中、一人でこれらのものを全て枕元に置いてテントの中にいても、布切れ一枚で隔たれたテントの外から、枝が折れる音や、落ち葉がガサガサと重なり合う音が聞こえてきますのなら、それらの備品は私には意味のないものとなります。

その時、私の想像力は際限なく広がります。すなわち、テントの外には警察に追われている男が、刃物をもって中をうかがっているのではないか・・・。明日の新聞の三面記事に私は載るのではないか、いやいや、場所が場所、私は一月後に発見されるかもしれない。こうなってしまいましたら、私の想像は止まることなく展開し、私の不安と恐れは払拭されるどころか、増殖し、そうこうしているうちに外は明るくなってくるのです。

ソーラーパワーの設置を勧めるセールスパーソンはそのシステムに関して、誰よりも詳しいことでしょう。太陽がサンサンと降り注ぐ南カリフォルニアでソーラーを設置することにどれだけのベニフィットがあるか、料金体系を熟知し、顧客に十分に説明する準備ができているでしょう。

しかし、その時、このセールスパーソンはある大切なことを見落としています。それは彼のセールスは毎朝、太陽がのぼるということを前提として成り立っているということ。太陽はどこかの国や企業の所有物ではないのです。それは人類から独立したものであり、それは「天」を手中に収める神の支配のもとにあるということを。

一戸建ての新築の家を勧めるセールスパーソンは、その土地がどんなに便利な場所であるかを語り、家の間取りが素晴らしいことをいくらでも語ってくれるでしょう。そして、それを聞く者達は、この家さえあれば私達は幸せになれるだろうと思うことでしょう。

しかし、その時、そのセールスパーソンは、その家に住む者達について触れることはないでしょう。人間はいつ病に倒れるか分からない、会社から解雇されるかもしれない、夫婦の間に隙間風が吹き始めるかもしれない、そんなことを話す住宅のセールスパーソンはいません。

天から見れば、私達は生まれてからこの方、地の上に這いつくばるかのようにして生きている者です。その地の上で起きる事、それは神の支配のもとにあります。

主にある皆さん、私達は朝に空を見上げ、晩に夜空を見上げ、自分の心に語り続けましょう。「私の助けは天と地を作られた主からくる」と。

この詩篇の作者は続けて、この主についてこう語ります。 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。(詩篇121篇3節)

これから山道を歩んで行く者にとって、一歩一歩、大地にしっかりと足をつけて歩くということは最も大切なことでした。それゆえにこの巡礼者は「主は私の足の動かされるのをゆるされない」と言いました。

聖書、マタイ7章でイエス・キリストは二つの家のたとえ話を語っておられます。二人の人がいました。一人の人は岩の上に家を建てました。もう一人は砂の上に家を建てました。ある日、どちらの家の上にも雨が降り、洪水が押し寄せ、強風が打ちつけました。その結果、砂の上に建てた家は壊滅的に倒れましたが、岩の上に建てた家はびくともしなかったというのです(マタイ7章24節‐27節)。

この譬話の真意は何か。キリストは言われました。私の言葉を聞き、それに生きようとする者は岩の上に家を建てた人なのだ。それを聞いても、それに生きようとしない者は砂の上に家を建てた者なのだと。

信仰者であろうが、なかろうが私達の人生には、暴風が吹き荒れることや、激流が押し寄せてくることがあります。山を歩いておれば危険な所を通ることもあるでしょう。天候が急に悪くなることもあるでしょう。しかし、神の言葉を聞き、それに生きる者達の足が動かされることはないと主は言われます。そのことをよしとされないと主は言われるのです。

今日、見ておりますこの詩篇は旧約聖書に記されているものであり、まだその時分にイエス・キリストはおりません。ですからこの巡礼者はイエス・キリストのことを知るはずもなく、それゆえに彼は天地を支配されている神を仰いで山に分け入りました。

しかし、私達はキリストを知る者です。かつてイエス様が言われた言葉を私達は知っています。イエス様は言われました。私はあなたたちの牧者であり、あなたたちは私の大切な羊なのだと。そして、牧者である私はあなたたちと共におり、いつもあなたたちの先頭を歩くのだと。

このイエス様の言葉を知る私達は、あの巡礼者が持ちえなかった主の約束を共有しています。巡礼者が山を前に、天地を作られた主を仰いだように、私達も彼と同じように天地を作られた主を仰ぎます。

そして、さらに私達は自分が立つ大地に目を留めます。そこに私達は自分の足跡を見ます。そして、同時にそこに私達以外の足跡があることに気がつきます。そうです、それは私達の牧者なる主イエス・キリストの足跡です。

私達はこのメッセージの後に「私は奇跡を信じる」という賛美を歌います。この歌はこの詩篇121篇を歌ったものです。「私は目を上げ、山を見上げる。私の助けはどこから来るのか。山よりはるかに偉大な神の奇跡を期待し、賛美を捧げる。私は信じる。奇跡は今でもあると。私は信じる。主イエスを奇跡の神を。賛美の中におられるお方に、栄光と誉れ、賛美捧げる」

この曲を作られた小坂忠先生は詩篇121篇をして、「私は信じる。奇跡は今でもある」と歌います。私はこの曲を聴きながら、思ったのです。「今もあるという奇跡」とは何なのだろうかと。「山よりはるかに偉大な神の奇跡」とは何なのだろうかと。

「奇跡」と言いますと、私達は「水のない山の中にペットボトルが落ちていた」とか「道に迷っていた時に、ふと目の前に民家が現れた」というようなことをまず思うことでしょう。確かにそれは奇跡といえば、奇跡なのかもしれない。

しかし、主にある皆さん、このことを心に刻みましょう。本当の奇跡とは、山より偉大な神の奇跡とは、本来、一人でこの山に入っていかなくてはならない私達であるのに、主ご自身が私達と共にその山に分け入ってくれているということなのです。

「奇跡」という漢字は「奇しき跡」と書きます。そうです、それは「ありえない跡」ということなのです。そして、その「ありえない跡」とは私達の足跡と共にある「主の足跡」なのです。

神の一人子イエスの足跡が私達と共にあるということ、それを山より偉大な神の奇跡と呼ばずに何と呼びましょう。私達はこの奇跡、すなわち奇しき主の足跡を自分の人生の旅路に認め、その旅路において、主の栄光と誉を、賛美し続けるのです。

巡礼者はさらにこう書き記しました。あなたを守る者はまどろむことがない。4 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121篇3節ー4節)

皆さんはきっとまどろんだことがあると思います。昼食が終わった後、瞼が重くなり、コクリコクリとまどろむ。気持ちいいですね。幸せですね。眠ることはどうですか。いいですよね。一日の仕事が終わって、ベッドに入る瞬間が一日の中で、一番好きだという方、いらっしゃるでしょう。

私の理想的な眠り方は、本を抱えてベッドに入り、その本を読み始めるのですが、数分で瞼が重くなり、手元からその本が二度、三度、落ちて、「あー、今日はもうダメだ」と読書を諦めて、電気を消すことです。こんな幸せな一日の終わり方が他にありますでしょうか。

このようにまどろむことや眠ることは私達にとりまして楽しみであり、喜びなのですが、反対にこんな一面もあります。それは、まどろむ時、眠る時、人は一番、無防備だということです。眠ってしまった後のことは私達には知りえないのです。どんなに屈強な人も寝ている時は幼子と同じなのです。あの手のつけられない怪力サムソンは眠っている間に髪を剃られ、力を失いましたでしょう。

巡礼者は思ったことでしょう。この山の中で夜を過ごさなければならない時、眠りにつく時、私は大丈夫だろうか。翌日の旅のために睡眠は必要、しかし、それは無防備になり、一番、危険な状況に身を置くことを意味していました。

昔、「ボディガード」という映画がありました。ケビンコスナーがボディガードとして、セレブ・シンガーのウィットニー・ヒューストンを守るというストーリーです。その映画の中でケビンコスナーが言います。「自分にとって一番、恐ろしいことは守るべき時に、その守るべき人の側にいないことだ」。まさしく、この言葉はその使命に生きようとするプロフェッショナルの真実な言葉です。

彼の言葉は私達の思いを代弁します。「君と僕はいつまでも一緒だよ」と私達は愛をささやきますが、この言葉は完全な約束ではないということを私達は知っているのです。

ボディガードも人間、眠らなければならないでしょう。24/7、いつも依頼者と共にいることなどは到底、できないでしょう。同じように、私達も互いに近い人であっても、その最後まで、いつも一緒にいることなどはできないのです。

23年前、アメリカに移り住む時、私は一つの覚悟をしました。それは母の最期に立ち会うことができなくなるかもしれないということです。そして、それは何も外国にいる者達だけに課せられたことではないのです。私達人間はこのことにおいて限りがあるのです。しかし、私達が行き届かない、どうしても側にいることができない、その時、主は眠ることなく、私達を、私達の愛する者達を見守ってくださるとこの巡礼者は言うのです。

神学校時代、牧師の子弟であった先輩がこんなことを話してくれたことがありました。九州に実家、兼教会があるその方が、大阪で働いていたある日、夜遅くに電話が鳴りました。それは母親からで、受話器からは「お父さんが倒れた。今、救急車で運ばれた」という声。

大阪と九州は近くありません。夜中に飛んで帰ることはできません。その夜、父のためにできることは何もない。心配で寝つくこともできない。その先輩はベッドの側で祈り始めました。30分、1時間・・・。その時にこの詩篇121篇が心に響いてきた「あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者は、まどろむことなく、眠ることもない」

当初、彼は自分が父の側にいれないことを不甲斐なく感じていたに違いありません。一刻も早く、父のもとに駆けつけ、一晩中、父親の枕元にいることができたらと願ったに違いない。しかし、それができない、しかし、その時に「主はまどろむことなく、眠ることなく、今晩、父を見守っていてくれる」という主の言葉を信じ、受け止めました。そして後日、お父様は回復され、退院されたのです。

この歌の最後にこの巡礼者はこう書き記しました。「主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」(詩篇121篇8節)不思議な言葉ではありませんか。何が不思議なのでしょうか。「入ってから出る」というのが本来の順番ではないでしょうか。しかし、この詩人は「出ると入る」と言いました。

なぜなのか、考えてみました。その時に思いました。この言葉の背後には私達が神から生を受けて、この世に出てきた、あの私達の誕生の時から、この世を去って神の御国、すなわち私達の本当の住まいに入る、その時まで、神は私たちを見守って下さるという意味があるのではないかと。

そうです、私達は神の前に今もって、出ている、すなわち外出中の私達が、やがていつの日か天の都に入る、その時まで主は私達を守っていてくださる。聖書がいっているように、私達は今現在、地上の寄留者としてこの世に出はらっていますが、私たちの真の家、主が備えたもう家に入る日が来る、その時まで神は私達を見守っておられる・・・。

主にある兄弟姉妹、コロナ下のもとにあります私達はこの一年、分け入ったことのない山の中を日々、歩いているのかもしれません。そのような山の中を今日まで歩いてくることができたのは一重に天地をつくられた神の恵みとあわれみです。

まだ、私達はこの山を抜けていません。しかし、私達は今日、確認しました。「わたしの助けは天と地を作られた主からくる」。私達はこのお方を信じ、仰ぎ見ます。この天地の支配者に信頼し、そこからの助けを私達は待ち望みましょう。

このような時、私達の足元は揺さぶられることがあります。しかし、主は言われる。わたしはあなたの足が動かされるのを許さない。私の言葉に聴き、そして、それに従い、堅固な大地に立ちなさい。そこに立ち続けなさい。

私はそんなあなたと共にいる。あなたと共に山を歩き、荒野を歩く。あなたはあなたの足跡と共に私の足跡をそこに見出すことだろう。それこそが私があなたに与えた奇跡なのだ。

私達は人間、まどろみ、眠ることにより生きます。しかし、主はまどろむこともなく眠ることがないお方。その主は私達がこの地に生れ落ちた日から、父なる神の御許に帰るその日まで、我らを見守ってくださる。

愛する者と今、この大変な時に共におれない方達がいるかもしれない。もどかしさを感じていらっしゃるかもしれない。しかし、この主が我らが愛する彼、彼女と共にいてくださることを信じようではありませんか。

『わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る』アーメン。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年2月21日

1)詩篇121篇1節‐8節を読みましょう。もしあなたが巡礼者であったら山を前に何を考えますか。

 

2)あなたが「不安」や「恐れ」を感じる時、どのように対処していますか。「不安をかきけすものを集めれば集めるほど不安になる」と言った方がいますが、なぜ、このようなことが起きるのですか。

 

3)「わが助けは天と地を作られた主からくる」(詩篇121篇2節)という言葉はなぜ最強の言葉なのですか。

 

4)山に分け入るにあたり、私達の足が健やかであり、しっかりとした足取りで歩くことは最も大切なことです。 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。(詩篇121篇3節)という言葉にはどんな意味が込められていますか。

 

5)マタイ7章24節―27節を読みましょう。岩の上、そして砂の上に建てた二つの家に雨風、洪水が押し寄せた時に、その被害に大きな違いが生じました。あなたは、主の言葉を聴いて行うか、行わないかということが、このような違いを生むことをいうことを知っていますか。そのような経験をしたことがありますか。

 

6)人間は眠っている時に活動が止まり、無防備になります。そんな私達に「あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121篇3ー4)という言葉はどんな励ましと平安を与えてくれるでしょうか。

 

7)詩篇121篇は「主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」という言葉で閉じられます。この言葉は、主が私達の人生の全てを見守ってくださることを約束します。この言葉を信じて受け止めていく時に私達の日々の生活はどのようなものとなるでしょうか。


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