私達、そしてユダヤ人の救い     

戦後、日本の北陸伝道に赴いたアメリカ人宣教師は、自らが日本で過ごした半世紀の日々をこう語っています。「日本人がご飯の上に生卵をかけて、納豆を食べていることに驚きました。私の国では卵はスクランブルエッグで食べるもので、腐った豆を食べる習慣もありません。最初はこれらの日本の食事に驚き、勇気をもって口には入れたもの、慣れなくて身体を壊しました・・・。でも、今、私は卵かけご飯も納豆も大好きです」。

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私達、そしてユダヤ人の救い
2018年2月11日

私達は礼拝においてローマ書を見ております。このローマ書は9章から11章までユダヤ人に向けて書かれているとお話ししてきました。そして、今日の箇所もユダヤ人に向けて書かれているのです。しかし、この箇所はユダヤ人のみならず、私達にも語りかけています。今日はまずローマ10章14節―21節を読み、そのところから「私達、そしてユダヤ人の救い」ということについてみてまいりましょう。

14しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。15つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。16しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。17したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。18しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。19なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。20イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。21そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている(ローマ10章14節-21節)

最初にまずこのところから「私達の救い」ということについてお話しします。かつてイエス・キリストは、やがて世の終わりが来るということを語りました。そして、その時が来る前に起こる様々なことについて言及しているのですが、その中の一つが「福音はまず全ての民に宣べ伝えられなければならない」(マルコ13章10節)ということでした。

今から2000年前、クリスチャニティーは産声を上げました。そして、その言葉のとおり、今日、全世界に福音は宣べ伝えられています。これを世界各国に伝えるべく、異国に渡り、その場所でそこに住む者達と共に生き、主の言葉を見せ、主の言葉を語る者達を私達は宣教師と呼んでいます。彼らは住みなれた自分の国を離れて、世界各国に福音、グッドニュースを携えて出て行くのです。

中には未開の地のような場所に行く宣教師もいます。そのような場所には首狩りの習慣、魔術をする者達、人間を儀式の犠牲にする習慣がある地域もありました。彼らはこれらの人達の中に入っていて、まさしく命がけで福音を伝えました。いいえ、実際にこの使命のために命を失った宣教師が多くいます。

私達の母国、日本にもたくさんの宣教師がやってきましたし、今も世界各地から宣教師が遣わされています。日本の多くの教会はこれらの宣教師によって作られたのです。皆さんの故郷にあるミッションスクールや病院の多くも元々はこのような宣教師達によって始められたのです。

戦後、日本の北陸伝道に赴いたアメリカ人宣教師は、自らが日本で過ごした半世紀の日々をこう語っています。「日本人がご飯の上に生卵をかけて、納豆を食べていることに驚きました。私の国では卵はスクランブルエッグで食べるもので、腐った豆を食べる習慣もありません。最初はこれらの日本の食事に驚き、勇気をもって口には入れたもの、慣れなくて身体を壊しました・・・。でも、今、私は卵かけご飯も納豆も大好きです」。

私達はこのような話を微笑みながら聞きますが、目の前でごはんの上に生卵がかけられるのを見、納豆の匂いを嗅ぎ、あの糸を引くねばりけを見た時の驚きはいかほどだったでしょうか。そして、これらのものが大好きになるほどに日本を愛し、日本に溶け込んでいった宣教師達の苦労はどんなものであったかと想像します。彼らは福音を伝えるために日本語を必死で習得し、時に己れの慣習や文化を封印し、日本の慣習や文化に溶け込んでいったのです。

なぜ、彼らは本国の豊かな生活を捨ててまで、電気も水もないような未開の地に行くのでしょう。文化も違い、言葉も違い、不自由を覚悟して、もしかしたら自分の健康や命すらも失いかねない地になぜ彼らは向かうのでしょう。彼らは一攫千金を求めて宣教地に行くのではなく、人間的に見たら報われないことだらけであることを知りながら、そこに出て行くのです。なぜなら、彼らは自分が伝えることにはそれだけの価値があるからと確信しているからです

彼らは極めて単純な理由から本国を離れて宣教地に出て行きます。すなわち彼らの多くは今日、読みました聖書の言葉に背中を押されて出ていくのです。「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」(ローマ10章14節-15節)。

このことゆえに、今日も世界のどこかの空港から宣教師が外国に飛び立ちます。なぜ?聞いたことのないものを、信じることなどできないからです。宣べ伝える者がいなくては、聞くことはないからです。つかわされなくては、宣べ伝えることなどできないからです。彼らはこの言葉を受け止めて旅立つのです。

それではこの宣教師達が伝えようとした価値あるものは何なのでしょうか。このことは、はっきりしておかなければなりません。16節にはこう書かれています。イザヤは「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている』(ローマ10章16)。この宣教師達が苦労して外国で伝えようとしたことは、たとえ語られても、とても信じることができないようなことでした。それは何でしょうか。ここに記されていますように、それは旧約聖書のイザヤ書53章1節からの引用なのであります。

そのイザヤ53章の1節以降に何が書かれているかといいますと、そこにはキリストが十字架にかかる時の様が記され、そして、彼が十字架にかかる理由について書かれているのです。もう何度もお話していますが、このイザヤの預言はそのイエス・キリストが十字架にかかる750年も前に書かれているのです。そして、イザヤはそのキリストの十字架預言を語る前に一つの前置きとして言っているのです「誰が、我々の聞いたことを信じ得たか」。

イザヤはここで「これから私が書き記そうとしていることを、いったい誰が信じようか」と言っているのです。そうです、イエス・キリストというお方が私達の罪の身代わりとなられて十字架におかかりになった。誰がそんなことを信じられるかというのです。パウロもそのことをしっかりと踏まえてイエス・キリストの十字架について語り、宣教師達も「誰が自分が語るこのイエス・キリストの十字架を信じ得ようか」というメッセージをたずさえて出ていくのです。

人は本来、神の前に罪人であり、その罪ゆえに神の前に裁かれると聖書は語ります。しかし、その罪はキリストにあって赦されるというのです。イザヤははっきりとそのことを預言しています「しかし彼は(イエスは)われわれのとが(罪)のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼は(イエスは)みずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」(イザヤ53章5節)。

壁に書かれた落書きなら特殊な洗剤を使って、汗を流しながら、ゴシゴシ洗えばきれいにすることができるでしょう。しかし、先週もお話ししましたように罪とは自分の力で帳消しにできるようなものではないのです。実にこのことがこのローマ書のテーマなのですが、罪は我々の「良い行いをもって帳消し」とされるものではなく、罪というものは「赦される」ものなのであります。

その赦しの道を神様は今から2000年前に十字架におかかりになったイエスの死を通して、私達に明らかにしているのです。そうです、イエス・キリストが私達の罪の身代わりとなり、その罰を全て御身に受けてくださったゆえに、私達の罪は赦されるのです。ですから「こんなことを誰が信じえようか」なのです。それは全く私達の思いを超えたものであり、十字架に磔にされたイエス様を今、皆さんの前に「これですよ」と見せることもできないのです。

このことをパウロはコリント人への第一の手紙でこう語っています「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める」(コリント人への第一の手紙1章22節)。ユダヤ人達は自分の祖先に神がなされたような目に見えるしるし、すなわち奇跡を求めていました。すなわち、あのモーセの10の奇跡のような、出エジプト記に記されている紅海の水が真っ二つに分かれてしまったような奇跡です。そして、ギリシア人は知恵を求めました。多くの哲学者を輩出した彼らはアテネの街角で常に新しい教えについて活発に議論がなされていました。そう、その議論とは彼らの頭脳が司る知恵を取り扱うものでありました。

そして、このことは現代も変わらず、私達は心の中で「しるし」、すなわち目に見え、手に取ることができ、驚嘆するような刺激を求め、また「知的な情報」を集めようとしています。そして、これらのことはパウロの時代に比べましたら驚異的な進歩を遂げています。説明するまでもありません、テレビやインターネットは世界中で見られる驚くべきことを私達の前に示し、知的な情報と思われるようなことはいつでも、どこででも手に入れることができるようになりました。

「希望」とは「未踏の地に向かっている時」に私達が心に抱くものです。なぜなら、そこにいけば何かがある、そこには希望があるだろうと思うからです。そのような意味で100年前、私達には希望がありました。一生懸命に働いてこの貧しさから抜け出て生活が豊かになれば、私達は幸福になれると思えたからです。自分は受けられなかったけれど、自分の子供達が良い教育を受ければ、彼らの生活は豊かになる、幸せになれる。そんな「希望」がいくつもあったのです。

しかし、その時から100年が経ち、100年前にあの山の向こうに希望があると思っていた私達はその山を越え、さらにその先にある山々を超えて、今、ここにいるのです。100年前にあれがあれば、これがあればと思っていた当時の人間が望んでいたものを私達は全て手に入れているのです。

さぁ、それでは彼らの希望の地に到達している私達は本当に幸いになったのか。問題はなくなったのか。いいえ、彼らが抱いた希望の時代におりながらも、私達は多くの問題に囲まれているのです。これまで「希望という扉」を一つ一つ開けて、ここまできましたが、そんな扉も今日、全て開け尽くしたように思われるのですが、いかがでしょうか。

これから確実にやってくる時代というのはコンピューターが人間の代わりに今まで以上に色々なことをしてくれるという時代ですが、多くの私達はそこに希望など持てずに、かえって不安が増し加わっています。すなわちパウロが書いた「しるし」や「知恵」は私達の根本的な問題には何も役に立たないということなのです。

それでは私達の根本的な問題は何なのでしょうか。それこそが聖書が人類の初めから取り上げている問題であり、それは私達の罪の問題です。この問題は新機種のセルホンや今、注目されている人の頭脳をもったAIによってはどうすることもできないのです。私達の最新のセルホンは私達の欲望を掻き立て、AIが私達の仕事を奪えば、心の中には苦々しい思いがわき、その思いにより、私達は何かをしでかしてしまうか分からないのです。

ですから皆さん、今こそ聖書が言っていることに立ち返る時です。私達は「あれもこれも得た、そして賢くなった」ということだけで生きる者ではないからです。「誰がこのことを信じ得ようか」。その信じ得ないことの中に私達の本当の希望があるのです。

二つ目のことをお話ししましょう。それは「ユダヤ人の救い」ということです。

今日、読みましたローマ書の後半にはこんな興味深いことが書かれています。19なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」(申命記32章21節)。20イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」(イザヤ65章1節)。21そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている(ローマ10章19節-21節)

モーセとはこのローマ書が書かれた約1500年前を生きた人であり、イザヤはこのローマ書が書かれた750年前に生きた人です。言うまでもなく彼らの間に互いの面識はありません。しかし、彼らが共通して言っていることは、神はイスラエル人ではない者、すなわち神を求めない異邦人により(異邦人とはユダヤ人以外の全ての者、すなわち我々、日本人であり、アメリカ人のことです)見出され、それゆえに神は彼らに現れた。このことによりユダヤ人はねたみと怒りをもつであろう。しかし、そんなイスラエルに対して神は終日、いつも手を差し伸べていたと言われるのです。

私達の手元にあります聖書には二つの区分がありまして、その前半を旧約聖書と呼びます。そして、その後半を新約聖書と呼びます。この旧約聖書と新約聖書を区別するものは何かというと、とてもシンプルに言いますとイエス・キリストが誕生する前が旧約聖書であり、イエス・キリストの誕生以降が新約聖書となります。

そして、その旧約聖書の時代は「神」と「イスラエル」の間に契約が取り交わさた時代であり、イスラエル人以外の人たち、すなわち異邦人はその契約の中にはおりませんでした。。その時代のただ中にありましたモーセとイザヤは、そのような時代にありながらも、神は我々以外の者達、すなわち異邦人によって私達イスラエルにねたみを起こすであろう、その異邦人にご自身をあらわすであろうという預言を残していたのです。

神に選ばれたイスラエルは頑なで、神に従いえず、それに対してイスラエル以外の者達、すなわち異邦人が神に対して目が開かれ、イエス・キリストを信じている。これまでなかった、そのような現象が起き始めていた時代というのが、このパウロがローマ書を書いていた時であったのです。そう、救いはイスラエルに限定されるのではなく、それが全ての人間へと向けられていったのです。そして、それは古の昔からの神の御計画であったとパウロはここで言っているのです。

すなわちイエス・キリスト以来、ユダヤ人ではなく、全世界のあらゆる人間にクリスチャニティーが伝えられ、今や全世界において22億5000万人、世界人口の33.4%がクリスチャンであるということを私達は否定できないのです。まさしく、世界は神の御計画どおりに進み、その計画の成就の中の一人の異邦人が私であり、皆さんなのです。

ユダヤ人は昔から今にいたるまで、この地にメシアが来ることを祈り求めていますが、それは私達、キリスト教徒が信じているイエス・キリストではありません。ユダヤ人は旧約聖書に対して、我々よりもはるかに多くの知識をもっています(言うまでもありませんが、彼らはイエス・キリストを救い主と信じていませんので新約聖書は彼らの聖典ではありません)。彼らはなんといっても聖書の原語であるヘブル語で聖書を読めるのですから、私達以上、そこに書かれている真意を読み取れそうに思えます。当然、先ほどのイザヤ53章をも当然、彼らは知っていますし、異邦人である私達が指摘している旧約聖書の中に記されているキリストに関する預言も知っているはずです。しかし、彼らはそれでもイエスを受け入れません。

よく友人と話すのですが、このように彼らの心がイエス・キリストに対してここまで固く閉ざされているということ自体、私達には不思議なことであり得ないと思います。なぜ、このようなありえないことが起きているのでしょうか。パウロはこのように記しています。

11そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。(ローマ11章11節)

ユダヤ人の心がイエス・キリストに対して閉ざされたのは、そのことによって救いが異邦人におよぶためであったのです。それによって彼らが奮起するためでありました。そして、このことは奥義なのだと説明をしながら筆を進めます。

25兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、26こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう(ローマ11章25節-26節)

一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人が全部救われるにいたる時までのことであり、ということは既に福音が地球の隅々にまで伝えられ、多くの異邦人が主イエス・キリストにあって救われている現在、まさしくイスラエルの救いの到来はいつ起きてもおかしくないことなのです。

そして、パウロはここでイザヤ59章20節、21節を引用して「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払う」と記しているのです。シオンとはイスラエルのことであり、ヤコブとはイスラエル人のことですから、これは既に2000年前にイスラエルにこられたイエス。キリストのことをあらわしているという学者もいれば、イエス・キリストが再びこの地にくる再臨をあらわしているという学者もいますが、どちらからも言えることはイエス・キリストがイスラエルの不信心を取り除き、彼らもイエスを主と受け入れる日が必ずくるということなのです。

かつてパウロはガチガチの律法学者でありました。そうです、頑ななユダヤ人の先頭を立っていた男だったのです。しかし、劇的な回心により彼はイエス・キリストを己が救い主として信じ、それを命をかけて伝える者となりました。当初、パウロは自分の古き熱狂的な信仰に対して、イエス・キリストがどのように関わっているのかということを祈り、考え、神にその意味を問うたのでありましょう。そのことは後に、彼がユダヤ人としてイエスを信じていくために、また自らの先祖達の歴史の意味を知るために不可欠なことでありました。そして、これらのことについて、これまでお話ししてきたことを神様はパウロに示されたのでありましょう。

主にある皆さん、今日、お話ししましたようにユダヤ人の心は今も閉ざされており、現在も99パーセントのユダヤ人はイエス・キリストを信じておりません。しかし、その中には少数ながらイエスを信じるユダヤ人達が起きてきており、私達は彼らをメシアニック・ジューと呼んでいます。

しかし、やがてこのような少数のユダヤ人だけではなく、ユダヤ人全体が自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを主、己がメシアとして信じる日が来るのです。そうです、今、世界を見まわす時にまさしく異邦人への伝道はほぼ行きわたっています。

聖書が記していますように 、まさしくイエス・キリストの後の2000年の世界史はまさしくイエスを全世界の異邦人に伝える宣教の歴史でもあったからです。この世界は神様のご支配の中にあり、それゆえに神は私達のような異邦人にも救いの手を差し伸べ、さらにはユダヤ人を見捨てることもなく、古の昔に彼らと交わされた契約を破棄せず、彼らの救いをも神様は望まれているのです。

「悔い改める」という言葉には「方向を転換する」という意味があります。先にお話ししました、私達が突き進んでいる前方に希望がないのなら、私達がすべきことは向きを変えて方向を転換することです。そうです、そのディレクションをあらため、私達は神の前に自らの罪を悔い改めて、イエスを信じ、新しい人となり、神と共に生きるべきです。そして、このことにおいて異邦人もユダヤ人も区別はありません。我々は皆、神の前に罪人であるからです。しかし、我々もユダヤ人もイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。それが聖書が全ての人間に語りかけているメッセージなのです。このメッセージを伝えることに命をかけたパウロの言葉をもって今日のメッセージを終えましょう。

14わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。15そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである(ローマ1章14節-17節)。

偉大なる神様は不思議なご計画をもってまず我々、異邦人を救い、これからユダヤ人をも救おうとしておられるのです。主が差し出されている救いの手を信仰をもって握る者はさいわいです。お祈りしましょう。

Our Salvation and The Salvation of The Jews

February 11, 2018

We are currently studying the Book of Romans. We have learned that chapters 9 to 11 are written for the Jewish people. The passage we will focus on today is also addressed to the Jews. But the passage is also addressed to us who are not Jewish. Let’s read today’s passage Romans 10:14-21 as we begin our study on the relationship between our own salvation and the salvation of the Jews.

14 How, then, can they call on the one they have not believed in? And how can they believe in the one of whom they have not heard? And how can they hear without someone preaching to them? 15 And how can anyone preach unless they are sent? As it is written: “How beautiful are the feet of those who bring good news!”16 But not all the Israelites accepted the good news. For Isaiah says, “Lord, who has believed our message?” 17 Consequently, faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word about Christ. 18 But I ask: Did they not hear? Of course they did:

“Their voice has gone out into all the earth, their words to the ends of the world.”19 Again I ask: Did Israel not understand? First, Moses says,“I will make you envious by those who are not a nation; I will make you angry by a nation that has no understanding.” 20 And Isaiah boldly says,“I was found by those who did not seek me;    I revealed myself to those who did not ask for me.”21 But concerning Israel he says,“All day long I have held out my hands to a disobedient and obstinate people.” (Romans 10:14-21)

The first thing we will explore from this passage is about our own salvation. Jesus said that the end of this world will eventually come. He mentioned about the things that must happen before the end, and one of these was that “the gospel must first be preached to all nations” (Mark 13:10).

2000 years ago, Christianity was born. And just as Jesus said, the gospel is being preached all over the world. There are people who go to live in a foreign land so that they can live among the natives and show them the Word of God, and we call these people missionaries. They leave their home land and go out into all the nations carrying the gospel, to spread the good news.

Some missionaries go to regions of the world that have not yet been explored. In some of these place, the natives practice headhunting, witchcraft, and human sacrifice. The missionaries go to these people and put their lives on the line to preach the gospel, and many of them have lost their lives while fulfilling their call.

There have also been many missionaries who have come to our home country of Japan, and many missionaries are continuing to come from all over the world. Many of the churches in Japan have been founded by these missionaries. Many of the universities and hospitals we know were also originally founded by these missionaries.

One American missionary who was sent to northwestern Japan after WWII reflected about the years he spent in Japan and said, “I was shocked to see the Japanese eating raw egg on rice and nattō (fermented beans). In my country, we eat our eggs cooked and scrambled, and we don’t eat rotten beans. Though I was able to put the food in my mouth, I had a hard time getting used to it and felt sick afterwards. But now I love eating raw egg over rice and nattō”.

We may smile when we hear this kind of story, but how shocked this missionary must have been when he first saw the raw egg being poured over rice and smelled the nattō and saw its slimy texture. We can only imagine how hard these missionaries worked to love the people of Japan and assimilate into Japanese society. To bring the gospel to the people Japan, they diligently studied the language and at times had to give up their own traditions and culture in order to adapt to the traditions and culture of Japan.

Why do missionaries leave their comfortable lives in their home land to go to a place without even electricity or running water? Why would they go to a land with a different culture and language, where they are sure to face difficulties, and without any guarantee for their health or even their very lives? They don’t go out to the mission field in pursuit of wealth and they do so even though their work may appear unrewarding from an earthly perspective. They are able to do so because they firmly believe that the message they carry is of that much importance and value.

The reason they leave their homes and go to the mission field is quite simple. That reason is found in the words of today’s passage: “How, then, can they call on the one they have not believed in? And how can they believe in the one of whom they have not heard? And how can they hear without someone preaching to them? And how can anyone preach unless they are sent?” (Romans 10:14-15).

For this reason, somewhere in the world today a missionary will board a plane bound for another country. Why? Because people cannot believe in something they have not heard. And they cannot hear without someone preaching to them. And there is no one to preach unless someone is sent. The missionaries take these words to heart and go out to the mission field.

So what is the message that these missionaries carry which has so much value? We must be clear on what that message is. In verse 16 we read Isaiah’s words, “Lord, who has believed our message?” (Romans 10:16). The message that these missionaries are laboring to tell in a foreign land is a message that is hard to believe. What is that message? As you see, this quote was taken from Isaiah 53:1.

What is found in the verses after Isaiah 53:1 is a description of how Christ will be crucified and the reason He was crucified. I’ve mentioned this many times, but Isaiah wrote this prophecy 750 years before Jesus went on the cross. And regarding his prophesy about Jesus’ crucifixion, Isaiah said “who has believed our message?”.

In other words, Isaiah is saying “who can believe these things I am about to write?”. Jesus Christ took our place and was crucified for our sins. Who can believe such a thing? Paul understood the unbelievable nature of this message that he preached, and so do the missionaries who go out today carrying this same message.

The Bible tells us that we are all sinners and we must be judged before God for our sins. But the message of the gospel is that our sins will be forgiven through Christ. Isaiah clearly prophesied this and said, “he was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was on him, and by his wounds we are healed” (Isaiah 53:5).

We can remove graffiti from a wall with a special cleaning solution and some elbow grease. But as I mentioned last week, sin is not something we can erase by our own strength. This is the central theme of the Book of Romans, that we cannot erase sin by doing good works, but sin is something that needs to be forgiven.

2000 years ago, the way to forgiveness has been revealed to us by God through the death of Jesus on the cross. Our sins are forgiven because Jesus bore our sins and took the penalty for our sins all upon Himself. This is why Isaiah said “who can believe this message?”. This message is beyond our understanding and we do not have the actual scene of the crucifixion before us today so I cannot point to Jesus on the cross and say “this is what I am talking about”.

Regarding this fact, Paul wrote in 1 Corinthians, “Jews demand signs and Greeks look for wisdom” (1 Corinthians 1:22). The Jews wanted to see visible signs or miracles like those shown by God to their ancestors. They wanted to see the kind of miracles that are recorded in Exodus like the ten plagues or the parting of the Red Sea. And the Greeks sought for wisdom. Greece was the birthplace of many philosophers and they frequently discussed new philosophies in the streets of Athens. In other words, their discussions focused on wisdom that was purely intellectual.

Today we are no different from them as we seek for signs or things that give us excitement though our senses, and we accumulate information that we think will make us intelligent. Compared to the days of Paul, the means by which we can access these things have advanced greatly. As you all know, through television and the internet extraordinary events happening around the world are constantly being broadcast and an abundance of information can be accessed anytime and anywhere.

As humans, we feel a sense of hope when we are heading towards a new frontier. We feel hope because we imagine that something better is waiting beyond that frontier. In this sense, we may have been more hopeful a century ago. Back then we thought that we could achieve happiness by working hard and overcoming poverty. We believed that if we could give our children the education and opportunities we didn’t have, they would prosper and become happy. This is the kind of hope we had back then.

But here we are today a hundred years later, after climbing many mountains, thinking that we would find hope beyond these mountains. And today we have all the things that people hoped for a hundred years ago.

We have reached the place that our ancestors dreamed about, but have we found true happiness? Have we solved all the problems? We are living in the age that they longed to see, but we are still surrounded by problems. Mankind has opened many doors in pursuit of hope and it seems today that we don’t have any more doors to open.

We are seeing an ever-increasing trend of human labor being replaced by computers, and many of us are not hopeful but feel anxious towards this trend. This only proves that the kind of signs and wisdom that Paul wrote about will not help us at all when it comes to our fundamental problem.

What then is our fundamental problem? It is the problem which the Bible has been addressing since the beginning of mankind, and that is the problem of sin. The latest cell phones and AIs could not solve this problem. Our smartphones only stir our desire for more and if AI’s take our jobs away we may become filled with negative emotions that will cause us to lose control of ourselves.

So there is no better time than now to turn back to the message of the Bible. We were not meant to live only for materialistic gains or intellectual pursuits. Who will believe the message? For only in the unbelievable message of the gospel can we find true hope.

Let’s move on to the second point of today’s sermon, which is about the salvation of the Jewish people.

In the latter half of today’s passage from Romans, Paul makes an interesting remark:

19 Again I ask: Did Israel not understand? First, Moses says, “I will make you envious by those who are not a nation; I will make you angry by a nation that has no understanding.” (Deuteronomy 32:21)

20 And Isaiah boldly says,“I was found by those who did not seek me;I revealed myself to those who did not ask for me.” (Isaiah 65:1)  21 But concerning Israel he says,“All day long I have held out my handsto a disobedient and obstinate people.” (Isaiah 65:2)

(Romans 10:19-21)

Moses lived 1500 years before the Book of Romans was written, and Isaiah lived 750 years before it was written. Needless to say these prophets have never met each other in person. But what they have in common is that they both prophesied that God will reveal Himself to the Gentiles (or anyone who is not a Jew, including us), and because of this the Jews will become envious and angry toward the Gentiles. But it also says that God always had His hands held out to the people of Israel.

The Bible we have before us has two parts to it. The first part is called the Old Testament and the second part is called the New Testament. Simply put, the difference between the Old Testament and the New Testament is that the Old Testament was written before the birth of Jesus Christ, and the New Testament was written after His birth.

In the days of the Old Testament, God made a testament or covenant with Israel, and any Gentile, or anyone who was not an Israelite, could not be part of that covenant. And although Moses and Isaiah lived in the times of this old covenant, they prophesied that God will reveal Himself to the Gentiles and use the Gentiles to make Israel envious.

They prophesied that God’s chosen people Israel will be disobedient and obstinate while the Gentiles will come to know God and become followers of Jesus Christ. And around the time Paul was writing his letter to the Romans, this prophecy had already began to unfold. Salvation was no longer limited to Israel, but has been extended to every human being. And Paul says that this was the plan God had since the very beginning.

Since the time of Jesus, the gospel has been preached to people all over the world, and today there are 2.2 billion Christians in the world, which is 33.4 percent of the world population. The gospel has spread throughout the world just as God planned and as Gentiles, you and I are living proof of His plan being fulfilled.

Since ancient times and to this day, the Jews have been praying for the coming of a Messiah, but the Messiah they are expecting is different from the Messiah that we Christians believe in. The Jews have far more knowledge of the Old Testament than we do (needless to say they do not believe in Christ so the New Testament is not part of their sacred texts). Above all they can read the Bible in its original Hebrew language so they should have a far greater advantage in understanding the deep truths found in the Bible. There is no doubt that they have read Isaiah 53 and all the other prophecies written in the Old Testament that point to Christ. Yet they still do not believe in Jesus.

Considering these facts, it is perplexing that their hearts could still be closed off toward Christ. How could this be? Paul wrote regarding this and said: “Did they stumble so as to fall beyond recovery? Not at all! Rather, because of their transgression, salvation has come to the Gentiles to make Israel envious” (Romans 11:11).

Paul wrote that the reason the Jewish people’s hearts were hardened toward Christ was for salvation to come to the Gentiles. He continues his explanation by calling this a mystery:

‘I do not want you to be ignorant of this mystery, brothers and sisters, so that you may not be conceited: Israel has experienced a hardening in part until the full number of the Gentiles has come in, and in this way all Israel will be saved. As it is written: “The deliverer will come from Zion; he will turn godlessness away from Jacob”’ (Romans 11:25-26).

The reason the people of Israel were hardened in part was for the whole Gentile world to be saved, and now that the gospel has been spread to the ends of the earth and many Gentiles have become followers of Christ, the time when all of Israel will be saved could come at any moment.

In this passage, Paul quoted Isaiah 59:20 and wrote, “The deliverer will come from Zion; he will turn godlessness away from Jacob”. Here the word Zion refers to Israel’s capital and the name Jacob refers to the people of Israel. Some Bible scholars say that this passage is referring to Christ appearing to Israel 2000 years ago while others say that it is referring to the Second Coming of Christ, but either way it means that a day will come for Christ to turn godlessness away from Israel and they will all accept Christ as their Lord and Savior.

Paul was once a hardcore Pharisee. He was the most stubborn Jew among all of his people. But through a dramatic conversion he accepted Jesus as his savior and after that he devoted his life to telling others about Jesus. During those first years, Paul must have reflected on the things he fervently studied as a Pharisee and asked God to show him how they related to Jesus Christ. It was essential for him to understand the unique relationship Christ had with him as a Jewish believer and with the history of his people. And in the passages we read today we saw the answers God gave to Paul.

Today most Jews do not believe in Christ and 99 percent of Jews are not Christian. But there is a small group of Jews who are believers and they are called Messianic Jews.

But a day is coming when all Jews will come to repentance and believe in Christ as their Lord and Messiah. As we see today, evangelism to the Gentiles is nearly completed.

The last 2000 years of world history has been a history of spreading Christ’s message to the Gentile world. The world is in God’s sovereign control, and in His plan He granted salvation to us Gentiles but He has also not forsaken the Jewish people and remembers His eternal covenant with them, and it is His desire that they too will be saved.

The word repent means to change direction. If there is no hope in the direction we are heading, we have to turn around and change direction. We must change direction and repent of our sins before God, put our faith in Jesus, become a new person in Christ, and begin to walk with God. And in this there is no difference between a Gentile or a Jew. For we are all sinners before God. And both Jews and Gentiles are saved through by believing in Jesus Christ. That is the message of the Bible to all of humanity. In closing let us read the words of Paul, who gave his life to tell this message:

14 I am obligated both to Greeks and non-Greeks, both to the wise and the foolish. 15 That is why I am so eager to preach the gospel also to you who are in Rome.16 For I am not ashamed of the gospel, because it is the power of God that brings salvation to everyone who believes: first to the Jew, then to the Gentile. 17 For in the gospel the righteousness of God is revealed—a righteousness that is by faith from first to last, just as it is written: “The righteous will live by faith.” (Romans 1:14-17)

In His wondrous plan for humanity, God extended salvation to us Gentiles and in the future He will save all Jewish people. Blessed are those who will take His hand and receive by faith the salvation He offers us. Let us pray.

Translated by Keita Machida

本日のおもちかえり
2018年2月11日

1)ローマ10章14節―21節を読みましょう。福音を伝えるために必要なことは何ですか。あなたはこれまで宣教師と関わりをもったことがありますか。

  

2)『イザヤは「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている』(ローマ10章16)。この言葉はイザヤ書53章1節からの引用です。イザヤとパウロは何について、誰がそれを信じ得ようかと言っているのでしょうか。なぜ、このことは信じがたきことなのですか。

 

3)イザヤ53章5節を読みましょう。一つ一つの言葉を思いめぐらしてみましょう。あなたはどんな光景を心に思い浮かべますか。

 

4)「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める」(コリント人への第一の手紙1章22節)とはどういう意味ですか。この傾向は今日の私達にもありますか。

 

5)ローマ10章19節-21節を読みましょう。ここには何が書かれていますか。パウロの時代、異邦人への伝道が盛んになされていくようになりました。その時、ユダヤ人はどんな状態でしたか。今日のユダヤ人はイエス・キリストに対してどんな思いを持っていますか。

 

6)ローマ11章11節を読みましょう。「ユダヤ人の罪過によって、救いが異邦人に及び、そのことによりユダヤ人が奮起する」ということはどういうことですか。

 

7)ローマ11章11節を読みましょう。ユダヤ人が福音に心を閉ざしている時はいつまで続きますか。その時が来ているという兆候は何ですか。今はどんな時だとあなたは思いますか。

 

 

 

 

 

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