私達が今、生きている世界とは

先日、牧師会でテキサスの教会で起きた銃撃事件のことを話し合いました。「なぜ、あんなことが・・・」あのようなことが教会で起きるなんて「神はいるのか」。必ず、出てくる言葉です。人間はこれからどうなっていくのだ。この世の中はどうなっているのだ。こんなことは今まではなかったのだと私達は思うのです。しかし、聖書を読めば分かります。このようなことをこれまでもしてきたのが人間であり、これからも人間は同じようなことをし続けるのです。テキサスで起きたことは前代未聞のことではなく、あのようなことは人類が始まって以来、いつもあるのです。昔と今の違いは、かつては心にある怒りを人は石を拾って怒りの矛先に投げていました。棒を拾ってそれを振り上げていました。その人の手に今日はライフルがあるということです。ただその違いです。人の心は昔も今も何ら変わらず、この事実故にこれからも私達の間からうめきがなくなることはないのです。

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私達が今、生きている世界とは
ローマ人への手紙8章18節―27節
2017年12月3日

『18わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。19被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。20なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、21かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。22実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。23それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。24わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。25もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。27そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである』(ローマ8章18節ー27節)。

今日、読みました聖書箇所には3つのうめきが書かれています。今日はそれらを一つ一つ見ていきたいと思うのです。

被造物のうめき(19-22)

19被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる20なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり21かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである22実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている

まだ長男が一歳の頃、私達は休暇でサンフランシスコに行きました。サンフランシスコのホテルはどこも高く、ダウンタウンにあります安いホテルを見つけ、そこに滞在しダウンタウンを散策しました。しかし、しばらくするビルの谷間を行き来していることに息が詰まってきました。そこで予定にはなかったのですが、急きょ、レンタカーを借りてヨセミテに行き、川のせせらぎに足を入れ、ホッとしたのを覚えています。以来、一つの確信を得ました。それは私達にとって心身共にリラックスできるのは自然の中であるということでした(もちろん、この趣向はそれぞれの人によりますが・・・)。

なぜ年間、何百万人もの人がグランドキャニオンやヨセミテに行くのでしょうか。なぜ、いたる所にホテルがあるのに、私達はあえて何もない場所にテントを張って不自由な時を過ごすのでしょうか    理由はそこにある自然に触れたいからです。グランドキャニオンの峡谷から吹きあげてくる風はエアコンの風とは異なり、ヨセミテのエルキャピタンには人間が建てたビルとは異なる威厳があります。テントに寝るということは決して快適なことではありませんが、そこには大地の感触があります。

なぜ、多くの方々が家庭菜園を作って野菜を育てているのでしょうか。我が家では今年の夏に幾つかの野菜を育てました。少しの収穫はありましたが、経費を考えたらスーパーで買ったほうがずっと安いのです。それでもまた暖かくなったら種を蒔こうと思います。苗を植えようと思います。なぜなら、土の中から小さな芽が出て、それが日々、成長していく命の様を見ることが私達にとっては大きな喜びだからです。このように私達は日常生活の中で自然を楽しんでいますし、自然を求めています。

今日、読みましたこのローマ書8章を書いたパウロはこの自然を被造物と呼んでいます。そうです、私達を取り囲む自然とはすなわち神の創造物なのです。そして、その神の創造物の中にパウロは「うめき」を聞いているのです。これは大変、驚くべきことであります。

聖書の一番初めには天地創造の物語が記されています。それを読みますと人間を含めた神の被造物が創造の秩序と目的のもとに置かれていることが分かります。そうです、人間も他の被造物も共に神の栄光のために造られました。

そして、その目的のもとに、人は役目を与えられていることが創世記1章28節に書かれています。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』ここで言われている「支配する」ということは、自然を好き勝手にしていいということではありません。神の目的のもとに、神の栄光のために、正しく管理して、それらを治めることを意味します。それは人間の権利ではなくて「責任」なのです。

しかし、人が人として神との正しい関係を失うことによって、すなわち、最初の人、アダムとエバが神から食べてはいけないと言われていた禁断の実を食べてしまってから全てが変わりました。創世記3章17節-19節にはこんな言葉が記されています

あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと私が命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから、あなたはちりだから、ちりに帰る」。

それまでアダムがいたエデンの園において、彼を取り囲んでいた自然は彼らにとって益以外のなにものでもありませんでした。アダムとエバにとりましてそれらは全く無害であり、彼らを十分に養うものでありました。しかし、このアダムの行為の後に地が呪われたというのです。大地は人が望むように食物を実らせることを止め、自然の営みは必ずしも人間が願うようにはならない、いや、それどころかこの自然が人間に牙を向くこともあるようになってしまったのです。

これらのことを踏まえてパウロは、その日以来、人は無目的に自分勝手に生きるようになり、死ぬことが私達の宿命となり、自然界もその秩序を失い、虚無に服することになったと記しているのです。我々の罪は自分自身や周りに混乱をおよぼすのみならず、それは全被造物の混乱にも影響を与えたというのです。

今日、地球温暖化とその結果の自然災害を世界の各地で見るにつけ、この世界は終焉に向かっているのではないかという漠然とした危機感を私達が持つことは決して根拠なきことではないのです。

しかし、パウロはそのような悲壮感にとらわれることなく、むしろ、そこで希望を語ります。それは私達が見ているような深刻な今日の環境破壊の現実を見ていないからではありません。そうではなくて、この罪深い人間について、なお希望があることを彼は知っているからです。そう、彼はキリストにおいて現わされた、人間を罪から救う神の御業を知っているからであります。

人の罪はキリストの十字架によって赦されると聖書は言います。それは贖われると聖書は言います。しかし、私達はそれによって完璧な人になるわけではありません。キリストの救いを受けた私達であっても私達はまだ罪を犯す者であります。しかし、やがてその罪の縄目から完全に解放されて、私達本来の姿へと回復させられる時が来るのです。神の子としての姿が完全に回復せられる時が来るのです。私達はこのことを心から望み、この望みによって救われているのです。

そして、この私達の希望は自然界にとっても救いの時であるとパウロは言います。被造物もまた滅びへの隷属から解放させられる時が来るのです。ですから、パウロはただ被造物世界をうめき苦しんでいるものとして見ているのではなく、その被造物の苦しみを期待に満ちた産みの苦しみとして見ているのであります。

世界いたるところで私達はどれだけ自然災害によって、危害を受けているか。それは自然自体も本来の完全な姿ではないからであります。私達がその美しさ、その荘厳さに感動している自然の美しさも実はまだ完全なものではないのです。その本当の美しさは聖書の言葉が示すように滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る時に始めて明らかにされるのです。ああ、その時に私達はどんな光景を見ることができるのでしょうか!。

パウロはその希望に生きたのです。皆さん、今日から天気予報や世界各地で起きている災害のニュースを見る時に、また野の草花を見る時に、私達はこの新しい視点でこの世界を見るべきだと思います。今、万物はうめいているのだ!しかし、これらの被造物も栄光の自由に入る日がくるのだと!二つ目の事をお話ししましょう。それは「私達のうめき」ということです。

私達のうめき(23-25)

それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私達自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。私達は、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、私達が見ないことを望むなら、私達は忍耐して、それを待ち望むのである。

 パウロは私達にもうめきがあるとここで言っています。世界中、うめきに満ちていると言っていいかもしれません。ある人は言いました。「私達は主イエスの十字架と主イエスの復活の間を生きている」。この緊張感の中を私達は今、生きているのだと。

すなわち今のこの時というのは、十字架によって私達の罪は赦され、キリストと共に、聖霊の導きと共に歩んでいる時であります。しかし、イエス様が十字架につけられ、墓の中に収められていた時に弟子達は不安と恐れの中、それこをうめくようにして毎日を送っていたように、私達もそのような思いを持ちうる今を生きているのです。なぜなら、神様は私達の目には見えずに、私達の信仰は揺さぶられるからです。しかし、私達はそれでも信じるのです。今日の箇所にあるように、私達はやがてキリストの栄光の自由に入る望みが残されている、キリストと相まみえる希望を持っている。パウロが言うように、今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りないといことを!その望みを信じて毎日、一歩一歩、歩んでいるのです。

パウロはここで「私達は御霊の最初の実を持っている」と言っています。すなわちこれは初穂ということで、それは最初に収穫された穂のことです。ということは最初の穂があるということは、その後に実る穂もあるということです。すなわち、このことは終末における完全な栄光に先立って、私達にはその最初の部分が既に与えられていることです。この初穂ゆえに私達は最後に備えられている収穫の実も必ず与えられるということで、さらにはその喜びを今、思いつつ、前もってそれを味わうことができるのです。

皆さん、世界を見回して見て下さい。いいえ、私達の身近な世界を見て下さい。いいえ、自分自身を見つめて下さい。そこには喜びや楽しみだけではなく、悲しみ、苦しみがあります。まさしく「うめき」が私達の間から聞こえます。 あの人類二代目の兄弟、アベルとカインの物語がありますでしょう。兄カインは弟アベルを殺しました。神様はその時、カインに言われたのです「あなたの弟の血の声が土の中から私に叫んでいます」。

今日という一日、世界でどれだけの人の命が奪われているのでしょうか。どれだけの人の心が引き裂かれているのでしょう。どれだけの人が健康を損ねたり、死というものが私達に入り込んできているでしょうか。これらはクリスチャンであっても、そうでなくても誰の身にも起こることなのです。まさしくこの世界はそんな私達の叫びとうめきで満ちています。

しかし、どうか忘れないでください。確かに私達が現在、生きている世界はそのような世界ではありますが、私達はあることを待ち望んで今を生きているのです。パウロは力を込めてその言葉をここに書き記しました。『御霊の最初の実を持っている私達自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。私達は、この望みによって救われているのである』(ローマ8章23)。

 皆さん、パウロは言うのです。私達はうめいている。悲しんでいる。しかし、私達には希望がある。それは、私達の体はやがて贖われるからだと言うのです。贖われるとは、罪と死から解放されて私達が全く自由な者となることです。今はまだ罪を宿す体において、熾烈な戦いが続いております。罪はこの体において私たちを支配しようとします。しかし聖霊は、私達を導き、私達を罪から解放したまいます。私達の肉体は聖霊と罪との戦場です。この絶えざる戦いの中に私達の人生は置かれています。しかし、この戦いは永遠に続くのではありません。勝利の時が来るのです。私達はその時を待ち望むことができる。体が贖われる時を、希望をもって待ち望むことが許されているのです。それゆえにパウロはここで「わたしたちはその希望によって救われているのです」と言っているのです。さあ、最後のことをお話ししましょう。それは「聖霊のうめき」ということです。

 聖霊のうめき(26-27)

御霊もまた同じように、弱い私達を助けてくださる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいか分からないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私達のためにとりなしてくださるからである。そして、人の心を探り知る方は、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

今まで被造物のうめき、私達のうめきについてお話してきました。この私達の現実について、神様は私達を放っておかれるお方ではありません。この私達のうめきと共に聖霊も私達の為にうめいているというのです。聖霊は自分の苦しみの為にうめくことはありません。聖霊は私のため、あなたのためにうめいているのです。

すなわち26節にこう書かれている通りです「御霊もまた同じように弱い私達を助けてくださる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいか分からないが、御霊みずから言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私達のために取り成して下さるからである

皆さんの周りに、あなたのためにうめいて祈ってくれるという人がいますか。そのような人は幸いです。そして、それと同時にあなたは稀な人です。なかなかこの世界、あなたを完全に理解して、あなたの目線で痛みを受け止めて、あなたのためにうめきつつ祈ってくれる人はいません。

でも、私達のためにこの地に送られた聖霊は、あなたのためにうめき祈っておられる。やがて、私達が栄光の体に変えられる、その時まで私達の日々の生活の中から諸々の試練と呼ばれるもの、誘惑と呼ばれるもの、不条理と呼ばれるものはなくなりません。しかし、このお方は決してあなたを離れず、あなたへの取り成しの祈りを止められることはありません!

うめきの中にいる私達のために同じようにうめき、取りなしていてくださる助け主がいる。私達が本当に苦しい時、祈ることさえもできない、どう祈ったらいいのかも分からない、そんな時、聖霊は自ら言葉にあらわせない切なるうめきをもって私達のために取りなしていてくださるのです。

主にある皆さん、今日はこの世界にある三つのうめきについてお話ししました。このことを聞くことにより、万物が新しくされる日が来る、その時まで今はうめているということがお分かりいただけたと思います。この中にある限り、私達はこれからも私達を取り囲む被造物に悩まさることでしょう。もしかしたら自然の脅威を前に大きな損害を受けるようなこともあるかもしれません。そして、自然と同じ神の被造物である私達も諸々のことにより日々、うめきながら生きています。私達はこれからも色々なことに直面することでしょう。そうです、私達からうめきがなくなることはないでしょう。

先日、牧師会であのテキサスで起きた事件のことを話し合いました。「なぜ、あんなことが・・・」あのようなことが教会で起きるなんて「神はいるのか」。必ず、出てくる言葉です。人間はこれからどうなっていくのだ。この世の中はどうなっているのだ。こんなことは今まではなかったのだと私達は思うのです。しかし、聖書を読めば分かります。このようなことをこれまでもしてきたのが人間であり、これからも人間は同じようなことをし続けるのです。テキサスで起きたことは前代未聞のことではなく、あのようなことは人類が始まって以来、いつもあるのです。昔と今の違いは、かつては心にある怒りを人は石を拾って怒りの矛先に投げていました。棒を拾ってそれを振り上げていました。その人の手に今日はライフルがあるということです。ただその違いです。人の心は昔も今も何ら変わらず、この事実故にこれからも私達の間からうめきがなくなることはないのです。

皆さん、今日、お話ししたことを覚悟しましょう。現在、被造物は虚無に服しており、うめき、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでおります。私達はここに今、いるということを認識しましょう。しかし、このこの被造物もやがてその滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されていることを胸に刻みましょう。

さらに私達も心の内でうめきながら、子たる身分が授けられ、からだのあがなわれることを待ち望んでいます。私達は今、ここにいるということを認識しましょう。しかし、この私達もやがて栄光のからだに変えられるのです。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りないというパウロの言葉こそが私達の希望です。

そんな私達が集う場所が教会です。私達はここでこの目には見えない神を賛美し、神を見上げて生きています。この不完全な世にあって時に私達はうめき苦しみます。ゆえに私達は互いのとりなしの祈りを止めません。私達はこの所で共にキリストの十字架とその復活の間を生きているのです。そして、その間を生きる私達と共に聖霊がおられます。聖霊は弱いわたしたちを助けて下さいます。御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのために神の御旨にかなうとりなしをして下さるからです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2017年12月3日

1)ローマ8章18節ー27節を読みましょう。ここにはどんな三つのうめきが記されていますか。「自然界がうめいている」ということをあなたは知っていましたか。それはどんな状態を意味すると思いますか。

 

2)創世記3章17節-19節を読みましょう。ここから現在の自然界はどのような状態に置かれていことが分かりますか。このことは私達が見聞きする自然災害、旱魃、不作等にどんな理解を与えますか。

 

3)『被造物自身にも滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである』(21)というところから私達は将来、どんな被造物の世界を見ることができますか。それはどんな世界だと想像しますか。

 

4)23節―25節を読みましょう。ここから現在の私達はどのようなところに置かれており、どのようなところに到ることができると書かれていますか。このことを受け止めることは私達の日常に向き合う時にどうして大切ですか。

 

5)私達のうめきとはどのようなものでしょうか。なぜ、この世界にはこのようなうめきがあるのですか。その原因は何ですか。

 

6)26節-27節を読みましょう。御霊が私達のためにうめきをもってとりなして祈っていてくださるという事実を知る時に私達はどんな思いになりますか。

 

この世界のうめき、悲しみはなくなりません。しかし、それはある期間までのことです。このところに私達の希望を置いて生きるのが私達の人生です。

 

 

 

 

 


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