聖霊を受けよ

pentecostパウロは御霊に満たされて、そこから実る実について書いています。22御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ5章22節‐23節)

この実、どれ一つとってもそれらは私達の権勢や能力で実らせることができるようなものではないのです。しかし、これらの実が私達には必要なのです。私達が考えているあの計画も、この人との関係も、あの問題の修復も私達の権勢とか能力によって成し遂げられていくのではありません。そこには聖霊に満たされた私達が必要なのです。「主はわが頭に油を注がれる」という詩篇23篇は古に書き記された言葉ですが、その言葉は今も私達に対する約束として語りかけているのです。

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『聖霊を受けよ』
詩篇23篇5節
2016年8月21日

私達はかつて羊飼いだったダビデの書きました詩篇23篇を毎週、みております。今日はそのうちの5節にあります「(あなたは)わたしのこうべに油を注がれる」という一節に注目したいと願っております。まずは詩篇23篇全体を拝読させていただきます。

1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれるわたしの杯はあふれます。6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう(詩篇23篇)。

羊飼いの放牧について調べていますと分かりますことは、羊がしばしば悩まされることに蝿の存在があるということです。なぜなら蠅は粘液で湿った羊の鼻にたかり、そこに卵を産みつけるからだそうです。そうしますと数日でその卵は孵化し、小さなウジが鼻の中で動き出します。言うまでもなく羊にとりまして、それは耐え難く不快なことで、その苛立ちから頭を岩や木にぶつけたり、中には逆上して命を失うものさえもいるといいます。羊は蠅が自分の鼻にたかるのを手で振り払うことなどできずに、まさしく自分では蠅一匹からも身を守ることができないのです。このような蠅から羊を守るために、羊には油が塗られることがあるそうです。私達が使う虫よけの役目をその油がはたすからです。

さすがに蠅が私達の鼻にたかって卵を産みつけるということはありません。しかし、一匹の蠅が私達の静寂を壊したり、その一匹のために私達の心が奪われてしまうことがあります。「さぁ、寝よう」と電気を消しますと、蠅の羽音がブーンと聞こえる。気になって仕方なく、電気をつけて、蠅叩きを手に取り、一戦を交える、そんなことをしているとせっかくの眠気もどこかにいってしまったなんて方がこの中にはいらっしゃることでしょう。私達もこのように小さなことで心が奪われてしまう者です。私達の心はこのような小さなことで騒いでしまうのです。羊飼いなる主はそのような私達の現状を知っています。

またこんなこともあります。カリフォルニアやネバダの荒野に行きますと、そこに咲いている植物にはトゲがあるものが多いことに気がつきます。その厳しい環境ゆえに、そもそも荒野には植物が少なく、そこに住む動物にとりまして、それらは数少ない食物となります。ですから荒野の植物はいつもあっという間に食べられてしまう状況にあります。植物のほうも、その現実に対応してトゲをはりめぐらして身を守ります。時に羊はこれらの植物のトゲによって体を傷つけることがあるといいます。羊に塗られる油はそんな彼らのすり傷を癒すためにも用いられるのです。

このようにこの一節を実際の羊飼いと羊との関係からひも解くだけで、そのことが私達自身にも当てはまるということが分かります。そうです、私達は小さなことに心が奪われてしまうということや、心に擦り傷を作りながら生きているからです。そのような私達のために主は私達の心悩ますものを事前に防いでくださることができるお方であり、また私達の心の擦り傷を癒すことができるお方なのです。

そして、同時にこの言葉は人間ダビデが神様により実際に注がれた油のことを語っており、もっと言いますと私達にも主はその油を注いでくださるということを聖書は私達に語りかけているのです。

旧約聖書の時代、イスラエルでは「祭司」や「預言者」、そして「王」 に限ってその任職の時に油が注がれました。「祭司」では、大祭司アロンを初めとする祭司たちに油がそそがれ(出エジプト28章41節)、 律法の中にもその規定がしっかりと定められていました。主の命により、預言者エリヤはエリシャに油を注ぎました (列王記上19章16節)。

そして、王ではこの詩篇23篇を記したダビデも預言者サムエルからまだ若い時に油を注がれました(サムエル記上16章13節)。このようにしてダビデは神の前に王としての任職を受けたのです。彼はその時、八人兄弟の末っ子でその数にも入れられないような立場にいた少年でした。人間的に見たら油を注がれる資格などないような身でありましたが神様はダビデを選ばれたのです。その若き日を思い起こしながら、彼は主は私の頭に油を注いでくだったのだと、その神の恵みに感謝してこの詩篇を書いたのでしょう。

このようにしてイスラエルでは祭司、預言者、王に任職の油注ぎがなされた長い年月が流れ、イエス・キリストの時代となり、その油注ぎには別の意味が含まれるようになります。

こんなことがありました。イエス様はガリラヤで伝道を始めてまもなく、ご自身が育ったナザレに行かれ、 その会堂でイザヤ61章が書かれた巻物が手渡され、イエス様はそれを会衆の前で読みあげたのです。そう、イエス様はこのような一文を読みました。

1主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、2主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、3シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる(イザヤ61章1節―3節)。

そして、このイザヤ61章を読み終えると、20イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。21そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた(ルカ4章20節‐21節)。と聖書は記しています。その時から700年も前に預言者イザヤによって書かれたこの預言についてイエス様は「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(21)と言われ、イザヤが言うように「主がわたしに油を注ぎ」(イザヤ61章1節)、同時に「主の御霊がわたしに宿っている」(ルカ4章18節)と指摘したのです。

そうです、すなわちイエス様はご自身が神から油を注がれた者であるということを宣言され、それはイコール、わたしの上に主の霊、すなわち聖霊が注がれているのだと言われたのです。イエス様にとりまして、主に油を注がれるということは、聖霊がご自身の上に臨まれたということなのだというのです。

この言葉を聞きますと、私達はイエス様がその公生涯に入るにあたり、バプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマを受け、その水から上がられたあの時のことを思い起こします。16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3章16節‐17節)

そう、その時に聖霊が鳩のようにイエス様の上に下りました。イエス・キリストは神の子としてその働きを始めるにあたり、すなわちその任職の時に頭に油が注がれる代わりに聖霊がイエス様の上に注がれたのです。

こうしてイエス様はその公生涯を始められたのですが、そのはたらきのためにまずイエス様がなされたことは12人の弟子を選び、彼らを身近におき、イエス様の言動を彼らに見せること、話して聞かせることにより、彼らを訓練することでした。

そんな年月を三年半ほど過ごされますが、イエス様は捕らえられて、不正な裁判を受けます。そんな危機的な時に手塩をかけて訓練してきた弟子達は何をしていたかといいますと、ご存知のように彼らはイエス様を見捨てて「ユダヤ人達を恐れて」逃げ隠れていました。その時の彼らには弁解の余地はなく、彼らは情けない姿をさらけだしたのです。

しかし、イエス様はそんな彼らの前に十字架による死から復活され40日もの間、彼らの前に現れます。そして、いよいよ弟子達と別れ、ご自身が天にお戻りになる時にいたり、イエス様はあの有名な言葉を弟子達に残されるのです。

3イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。4そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。5すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう(使徒行伝1章3節‐5節)。

そう、イエス様は自分が彼らの前から姿を消すにあたり、とても大切な約束を残しました。イエス様はその約束をその時、初めて弟子たちに語られたのではなく、以前にもやがて起こるべきこととして弟子達に語っておられました。その約束とは彼らにも聖霊がくだるということでした。そして、イエス様はさらにこの聖霊が彼らの上にくだるとどのようなことが起こるのかということを語られました。

「8ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒行伝1章8)。

聖霊が一旦、彼らの上に注がれますと、彼らは人知を超えた力を受けて、地の果てにまでイエス様の証人となるであろうというのです。想像してみてください。私達がもし死んで三日経った人に出会い、共に食事をしたり、親しく話し、実際にその体に触れるというような経験をするということは私達の人生観を、死生観を明らかに変えてしまうような出来事となります。そのインパクトは絶大です。

ですから復活のイエス様と共に過ごした40日間、弟子達の心には確かにみなぎる力と確信が日毎に増し加えられていったことでしょう。しかし、イエス様はそのような状態ではまだまだ不十分だということを知っておりました。勢いよく彼らは方々に出ていき、このイエスを伝え始めるでしょうが、それはあくまでも人間的な力によるものであり、それらは長続きすることなく、降りかかる困難を乗り越えていく力がそこにはない、全くないということをイエス様は知っていたのです。

ですから、今は己が力に頼らず、ただ私がかねてから言っていたようにエルサレムにとどまり、聖霊の油注ぎを待てと言われたのです。さすがにこれまで多くの失敗を繰り返してきた弟子達は、そのような意味ではそのイエス様の言葉を受け入れる下地はできていたのでしょう、このイエス様の言葉に従い、エルサレムのとある家の二階座敷に集まり、互いに祈りあっていたのです。

そして、そのところにイエス様が言われたとおり、天から聖霊がくだったのです。彼らはその聖霊の油注ぎを受けて力強く、まるで別人となって世界に出て行き、まさしくイエス様が予め言われたように、その宣教はエルサレム、ユダヤとサマリアの全土にいたり、地の果てにまでおよんだのです。今日、米国大陸にいる私達にもそのイエスの御教えが今、届いているのですから、彼らに聖霊が注がれ、この言葉は完全に成就したということを私達は認めざるをえません。

かつては人間を恐れていた弟子達は今や聖霊に満たされて、もはや何者をも恐れないものとなりました。ユダヤ人の指導者たちはありとあらゆる手段を講じて彼らの宣教をやめさせようとし、彼らを捕らえ、脅迫し、鞭打たせますが、何をしても無駄でした。「人に従うより、神に従うべきだ」(使徒行伝5章29節)とペテロをはじめ使徒たちは答え、キリストを宣べ伝え続けたのです。その後でこの宣教ゆえにステパノが最初の殉教者となり、ヤコブも殺されます。しかしそれでも福音は、すなわち聖霊の油注ぎを受けた者達により宣べ伝えられた福音は世界に広がり続けていきました。

そして、驚くなかれ、あのエルサレムの二回座敷で起きた2000年前の聖霊の降臨は、それから2000年経った今も私達にのぞむのだと聖書は言うのです。そもそも私達もあの弟子達と何ら変わらない者です。2000年の間に、そのことにおいて私達、人間に進歩はありません。私達の力には限界があります。しかし、私達に注がれる聖霊は本来、私達が持ちえない天来の力を私達に与えてくれるのです。

思えばダビデの時代においても、頭に油が注がれるということは、すなわち聖霊に満たされることだということがチラッと見えていました。そう、ダビデが預言者サムエルから油を注がれた時について聖書はこう記しているではあいませんか。12そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。13サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った(サムエル記上6章12節‐13節)。

ダビデが成し遂げました諸々の功績は彼の力と賢さにあったのではなく、それは彼が油を注がれた、すなわちその時から主の霊が彼にはげしく臨んだ、その結果、なされたことだったのです。

預言者ゼカリヤはその神の霊の力を熟知していました。そして人が持ち合わせている力ということも熟知していました。ですから彼はあの力強い言葉を確信をもって書き留めたのです。『これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである』(ゼカリヤ4章6節)。この言葉は今も私達に有効なのです。

私達日本人は「霊」という言葉には強い関心を示します。「守護霊」とか「先祖の霊」とか「霊」の話が大好きなのです。「先祖の霊が悲しんでいる」とか「守護霊に守られるために」とか、そんなことを言われて、つけ込まれて色々なものを巻き上げられたなんて話も聞きます。暑い夏のシーズン、背筋がゾッとするような霊の話があちこちでなされていることでしょう。

しかし主にある皆さん、どうか知ってください。そんな霊の話に耳を傾ける必要はありません。私達が本当に求めるものは神の霊、すなわち聖霊です。私達は主が私達に与えようと言われている臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊』(テモテ第二の手紙1章7節)をいただこうではありませんか。私達は「あなたにこの霊を注ぐ」と約束されている、この聖霊の油注ぎを切に求めましょう。

イエス・キリストは私達に約束されているではありませんか。9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。 12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11章9節-13節)。

私達はこのことについて無知であってはなりません。主は今も求める者にこの聖霊をくださいます。キリストと共に生きるために私達に必要なことはこの聖霊の油注ぎです。私達が家庭のリーダーとして、職場にはたらく者として、教会生活を送る者として、否、人として託された人生をキリストと共に全うするために、私たちに必要なものは聖霊です。

パウロはこの聖霊、すなわち御霊に満たされて、そこから実る実について書いているではありませんか。22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ5章22節‐23節)。

この実、どれ一つとってもそれらは私達の権勢や能力で実らせることが出来るようなものではないのです。しかし、これらの実が私達には必要なのです。私達が考えているあの計画も、この人との関係も、あの問題の修復も私達の権勢とか能力によって成し遂げられていくのではありません。そこには聖霊に満たされた私達が必要なのです。「主はわが頭に油を注がれる」という詩篇23篇は古に書き記された言葉ですが、その言葉は今も真新しい私達やに対する約束として私達に語りかけているのです。お祈りしましょう。

Accept the Holy Spirit

Psalms 23:5

August 21, 2016

Last week, we looked at the words of David in Psalms 23, who was once a shepherd. Today we will direct our focus to verse 5 where it is written, “You anoint my head with oil”. First, let us read Psalms 23 together.

The Lord is my shepherd, I lack nothing. He makes me lie down in green pastures,he leads me beside quiet waters, he refreshes my soul. He guides me along the right paths for his names sake. Even though I walk through the darkest valley, I will fear no evil, for you are with me; your rod and your staff, they comfort me. You prepare a table before me in the presence of my enemies. You anoint my head with oil; my cup overflows. Surely your goodness and love will follow me all the days of my life, and I will dwell in the house of the Lord forever. (Psalms 23)

 Upon learning about the work of a shepherd, there is one existence that caught my attention. It is the flies that constantly bother the sheep. The flies swarm on to the moist nose of the sheep and lay their eggs. Within a few days, they will hatch and the larva will begin to move around. Of course this is an unbearable discomfort to the sheep, causing them to irritate and hit their own heads on rocks and trees. Some even lose their lives in this frenzy. The sheep cannot swat away the flies that swarm to them, and are literally helpless. To protect these sheep from the flies, oil is often applied to their nose as a repellent.

As we all know, flies will not land on our noses to lay eggs. But we are often distracted and irritated with the presence of even a single fly. We turn off the lights to sleep for the night only to hear the buzzing of a fly. Annoyed, we reluctantly get back up, turn on the lights, and grab the fly swatter, ready for a battle and forgetting our sleepiness. This is probably not an uncommon situation for us. We also are so easily distracted and carried away. Such small thing can disrupt our hearts. The Lord our shepherd is well aware of this reality.

In the deserts of California and Nevada are many plants and flowers with thorns. With such harsh environment, there are few plants that actually grow, and those plants are the scarce food source for the animals who live there. And so the plants of the desert are easily eaten up. Corresponding to this situation, the plants protect themselves with thorns. Sheep can sometimes hurt themselves with the thorns of the desert plants. Oil is also applied to these wounds to help them heal.

Even looking at the realities between the relationship between the shepherd and the sheep, we see that it can be directly applied to us. We live disrupted by the many small things in life, and bear many small wounds in our daily life. The Lord can protect and prevent us from being distracted before they even happen, and can heal the wounds of our heart.

These words of David talk also of the oil anointed on him by God, and speaks to us that we too can be anointed by God with the same oil.

In the times of the Old Testament, priests, prophets, and kings were anointed with oil during their ordination in Israel.At festivals, high priests beginning with Aaron were anointed with oil (Exodus 28:41), These provisions were also written in the law. Kings 19:16 The prophet Elisha was also anointed by Elijah (Kings 19:16).

David, who wrote Psalms 23, was also anointed with oil as king at a young age (1 Samuel 16:13). In this way, David was ordinated as king before God. At the time, he was the youngest of 8 and in position of no recognition. From a human point of view, he was in no way qualified. Yet, God chose him as king. David must have written his psalms in thanks, remembering his young days when he was anointed with oil by God and his grace.

In this way, priests, prophets, and kings were ordinated by oil for centuries until the time of Jesus, when another meaning was added to anointing with oil.

Not long after Jesus started his ministry in Galilee, he went to Nazareth where he grew up. At at the synagog he was handed a scroll with Isaiah 61 written on it and read it before his audience. This is what he read.

The Spirit of the Sovereign Lord is on me, because the Lord has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to bind up the brokenhearted, to proclaim freedom for the captives and release from darkness for the prisoners, to proclaim the year of the Lords favor and the day of vengeance of our God, to comfort all who mourn, and provide for those who grieve in Zion— to bestow on them a crown of beauty instead of ashes, the oil of joy instead of mourning, and a garment of praise instead of a spirit of despair. They will be called oaks of righteousness, a planting of the Lord for the display of his splendor. (Isaiah 61:1-3)

 After he read this, “he rolled up the scroll, gave it back to the attendant and sat down. The eyes of everyone in the synagogue were fastened on him. He began by saying to them, “Today this scripture is fulfilled in your hearing.” (Luke 20-21) To scripture that had been written 700 years prior to this event by the prophet Isaiah, Jesus said “Today this scripture is fulfilled in your hearing” and also pointed out that, “The Lord has anointed me”(Isaiah 61:1) and “The Spirit of the Lord is on me”(Luke 4:18).

Yes, Jesus himself decider that he was the anointed one, which meant that the Spirit of the Lord is on him.To Jesus, being anointed by oil meant that the holy spirit was with him.When we hear these words, we think of the time when Jesus was baptized by John the Baptist in the Jordan river, when he rose out of the water.

 “As soon as Jesus was baptized, he went up out of the water. At that moment heaven was opened, and he saw the Spirit of God descending like a dove and alighting on him. And a voice from heaven said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased.”(Matthew 3:16-17)

 Yes, at this time, the Holy Spirit came down like a dove on Jesus. To begin his work as the song of God, Jesus Christ was atoned by the Holy Spirit instead of oil.

This is how Jesus began his ministry. The first thing Jesus did in his ministry was to select his 12 disciples, have them by his side, and trained them by having them see and hear his words and actions.

He spends about three and a half years doing this, but then Jesus is captured, and is tried unjustly. During such critical times, as you all know already, his disciples had abandoned Jesus “fearing the Jews” and had run away. The disciples had no excuses and were in shame. Yet Jesus returns to them after his resurrection, and appears before them for 40 days. And when the time finally came for him to part from them and return to heaven, Jesus left these words we know well to his disciples.

“After his suffering, he presented himself to them and gave many convincing proofs that he was alive. He appeared to them over a period of forty days and spoke about the kingdom of God.  On one occasion, while he was eating with them, he gave them this command: “Do not leave Jerusalem, but wait for the gift my Father promised, which you have heard me speak about. For John baptized with water, but in a few days you will be baptized with the Holy Spirit.” (Acts 1:3-5)

 Just as Jesus was about to leave them, he left a very important promise. This was not the first time he had told his disciples of this promise. This promise was that the Holy Spirit would also be given to them. And Jesus also spoke of what would happen when they are anointed with the Holy Spirit.

“But you will receive power when the Holy Spirit comes on you; and you will be my witnesses in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the ends of the earth.” (Acts 1:8)

 The moment the Holy Spirit comes onto them, they will receive a power beyond our understanding, and they will become Jesus’ witnesses to the ends of the earth. Imagine this. If we met with someone 3 days after they had died, ate with, spoke to, and spent time with them, such experiences would change their views of life and death forever. The impact would be tremendous.

The 40 days spend with the resurrected Jesus would have been a time when conviction and strength grew stronger in the hearts of the disciples through each passing day. But Jesus knew that such state was still insufficient. He knew that they will go out and tell the people about Jesus but such human force would not last long, that it was not enough to overcome the many obstacles they will have to face.

And so they were told, rather than relying on their own strength, to wait in Jerusalem for the gift of the Holy Spirit. As they had repeated many mistakes, they must have known well by then to listen closely and follow the words of Jesus. They followed his words and stayed in the upper room of a house in Jerusalem, praying together.

And as they were promised, the holy Spirit came down unto them. Receiving the Holy Spirit, the disciples went out to the world, strong. Their teachings spread through Jerusalem, Judea, and Samaria to the ends of the earth. The fact that we are here to day in the North American Continent hearing the teachings of Jesus proves that the Holy Spirit came upon them and his words were accomplished.

The disciples who had once feared humans had been filled by the Holy Spirit and feared no one. The Jewish leaders used every means they could think of to try and stop their teaching, capturing, threatening, and whipping them but it was no use. Peter and the other disciples replied “We must obey God rather than human beings!”(Acts 5:29) and continued to spread the teachings of Jesus. Stephen became the first martyr of this mission and Jacob is also killed. Yet the gospel, continued to spread to the world through those who had received the Holy Spirit.

And lo an behold, the decent of the Holy Spirit which occurred in an upper room in Jerusalem 2000 years ago has been given to us in this day and age as well. To begin with, we are no different from the disciples. Humans have not progressed in the 2000 years that have passed. There is a limit to our power. But the Holy Spirit which has been given unto us gives us a power from above that we do not possess.

When you think about it, it is quite clear that the oil which was poured and anointed in the times of David was also the filling of the Holy Spirit. Yes, the event of David being anointed with oil by Samuel is it is recorded in the bible.

“So he sent for him and had him brought in. He was glowing with health and had a fine appearance and handsome features. Then the Lord said, “Rise and anoint him; this is the one.” So Samuel took the horn of oil and anointed him in the presence of his brothers, and from that day on the Spirit of the Lord came powerfully upon David. Samuel then went to Ramah.” (1 Samuel 16:12-13)

 David’s many achievements were not by the works of his own power and wisdom but because he was anointed, or given the Holy Spirit. It was only the result of God’s power.

The prophet Zechariah was familiar with the power of the Holy Spirit. He also knew of the power of humans. And so he confidently wrote the strong words, “Not by might nor by power, but by my Spirit” (Zechariah 4:6) These words are still valid to us today.

We Japanese show a strong interest in the word “spirit”. Whether “guardian spirits” or “ancestral spirits”, we love hearing “spirit” stories. It is not uncommon to hear of people being tricked into buying things or into giving money with the lines “the spirit of your ancestors are mourning” or “to be protected by guardian spirits”. In the hot summer season, the stories of spirits are being told everywhere to cool down with shivers or goose bumps.

But dear brothers and sisters, please know that there is no need to lend an ear to such stories. What we truly wish for is the Spirit of God, in other words, the Holy Spirit. Let us accept the Spirit the Lord wishes for us to accept. The spirit as described in 2 Timothy 1:7 “For the Spirit God gave us does not make us timid, but gives us power, love and self-discipline.” Let us eagerly receive this Holy Spirit promised to us.

Has Jesus Christ not promised us, “So I say to you: Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened. “Which of you fathers, if your son asks for a fish, will give him a snake instead? Or if he asks for an egg, will give him a scorpion? If you then, though you are evil, know how to give good gifts to your children, how much more will your Father in heaven give the Holy Spirit to those who ask him!” (Luke 11:9-13)

 We are not ignorant to this fact. Even today, the Lord gives those who seek the Holy Spirit. To live with Christ, we need to be anointed with Holy Spirit. For us to live as the leader of our households, as workers in our workplaces, as church attendees, no, even as a human living the life we were entrusted,  we require the Holy Spirit.

Paul has written of the fruits bore by the filling of the Holy Spirit upon us. “But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control. Against such things there is no law.” (Galatians 5:22-23)

 Not one of these fruits can result of our own power or ability. Yet they are essential to our lives. The plans we have made, the relationships we seek, and the resolve to the problems we face cannot be fulfilled with our own power and ability. What we require is the Holy Spirit in us. The words “You anoint my head with oil” written in Psalms 23 is still a promise made to us anew. Let’s pray.

Translated by Shirah Vogt

本日のおもちかえり

2016年8月21日

1)詩篇23篇を読み、特に5節の後半『私のこうべに油を注がれる』に注目してみましょう。羊飼いはなぜ羊のこうべに油を注ぐのですか。あなはたメッセージの中で語られた蠅(小さなこと)で悩まされることがありますか。心のすり傷が痛むことがありますか。主はどのようにしてそれらからあなたを守ってくれますか。

 

2)旧約聖書の時代、イスラエルでは「祭司」や「預言者」、そして「王」 に限ってその任職の時に油が注がれました(出エジプト28章41節、列王記上19章16節、サムエル記上16章13節)。ダビデは自分に油が注がれたことをどんな気持ちで受け止めたでしょうか。

 

3)同じようにイエス様はイザヤ61章を読み上げ、ご自身も油が注がれたものだと言いました。これは何を意味しましたか(ルカ4章20節-21節)。ヒント:18節で主の御霊がわたしに宿っている』とイエス様は言われましたマタイ3章16節-17節もあわせて読みましょう。

 

4)なぜイエス様は弟子達にも「聖霊を受ける」ことを望まれたのですか(使徒行伝1章3節‐5節)。復活のイエスに出会った弟子達の内なる確信は、それだけで十分ではなかったのでしょうか(ヒント:使徒行伝1章8節)。

 

5)サムエル記上6章12節‐13節を読みましょう。ここにもその兆候がダビデの上に注がれています。『これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである』(ゼカリヤ4章6節)。この言葉は私達に何を語りかけますか。

 

6)あなたは聖霊の油注ぎを求めていますか。聖書はどんな約束をしていますか。ルカ11章9節-13節を読みましょう。

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