自由を右手に、左手に責任を

イスラエルの民は400年もの間、エジプトの奴隷となっており、まさしく彼らの心はエジプト化していました。それはそうでありましょう、彼らの祖父母、否、その先の先祖の代から彼らは奴隷の身分に甘んじていたのです。奴隷としての身分が彼らの骨身にしみわたっていたのです。

「奴隷根性」という言葉があります。その意味は「何でも人の言いなりになって頼りきり、自分自身の考えで行動しない」という意味です。そのようなものが彼らの魂にしみわたっているとするのなら、彼らは今一度、神と共に主体的に生きる生き方を確立しなければならなかったのです。

そのために神は彼らを荒野に導かれました。それは神から与えられた自由と共に、神の前に生きる彼ら本来の生き方を回復することを意味していました。

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「自由を右手に、左手に責任を」
2020年7月5日

先週はエジプトの王、パロの心が頑なであったため、エジプトの人間、家畜を含めた全ての初子が打たれたという聖書箇所からお話をさせていただきました。

そして、その時に小羊の血を建物の門や鴨居に塗った家の初子は撃たれることがなかったというところから、その小羊の血はイエス・キリストの十字架の予型であったということをお話しました。

このことを通して、さすがのパロも彼の奴隷であったイスラエルの民を手放す覚悟をします。こうして、いよいよイスラエルの民は400年余りのエジプトでの奴隷生活に終止符を打ってエジプトを出て行きます。

 昨日まで彼らはエジプトの奴隷でした。奴隷であるということは彼らは自由なる身ではなかったということです。しかし、エジプトにとりまして、彼らは大切な労働力ですから、その過酷な労働を継続させるために、必要最低限の生活環境と日毎の糧は保証されていたと思われます。

そんな環境から一歩、外に出た時、すなわち彼らに自由が与えられた時から、彼らは各々の人生に対して、また共に生きる隣人に対して責任を負うことが求められるようになりました。彼らは「自由」を右手に、そして、左手には「責任」を携えて生きていかなければならなくなったのです。

このことは今日もかわりません。特に今、私達が置かれている状況において、私達に与えられている「自由」に生きることを願うのなら、同時に私達の「責任」についても考えていなければならないということを、この出エジプトの出来事は私達に語りかけています。

さいわい彼らがエジプトを脱した時、次にどこに向かうべきかということについて神様はその行き先を予め、モーセに伝えていました。

『わたしはあなたがたを顧み、あなたがたがエジプトでされている事を確かに見た。それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナン人、ヘテ人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した』(出エジプト記3章17節)。

ここで神様が彼らを携え上ろうと言われた土地は「乳と密の流れる土地」、すなわちとても豊かなカナンと呼ばれる土地でした。神様はそのカナンに向かうべく、彼らが進むべき道を示されたのです。

これがエジプトを脱した民がカナンに向かうために用いたルートです。この地図にはエジプトから解放されたイスラエルの民たちがどこに向かったかが示されています。

この地図の一番右上の隅に「ネボ山」とありますが、そのネボ山から見渡すことができる、すなわち赤い矢印が示している土地が「カナン」、今日のイスラエルです。

モーセはこの約束の地、カナンを目指し、それを眼下に見渡せるネボ山にまで来ておりながら、カナンに立ち入ることができずにその山で生涯を閉じたと聖書は記録しています。

この赤い線はどこから始まっているのでしょうか。地図の左中央にラメセスという地名があり、そこから赤い線が始まっています。そこがモーセとイスラエルの民が解放された場所です。

このようにエジプトとカナンの位置関係を見る時にエジプトを脱したイスラエルの民がカナンに行くための最短距離は一目瞭然です。すなわちラメセスから北上して、そのまま地中海沿いにカナンを目指して進むのです。

実際にそのルートにはこの地図上に茶色で示されたフィリスティア人の地に至る道というものが既にあったようです。その道は直線ですし、すでに道になっているのですから、迷うことなくカナンに向かうことができたでしょう。

この直線の道を進めばラメセスからカナンまで、その距離にしておよそ220マイルほどですから、一日に10マイルを歩けば20日で着く距離なのです。

私達にとりまして最短距離で目的地に行けるルートというのはやはり魅力的です。サンディエゴから日本に行こうとする時、まさかデンバーやシカゴを経由しようと考える人はいませんでしょう。言うまでもなくここから太平洋を越えることが日本への最短のルートだからです。

イスラエルの民の数たるや200万とも250万とも言われていますから、旅する日数とか、道が平坦であるとか、水があるとか、食べ物があるとかというのは彼らにとって死活問題でした。ですから彼らには当然、このルートが最もよく思えたことでしょう。

皆さんはどう思われますか。私なら迷わず地中海沿いの道を選びます。海岸線であるのなら、大抵、海に川が流れ込んでいますから水を確保することもたやすく、海風が吹き、涼しいし、メディテリアン料理を確保できそうです。

しかし、神様は短期間で、最も楽に目的地に到着できるように見受けられるこのルートにイスラエルの民を導かれませんでした。彼らがいよいよエジプトを去る時が来た時、神様は彼らが向かうべきルートをモーセに指示していたのです。

17 さて、パロが民を去らせた時、ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。18 神は紅海に沿う荒野の道に民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て上った(出エジプト記13章17節―18節)

彼らがこれこそが自分達の進む道を思っていた道について、そのルートにイスラエルの民が向かうのなら、必ずやペリシテ人との戦となり、彼らは怖気づき、エジプトに戻ってしまうということを神様は知っておられたのです。

先ほど地図上に「フィリスティア人の地に至る道」があるとお話ししましたが、実はこのフィリスティアというのはペリシテ人のことなのです。そう、もし彼らがその道に進めば、彼らは自ずとペリシテ人の土地に導かれていくことになったのです。

ですから神様は民をカナンとは反対の方向、南へ、紅海へ、草木のない、灼熱の荒野のただな中へと向かわせました。こうして以後、彼らは荒野で40年もの間、生きることになったのです。

400年もの間、奴隷であり、エジプトの外の世界について一切、知る術がなかったイスラエルの民ですから、その時の地中海沿岸がどのような状況になっていて、そこに住むペリシテ人がどんな人たちなのかを知っている人はいなかったと思われます。ですから、当然、彼らは最短の道を歩もうと考えたに違いありません。

しかし、神は彼らの前途にあるものをよく承知していました。ゆえに神様は彼らのルートを一件、遠回りに思える、過酷と思える方向へと向けました。

多くの者達はその神様の意図を知らず、なぜ自分達の目によく見えるルートを用いずに、荒野でこんな生活をしているのかと思ったことでしょう。しかし、その背後には神様のイスラエルに対するプロテクションがありました。彼らが知らないところで神様は彼らを守っていたのです。

主にある皆さん、時に私達も自分の願いや計画が思い通りに進まないことがあります。前に進もうとする時に行くてをふさぐものがあったり、計画を断念しなければならないこともあります。

そのような時に、私達はイスラエルの民のために、彼らが願っていた道を閉ざされた、この神様のことを思い起こしましょう。私達には知りえない舞台裏があるということを謙虚に認め、その舞台裏を知り尽くした主に全幅の信頼を寄せましょう。

昨年、今年の計画をたてた方達がいると思います。2020年、何月にどこそこに行くとか、もしかしたら今年、新しい事業を始めようと各月の予定をたてていたという方もいるかもしれません。

そして、おそらくその多くの方達の予定と計画はこのコロナの影響でキャンセル、延期を余儀なくされていると想像します。

私も今年三月の半ばに予定されていた母の記念会に出席すべく日本への飛行機チケットと宿の予約を今年の初めに入れていました。しかし、それはキャンセルとなりました。

今年の修養会も昨年のうちにウエストモント大学に会場の予約を入れておいたのです。しかし、この計画もキャンセルとなりました。本当なら今日、私達は修養会から帰ってきて最初の日曜日を迎え、カレーランチを食べているはずなのです。しかし、それもかないませんでした。

私が知る限り、過去30年、40年、修養会がキャンセルされることは一度もなかったのではないかと思われます。ですから、私達は修養会が開催されることは当然だと思っていました。三月にはポスターも作って、教会に掲示しようとしていた矢先、教会はクローズされ、以後、一度も教会は開かれていないのです。

そして、今やこの先、どこに導かれていくのだろうというような心境に私達は置かれています。その心境たるや自分達の願う方向ではなく、それとはまったく別方向に歩み始めたイスラエルの民達の心境と重なり合うようです。

明らかに私達も自分が考えていた、願っていた方向に今、向かってはいませんし、色々な不便を感じつつ、一月後のことも見通せずに日々を暮らしているのですから。

イスラエルの民の思いと計画が神のそれと異なった時、その理由が告げ知らされるまで、彼らは「なぜ」と思い続けたに違いありません。そして、私達も彼らのその「なぜ」を共有しているのです。

私達人間にとりまして、何が辛いかと言いますと、その理由を知らずに一つ所に留められたり、その理由を知らずに自分が願うことができなくなることです。

このことはとてもしんどいことで、このことゆえにイスラエルの民は何度も神に向かってつぶやき、不平不満を並べ立てたことが聖書には記録されています。学者達に言わせますと彼らが荒野にいた間のそのつぶやきの数たるや50を超え、彼らはその不満ゆえに、指導者であるモーセを石で殺そうとさえしたのです。

私達もイスラエルの民と同じように心のしんどさをや将来に対する不安を感じることがあり、時に神様に向かい不平やつぶやきを言いたくなることがあります。

しかし、私達には貴重なものが与えられています。それはイスラエルの民達が向き合った出来事は古の出来事であり、その出来事の始まりと終わりについて聖書が詳細にそのことを記録しているということです。

さらにはそれらの事に対する神の御心というものにも聖書は言及しているのです。ですから、私達は彼らが直面した出来事の理由について知ることができ、またそこから今、私達が置かれている状況に対する神様の御心をもうかがい知ることができるのです。

今日、お話ししていることはイスラエルの民がエジプトを出、これから40年を荒野で生きるということの始まりです。その時の彼らの気持ちは色々と交錯していたことでしょう。

しかし、聖書はその40年が過ぎ去った後に、すなわちその40年を振り返って、あの40年にはどんな意味があったのかということについて言及しています。

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記8章2節―4節)。

ここにはその時には知りえなかった彼らが40年を荒野において過ごした理由が書かれています。すなわち、彼らが最短距離を歩かず、荒野で40年の日々を過ごしたことは彼らが神の命令を守るかとどうかということを神が知ろうとされたためであったというのです。

また過酷な場所に彼らが置かれることによって、神はその過酷さによって彼らを押しつぶそうとされたのではなくて、そのような所を通ることにより「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを彼らに知らせようとされていた」ということを神様は私達に知らせようとしたのです。

すなわち、荒野での40年を通して、神様は彼らにとって最も大切なことを教えようとされたのです。たとえ、そこで過酷な生活をしてでも、彼らがその時に知るべきことの価値の大きさを神様は知っておられたのです。このことがどれだけ大切だったか私達は知っているでしょうか。

主イエスはその時から1500年後にご自身、この荒野での40年をなぞらえるように40日、荒野に退き、サタンが石をパンに変えてみよと誘惑した時に、この申命記の言葉をそのまま引用したのです。それほどまでにこの言葉に生きることは私達にとりまして大切なことなのです。

考えてみましょう。イスラエルの民は400年もの間、エジプトに捕らわれており、まさしく彼らの心はエジプト化していました。それはそうでありましょう、多くの者達の祖父母、否、その先の先祖から彼らは奴隷の身分に甘んじていたのです。奴隷としての身分が彼らの骨身にしみわたっていたのです。

「奴隷根性」という言葉があります。その意味は「何でも人の言いなりになって頼り切り、自分自身の考えで行動しない」という意味です。そのようなものが彼らの魂にしみわたっているとするのなら、彼らは今一度、神と共に主体的に生きる生き方を確立しなければならなかったのです。

確かに祖先アブラハムの時から彼らは神に選ばれた民でしたが、400年もの間、どっぷりと異教の価値観の中に生きており、神の民としてのアイデンティテイーすらも失われていたに違いありません。

神の民でありながら、その神のみ教えの残像も残らないような生き方をしていた彼らとの信頼関係を築くところから神様は始めたのです。そして、その関係を神は神の口から出る言葉を通して成そうとされ、その舞台として荒野を選んだのです。

皆さんの中にはクリスチャンとして何十年と生きてきたという方がいるかと思います。かつてある方と話して驚いたことがあります。その方は私に言いました「私はもう何十年も教会に来ていますから、神様のことはだいたい分かりましたから、もうあまり聖書を学ぶ必要を感じません」。

私は驚き、怪しみ、その方の顔をまじまじと見てしまいました。皆さんの中にもいるかもしれません、教会に何年か来て、神というお方はだいたいどんなお方か分かっている。しかし、それは本当でしょうか。そうであるのなら、神はなぜ今、私達をこのような状況の中に置かれているのでしょうか。その神の心を全て私達は知っていますか。

異教徒の中で生まれ育ったイスラエルの民の心を今一度、神に向かわしめる、主なる神とはどんなお方であるかと言うことを懇ろに彼らに知らしめる、そのために神様は自分の力ではどうすることもできない荒野に彼らを置いたのです。

主にある皆さん、私達にはこの神の物語が手元にあるのです。そして、その物語が今、2020年、私達が置かれている今の状況にあって、私達がこのことをどのように受け止め、それに対してどう応答して生きていくべきかということを今も、その神の口から出る言葉によって神は私達に示しているということを今朝、心に刻みましょう。

後日、見てまいりますが、神様は何もない荒野でイスラエルの民に水を与え、彼らの日々の糧となるべくマナという不思議な食べ物を与え、うずらを与えます。まさしくそれは至れり尽くせりの恵でした。この天からいただく日々の糧により、彼らの肉体が渇き、飢えてしまうことはありませんでした。

さらには昼には雲の柱、夜には火の柱をもって彼らを見守り、神の臨在をあらわされました。彼らは神から与えられているものを受け、その柱が動く時にはその柱と共に動けばよかったのです。しかし、このような神の保護と恵みを日々、受けていながら、民は変わらずに何度も何度も神につぶやき続け、その不信感をあらわにしたのです。

その結末はどうなったのでしょうか。これも後日、また詳しくお話ししますが、主のこの寛大なオファーに感謝せず、不平と不信の態度をあらわし続けたイスラエルの民達のほとんどの者達は、一部の例外を除いて、彼らの目的地である、約束の地であるカナンに入ることができなかったと聖書は記しているのです。

主にある皆さん、このイスラエルの民が通された荒野での40年は、今を生きる私達にとても大切なことを語りかけていないでしょうか。幸いなことに今、この国に暮らす私達は今、奴隷の身ではないということです。私達には身体的な、思想的な自由が保障されています。

また主イエス・キリストの恵みにより私達は魂の自由も得ています。私達はこの自由を喜び、楽しみます。しかし、同時に私達は各々、神の前にある責任と共に生きるのです。

イスラエルの民にとっての責任はあの荒野で神の言葉に聞き、それに従い生きることでした。同じように私達も日々、主の御声に聞き、私達の心を主に向け、主に信頼して、主の御心に従い生きることなのです。

私達がこの時、なすべきことは今の状況を驚き怪しむことではなく、つぶやくことではなく、主の前に、神が私達に与えてくださっている自由を右手に、左手に私達がなすべき責任を携えて、今、私達が置かれている日々を今日も、そして明日も歩んでいくことなのです。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2020年7月5日

1)私達の自由には責任がともなうということはどういうことですか?自由に責任がともなわないと、どのようなことが起こりますか。具体的な例をあげてください。

 

2)400年もの間、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民のメンタリティーはどのようになっていたと想像されますか。「奴隷根性」という言葉がありますが、それはどのような私達の状態を意味しますか。どうしたらこの状態を脱することができますか。

 

3)出エジプト記3章17節-18節を読みましょう。あなたは「遠回り」と感じることを経験したことがありますか。この度の聖書のメッセージは「遠回り」と思われることに対して何を教えてくれますか。

 

4)申命記8章2節―4節を読みましょう。ここに「遠回り」の舞台裏を見ることができます。イスラエルの民が荒野での40年に導かれた理由は何でしたか。

 

5)『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせる』ということは、なぜとても大切なことなのですか。

 

6)あなたは目の前で起きている出来事の舞台裏(神様がはたらかれているということ)について考えたことがありますか。

 

7)イスラエルの民がエジプトから解放された時、彼らは自由を獲得しました。しかし、彼らは同時に神に対する責任も求められました。それはどんな責任ですか。

 

8)あなたが今、「自分自身に対して」「隣人に対して」「神に対して」取るべき責任はどんな責任ですか。


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