託された時間と賜物

『 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある』(伝道の書3章1節)

私達がめぐってくる季節に対していだく思いと願いは、冬に関して言えば「雪が積もって嫌だ」とか「いや、この寒さが気持ちいい」とか、夏に関して言えば「汗だくになるのが嫌だ」とか「いや、この暑さがたまらない」という程度です。

しかし、季節には私達が「いいとか、いやだ」とかいう以上の意味があります。もし、いやだからといって冬や夏が季節から外されたり、その順番を入れ違えたら、この世界はどうなりますか。おそらくこの世界のあちこちで私達が想像もしていなかったような自然災害が起きて私達、人類の存続すら危ぶまれるでしょう。

季節の関わり合いと、その意味の全体は私達には知りえないものです。しかし、確かにそこには順序があり、全体の調和があり、それぞれの四季でなされる自然界の現象の一つ一つには意味があるのです。

本日の「霊はプログラム」「一日一生」はこちらから。

↓本日の「日英礼拝メッセージ原稿」、「おもちかえり」はこちらから↓

託された時間と賜物
マタイによる福音書25章14節―30節
2018年11月25日

今日、見ていきたい聖書の箇所を拝読させていただきます。

14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

 19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。

 21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ』。24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。

 29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』(マタイ25章14節-30節)。

 今日読んでいただきましたマタイによる福音書には主人と3人の僕の姿が書かれています。ここに記されている「主人」とは「神様」のことで、「僕」とは「私達」のことです。

このところで主人は3人の僕達にそれぞれ5、2、1タラントを預けて旅に出ました。それぞれに与えられているタラントとは貨幣の単位でありまして、ある聖書註解者によりますとここに書かれている一タラントは労働者の20年分の収入だと言われています(このことは一タラントだからといって腐ってしまうことではない、それで十分なのだということ示しています)。そして、だいぶ時がたってこの主人が帰ってきた時にその預けていったタラントがどのように用いられたのか決算をしたというのです。

このタラントという言葉は今日、私たちの間で「タレント」という言葉として使われており、私達はこのタレントを神様から私達へのギフト、日本語では神様から賜わったもの、賜物と呼んでいます。

すなわち、この僕を私達とし、主人を神様とするのなら、私達は今、主人が旅に出ている束の間を生きている者であり、その間に神様から私達に与えてくださっている「ギフト・賜物」を用いて生きることが望まれているということです。そして、いつの日か私達は神様にそれらをどのように用いたかということを報告せねばならないとこの譬えは私達に語りかけています。

このところから今日は私達が神様から与えられている2つのことをお話します。一つ目は時間、二つ目は賜物です。

与えられている時間

私たちは今、今日という一日が始まって約9時間30分を過ごしています。皆さんの中に「いいえ、私はまだ5時間です」と言う人はいません。誰もが同じ長さの時間を過ごしています。そして、今日という一日に残された時間も私達は皆、同じ長さです。私たちにはそのような公平な時間が与えられています。

この譬に記されている僕たちも、それぞれ等しく19節にあるように「主人がだいぶ時がたって帰ってくるまで」時間がありました。これらの僕達が帰ってきた主人にする報告というのは、彼ら一人一人に与えられた「等しい時間」の中でなされたことなのです。5タラント与えられた者の方が1タラントを与えられた者よりも多くの時間が与えられたということではないのです。

もちろん、私たちの命の長さは皆、異なります。しかし、私たちには一日、一月、一年、等しい時間が与えられています。そして、私たちの行動はこの時間の中で全てなされ、その時間をどのように使うかは私達次第なのです。

この時間は私達が生まれた時に動き出しました。厳密にいえば私達の命が母の胎に宿った時がその始まりとなりますが、この地上での人生を思えば、私達が誕生した日から、この時は始まり、今にいたっています。

この時間の一秒も例外なく私たちに与えられているものであるというのが聖書の言うところです。すなわち、その時間をどう使うかは私たちに託されているのです。

聖書の中には「時」という言葉が出てきます。そして、その多くは「時がきた」とか「まだその時はきていない」というような使われ方をしています。すなわち、このことは「私達が与えられている時間には神が備えたもう時がある」ということがそこには含まれているということです

伝道の書3章1節―9節においてソロモンはそのことをこう書き残しました。

 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

ここでソロモンは私達には生まれる時、死ぬ時、笑う時、泣く時、黙る時、語る時があると書き始める前に、こう言いました『天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある』(1)。

私達にとりまして泣く時は泣く時であり、笑う時は笑う時です。そこには何の関連もないように思われます。しかし、それは人生の季節の一部なのだと聖書は言うのです。すなわち冬がくるように、私達は泣き、春が来るように私達は笑うのです。そして、その各々が季節の一部であるということは、それらは関連し合っているということです。

今日、私達は冬でありながら常夏のような室内に暮らすことができます。夏なのに避暑地にいるような室内に暮らすこともできます。しかし、それは冬というシーズン、夏というシーズンがなくなってしまったということではありません。

冬も夏も確かにめぐってくるのです。その順番を変えたり、冬は寒くて嫌だから今年はスキップしようということは私達にはできないのです。夏は虫が多いから、夏はシーズンから外しましょうということはできないのです。

私達がめぐってくる季節に対していだく思いと願いは、冬に関して言えば「雪が積もって嫌だ」とか「いや、この寒さが気持ちいい」とか、夏に関して言えば「汗だくになるのが嫌だ」とか「いや、この暑さがたまらない」という程度です。

しかし、季節には私達が「いいとか、いやだ」とかいう以上の意味があります。もし、いやだからといって冬や夏が季節から外されたり、その順番を入れ違えたら、この世界はどうなりますか。おそらくこの世界のあちこちで私達が想像もしていなかったような自然災害が起きて私達、人類の存続すら危ぶまれるでしょう。

季節の関わり合いと、その意味の全体は私達には知りえないものです。しかし、確かにそこには順序があり、全体の調和があり、それぞれの四季でなされる自然界の現象の一つ一つには意味があるのです。

冬の間に起きることには私達には知りえない壮大な神の知恵と私達への愛と配慮が込められており、夏という季節の間に起きることも同様なのです。しかし、私達はそのことに気がつかない、分からないのです。だから私達は「もう夏はいいや」とか「冬はうんざり」と言っているのです。

そして、私達が決して忘れてはいけないことは、そもそも季節は私達がコントロールするものではなくて、私達が生きるために、私達がその恩恵に預かるために巡ってくるものであり、私達はそれを受け止める者だということなのです。

人間だけが私達に起きる人生の四季に対して「早すぎる、遅すぎる」と思います。それに対して山の木々や野生の動物たちはそのような考えを持ちません。せっかく実った葉や果実が地に落ちていく木々は、「だから秋はやなんだよ」、「冬なんて最悪だ」とは思っていません。

彼らは巡ってくる季節を受け止め、そのためにできる最善を毎日繰り返して、彼らの年月はめぐります。その様は、あたかも彼らは彼らの創造主に対して全幅の信頼を寄せているようです。そして、その一本一本の木は確かに、この地上に生えてきた意味を残していくのです。すなわち、残されるものを祝福していくのです。

私達がこの地上で経験することもきっと同じなのではないかと思います。私達も日々、色々なことに直面します。その中には経験したくないこともたくさんあります。しかし、それらも私達の季節にめぐってくるものであり、その一つ一つの事は神の御手の中にあり、そこにも神の恵みは注がれ、それは次のシーズンのために不可欠なものとなるのです。

これらの人生のシーズンについて、エペソ書(5:16)やコロサイ書(4:5)などを見ますと「今の時を生かして用いなさい」という言葉が書かれています。今、置かれているシーズンを生かして用いなさいというのです。

「プロフェショナル・仕事の流儀」という番組があります。各界で活躍している一人の人に密着して、その人の人となりを掘り下げるという番組です。落語家がいたり、プロ野球選手がいたり、医師がいたりします。彼らは今、世界のトップランナーとして、それなりの功績を残している人達です。

とても興味深く、いつも見ているのですがこの番組に出演する全ての人に例外なく、共通することは彼らは皆、スランプであったり、挫折や失敗、喪失という経験をしているということです。そして、これもどなたにも共通することなのですが、それらの挫折や失敗、喪失が必ず次に進む踏み台となっているのです。

そして、このことは言うまでもなく私達にもあてはまるのです。生まれてからこの方、全て順風満帆だったといような人はいません。殿堂入りする野球選手も 10回打席にはいり、その内の6回はヒットを打てないのです。そう、それは言い方を変えれば6割は失敗しているということです。

伝道の書の言葉でいうならば、空振りしたり、凡打を打つ時、デッドボールを受け、選手生命が立たれる、そんなこともあるかもしれません。そして、そんな時というのは確かに私達が「涙する時」、「悲しに沈む時」となりますでしょう。しかし、これらのことは必ずめぐってくるものであり、そのことには意味があり、それらは次のシーズンの恩恵につながっていくものなのです。

ですから、それがいかなることでありましても、私達は「今の時を生かして用いなさい」という言葉を心に刻んで今日を生きるのです。その日のことが次の何につながっていくのか私達には分かりません。私達は神様の真実に信頼するゆえに、このことを冬の日も、夏の日もなしていきましょう。

上に芽が伸びず、花が咲かないシーズンにあるのなら、その季節には下に深く根をはる絶好のチャンスとしましょう。私達は目に見える木の大きさは、それを支える根っこの深さに比例するということを知っています。次のシーズンがくれば、下に根が深くはっているがゆえに、そこからは実が実り、いつの日か花が咲くことでしょう。二つ目のこと、それは私達が与えられている賜物ということです。

与えられている賜物                             私達に神によって与えられているもう一つのもの、それには賜物というものです。このマタイによる福音書に記されているタラントというものです。

かつて神様はモーセを召して、イスラエル民族救出の指導者となれ、とお命じになりました。かつて同胞イスラエル人から辱しめを受けた覚えのあるモーセは、しり込みし、恐れ、自らの能力のなさを主張し、自分はそれに値しないと訴えました。その時、主はモーセに何と言われたでしょうか。

あなたの手にあるそれは何か」(出エジプト記4章2節)

神が示した「それ」は何の変哲もないモーセの手にある一本の杖でした。神様はその杖をもってモーセに不思議としるしを行わせました。その杖がどうこうなのではなく、「それ」と言われるようなものを神様は用いられるのです。私達の手にある「それ」、そう神様が私達にも賜物をくださっているのです。そして、それは私達に既に十分なものなのです。

このタラントの譬を見ますと、5タラントの者は5タラント増やしました。2タラントの者もそうでした。そこには数字として多い少ないという違いがあります。しかし、主人がこれらの二人に語りかける言葉は全く同じなのです。すなわち21節と23節です「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

ここには、僕たちが自分が与えられているものを最大限に用いたことに対しての主人の「私と一緒に喜んでくれ」という言葉があります。これは、不思議な言葉です。僕が主人に「ご主人様、私は与えられたものを、こんなに増やすことができました。どうぞ、一緒に喜んでいただけませんか」ではないのです。主人の方から僕に向かい「あなたは私が与えた時間と賜物をこんなに用いたのだ、だから私と一緒に喜んでくれないか」というのです。

皆さん、私たちが与えられている時間を使い、与えられている賜物を用いていく時に一番、喜ぶのは私たちの主なのです。そして、その私たちの主とは私たちに命を与えて下さった神様なのです。神様が自ら造られた者達が、その賜物を用いていくことを心から願い、そしてそれを喜ばれるのです。

神様は私達に与えてくださっているものを用いないことを悲しまれるお方です。それを用いることを期待されているのです。そして、それを用いるものにはさらに豊かなものを与えると約束されているのです。

まさしく、これは私達の人生の生きがいとなります。神様は私達の思いをこえて、私達の時と賜物を私達のそれぞれのシーズンで用いてくださることでしょう。しかし、せっかく与えられている賜物を土に埋め、用いないのであるならば、それ以上の働きが与えられることはないばかりか、この1タラントの僕のように、その与えられているものまで取り上げられるというのです。

私達は自分の時間をどう使っているのでしょうか。その時間は一つの出来事で完結するもの、結論づけられるものではなくて、それは人生のシーズンの一部だということを心にとどめましょう。この巡ってくるシーズンを受け止め、そこに注がれている神の真実をそこに見出しましょう。その神の真実を信じましょう。神様があなたに与えてくださっている賜物は今、どこにあるのでしょうか。それが地中ではなく、それを用いて今の時を生きている、そんな私達になれたらなんどさいわいでしょうか。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2018年11月25日

1)マタイ25章14節-30節を読みましょう。このイエス様のたとえ話からあなたはどんなメッセージを受け取りますか。

 

2)5タラント、3タラント、1タラントと、僕に与えられているものに違いがあるのはなぜでしょうか。なぜ5タラントと3タラントを与えられた僕は、全く同じ言葉を主人からいただけたのでしょうか。

 

3)1タラントを与えられている僕の何がいけなかったのですか。

 

4)彼らに等しく与えられていたものは何ですか?時間を管理するのはなぜ難しいのですか。

 

 5)伝道の書3章1節―9節を読みましょう。ここからあなたはどんなメッセージを受け取りますか。

 

6)『天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある』という言葉は何を私達に語りかけてきますか。

 

7)人生の全てのことには季節があるということにはどんな意味がありますか。私達はそれぞれの自然界のシーズンで起きていることをどれだけ知っているのでしょうか。必要のないシーズンがありますか。

 

8)神様はどんな人にもタラント(ギフト)を与えてくださっています。神様はそのギフトを私達にどうして欲しいと願っていますか。自分が与えられているギフトはどのようにしたら知ることができますか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください