誘惑から守られるために

その生涯、多くの働きをなして社会に貢献し、家庭を支え、歩んできた方が、その人生最後のステージ、すなわち、そのゴールまであともう少しというところで、誘惑にあい、それに陥り、それまで自分が築きあげたものをきょう全て失ってしまうというようなことを時々、私達は見聞きします。

何もそれは人生の晩年に限ったことではなくて、今日のアメリカではその誘惑は既にエレメンタリーに行く子供の中にもあります。高校生ともなれば、その誘惑は大人が受ける誘惑とほぼ同じ、いや彼らが直面しているものは大人以上であると言っても過言ではありません。もし、私達がその全容を知ったら目まいがして倒れてしまうかもしれません。

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誘惑から守られるために
2018年10月14日

その生涯、多くの働きをなして社会に貢献し、家庭を支え、歩んできた方が、その人生最後のステージ、すなわち、そのゴールまであともう少しというところで、誘惑にあい、それに陥り、それまで自分が築きあげたものを全て失ってしまうというようなことを時々、私達は見聞きします。

何もそれは人生の晩年に限ったことではなくて、今日のアメリカではその誘惑は既にエレメンタリーに行く子供の中にもあります。高校生ともなれば、その誘惑は大人が受ける誘惑とほぼ同じ、いや彼らが直面しているものは大人以上であると言っても過言ではありません。もし、私達がその全容を知ったら目まいがして倒れてしまうかもしれません。

イエス様の弟子達はかつて「私たちに祈ることを教えてください」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は彼らに「主の祈り」を教えられました。その一節に「我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」(マタイ6章13節)という言葉があります。これを英語の聖書で見ますと“And Lead us not into temptation, but deliver us from the evil one”と書かれています。すなわち、イエス様はここで「私たちを誘惑に合わせず、悪から救いだしたまえ」と祈りなさいと弟子達に言われたのです。

イエス様がその働きを始めるにあたり、経験されたことは荒野で40日の間、悪魔から受けた誘惑でした。故にそのすさまじい力を知っていたに違いありません。多くの人間がその誘惑に対して無力であるということも知っていたに違いありません。

故にイエス様は「誘惑に勝つことができますように」ではなくて「誘惑に合うことがないように」と祈りなさいと弟子達に教えられたのではないでしょうか。そう、それは「誘惑に合うということ」、もうその時点であなたたちは危険領域にいるということを暗示しています。

もしかしたら皆さんの中で毎日、「主の祈り」を祈っている方がいるかもしれません。それこそ、一日の最後で疲れ果て、あくびを押さえながら祈るようなこともあるかもしれません。それでも、少なくともその方は毎日「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りを神に向かってしています。

私達は「今日、七つの誘惑を受けたけど守られました」というように、その日の誘惑を全て見分けることなどできませんが、この祈りにより、私達は気がつかずとも諸々の誘惑に合うことから守られているのではないかと信じます。「あわなかった誘惑」のことを私達は知る術はありませんが、神様は事前に私達がそのような誘惑にあうことから私達を免れさせてくださるお方であることを信じます。

ヤコブ1章14節-15節にはこう書かれています「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、誘われるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」。

ここには「私たちが誘惑に陥るのは、私たちがそれぞれ欲に引かれ、誘われるからである」と書かれています。私達は誰しも誘惑を受けます。しかし、お忘れなく!誘惑にあうこと自体は、罪ではありません。主イエスですら誘惑を受けたのです。そうです、私達があう誘惑に対して、私達の欲がそれに引かれていくことにより、私達は誘惑に陥るのです。

私自身のことをお話ししましょう。今日、私達は買い物をインターネットでします。そこにはネジ1本からジェット機まで売りに出されています。

ある時、必要なものがあったので、それをインターネットで調べていたら、普通ではありえない値段でその品が売りに出されており、私の目を捕らえました。そうです、私は捕らえられたのです。

その値段で売ったら、まず儲けはないだろうと思われる値段です。どこの誰が、儲けにならないような値段で物を売るだろうか。ですから素通りしようとしたのですが、どういうわけか私はそこに立ち止まってしまったのです。なぜ?私の心の中の欲が動いたからです。

内なる声は私に語りかけました。「世界は広いのだから、何かしらの事情でこれを売りさばかなければならないという人がいてもおかしくないよ」。今、思えば非常に愚かな思いですが、その時の私はこの言葉に従い、その品を購入したのです。

しかし、待てども暮らせども、その商品は来ません。販売元に連絡しても、何の応答もなくなりました。販売元は中国ですから、もう泣き寝入りするしかない状態になりましたが、結論を言いますとクレジットカード会社がこれを保障してくれて、返金していただくことができました。

恥ずかしながら、これが私の目に飛び込んできた誘惑に対して、私の欲が反応し、痛い目に合ったという出来事です。そして、僭越ではありますが、このようなことは私だけではなく、そこに誘惑があり、私達の心に欲があれば、それは誰にでも起きうることなのです。言うまでもなくそれはオンラインショッピングに限らず、あらゆる誘惑もこのパターンと共にあります。

仮に支払ったものが戻ってこなくても、この程度のことなら人生を揺るぎ動かすものではありません。次の失敗にならないようにと、レッスン料として受け止めることができること範疇のことです。しかし、私達の人生にはその誘惑に陥ることにより、私達の人生を、私達の家族を混乱に陥れ、それを壊してしまうものがあるのです。

いいえ、中には、それ自体は小さなことでも、それを繰り返しているうちに、一つ一つには大きな代償はないように思われても、それらが積み重なって、最後には取り返しのつかないことになってしまうことも数多くあるのです。

イエス様が荒野で誘惑を受けた時、その誘惑の主導者は悪魔であったと聖書は記しています。そう、聖書はこれらの誘惑はサタンからやってくるということをほのめかしています。ペテロ第一の手紙5章8節においてペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」と言っています。

皆さん、このペテロの聖書箇所を読むと、私はいつもよだれを流しながら、ものすごい形相で食い物を探し求めている獅子の姿を想像します。その眼は光り、その牙は鋭く、頭を振り乱しながら、食い尽くすべき者達、すなわち私たちを求めて徘徊しているその姿です。

しかし、獅子が獲物を捕える時にしばしばそうするように、この獅子はそれに気がつかれないように私達に忍び寄ります。それが忍び寄ってくる時、甘い言葉が織り交ざることもあります。「儲かりまっせ」「気持ちいいですよ」「疲れているでしょ」「ちょっと息をぬきましょうよ」。誘惑はそんな甘い言葉とともにやってきます。

あのエバが禁断の実を前に受けた誘惑もその背後にサタンがいました。その言葉は甘く、あの実を食べることによって問題は起きないように思われました。いいえ、かえってその実を食べることによって得ることができる魅力的なことがサタンによって語られます。しかし、言うまでもなくそれらはことごとく嘘でした。

魔が差す」という言葉がありますが、これはまさしく悪魔が静かに私たちの心に入り込んでくる瞬間のことです。あの時、蛇は知らぬ間にエバの懐に入り込んでいたのです。

果たして私たちはこんな手ごわい相手をしてどう戦うことができるのでしょうか。そして、この誘惑に対して、どのように勝利を収めることができるのでしょうか。

まず、私たちは自分を知るべきであります。自分の何を知るべきなのか。それは、「私達は誘惑に弱い」ということです。もし、時と場所が整えば、誘惑に陥ってしまう者が自分なのだということを知るべきです。「臆病」という言葉を私達は肯定的に使いません。しかし、私は時々、思うのです。誘惑に対しては、自分は抵抗力がないぞ、弱いぞ、危ないぞ、その慎重さが時に私達を守ってくれます。

もしかしたら、皆さんの中には今日の話は自分とは無関係だと思われる方がいるかもしれません。しかし、覚えてください、この世界でとんでもない誘惑から、小さな誘惑まで、それらに陥った方達も思っていたのです。「誘惑なんて、心に留める必要はない。私は大丈夫だ」と。「私はいつでも引き返せる」。「私は愚かではない」。しかし、その方達はことごとく、大丈夫ではありませんでした。彼らはことごとくこのトラップに捕らえられたのです。

エペソ書4章27節には「悪魔に機会を与えてはいけない」と書かれています。誘惑には私たちが最も誘惑されやすい時があります。一週間の内に。一日の内に。あのダビデ王は自分の国が戦争にも連戦連勝の時、安らかな昼寝から目覚めた、一番、心が穏やかな時に誘惑に陥りました。

そう、時に誘惑は私達が成功している時とか、余裕のある時にやってきます。成功している、余裕のある私達からそれらのものを奪おうとする力がこの世界にはあるからです。そして、その時の私達の心はには過信がありますから、隙だらけです。

また誘惑には私達が最も誘惑されやすい場所があります。仕事場。家。隣人の家。空港。ホテル。車の中などなど。あのヨセフがエジプトにおいて自分の主人の妻から誘惑を受けた時、彼はその妻が住む同じ家で働いていたのです。そこは、彼にとって最も誘惑に会いやすい場所でした。

旧約聖書の箴言の著者はこう言いました「あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ」(箴言4章26節―27節)。

私たちは自分の足元に注意を払わなければなりません。自分は今、どこに立っているのか。それを知らなければなりません。そして、もし、その場にいることによって、誘惑が私達のうえにとどまる機会を与えてしまうのなら、そうなる前にその場を離れるのです。

マルチン・ルターは言っています「あなたは自分の頭上の鳥が飛びまわるのを止めることはできなくても、自分の頭に巣を作らせないようにすることはできるのです」。

絶えず私達の周りにある誘惑に対して、蠅取り棒を振り回すかの如く、それらを

全て振り落とすことはできません。しかし、その蠅が私達の頭の上で卵を産むことをさせないことなら私達にもできるのです。誘惑に機会を与えてはなりません。このことが私たちができる最高の誘惑に対する防御策です。

しかし、これらはあくまでも防衛策です。それは守りであります。そこには誘惑に対する攻撃はありません。しかし、私たちは守り一方であってはなりません。私たちはこの悪の力に一撃を与えることができるのです。何によってでしょうか。

誘惑がサタンからくる霊的な闇の力と関わりがあるものであるならば、私たちはそれに対抗するために霊の世界を支配しておられる神に助けを求めるということ、それはとてもリーズナブルなことであり、最も効果的です。

そして、このことをお話しする前に再度、私達は悪魔について考えるべきです。そして、私達は悪魔の巧みさにはかなわない者であるということを自覚すべきです。まず、経験が違います。私達はたかがが50年、80年、この世を生きてきた新参者です。しかし、サタンは人類始まって以来、全ての人間を誘惑してきたのです。その実績と何によって人は墜ちるかというデーターたるや膨大です。

熟練した鍼(はり)を打つ医者が、ピンポイントで患者のツボに鍼をさすように、漢方を煎じる薬剤師が、患者の症状を聞いて、最適の漢方を調合するように、サタンは私たち一人一人がどんなに誘惑に弱く、いつ、どこで、どのような方法で私たちを誘惑すればいいのかということを熟知しています。

彼らは聖人や偉人と呼ばれた人達をこれまでも誘惑し、実際にこのことに対する無数の実績をもっているのです。私達がまともに戦える相手ではないのです。

ですから、私達は神に助けを求めるべきなのです。後にも先にもサタンに勝利しているお方は、神以外にいないのです。イエス・キリストだけがこの地上でサタンに一度も屈することがなかったのです。そうであるならば、私たちは主イエスのやりかたにならうべきです。

詩篇50篇15節には「悩みの日に私を呼べ、わたしはあなたを助け、あなたは私をあがめるであろう」と書かれています。私たちは父なる神様に助けを求めることが許されているのです。これは私たちと神様との間に24時間体制の緊急ホットラインが常設されているということです。私たちはいつでも、どこでもこのお方に助けを求めることができるのです。

ヘブル書の記者は言いました(へブル4章15節―16節)この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私たちと同じように 試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか

誘惑の力はとてつもないものです。それは、私たちの心と体を虜にします。虜になるということは、私たちは自由を失うということです。そんな力が誘惑にはあります。しかし、イエス・キリストは私たちと同じような誘惑に会われた方であり(英語の聖書は「試練」ではなく「誘惑」と書いています)、私たちの弱さも十分に知っていてくださる。このお方こそが真に私たちを助けてくださるのです。故に私たちは時機を得た助けを受けるためにはばかることなく、神の恵みの座に近づこうではないかというのです。

この箇所で「時機」という言葉が私たちの目にとまります。「時機」とは、先にも後にもない「時」ということです。英語の聖書を見ると、IN  OUR TIME OF NEEDと書かれています。まさしく、私たちが必要としているその時に、この助けはあるというのです。

誘惑に直面している時に助けが数日後にくるようでは困るのです。それでは誘惑に負けてしまいます。その時というのは、緊急時であり、まさしく時機が必要なのです。そして、神様はまさしく「この時」という最善の時に助けて下さるというのです。そのために、臆することなく、遠慮せずにあなた方は私に助けを求めなさいと神様は言われるのです。

そして、その時の私たちの攻撃の武器になるものは何なのか。そのことがエペソ6章10節―18節に書かれています「⑩最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。⑪悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。⑫わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。⑬それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。⑭すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、⑮平和の福音の備えを足にはき、⑯その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。⑰また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。⑱絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」 。

このエペソ書を書いたパウロによれば、わたしたちのこれら誘惑に対する戦いは

もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いなのです」。パウロはこのことを戦いだと位置づけています。そして、それが戦いであるならば、私たちは武具を身に着けなければならないということを強く勧めています。そして、その戦いにおいて相手に一撃を与える剣を手に取りなさいというのです。そして、その剣とは「神の言葉なのだ」と言うのです。

私たちが誘惑にあう時に「神様、助けてください」とその声を上げる時に、神様は私たちにその悪魔の攻撃を一網打尽にする剣を手渡して下さるのです。そして、その剣とは神の言葉、すなわち聖書の言葉なのです。

イエス様がその働きを始める前に荒野でサタンからの誘惑を受けたことが聖書に書かれています(ルカ4章1節ー13節)。そして、その場所でイエスは40日間の断食をしていました。サタンはこのイエスに語りかけます「もしあなたが神の子であるなら、‘この意思に、パンになれと命じてごらんなさい」(3)

。イエスはご自身の言葉ではなく申命記8章3節の言葉を引用して答えました「人はパンだけで生きるものではない」(4)と書いておる。悪魔はそれからイエスに世界のあらゆる権威と栄華を見せて囁きました「もし、私の前にひざまづくのなら、これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう」(6)イエスは再び今度は申命記6章13節の言葉を用いられました「主なるあなの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(8)と書いてある。それから悪魔はイエスをエルサレムの宮の頂上に立たせて言いました「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛び降りてごらんなさい。神はあなたのために、御使いたちに愛じてあなたを守らせるであろう」(10)イエスはここでも申命記6章16節の言葉を用いられました「主なるあなたの神を試みてはならない」(12)と言われている。

イエス・キリストはこれらの誘惑に完全に勝利しました。何によってか。神の言葉です。イエス・キリストはあたかも「御言葉の剣」の用い方を私達に示すかのようにして、この誘惑に勝利したのです。

パウロはこのイエスの勝利の法則を覚えながら、このエペソ書を書いたのです。悪魔に一撃を加えるその剣とは神の言葉なのだと!私たちは自らを防御しつつ、この聖書の言葉によって誘惑に打ち勝つことができます!

今から3000年も昔、詩篇の記者は若者達について、こんな言葉を書き残しました。 若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません(詩篇119篇9節)

若い人がその道を踏み外すことなく、きよく生きることができるか。このような問いかけがなされるということは、今も昔も若者は同じ状況に置かれているということです。そして、このことはみ言葉にしたがって、それを守るよりほかにないというのです。これ以外にないと!

そして、そのことはあたっています。なぜなら今日、「誘惑は避けるべきものだ」ということすら私達の世界は語っていないのです。今日は聖書の中で誘惑だと明らかに言われていることが今日、合法化されている時代です。そうなのです、法律としてそれはオーケーなのです。どうして若者がこの世の中でその誘惑に打ち勝つことができるでしょうか。

悪魔は私達の人生が滅茶苦茶になることを願っています。そして、そのために何をすべきか、彼らは知っています。その時に彼らの武器庫に常備されているのが「誘惑」なのです。

このサタンの攻撃は止む事がありません。国のリーダーや、教育者や、聖職者と呼ばれる者たち、いいえ、全ての人に、あなたにも、私にもこの誘惑の手は伸ばされています。なぜなら、その誘惑に墜ちていく私達こそが彼らの勝利の証だからです。

主にある皆さん、私達に託されているこの人生の旅路、願わくばこの誘惑により、その旅路が茨の道となりませんように。その修復のために代償を払うような人生を送ることがないように、自分の弱さを認め、誘惑に機会を与えず、このことに勝利を与えてくれる神の絶大なる力を求めましょう。祈り心と共に、神の言葉という剣を帯びて、勝利をえてまいりましょう。このために互いに注意をはらい、健闘を祈り合い、この旅路を主への感謝と共に終えることができますように。お祈りしましょう。

本当のおもちかえり
2018年10月14日

1)あなたの人生において「誘惑」はどれぐらいの影響力を持っていますか。あなたが特に弱いと感じる誘惑は何でしょうか。誘惑にはどんなものがありますか。

 

2)私達は「我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」(マタイ6章13節)と主の祈りを祈ります。これは「私達を誘惑にあわせず」といういう意味です。「誘惑にあう」ということ自体、どんな危険を伴っていますか。

 

3)「誘惑にあう」ということ自体、まだ罪ではありません。これに何が加わると罪となりますか(ヤコブ1章14節-15節)。

 

4)創世記において禁断の実を前にしてエバはどんな欲をもっていましたか。

 

5)ペテロ第一の手紙5章8節を読みましょう。あなたはここからどんな形相の獅子を想像しますか。このような獅子にどうしたら打ち勝つことができるのでしょうか。

 

6)「悪魔に機会を与えてはいけない」(エペソ書4章27節)とありますが、それは例えばどんな機会ですか?

 

7)ルカ4章1節ー13節を読みましょう。イエス様も悪魔に誘惑にあわれました。この時にイエス様はどのようにして勝利していますか。

 

8)エペソ6章10節―18節を読みましょう。ここにおいて神の言葉はどんな武器として記されていますか。イエス様はまさしくこの武器を使って誘惑に打ち勝ちました。

 

9)あなたは具体的などのように誘惑に打ち勝つことができますか。

 

人生の旅路では多くの誘惑にあいます。一つ一つに勝利し、この旅路を完走しましょう!

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