誰のために体を労わるのか

ある青年が牧師のもとに悩みを打ち明けに来ました。自分は毎日、生きていくのがつらい。頭にはもやがかかっており、毎日が息苦しい。ちゃんと聖書を読んでいるし、祈っているし、教会にも行っているのにと彼は言う。

しばし、青年の話を聞いていますと、この青年はとてもまじめな方で、確かに一生懸命に神に仕えようとしている。しかし、牧師には彼がオフィスに入って来た時から気になっていたことがありました。

そのことに触れるべきかどうか、ずっと心に収めていましたが、やはり、このことは彼が抱えている問題と関わっているのではないかと思い、彼が立ち去る時に一言、彼に語りかけました。「〇〇さん、外は猛暑、シャツの一番上のボタンは外しておいても、いいのではないですか」。

「祈りなさい」というアドバイスは大切です。しかし、そのことよりも「よく睡眠をとり、栄養あるものを食べて、体を動かしてください」というアドバイスの方が大切な時もあります。キリスト者は時々、「主よ、あの魂をお救い下さい」と祈りますが、「あの魂」という名の人はこの世界にはいません。その人は魂と共に肉体をもった「人間」であるということ、そのことに私達の目が届かなくなりますと、私達は人間を大切にすることができなくなります。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「一日一生」はこちらから。
今日の「日英礼拝メッセージ原稿」、「おもちかえり」はこちらから ↓

誰のために体を労わるのか。
2021年2月28日

昨年3月、コロナウイルスが拡がりつつあり、サンディエゴ群の学校が一斉に休校となった時、教会では日英合同の執事会がもたれ、このコロナ下において、私達はこれから「SAFETY:安全」を第一としていくということを確認しました。このことは「私達はウイルスに感染されるかもしれない」、そして「私達がウイルスを感染させるかもしれない」という事実をもとに決められました。

今、思えば最初にこのことを決めておいてよかったと思います。なぜなら、その後、私達はいつもこの原点に立ち返り、教会について考え、議案を決議してくることができたからです。そして、このプライオリティーは今も私達の念頭にあります。

その時、私達は互いの安全、すなわち、互いの肉体が守られるように、さらには互いの命が守られることを第一に考慮することにしました。なぜ、私達は互いの体について思いがいたったのでしょうか。

今日はその理由について見ていきたいと願い、「誰のために体を労わるのか」というメッセージタイトルでお話をさせていただきます。

信仰者の間ではよく「霊的であること」について語られます。「霊的」という言葉はクリスチャンの世界では、確固たる地位を得ており、時にこのことは最も大切なこととして取り上げられます。

そして、私達がこの霊的なことについて語り合う時、大抵、私達の頭に私達の肉体に対する思いはありません。時に肉体は霊的であることを邪魔するものとして語られることさえあります。

さぁ、聖書は私達の肉体について何と語っているのでしょうか。詩篇31篇にはこう記されています。「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだもまた衰えました」(詩篇31章9節)

 この詩篇31篇はイスラエルの王であったダビデが書いたものです。この31篇全体を読んでみますと、その時、彼は何かしらの困難に直面していたようです。そして、その心中を隠すことなく「わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます」と言い表しています。その悩み苦しみによって彼の「目は悲しみによって衰え、魂も体も衰えてしまいました」というのです。

彼は心が疲れてしまった、力尽きてしまったと言い、同時にそれは彼の心だけではなく、その体も悲しみにより衰えた、力を失いました、心と同じように、私の体も限界に達していると言っているのです。

このダビデの言葉は私達に大切なことを教えてくれます。そうです、私達の魂と肉体は区別されるべきものではなく、それらは一つとして見るべきことだということをこの言葉は教えてくれます。

諸々の事情により、徹夜明けで迎えた朝と、しっかりと睡眠をとって迎えた朝とでは私達の心と体の状態は全く異なるでしょう。睡眠は神様が人間に必要不可欠なこととして、予めインプットしたもので、私達の心と体の疲労を回復するために最も有効な機能となっています。

心と体が力を失っている時に、相談者が抱えている問題にじっと耳を傾けることは、とても難しくなります。空腹の時と満腹の時では私達の精神状態は異なります。あのエサウは保証されていた長男の特権を失いました。なぜ?彼が空腹で家に帰ってきたからです。空腹が彼の理性を打ち消したのです。

私達は肉体と共に生きています。この私達の肉体は私達の心に影響を与え、私達の心は私達の肉体に影響を与えるのです。すなわち「心を大切にする」ということは「肉体をないがしろにしない」ということであり、その逆も然り、体を大切にするために、自分の心をないがしろにすべきではないのです。

キリスト者は時々、「主よ、あの魂をお救い下さい」と祈りますが、「魂」という名の人はこの世界にはいません。その人は魂と共に肉体をもった人間であるということ、そのことに私達の目が届かなくなりますと、私達は人間を大切にすることができなくなるのです。

度々、お話することです。ある青年が牧師のもとに悩みを打ち明けに来ました。自分は毎日、生きていくのがつらい。なんで、こんなに息苦しい毎日を過ごさなければならないのか。ちゃんと聖書を読んでいるし、祈っているし、それなりの信仰生活を送っていると彼は言う。

しばし、青年の話を聞いていますと、この青年はとてもまじめな方で、確かに一生懸命に神に仕えようとしている。しかし、牧師には彼がオフィスに入って来た時から気になっていたことがありました。

そのことに触れるべきかどうか、ずっと心に収めていましたが、やはり、このことは彼が抱えている問題と関わっているのではないかと思い、彼が立ち去る時に一言、言いました。「〇〇さん、外は猛暑、シャツの一番、上のボタンは外しておいても、いいのではないですか」。

主にある皆さん、「もっと祈りなさい」というアドバイスは大切であり、そのことにより問題を乗り越えていく人達はたくさんいます。しかし、祈りなさいというアドバイスよりも「まずは、よく睡眠をとり、栄養あるものを食べなさい」というアドバイスの方が大切な時も私達にはあるのだということを心に留めましょう。

高校生の頃、先生が「最後は体力だよ」と言われたことがありました。しかし、当時の私には、その意味が全く分かりませんでした。なぜなら、その時、私にはあり余る体力があったからです。しかし、今はその意味がよく分かるようになりました。なぜなら、私は年齢を重ねたことにより、あの日の体力を今、持ち合わせていないからです。年齢を重ねるごとに、この体力はますます衰えていくことでしょう。

どの仕事もそうだと思いますが、牧師の場合、来る日も来る日もメッセージをコンスタントに準備し続けるということに必要なのは最終的には心身のスタミナだということが分かってきました。ですから、私は祈り願います。牧師として召されている限り、聴衆に届く声をしっかりと腹から出して、できる限り長く、主の言葉を語り続けるスタミナをお与えくださいと。

そのために自分にできることは何か。それは、この体を労わり、管理して、大切に取り扱うことです。「労り、管理して、大切にする?」。そうです、そうすることには理由があります。コリント第一の手紙6章19節‐20節にはこう書かれています。

19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(コリント第一の手紙6章19節‐20節)

このコリントの手紙は使徒パウロによって、コリントにある教会に向けて書かれました。当時のコリントの町では、自らの体を売る、買うというようなことが横行していたといいます。そして、その影響は教会の中にもおよんでいました。その町々の人々に向かい、パウロは書いたのです。

「あなたたちは知らないのか。あなたの体は聖霊が宿る宮なのだ。あなたは自分自身のものではないのだ。あなたの体のためにイエス・キリストはご自身の命という代価を払ってくださったのだ。あなたの体にはそれだけの値打ちがあるのだから、それをいい加減に取り扱うのではなく、その体を用いて神の栄光をあらわしなさい」と。

私達はどのようにして神の栄光をあらわすのか。私達は自分の口を通して、手を通して、足を使って、私達のこの肉体をもって、主の栄光をあらわすのです。そのために私達はこの体を労わり、大切に管理し、主の御用のために最善のものとして用いなければなりません。

聖書の中にはレビ記という書があります。そこには当時のイスラエル人に対する諸々の食事規定が書かれています。その中には例えばレビ記11章2節-3節のこのような言葉があります。

イスラエルの人々に言いなさい『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる』(レビ記11章2節‐3節)。

予防医学を専門にしておられる黄聖周という韓国人医師が書いた「健康の知恵」という本によると「ひづめの分かれている動物というのは、分かたれた爪の割れ目から汗を流すことによって、胎内の老廃物を排出しているといいます。反対にひづめがないと汗を流すことができず老廃物を円滑に処理することができない、すなわち新陳代謝がうまくいかない、ちょうど服を重ねたまま一生を過ごす人にたとえることができ、こうした動物は食用には適しないというのです。

また反芻も同様に、反芻を繰り返すと消化作用と殺菌作用を強めることができ、解毒作用にもなり、体内に蓄積される有毒物質を初期の段階で防止できるというのです(健康の知恵60 カレブ・ゴスペルサービス出版部 黄聖周 著)。神様はそのような動物を食べてよろしいと言われました。

またレビ7章23節-24節などを見ますと「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、すべて牛、羊、やぎの脂肪を食べてはならない。自然に死んだ獣の脂肪および裂き殺された獣の脂肪は、さまざまのことに使ってもよい。しかし、それは決して食べてはならない」と書かれています。

ここには動物性の脂(あぶら)を食べてはならないと記されており、当時から数千年後になって、私達は、これらの油を悪玉コレステロールと呼び、動脈硬化、心臓病、癌の原因になりうるものだから気をつけなさいと注意を喚起しています。

これらのことを受け止めます時に、レビ記は単なる「あれもダメ、これもダメ」というような禁止事項を列挙する書なのではなく、実にレビ記は私達の肉体の健やかさを保つための予防医学の手引書であるということもできるのです。

母親が我が子の栄養と健康を願って食材を選び、心を込めて料理をするように、私達の肉体を造られた神様は、私達の身体に良きものをご存じであり、それを私達に知らしめるほどに私達の肉体の健やかさに御目を注いでいてくださるのです。

主にある皆さん、私達はこの父なる神の私達の肉体に対する親心をしかと受け止め、自らの身体に向き合おうではありませんか。

そして、主なる神様の私達に対するご愛は食べ物だけにとどまりません。創世記の1章には神が6日をかけて天地万物を創造されたことが記されており、2章には7日目について書かれています。

1こうして天と地と、その万象とが完成した。2神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。3神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである(創世記2章1節‐3節)

神は6日間の十分な働きをなし、七日目に休まれました。そして、その日を祝福して聖別されたというのです。このことは神がモーセを通して与えられた十戒にも記録されています。申命記5章12節‐14節、

12安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。14七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない(申命記5章12節‐14節)。

神様は自らが休まれたことを根拠として、主の安息の日に休むことを全ての者に求めました。このことに区別はありません。その休息は家族、僕、そして家畜までも、また寄留の他国人も取るべきものとされたのです。休息は神様が等しく生きとし生けるものに与えてくださっていることなのです。

イエス様の言葉がマルコ6章31節に記されています。その言葉は、イエスの弟子達が遣わされた場所での働きを終え、帰って来て、その働きの報告をした直後に言われたものです。すなわち、その報告を聞いた後にイエス様は彼らに向かって「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マルコ6章31節)と言われたとマルコは記しています。

今日的に言いますならば「出張から帰ってきた部下達に、お疲れ様、さぁ、今日はもう帰宅して、十分に体を休めなさい」というようなものです。

しかも、その時、弟子達の居た場所には多くの者達が詰めかけていたのです。きっと、その様子を見た弟子達は「自分達にはまだ、すべきことがある」と思ったに違いありません。彼らが相手にすべき人達がそこにはたくさんいたからです。

しかし、そんな状況にありながらもイエス様は弟子達に休むことを勧めました。時に主は「私達がすべき」と思うものとは異なる考えをもっていらっしゃるようです。主にある皆さん、この言葉はたとえ仕事が山積みであっても、休む勇気をもつように私達に語りかけていないでしょうか。

「神様へのインタビュー」という詩にこんな言葉があります。人間が神に問いかけます。「神様、あなたは人間のどんなところに一番、驚いていますか」神様は答えます。「金持ちになろうとして体を壊してしまい、そのお金を使って、健康を取り戻そうとしていること」。

私達は気がつかないうちに、この悪循環に身を置いてしまいます。人を造られた神は、人になられたイエス・キリストは知っていました。休むことなく動き続けたら、必ずいつかそのツケを支払わなければならなくなる。そして、それは神の私達に対する御心ではないのです。

聖書には記録されていない伝承ですが、イエスの弟子であったヨハネが晩年、一羽のウズラを捕まえて、ゆっくり歩いていると、一人の男が猟師の服装をして彼に近寄って来ました。その男はヨハネのような高名な人が、そのようなつまらない遊びで自らを卑しくしていることに驚き、言いました「私はあなたの偉大さをかねてから伝え聞いておりました。そのあなたが、またどうしてそのような安っぽい楽しみに身を委ねているのですか」。

ヨハネは彼に答えて言いました「あなたが手にお持ちになっているものはなんですか」。男は答えました。「弓です」。ヨハネは尋ねます。「なぜ、その弓をいつでも引けるように、曲げたままで持ち運ばないのですか」。彼は答えました「いつも曲げておくと、ゆるんで役立たなくなり、本当に必要な時に、その弾力は過重なまた継続した緊張で失われてしまうからです。その肝心な時に射るためのす力がなくなってしまいますから」。

ヨハネは言いました「全く同じことが私にも当てはまるのです。心を緩め、寛ぐ時なくして、心身に課せられる不断の緊張に私は止まり続けることはできません。私が主のはたらきを続けるために、このような時は必要不可欠なのです」。ヨハネはその人生経験を通して「曲げたままの弓は、間もなく射ることができなくなる」ということを学んだのでしょう。(ヨハネス・カシアヌの伝承:「イエスの弟子達」ウィリアム・バークレー 新教出版社)

「休む」ということ。最近、このことに対して思うことがあります。それは「休まずできる」と思うことは、実は傲慢なことなのではないかということです。天地創造を成された神も休まれた。イエスも休まれ、弟子にも休息を勧めたのです。どうして私だけがこのことに対して例外な者になり得ましょうか。

今日、色々なレンタルがあります。車しかり、夏の休暇を過ごす山小屋しかり、釣竿から食器にいたるまでそれは多岐にわたります。そして、その借りた人が常識のある人なら、借りたものを壊したり、破いたり、汚したりしないで返そうと心がけます。理由は簡単、それは借り物であり、自分のものではないのですから。

ヨブ記においてヨブは自分の家族、財産を失った時に言いました「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)。この「主が取られた」という言葉は英語の聖書では「TAKEN BACK」と書かれています。すなわち、それは神様が与えてくださったものを、神様がもう一度、自分のもとにTAKE  BACK、すなわちお戻しになるということです。

私達の体は主が生涯、大切に使うように、それをもって神の栄光をあらわすようにと、私達一人一人に与えてくださったものです。そして、いつかこの身体は機能を止め、朽ちて、土に帰ります。それは聖書が言っていることです。ですから、レンタルされたスケート靴が、返却されて靴箱に並べられるように、私達の死後の体が天国でぬいぐるみのように並べられることはないと思います。

でも、私達の気持ちといいましょうか、心構えとしては神様が大切に用いるようにと私達に与えてくださったこの体、主イエス・キリストによって買い取られたこの体、それを私達は労り、大切に管理することにより、その体を十二分に主のために用いて、それを通して、できうる限り主の栄光を表させていただき「今日までこの肉体を使わせていただき、ありがとうございました」と主にお返しできたらと願います。

パウロはテサロニケ人への第一の手紙を締めくくるにあたり、こう最後に書き記しました。どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように(1テサロニケ5章23節)。

 このテサロニケ人への手紙は主イエスがもう一度、この世界に来られるということを書いているのですが、その時にパウロは私達の魂だけに触れてはいません。彼は神様が私達の霊と心と体を完全に守って、責められるところのない者にしてくださるようにというのです。

その時に主が私達と出会い、その時に私達の霊と心と体を見て、私達が「お前、その心はどうしてしまったのだ」とか「その体はどうして、そんなに傷んでいるのか、汚れてしまったのか」とならないように、与えられている霊と心と体を主が守ってくださるようにというのです。その時に責められることがないように生きようではないかというのです。

主にある兄弟姉妹、どんなに大切にしているものでも、落としたら壊れてしまいますように、私達がどんなに体を労わっても、病気になることは避けられませんし、事故や災害に巻き込まれて体に傷を負うことも確かにあります。遺伝により肉体に支障が出てしまうこともあることでしょう。

そのような中に置かれている私達ではありますが、それでも私達の最善を尽くして、この与えられている肉体を管理し、この肉体を通して主の栄光に関わらせていただこうではありませんか。

この世は言います。「体を大切にすることは自分のためなのだ、あなたの家族のためなのだ」と。しかし、神を知る私達はこれらよりも先に知っておかなければならないことがあります。それは、私達の身体は主によって与えられ、贖っていただいたもの、それゆえにこの体は大切に労われるべきものなのだ。そのことを通して、少しでも主の栄光をあらわす、そのためにこの体が用いられますようにと願い求めることなのです。

コロナ下、私達の日常はかつてのものとは異なるようになりました。私達一人一人、置かれている状況は異なるかと思います。その中でどうか主が皆さんの霊と心と体を守ってくださいますように。同時に私達のできうる限りをもって、日々、自分の心身を労わり、主の名のもとにそれを管理することができますように。

私達がこのところを、この肉体と共にくぐりぬけ、再び、教会で私達の心を主に向けて、礼拝を捧げる日が来ますことを、来る日も来る日も祈っています。お祈りしましょう。

本日のおもちかえり
2021年2月28日

1)あなたは自分の身体をどのように見ていますか(かつてどのように見ていましたか)。自分の身体のために心がけていることがありますか。

 

2)詩篇31篇9節のダビデの言葉は何を明らかにしていますか。心と体は一つであるということを感じた時がありますか。それはどんな時ですか。

 

3)コリント第一の手紙6章19節‐20節は私達の身体に対する思いを一転させます。この言葉の中であなたが見出した発見は何ですか。あなたは自分の体を通して、どのようにして神の栄光をあらわすことができますか。

 

4)レビ記11章2節‐3節や7章23節‐24節から神様の私達の肉体に対するどんな思いが伝わりますか。

 

5)創世記2章1節‐3節、5章12節‐14節から神様は私達にやすむことを願っていることが分かります。主の前の安息とはどのようなものだと思いますか。あなたは意識してこの安息の時を持っていますか。

 

6)「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マルコ6章31節)の言葉をもって、イエス様は弟子達に何を期待したのでしょうか。

 

7)「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)は私達が再び、主のもとに戻っていくことを言い表しています。その時に私はどのような気持ちで主からいただいた体をお返ししたいと願いますか。

 

8)テサロニケ人への第一の手紙5章23節は何を私達に語りかけていますか。なぜパウロは「霊」とだけ、「心」とだけ言わずに、「霊と心と体を」と言ったのでしょうか。

 


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください