謙遜

私は年を重ねれば重ねるほどに自分の小ささを感じます。そして、それはある思いと並行して起きていることに気がつかされています。そうです、大いなる神を知れば知るほど、私は自分の小ささに、不完全さに気がつかされていくのです。

地球温暖化に伴う想定を超えた自然災害を前にして、たとえ私達が強靭な肉体を持っていても、世界最高の学び舎で学んだ学位があっても無力です。莫大な財産を持っていたとしても、一度、私達の体内に悪性の腫瘍ができたら、札束を積んでも治癒することには限界があります。

私達は私達よりもはるかに大いなるお方の前に生かされているということを知るべきです。「主:あるじ」は私ではないということを私達は徹底的に知るべきです。「主:あるじ」は神であるということを私達は肝に銘じるべきです。

本日の「礼拝映像」「ポッドキャスト」「礼拝プログラム」「一日一生」はこちらから(「礼拝映像」「ポッドキャスト」は日曜日中にアップされる予定です)。

今日の礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから ↓

謙遜
2019年12月22日

この度、訪日している間にローマ法王が日本を訪れていました。その動向を追いかける余裕はありませんでしたので、ちらっと見聞きするだけでしたが、東京ドームのミサには50000人が集まったとニュースは伝えていました。

特にカトリックの方たちにとりましてローマ法王はとても重要な人物だと思います。彼はイエス様から天国の鍵を受け取ったペテロの信仰を継承していると考えられているからです。

しかし、私達が心に覚えていなければならないことはペテロもローマ法王も私達と同じ人間であり、私達が本当に崇めなければならないお方はイエス・キリストだけであるということです。キリストがいなければペテロもローマ法王も世に知られることはありませんし、この場所にキリスト教会も存在しなかったことでしょう。

ローマ法王を見るべく集まった人達は50000人、その中にはミサを捧げるということよりも世界的な有名人を一目見ようとした方々も大勢、含まれていたことでしょう。

しかし、そのローマ法王がお仕えしているイエス・キリストが馬小屋でお生まれになった時には群衆などはおらず、その誕生を見守ったのはヨセフと数頭の家畜だけでした。

その時にイエスを胎に宿す女性として神が選ばれたのがマリアです。創世記のエバ以来、この地上にいったいどれだけの数の女性が存在したのか知りえませんが、その数たるや何百億人でありましょう。気の遠くなるほど多くの女性たちの中でこのマリアが選ばれ、彼女を通して神の子イエス・キリストは誕生したのです。

マリヤが御使いからイエス・キリストがその胎にやどるであろうと告げられた後、いわゆる受胎告知を受けた彼女はその告知に応答しました。その応答は今日「マリヤの賛歌」と呼ばれています。

46するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救主なる神をたたえます。48この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、49力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、50そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。51主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、52権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、53飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。54主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、55わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ1章46節―55節)

神はなぜイエスの母としてマリアを選んだのでしょうか。そのヒントがこのマリアの賛歌の中にあります。そこで、今日はこの言葉からなぜマリアがイエスを宿す母体として神に選ばれたのかということを三つ見ていきたいと思います。まず最初にマリアは神の言葉に生きた女性でした。

1)マリアは神の言葉に生きた。

今日でも中東地域では親同士が子の結婚を決めるということを聞きますが、2000年前のイスラエルにおいても結婚は親同士が決めるものでありました。おそらくマリアとヨセフもそのようにして決められた結婚であったのでしょう。

そして、女性の場合、その年齢は若く、10代にして既に将来の許嫁が決められるということが当時の慣習でありました。今日でいうならマリアは高校に通うような女子高生のような年齢で受胎告知を受けたのでしょう。

この告知を受けた年若きマリアは今、読みました言葉を語りました。この言葉をよく読み込みますと、それらはマリアの言葉ではありますが、その背後には聖書の言葉があったことが分かります。

46節でマリヤは言いました。するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救主なる神をたたえます(46)

この言葉はその時からさかのぼること1050年ほど前に長い間、子を宿すことがなかったハンナがその胎にサムエルを宿した時に言った言葉と重なり合います。

ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである」(サムエル上2章1節)

マリアがこの卑しい女をさえ、心にかけてくださいました(48)と自らを「卑しい女」と言った時、それはハンナが自らを「はしため」と語った言葉を思い起こさせます。「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」(サムエル上1章11節)。

マリアがそのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます(50)』と言った時、私達は詩篇103篇のダビデの言葉を思い起こします。しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び…』(詩篇103篇17節)

マリアが権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ(52)と言ったとき、その背後にはヨブ記の彼は低い者を高くあげ、悲しむ者を引き上げて、安全にされる』(ヨブ5章11節)という言葉があります。

彼女が飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます(53)と言ったときに、それは詩篇107篇9節の主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである』を思い起こします。

わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに(55)という言葉はマリアが彼女の祖先たちに対して神がどのように向き合われたかということを言い表しており、それはミカが伝えている言葉のとおりなのです昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される』(ミカ7章20節)

受胎告知に対してマリアがどのような応答をするのか、そこにイエス・キリストの誕生とその後がかかっていました。マリアの応答は全て神の御心にかなうものでした。常識では考えられないことがわが身に起こるということを聞いた彼女のリスポンスの背後には聖書の言葉があったのです。

今なら誰でも自分の聖書を手に入れることができます。しかし、そんなことが不可能であった当時、彼女はどのようにして聖書の言葉を獲得したのでしょうか。なぜそのようなことが無学の田舎娘であったマリアに可能だったのでしょうか。

イエス・キリストより先に生まれ、その道備えをしたバプテスマのヨハネの両親、ザカリヤとエリサベツはマリアの親族であり、マリアがイエスを胎に宿している時に彼女は彼のもとに三か月ほど滞在していました。このことから分かるように、彼らは日頃からとても近い関係をもっていました。

そして、このエリサベツの夫、ザカリヤは祭司でありました。それは彼が神の言葉、すなわち彼の先祖と神の歴史を知りうることができる数少ない人間の一人であったということです。

このザカリアを親戚とするマリアは聖書の中のサムエルの母ハンナや詩篇の言葉をその解説と共にザカリアから聞かされており、その言葉は彼女の心に蓄えられ、彼女はその御言葉に生きていたのでありましょう。彼女の御使いへの応答というものはその蓄えられた御言葉から出てきたものだったのでしょう。

神は年若くとも、その生き方のうちに神の言葉を宿すマリアを選ばれたのです。彼女の心に蓄えられました御言葉は彼女がどのように生きるかということの土台となっていたのです。ここに私達が目指すべき御言葉に生きる生き方があります。

私達は主の御言葉を会衆と共に教会で聞きます。それぞれのデボーションの時間に主の御言葉を個人的に聞きます。それが私達の血となり肉となります。ある料理家は「あなたが普段、何を食べているのかを教えてくれたら、あなたがどんな人間であるか答えることができる」と言いました。それは私達が体内に取り入れる食物がどれだけ私達の人格形成に影響を与えているかを示しています。

そうであるのなら「魂の食事」である「主の言葉」が私達に与える影響は絶大です。その言葉がそのまま私達の生き方となりと、結局のところ、その日々の魂の食事は私達の日々の言動や優先事項を決め、ひいてはそれが私達の人生を決めていくのです。

主にある皆さん、皆さんの言動は、日々の決断は何を土台としてなされているでしょうか。あなたの人生のガイドラインはどこにありますか。ガイドラインなどなく、行き当たりばったりでしょうか。その時の社会的風潮に人生を委ねているのでしょうか。ユーチューバーが言っている三分動画があなたの人生の指針ですか?

私達は日々、色々なものを背負って生きています。時に私達の決断が会社や家族に多大な影響を与えます。その決断は何に照らし合わせてなされていますか。

私達の子供は神様から授かった子です。神が授けてくださったのなら、その神のガイドライン、すなわち聖書の言葉に従い、育てるべきではないでしょうか。

世では「終活」という言葉が定着し、色々なことが言われていますが、聖書は何千年来、死について、そして死んだ後のことについて語り続けています。私達がしかとこの神の御言葉を心に刻んでおくことこそが、本物の終活なのです。

私達が何を心に取り入れ、それを己が生きる土台とするのか、このことは先送りする課題ではなく、できるだけ早く、私達はこのことに真剣に取り組んでいくべきなのです。

二つ目の事、それはマリアは神の大きさを理解していたということをお話しします。

2)マリアは神の大きさを理解した。

マリアの賛歌において彼女はまずこう言いました。「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救主なる神をたたえます」(46,47)。

ここに記されている「あがめる」という言葉は新約聖書の原語であるギリシア語では「メガリューノー」μεγαλύνωと言われ、本来「大きくする」という意味があります。Megaという英語がありますが、その意味は「非常に大きい、巨大な」という意味です。すなわち、この賛歌は「とてつもなく大いなるあなたを崇めます、ほめたたえます」という意味があります。

また続く49節にも49力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです」とあり、そこには神が大きな事をしてくださったと書かれています。そこにも大きさをあらわす最大級の言葉、「メガ」μεγαが使われています。

そうです、マリアは神の言葉に触れ続けることにより、その神はとてつもなく大いなるお方であるということをよく理解していました。その大いなるお方がとてつもなく大いなるみわざを私の内になしてくださったと彼女は言ったのです。

ここから私達は各々、自分の心に問いかけたいのです。私達は自分よりも大いなるお方がいらっしゃるということを日々、心に据えていますでしょうか。それは私達よりも少しだけ勝っている存在だという程度のお方ではない、マリアが最大級のメガという言葉をもって「大いなるお方」と言った存在です。

私は年を重ねれば重ねるほどに自分の小ささを感じます。そして、それはある思いと並行して起きていることに気がつかされています。そうです、大いなる神を知れば知るほど、私は自分の小ささに、不完全さに気がつかされていくのです。

地球温暖化に伴う想定を超えた自然災害を前にして、たとえ私達が強靭な肉体を持っていても、世界最高の学び舎で学んだ学位があっても無力です。莫大な財産を持っていたとしても、一度、私達の体内に悪性の腫瘍ができたら、札束を積んでも治癒することには限界があります。

私達は私達よりもはるかに大いなるお方の前に生かされているということを知るべきです。「主:あるじ」は私ではないということを私達は徹底的に知るべきです。「主:あるじ」は神であるということを私達は肝に銘じるべきです。

このような神の偉大さとそれに対する自らの小ささの認識は知識や経験だけでは得られないものです。学も人生経験も浅い、マリアがそのことを知っていたということがそのことを証明していますでしょう。

マリアが神を崇める、その理由は自分のようなものに目を留めてくださったということを彼女がよく知っていたからです。そして、神はそのマリアの心を喜ばれました。このことゆえに神はマリアをイエスの母として選ばれたのでしょう。

主にある皆さん、私達の思いや願望が神を小さき存在としてはなりません。私達は明日の計画を経てます。しかし、その明日は来ないかもしれない。いや、明日は来るでしょうが、私達がその明日の朝を迎えられる保証はないのです。今日あるのは神のあわれみと恵なのです。

聖書は人間を「鼻から息する者」といいます。そう人間は息をするものです。息をしなくなる時に人は死にます。人の息は神が私達に吹きこまれた息です。私達の命は私達の手の中にあるのではありません。それは神の御手の中にあるのです。

私達は切に神を求めましょう。その圧倒的な偉大さをもっと知りましょう。その大きさに圧倒されましょう。そして、我々は神の前に、その許しを得て、今日も鼻から息をして生かされている者なのだということを心に刻みましょう。三つ目のことをお話しします。それはマリアは謙遜に生きたということです。

3)マリアは謙遜に生きた。

「神は圧倒的に大いなるお方である」ということを知る時に私達は必然的に謙遜なものへと変えられていきます。大いなるお方の前にある自分の小ささに目が開かれるのですから。

確かに私達は「謙遜」という言葉を知っています。それは多くの人間社会で美徳とされています。しかし、謙遜と言いましても色々な謙遜があります。

我々日本人は自らを低い者であるということを表現する言葉を持ち合わせています。ですから私達は「つまらない者です」「愚妻です」「愚息です」「たいしたことはできません」と言います。

しかし、どうでしょうか、「本当にあなたはつまらない人ですね」、「あなたの奥さんも息子さんも愚かですね」、「あなたは大切なことは何もできませんね」と言われたら、憤りを感じますでしょう。私達は自分で言った言葉を肯定されると怒るのです。ということは、私達は心にない謙遜を自ら言い表しているのです。

本物の謙遜は「自分はへりくだるべき者なのだ」という事実を私達が心の底から認める時に出てくるものです。そして、その「自分はへりくだるべき者なのだ」という認識は私達が大いなるお方の前に立って己を知る以外には生まれえないことなのです。

マリアは受胎告知を受けた時にこう言いました『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように』(ルカ1章38節)

「はしため」という言葉には「僕、奴隷」を意味する「ドーレイ」δούληというギリシア語が使われています。彼女は自分は偉大なる神のもとに仕える者であるということを知っていました。

このことを彼女は心底わきまえておりましたから、あなたに仕える僕の体はあなたのもの、ですから、あなたが言われた通りのことが私のうちになされますようにと言うことができたのです。

その時、彼女には既にヨセフという許嫁がおりましたから、自分が子を宿すということが、どんなに大きな問題になるのかを彼女は知っていました。そのことによって彼女が負わなければならない諸々の試練というものも想像できたことでしょう。しかし、それでも彼女は神に従いました。確かにヨセフは彼女の許嫁ですが、彼女の主ではないからです。彼女の主は神様なのです。

謙遜であるということ、聖書は一貫してこのことを人の徳性として最も大切なこととして評価しています。詩篇はいいます、神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません(詩篇51篇17節)。神が私達に求めるのは私達の砕かれた魂です。このことは完全に明らかなことです。私達が神様からの喜ばれたいと願うのなら、私達は神の前に謙遜になるべきです。

我々は常に神の前に間違いを起こしかねない者なのだ。思い込みをしがちな者なのだということを謙虚に知るべきです。この謙虚さが私達を守ってくれます。そして、そこに祝福の基があります。

聖書が古の昔から言っていることはこのことなのです。マリアも言っているではありませんか「そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます」(ルカ1章50節)。神のあわれみと恵みは今までもこれからも神をおそれるへりくだった者達におよんでいくのです。そして、この彼女の生き方はまさしくイエス・キリストの生涯そのものでありました。

6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである(ピリピ2章6節―11節)。

このキリストの誕生、すなわち神のかたちでありながら、おのれをむなしくして僕のかたちをとって、人の子としてお生まれ下さった、そこに究極の謙遜があるのです。私達が目指すべきところもこのキリストなのです。このキリストゆえに神は彼を高く引き上げ、全ての名にまさる名を彼に賜ったのです。

「謙遜」の反対は「傲慢」です。私達が傲慢になる時に必ずや問題が起こります。なぜ、私達の間に争いが絶えず、その争いはなかなか解決しないのでしょうか。間違いが分かっていても、それを認め、謝ることができないからです。強情になるからです。頑なになるからです。

私達は心筋梗塞とか脳梗塞を気にします。どちらも血管に何かが詰まる時に起こります。通るべき血管が詰まってしまい、血流が脳や心臓に行き届かなくなるのです。ですから、そのことが起きないように血液をさらさらにして、血管が詰まらないように薬を飲みます。

さながら私達の傲慢はこの血管を詰まらせる物質のようなものです。それがいたるところに現れると私達も心や魂の動脈硬化を起こし、そのことゆえに心を壊し、最悪の場合、死にいたります。それに対して謙遜はその詰まりを通りよくす薬のようなものです。謙遜は私達の命を救います。魂の健康を保ちます。

頑なであることに益はありません。突っ張っているから色々なことが引っかかってしまうのです。頭を低くして歩むのなら、私達がひっかかるものはありません。いかなる時も、そのところを通り抜けていくことができるでしょう。

謙遜であるところに敵は生まれません。なぜ敵が生まれるのか。人は私達の傲慢さにうんざりするからです。そして、相手も謙遜でなければ、そこに争いが生まれます。私達の身近なところを見回せばこのような光景はいくらでも見ることができます。

水は低いところに流れます。それはこの世界の法則です。同じように神の祝福も自らを低くする者達のところに向かって流れます。主にある皆さん、一に謙遜、二に謙遜、それが大いなるお方の前で、今日も生かされている私達の人間の姿であるべきなのです。

どうですか、あと一週間ほどで2020年です。この一週間はニューイヤー・リソリューションを考えるのにはもってこいの一週間でしょう。あれもこれもでは長続きしません。御言葉に日々、養われ、神の大いなることを知り、その神のまえに謙遜に生きる。このことに一年、徹してみませんか。

謙遜はねじり鉢巻きをしてがんばるものではありません。謙遜は神の大きさを知れば知るほどに必然的に私達の心に芽生えてくるのです。それは「ねばならない」ことではなくて、神様を前にしては、そうならざるをえないことなのです。そして、そこに神様の私達に対する祝福があるのです。お祈りしましょう。

 

本日のおもちかえり
2019年12月22日

1)イエス様が誕生された時の環境を想像してみてください。どんな光景が思い浮かびますか?

 

2)ルカ1章46節―55節を読みましょう。マリアの賛歌からマリアのどんな人となりと信仰を知ることができますか。

 

3)彼女の言葉の背景には聖書がありました。どうしたら聖書の御言葉が私達の血となり、肉となりますか?

 

4)あなたは何を土台にして生きていますか。あなたの人生のガイドラインは何ですか?あなたのみならず、あなたの家族も同じ土台に立つことはなぜ大切ですか?

 

5)「わたしの魂は主をあがめ(大いなるあなたを崇めますという意味)、わたしの霊は救主なる神をたたえます」(46,47)、「49力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです」(49)とあり、そこには神が大いなる偉大なお方であるというマリアの認識があります。神の偉大さを知ることはなぜ大切ですか。

 

6)神の前に自分は本当に小さい存在なんだということを知る時に、私達の心にはどんな思いがわいてきますか。

 

7)神様は人間に何を期待していますか?(ルカ1章50節、詩篇51篇17節)。

 

8)ピリピ2章6節―11節を読みましょう。ここにイエス様のどんな姿があらわされていますか。

 

9)謙遜であることはなぜ大切ですか。謙遜からかけ離れると起きてくる問題は何ですか。謙遜から得られるものは何ですか?

 

10)なぜ神様はへりくだるものに恵みと祝福を注ぐのですか。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければ応援クリックをお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください