責任を転嫁せず、開き直らず

「今日、モールに行ったけれど、パーキングスペースがなかったのよ。一生懸命お祈りしたけれど、神様は聞いてくれなかったわ。神様なんていないのよ」。このようなことは極端なことでしょうか。いいえ、けっこう私達はこのようなことで問題を神のせいにしているということがあるのです。おぼえてください、神様は私達のためにバレットパーキングで働く人ではありません。パーキングスペースがないのは、その日が週末だったかもしれないし、その日がセールの日だったのかもしれません。そして、そんなに日にモールに行こうと決めてやってきたのは私達であり、パーキングスペースがないのは神のせいではなく、モールに来たくて来た私達が受け止めるべき現実なのです。この責任を自ら、引き受けることなくして神と私達の関係が健全なものとなることはないのです。

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責任を転嫁せず、開き直らず
ローマ人への手紙3章1節-8節
2017年9月3日

『1では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。2それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。3すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。4断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。5しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。6断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。7しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。8むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である』(ローマ3章1節ー8節)。

皆さんの前に握りたての鮨があるとします。皆さんは最初に何を食べ、最後に何を食べますか?最初にかっぱ巻きを食べ、最後にウニでしょうか。最初にウニ、そして最後にかっぱ巻きでしょうか。

私はどちらかというと最後に一番、好きなものを残しておくタイプです。その時の食事のフィナーレとなる鮨をベストのものとし、その後味を口の中に残したまま席を立ちたい者なのです。

時々、聞く言葉があります。I have a bad news and good news. Bad news is…., good news is….  皆さんはバッドニュースを先に聞きたいですか。それともグッドニュースを先に聞きたいですか。私も考えてみました。そうです、グッドニュースを最初に聞いておきながら、バッドニュースで後味が悪くなるよりも、まずバッドニュースを聞いて、それを帳消しにできるようなグッドニュースを聞きたい。そんな風に私は思いました。

私達が見ておりますこのローマ書においてパウロがとっている方法はどちらかと言いますと、この後者です。そう、まずパウロはバッドニュースについて記し、その後にグッドニュースを書いています。今日の箇所もそのような意味では、私達に対してパウロは私達の心にある問題についてまず触れ、そのことを指摘し、私達の思いを光に向けさせようとしています。

先週お話しましたことを覚えていらっしゃるでしょうか。パウロは同胞のユダヤ人に向かい「あなたたちはただいたずらに律法に従おうとしているのであって、律法の本来の意味を知らない。我々が先祖代々、受け継いできた律法はイエス・キリストにあって成就したのだ。そこには新しい契約があるのだ」と指摘し、今やイエス・キリストという光が我々には与えられているのだと彼は言いました。

パウロは恐れることなくユダヤ人に真実を語りかけます。言いづらいことを避けて語るようなことをせず、パウロはユダヤ人にとりまして聞きたくないことを指摘します。なぜでしょうか。彼は本当に同胞ユダヤ人のことを大切に思っているからです。ここに書かれているようなことに臆せずに食い込んでいくということがどんなにリスクを伴うことなのかを一番よく知っていたのはパウロ本人で、彼は自らの身の危険を覚悟してこの手紙を書いたに違いありません。

そうです、私達が忘れてはならないことはこのパウロ自身もユダヤ人であったということです。そのユダヤ人である彼が同胞ユダヤ人に向かって「これはおかしいのではないか」と言っているのです。そして、そのことに対して同胞が何を言い返してくるのかということを彼は知り尽くしていました。言うまでもなく彼自身がユダヤ人であったのですから、仲間の気持ちは手に取るようにわかるのです。ですから彼はここで問題を提起しながら、彼らが反論するであろうことを先回りして答えているのです。

ここには我々日本人には馴染みのない言葉が出てきます。そう「割礼」という言葉です。世界中には色々な儀式があり、今でもそれらが大切に守られています。ある民族はある年齢になると入れ墨をいれたり、耳に穴をあけたりすることにより、自分達のアイデンティティーとしています。イスラエル民族のこのような儀式が割礼であり、この割礼がイスラエル民族と他民族とを区別する大切な目印となっておりました。まさしく割礼こそが神の民であることの証明とされ、それは神が彼らに求めたもので、ユダヤ人の男の子が生まれて8日目にその性器の皮を切るというものでした。

この割礼の始まりは創世記17章にまでさかのぼります。そこには75歳にして神の召しを受けたアブラハムに対する神の言葉がありました。

『9神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち10男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。11あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう」(創世記17章9節-11節)。

現代のような衛生的な医療設備のない時代に高齢の彼が割礼を受けるということはまさしく命がけでした。しかし、彼はそれを受け、以後代々、ユダヤ人は生後八日目の男児にこの割礼をほどこすようになるのです。しかし年月が経つにつれて、割礼を受けるという、そのことだけに満足してしまい、割礼をしているから何をしてもいいのだというような思いが蔓延し、その心は神様から離れていきました。これは人の常であり、私達は心のともわない形式的な信心へと容易になりうるものです。

パウロはそのことを指摘して、ローマ2章25節において「もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう」と言っています。そう、割礼と共に律法を行うのならいい、しかし、割礼をしているということに甘んじで、律法を犯していくのなら、あなた方の割礼には全く意味がないのだというのです。

そして、そのようなことを言うと彼らからは「それなら、私達にとって割礼は意味のないもので、私達ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の者達)の間には何の区別もないということなのか」という反論がなされるであろうということをパウロは知っていました。

そして、パウロはこの反論に対して開口一番「そうではないのだ。我々ユダヤ人には異邦人が持っていないものがあるのだ」といっているのです。そして、それは我々ユダヤ人に神は律法を与えてくださったのだ、我々はその律法をもっているのだというのです。

神が天地万物を造られたと聖書の初めには書かれています。もし、そんな神が地球上に存在している全ての人間と行く行くは深い関わりを持つことを願っておられるとするのなら、どのような方法をとられるでしょうか。私は神ではありませんから、その神の御心など到底知り得る者ではありませんが、あえてこの小さな頭で想像するに、もし神が地球上にいる全ての人間と関わりをもとうとするならば、その手始めとしてまず、一つの民族との関わりから始めるのではないかと思うのです。

そして、その民こそが我々、ユダヤ人なのだと聖書は言っているのです。そして、そんなユダヤ人とそれ以外の者達の違いは神が我々に直接、律法を与えられたということなのだとパウロは言ったのです。

しかし、それに対して彼らはこう反論するのです「神は多くの民族の中から我々ユダヤ人を選び、我々に律法を与えた。しかし、我々はそれを守ることができなかった。これは確かに選んだ側の神の落ち度であり、神が不真実であるということの証拠ではないか」。それに対してパウロは4節において「断じてそうではない!」と言い、続いて「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」と言っています。

ああ、言えばこう言う」という言葉がありますが、まさしくここで言われているのは屁理屈なのです。確かに神は俺たちに律法を与えられた。しかし、その律法を俺たちが守れないということは、そんな俺たちを選んだ神が悪いのではないかというのは明らかに自分のことを棚に上げた責任転嫁です。そう、これはどこかで聞いた話です。

創世記の3章に最初の人、アダムとエバについての記事が書かれています。彼らはエデンの園において神様から食べてはならないと言われていた実をとって食べてしまいました。聖書によると蛇が女エバに語りかけ、エバがまず食べ、それを夫アダムに与え、彼もそれを食べたと記録されています。

そして、そのことについて神が彼らに問うと、アダムは言います『わたしと一諸にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」(創世記3章12節-13節)。

ここでパウロが書いておりますユダヤ人の反論はこのアダムの言葉と何ら変わらないのです。両者共にその責任を神になすりつけているのです。そして、肝に銘じなければならないことは、我々もこの性質を引き継いでいる者達であるということです。

問題の原因を確実に見つけることはとても大切です。それが解決の糸口になるからです。でも、その時に私達がしかねないことはその「責任の所在」を見つけようとするのではなく、「責任の転嫁」を探し始めるということです。責任の本当の所在を見つけるべきなのに、いつの間にか責任を転嫁するものを探そうとしている、この切り替えはとても早く、あっという間に責任を転嫁する矛先を見つけ、自分は無関係のように、自分は被害者のように、そこに居座ってしまう、これはまさしく私達の本能のようなもので、確かにそのような心が私達にはあるのです。「責任転嫁」というのは言うなれば「私には問題はない。問題はあの人だ、あのことだ、このことだ」と言うことです。

解決可能な問題でありながら、そのことが責任転嫁によって棚上げにされて未解決のまま放置されている問題は、この世界にいったいどれぐらいあるのでしょうか。

アダムはその時に神に向かって、こう言ったのですあなたが一緒にしてくださったあの女が!」。人間だけではない、我々は神にも責任を転嫁するのです。そして、そのことをパウロはあらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである』(ローマ3章4節)とここで指摘しているのです。

私は一生懸命やったのに、どうしてこんな結果なの、ああ、神様なんて信用できないわ」。皆さん、神は私達の夢を実現させるための道具ではありません。「ああして欲しかった、こうして欲しかったのに、そうじゃなくてこんなになってしまった、神様なんていない!」。神はあなたの願いを何でも叶える便利屋ではありません。

今日、モールに行ったけれど、パーキングスペースがなかったのよ。一生懸命お祈りしたけれど、神様は聞いてくれなかったわ。神様なんていないのよ」。

このようなことは極端なことでしょうか。いいえ、けっこう私達はこのようなことで問題を神のせいにしているということがあるのです。

パウロがその場に居合わせたらこれらのことを聞いたのなら、机をたたいて「断じて違う!」と言うことでしょう。おぼえてください、神様は私達のためにバレットパーキングで働く人ではありません。パーキングスペースがないのは、その日が週末だったかもしれないし、その日がセールの日だったのかもしれません。そして、そんなに日にモールに行こうと決めてやってきたのは私達であり、パーキングスペースがないのは神のせいではなく、モールに来たくて来た私達が受け止めるべき現実なのです。この責任を自ら、引き受けることなくして神と私達の関係が健全なものとなることはないのです。

皆さん、私達はクリスチャンと称しながら、けっこうこの辺りをウロウロしながらクリスチャンライフを送っていることがありませんでしょうか、否、もしかしたらこんなことを繰り返している内にクリスチャンライフを終える方がいるかもしれません。

問題は誰にでも起こります。その原因を突き止め、私達はその原因に即した解決をしなくてはなりません。私達が心に留めるべきことは、このような問題は今日、解決しうるということです。そう、それはとてもシンプルなことで、その問題を直視し、その問題を転嫁する前に自ら省みて、その原因に何かしら自分が関与していることが分かったら、そこから取り組み始めることです。

思えばアダムとエバもあの時、神が悪い、蛇が悪いというのではなくて、「自分が悪かった」と悔い改めれば神は彼らを赦されたでしょう。あの園を追われることもなかったことでしょう。彼らの放置された責任転嫁が現代にまで陰を残しているのです。いつまでも人や環境を責めているなら、それだけで私たちの人生は終わってしまうでしょう。

私達が神と共に歩む時に、私達が自分に対して責任を感じることがないならば、私達は神様に近づくことができません。なぜなら、そこに真の「悔い改め」は生まれないからです。「悔い改め」に至る前に私達が通過することは、己の内にある問題なのです。この後の10節に書かれています。「義人はいない、一人もいない」。私たちはそのことを認めて、神様の前に心を砕き、悔い改めるのです。なぜなら、聖書が何度も何度も約束しているように神様は「心砕かれた者と共に確実におられるからです」

ユダヤ人達が持ったであろう反論はこんな風に続きます。「神が不誠実なユダヤ人を裁かれるという事実は、神が絶対的な存在であるということの最良の証明である。そうであるならば、わたしの不真実が、神の真実をあらわすのに最良の機会となっていることになる。それならなぜ、わたしを罪人呼ばわりするのか。わたしの罪は素晴らしいものではないか。神がいかに善なる方であるかを示す機会となったのだから!わたしは悪を行ったかもしれないが、結果は善以外の何ものでもなかったのではないか」

これはこういうことです。「神は我々を選ばれた。しかし、選ばれた我々は神に従わず罪を犯した。しかし、この我々の罪こそが神の正しさを明らかにしているならば、その罪も役立っているということであり、我々は神にある善のために、悪をしたらいいではないか」。

先ほど、私達の「責任転嫁」についてお話しましたが、ここには私達の「開き直り」が書かれています。そう、彼らは罪を指摘されると、そのことを認めざるをえず、「こうなったら神の善のために我々は悪をなそうではないか」と開き直るのです。

先ほど、アダムとエバの責任転嫁についてお話ししましたが、その長男カインは次男のアベルを殺します。そのことが神の前に明らかになりました時に、神はカインに尋ねます「弟アベルはどこにいますか」カインは答えます「知りません。私が弟の番人でしょうか」(創世記4章9節)。責任を転嫁し合った親から生まれた息子は自分がしてしまったことを悔いるどころか、神の前に開き直る心を既にもっていました。そして、この心が私達にもあるのです。

聖書は私達のどんな罪も赦されると言っているのだから、生きている限り罪を犯し続けて、死ぬ間際に悔い改めようではないか」とか「一度、徹底的に悪に染まってみれば、神に赦される時の喜びも大きいだろうから、そうしよう」というような思いは、この類のことです。

このような思いは私達も持ちうるものであり、私達は常に他者に責任をなすりつけ、自分の都合のいいように物事を考えて、時には開き直っているようなことがあるのです。私達が開き直る時、その時に欠如していますことは、罪に対する認識が全くないことです。このような浅はかな策略が全知全能の神の前に見過ごしにされるはずはないではありませんか。

神様は確かに私達が生まれた時に一枚の白い紙をくださったのです。そして、私達は自ら筆をとりそこに自らの人生を描くことを許されたのです。意識することもなく私達はそこに様々な色を塗りながら今日にいたっているのです。筆を握っているのは私達なのです。神様は私達にその自由を与えられているのです。その紙に神の善があらわされるためにここには汚い色を塗りたくっておいて、後で神にきれいにしてもらおうというような確信犯が神の前に通用するはずがないのです。

私達はこれら自分の姿をしかと見つめて、受け止めなければなりません。そして、私達は神様を見上げるのです。本当に自分の内側を真実に見つめるならば、私達は本当に自分の心にある得たいの知れない暗さに気がつきます。この後の9節を読みますときに、そこには「ユダヤ人もギリシア人も、ことごとく罪の下にあることを、私達はすでに指摘した」と書かれているとおりです。

私達は全て「罪の下にある」と聖書は言うのです。この下にあるという言葉は原語のギリシア語によると、ある一つの権威と支配のもとにあるという意味があります。すなわち、支配されてしまっているというのです。私達の上に私達を支配してしまう力があり、私達はそのもとに生きているというのです。

しかし、そんな私達に対してパウロはこのように書いているのです。『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった』(ローマ3章21節―25節)。

神はこのような私達のためにキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき贖いの供え物としてくださったのです。

「END OF SPEAR」 という映画を観たことがあります。この映画は今から50年ほど前にエクアドルに宣教師として遣わされていた家族に起きた実話を基に作られています。

当時エクアドルのジャングルには、槍をもって殺戮を繰り返していた部族がいました。彼らは刺すか、刺されるか、殺すか、殺されるかという生活をしていました。その彼らに接触を試みた幾人かの宣教師達は皆、抵抗することもなく槍で殺されてしまいました。残されたのは彼らの妻とまだ幼い子供達です。憎しみと共に生きていかなければならないであろう彼女達は、しかし、その地を離れることなく、まもなくその部族の中に入り、彼らと共に住みはじめ宣教を続けました。その骨をその地に埋めるまで、コツコツとその宣教は続きました。その映画の中に一人の部族の男が語ったこんな台詞があります。

「ワエンゴンギには息子がいた。その息子は槍に刺されたけれど、彼は刺し返すことはしなかった。だから、彼を刺し通した者達は、いつか良き生活を送ることができる」Waengongiとは彼らの部族の言葉で神を意味しました。

この部族が槍で人を刺すことは日常でした。それ以外に自分達の生き方はないかのごとくに。しかし、その彼らに今まで聞いたことのないWaengongiとその息子の姿が明らかにされました。

お気づきの方がいるかもしれません。この言葉はイザヤ書53章5節の聖書の言葉が土台となっています。そう、その地域に遣わされてきた宣教師はいつもいつもこのことを彼らに伝え続けたのでしょう。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ(イザヤ53章5節)

彼らが人を槍で突くという殺戮は終わりました。ワエンゴンギの息子が槍に刺されることによって。同じように、私達の代わりに打たれたお方の苦しみによって、私達が罪の下に悩み苦しむことも終わります。

責任転嫁、開き直り、そこには何の解決もありません。私達は十字架の前に立つべきです。そして、そこに立つのなら、ますます自分自身の心が光のもとに照らされますでしょう。人の前では責任転嫁も開き直りも無理やり押し通すことができるかもしれません。しかし、この主イエスの十字架の前では責任転嫁も開き直りも通用しませんでしょう。そして、その時に私達は我にかえるのです。このお方が私のために突き刺された傷によって我々は癒されるのだということを。そこに私達が向き合っている問題の解決の糸口があるのだということを。先に申し上げましたでしょう。バッドニュースが先にあり、しかし、それを上回るグレートニュースがあるというのは聖書のメッセージなのです。お祈りしましょう。

Without casting blame and without acknowledging responsibility

Sep 3, 2017

What advantage, then, is there in being a Jew, or what value is there in circumcision? Much in every way! First of all, the Jews have been entrusted with the very words of God.What if some were unfaithful? Will their unfaithfulness nullify God’s faithfulness? Not at all! Let God be true, and every human being a liar. As it is written:“So that you may be proved right when you speak and prevail when you judge.”But if our unrighteousness brings out God’s righteousness more clearly, what shall we say? That God is unjust in bringing his wrath on us? (I am using a human argument.) Certainly not! If that were so, how could God judge the world? Someone might argue, “If my falsehood enhances God’s truthfulness and so increases his glory, why am I still condemned as a sinner?” Why not say—as some slanderously claim that we say—“Let us do evil that good may result”? Their condemnation is just! (Romans 3:1-8)

 Let’s say that there is a plate of fresh sushi in front of you. What order would you eat in? Would you eat the cucumber roll first and the sea urchin last? Or will you eat the sea urchin first and the cucumber roll last?

I am the type of person to save my favorite food for last. I would like to have sea urchin as the finale of the meal and savor the after taste as I leave the table.

I sometimes hear this phrase. I have bad news and good news. Do you prefer to hear the bad news first? Or would you rather hear the good news first? I thought about it, and thought that if I heard the bad news last, it would leave a bitter aftertaste. Personally I would rather hear the bad news first and hear the good news that cancels out the bad.

In Romans, Paul writes in the order of the latter. He writes the bad news first, then the good news after. In today’s verses, Paul first touches on the problems of our hearts and points our thoughts towards the light.

先週お話しましたことを覚えていらっしゃるでしょうか。パウロは同胞のユダヤ人に向かい「あなたたちはただいたずらに律法に従おうとしているのであって、

Do you remember what I talked about last week? Towards his fellow Jews, Paul criticized their insincere attitude in following the law, and told them that they do not know the true intention and meaning of the law. The law we have inherited for several generations was fulfilled by Jesus Christ. There, we have a new covenant before us. There is a light-Jesus Christ, that has been given to us. This is what Paul wrote.

Paul speaks the truth to the Jewish people without fear. He does not speak in a way that avoids the hard truths, but instead Paul points out things the people do not want to hear. Why? This is because Paul truly cares for his fellow Jewish people. Paul understands the risks of the things he talks about, and despite this, he boldly digs into these topics in his letter. Paul resolved to write this letter understanding the dangers he imposes on himself.

We are not to forget that Paul himself was Jewish. Paul is pointing out and saying, “is this not wrong?” in front of his own people. Paul also knew of the response he would receive from these people. Since he was Jewish himself, he can understand the feelings of his companions. This is why Paul posed questions and answered them with objections in mind.

In these verses, there is a word Japanese people are not very familiar with. It is called circumcision. There are many rituals around the world and many are still performed today. Some cultures require people to get tattoos when reaching a certain age, or piercing their ears, and these are tools for different identities. The ritual of the Israeli people was circumcision, and it was an important attribute to make a distinction between the Israeli people and other ethnic groups. Circumcision was proof that a person was a part of God’s people, and it was something God looked for, and a Jewish boy would be circumcised on the 8th day after their birth.

Circumcision is first mentioned in Genesis 17. These are the words to Abraham who received God’s calling at age 75.

Then God said to Abraham, “As for you, you must keep my covenant, you and your descendants after you for the generations to come. 10 This is my covenant with you and your descendants after you, the covenant you are to keep: Every male among you shall be circumcised. 11 You are to undergo circumcision, and it will be the sign of the covenant between me and you (Genesis 17:9-11)

It was life threatening for a man of old age to receive circumcision without the hygienical medical preparation in the present. However, Abraham received circumcision and from that day forward, Jewish lineages have carried the tradition of circumcision of a boy on the 8th day. However, as years past, people began to feel contentment in the act of circumcision. The idea that people are allowed to do whatever they want solely because they are circumcised began to spread like an epidemic, and their hearts strayed away from God. People are always this way, and run to easy formalities that do not require a sincere heart.

Paul identifies this and writes in Romans 2:25,25 Circumcision has value if you observe the law, but if you break the law, you have become as though you had not been circumcised (Romans 2:25). Paul is saying that if you are circumcised and follow the law it is good, but if you are breaking the law because of complacency from circumcision, your circumcision is meaningless.

And by saying these things, Paul knew that there would be an objection saying “If our circumcision is meaningless, there is nothing that distinguishes us Jews from the gentiles”.

Paul writes in the opening that there is something that the Jewish people have that the gentiles do not. God gave us his words, and we have a law that we are to follow.

In the beginning of the Bible it is written that God created the heavens and the earth. If a God like this desires a relationship-a deep involvement-with eventually all people in existence, what means will he go about to accomplish this? I am not God, and I cannot possibly know God’s will, but if I am to imagine with this small head, I imagine that God will start his involvement with one nation.

And those chosen people, the bible says are the Jews. And Paul says that the difference between the Jewish people and the gentiles is that God gave the law to the Jewish people.

To this the Jewish people argue, “God chose us from among many nations and gave us the law. But we could not follow the law. The fault lies in God who chose this method, and this proves his unfaithfulness”. But Paul writes in verse 4, “Not at all! Let God be true, and every human being a liar”.

People will always try to have the last word. What is being said here is a far-fetched excuse. It is true that God gave us the law. However, if we were not able to follow the law, and blame God, we are shifting our responsibility and are blind to our own shortcomings. This is something that is familiar.

In Genesis 3 there is an article about Adam and Eve. They picked and ate a fruit from the Garden of Eden that was forbidden by God. According to the Bible, the snake spoke to Eve; Eve ate the fruit first, and then gave it to Adam who also ate the fruit.

When God asks about this Adam responds by saying, 12 The man said, “The woman you put here with me—she gave me some fruit from the tree, and I ate it.”13 Then the Lord God said to the woman, “What is this you have done?” The woman said, “The serpent deceived me, and I ate.” (Genesis 3:12-13)

There is no difference between the arguments Paul writes about, and these words by Adam. They both put the blame on God. What we have to bear in mind is that we also carry this nature.

It is important to find the cause of the problem. That is the clue to the solution. In this process we should not try to find ways to shift the responsibility, but find where the true responsibility lies. When we try to find the person responsible for the problem, we are quick to find ways to avoid the responsibility ourselves. Our nature causes us to favor conclusions that disassociate us from the problem, and conclusions that make us victims of the problem. These are like an instinct to us, and it is our nature to cast the blame on others. Shifting responsibility is claiming that we are completely unrelated to the problem, and that others are at fault.

There are many unsolved problems that are left alone because of this shifting of responsibilities to others.

Adam said to God, “The woman you put here with me”! We not only cast the responsibility on other people, but God. And Paul says to this, Not at all! Let God be true, and every human being a liar. (Romans 3:4).

 “Why this result? I tried so hard. I can’t trust God”. But God is not a tool to make our dreams come true. “I wanted this to happen, this to be done that way, but instead this happened, God doesn’t exist”! But God isn’t a handyman who answers all your wishes.

“Today I went to the mall but couldn’t find a parking space. I prayed really hard but God didn’t listen. He doesn’t exist.” Is this an extreme statement? No, we tend to blame trivial problems on God.

If Paul was here and heard these complaints, he would probably hit the table and shout, “Not at all”! Please remember, God is not a valet parking attendant. The reason there is no parking space may be because it was the weekend, or there was a big sale on that day. It is we who choose to go to the mall because we want to, and it is not God’s fault that there is no parking space. That is the reality that we-who wanted to come to the mall, are to accept. Without accepting this responsibility ourselves, we lack an element for a healthy relationship with God.

Do you claim to be a Christian and find yourself wandering in this realm of complaints? Perhaps, there may be people whose Christian life may end by repeating this lifestyle.

Everyone runs into problems. We have to identify the cause and find a solution that is in line with it. We have to remember in our hearts that problems like these can be solved today. It is quite simple if we look directly into the problem and avoid casting blame. By understanding that we are to some degree a cause of the problem, we can begin solving the problem.

If you think about it, if Adam and Eve did not blame God or the snake, and instead confessed that they were wrong, God would have forgiven them. They would not have had to flee the garden. Their negligence of casting the blame on others and shifting responsibility still casts a shadow on humanity today. If we continue to blame people and the environment, our life will be no more than that. We will live a life without self-reflection, and will never take responsibility for our life.

When we walk with God, if we do not feel any responsibility for ourselves, we cannot draw close to God. This is because there is no true repentance in that attitude. Later in verse 10 it says, “There is not a righteous person, not a single one”. We are to admit to this, have our hearts broken by God and repent. Because as the Bible promises over and over, God will surely be with our broken hearts.

The argument that people probably had is as follows. “The truth that God judges the Jews who were unfaithful is a proof of God’s absolute existence. That means that my unfaithfulness is the best opportunity to exhibit God’s faithfulness. If that is the case, why am I called a sinner? My sin is great because it allows for God’s goodness to be revealed! I may have done evil, but the result is nothing but goodness.

The reasoning is this. “God chose us. But we chosen people did not obey God and sinned against him. But this sin shows God’s righteousness, so our sin is useful to God. We are to commit evil for God to be good”.

Earlier I talked about our tendency to shift responsibility on others. Here our defiant nature is shown. We have a “so-what attitude”. When people have their sins pointed out, they admit to it but say, “Then I will commit evil for the sake of God’s goodness”.

Earlier I talked about how Adam and Eve blamed and shifted the responsibility for their sin. Their eldest son Cain kills his brother Abel. When this is revealed to God, God asks Cain, “where is your brother Abel”? Cain answers, “I do not know. Am I my brother’s keeper”? From the parents who cast blame upon others, is born a son who not only doesn’t repent, but acts in defiance towards God. And we have also have this heart.

Our defiance is shown in our way of thinking. For example we may think, “Since the bible says all our sins can be forgiven, I will continue to sin and repent right before I die”. Or “If I am thoroughly overcome by evil, when God forgives me my joy would increase as well”.

We carry these kind of thoughts as well, as we constantly cast the blame of our problems on others, come to conclusions that are beneficial to us, and at times act in defiance to God. When we are defiant and have a “so what attitude”, we are missing any recognition of our sins. Would the omniscient and omnipotent God overlook this kind of shallow strategy?

God indeed gives us a blank paper when we are born. We are allowed to take a pen and write out our own lives on that paper. Without thinking about it too much, we draw various things on that paper and have lived to today. We are the ones who grip the pen. God gives us that freedom. How can a conscience crime to stain the paper with intention, so that God can clean it later be valid in front of him?

We have to reflect on ourselves and accept this fact, and we look up to God. If we truly look into ourselves, we will find the incomprehensible darkness in our heart. Just like it says in verse 9 of Romans chapter 3, “We have already made the charge that Jews and Gentiles alike are all under the power of sin”.

The Bible says that we are all under sin. The word “under” used here means something that is “under authority”, and “under control” in Greek. In other words, we are completely dominated. There is a power above us that controls us, and we live under it.

But Paul says this, 21 But now apart from the law the righteousness of God has been made known, to which the Law and the Prophets testify. 22 This righteousness is given through faith in[h] Jesus Christ to all who believe. There is no difference between Jew and Gentile, 23 for all have sinned and fall short of the glory of God, 24 and all are justified freely by his grace through the redemption that came by Christ Jesus. 25 God presented Christ as a sacrifice of atonement,[i] through the shedding of his blood—to be received by faith. He did this to demonstrate his righteousness, because in his forbearance he had left the sins committed beforehand unpunished— (Romans 3:21-25)

God gave us Jesus Christ, and by his blood, we have an offer for redemption.  And God allowed for us to receive this through faith.

I watched a movie called “End of Spear”. This movie is based on a true story about an incident that happened to a missionary’s family in Ecuador about 50 years ago.

At that time in Ecuador, there was a tribe who slaughtered people with spears. They lived as if on the brink of death everyday. They had a “kill or be killed” mentality. A few missionaries tried to come in contact with the tribe, but without resisting, they were killed with spears. The children and wives of the missionaries were left without their husbands/fathers. They were supposed to have had to live the rest of their life with hatred, but they do not leave the land, and instead they join the tribe and evangelize to them. These families work earnestly in their mission and live the rest of their lives within the tribe. In that movie, one of the tribe members says this.

“Waengongi has a son. He was speared but he didn’t spear back. So the people spearing him would one day live well.” Waengogi means God in the tribe’s language.

Killing someone with a spear was an aspect of daily life for the tribe. They lived as if there was no other way to live. However, Waengogi and his son, something they have never heard before, was revealed to them.

You may have noticed. This story is based on Isaiah chapter 53, verse 5 in the Bible. The missionaries in this area must have always told them about this verse.

“But He was pierced for our transgressions, He was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was upon Him, and by His wounds we are healed.”

The days of slaughtering people with spears were over because of the spearing of Waengogi’s son. In the same way, our struggles under sin end because of the one who suffered in our place.

Blaming responsibilities, acting in defiance with a careless attitude. There is no solution in these. We are to stand in front of the cross. If we stand there, our hearts will be illuminated by light. We may be able to force and cast blame on others for our responsibilities or give up in caring about our actions. But these things do not work in front of the cross of Jesus. There we come to a realization. That we are healed by the wounds of the man on the cross. That we are facing the first parts to the solution of our problems. The Bible has a message that tells the bad news first, and saves the good news for last. Let us pray.

Translated by Kou Okura

本日のおもちかえり
2017年9月3日

1)ローマ3章1節ー8節を読みましょう。あなたはバッドニュースとグッドニュース、どちらから先に聞きたいですか。

 

2)私達のために私達が聞きたくない忠告をしてくれる人はなぜ貴重ですか。このような人の存在を思う時に愛というものはどんな側面を持っていると思いますか。

 

3)なぜユダヤ人は割礼をしているから問題はないというような考えに流されていったのでしょうか。このようなことは私達の信仰生活にもありますか。

 

4)「神は我々ユダヤ人を選び、律法を与えた。しかし、我々はそれを守ることができなかった。それは我々を選んだ神の落ち度だ」という考えには何が欠如していますか。このような類のことが私達の信仰生活にありますか。

 

5)「責任を転嫁する」ということはすなわちどういうことですか。そこに物事の解決はありますか。なぜ私達は責任を転嫁するのでしょうか。

 

6)「神は我々を選ばれ、我々は神に従わず罪を犯した。しかし、この罪が神の正しさを明らかにしているならば、その罪も役立っている。我々は神にある善のために、罪を犯したらいいではないか」ということはなぜ間違っていますか。このような類のことが私達の信仰生活にありますか。

 

7)「責任転嫁」と「開き直り」で築き上げられた人生とはどんな人生でしょうか。あなたはそのような人生を送りたいと思いますか。

 

8)私達がイエス・キリストの十字架の前に一人立つときに、分かることは何ですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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