2017年教会標語メッセージ:「見えるところによらず、信仰によって」

聖書の時代の人々には、たとえば今日、私達が向き合っている大気汚染とかサイバー攻撃というようなチャレンジはありませんでした。しかし、今も私達が直面している問題、特にそれが自分の「心」と「体」に関すること、「人との関係」に関することでありますのなら、彼らも私達と同じ課題を抱えて生きていました。そうです、彼らも私達と変わらずに日々、自分の目に見えるこれらのことに一喜一憂して生きていました。彼らも日々、自分の目の前を過ぎ去る出来事に心が揺さぶられました。

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「見えるところによらず、信仰によって」
2017年6月18日

お配りしております総会資料の「牧会報告」に書きましたように過去一年、私達は多くの兄弟姉妹を天に送りました。また毎月のようにどなたかが病院に入院されたり、手術をされたり、諸々の検査や治療がなされました。

これら健康に関することのみならず、私達は皆、日々、直面している色々な課題があります。平穏無事な日もありますが、それはいつまでも続くものではなく健康、家庭(日本にいる家族も含めて)、夫婦、子育て、仕事、経済・・・これらの課題から生じる諸々の問題が日夜、私達にはあります。そして、これらのことは大人だけに限定されるものではなくて、幼児にもティーンにも彼らなりのチャレンジが日々、あります。また目を外に向ければ、米国にも日本にも、世界のいたるところにも色々な緊張があり、それらを私達は日々、見聞きしています。

これらのことにもまれながら私達は毎日暮らしていますが、実際のところ信仰者に与えられている特権は、これら目に見えるものだけを全てとするのではなく、見えないものを見ているかの如く、神を信じ仰いでいくということです。

ゆえに今年は「見えるところによらず、信仰によって歩む」ということを私達の教会標語としました。この標語を私達は一年を通して、意識し、このことを土台とする生活の基盤というものを確立したいと願います。

聖書の時代の人々には、たとえば今日、私達が向き合っている大気汚染とかサイバー攻撃というようなチャレンジはありませんでした。しかし、今も私達が直面している問題、特にそれが自分の「心」と「体」に関すること、「人との関係」に関することでありますのなら、彼らも私達と同じ課題を抱えて生きていました。そうです、彼らも私達と変わらずに日々、自分の目に見えるこれらのことに一喜一憂して生きていました。彼らも日々、自分の目の前を過ぎ去る出来事に心が揺さぶられました。

私達は日々、色々なものを見ながら生活しています。庭に目を向ければ、たわわになったトマトを見て、嬉しく感じますでしょう。翌日、そのトマトが何かしらの動物によって食べられてしまい、何もなくなっているのを見て、がっかりすることもありますでしょう。

インターネットのメールを読みますでしょう。立ち上がってガッツポーズをしたくなるようなメールを読むことがありますでしょう。打ちのめされてしまうような悲しいメールを読むこともありますでしょう。心が騒ぐようなメールもありますでしょう。

入院している家族、友人を訪問する時、その方の顔色がよく、回復している姿を見て安堵しますでしょう。しかし、時には回復の様子をうかがうことができずに、肩を落として帰ってくることもあるでしょう。

神は私達に二つの目を与えました。私達の感情は常にこの二つの眼を通して入ってくる光景によって引き上げられ、突き落とされるのです。そうです、私達は日々「見ていること」によって揺さぶられるのです。私達はこのことを人生において繰り返してきており、今もそうなのです。

私達の目はこれからも色々なことを見ていくことでしょう。その中には打ちのめされてしまうようなこともあるでしょう。しかし、私達のうちに「信仰」が芽生えていくのなら、そのところを必ず乗り越えていくことができると信じます。「見えないものを見る力」、もしそんな天来の力が私達に与えられるのなら、私達の人生はこれまでに思い描くことがなかったような人生の深さを教えてくれることでしょう。

しかし、こうお話ししながらも、「とは言っても結局は見えるものが全てでしょう」と思われる方もいることでしょう。ご存知でしょうか、実際のところ私達の世界は見えるものだけで成り立っているわけではないのです。私達は自分が見ている世界が全てだと思いますが、実際には私達が見えないものがこの世界には無数にあるのです。科学者はこの世界に実在しているもののうち、人間が肉眼で見えているものは20パーセントにすぎないと言います。そう、私達はこの世界に実際にあるものの20パーセントのものしか見ておりませんのに、「見える者だけが確かなもので、それが全てだから」と言って生きているのです。

喜びや悲しみを伝えるメールは無機質なスクリーンに記された活字です。確かにそれは私達にある情報を伝えます。しかし、そのメールの内容の背後にあるものを私達は見ていません。私達が見ているのはそれを伝えている文字と情報です。

たわわとなったトマト、その収穫を楽しみにしていた矢先のある晩、親子連れのポッサムがそのトマトを全て食べてしまったのかもしれません。彼らは人の耕作の苦労を知るはずもなく、ただその本能に従い、私達が食を取り生きようとするように、その親子も目の前にあるトマトをお腹いっぱい食べたのです。このことを私達は目撃していませんが、こう考えれば同じ生きとし生ける者として、彼らの立場も理解できます。

いよいよ召されようとしている方のベッドの傍らにおります時に体験することがあります。その方は既に周りにいる者達とコミュニケーションをもつことができないような状態で目を閉じています。その時に絶望的な思いとなるのか、それとも主イエスに祈り、必ず主イエスが今、この人にあらわれ、語りかけていると信じるのか、そこには大きな違いがあります。

聖書の中には無数の人間が登場します。ヘブル書はその中で10人以上の人たちを取り上げています。彼らの名前は聖書の中ではよく知られた人達で、彼らの生きざまというものを私たちは知っています。彼らは確かに聖書の中で大切な足跡を残した人達ですが、決して完璧で模範的な人ではなく、時には失敗も繰り返した人達でした。しかし、そんな彼らもあるものを持ちつつ、その人生を歩きとおしました。彼らについてヘブル書はこう書いています。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである(ヘブル11章13節-16節)。

彼らは私達と同じように与えられている人生を生きていった人達です。彼らにも悩みあり、喜びあり、勝利あり、敗北がありました。彼らは私達が日々、直面するようなことにも直面したに違いありません。確かに彼らは当初、私達と同じように目に見えるものだけに心を奪われるような数えきれない日々を過ごしながら、その中で信仰を学んだのです。そうです、信仰とは見えないものを望み見ることです。彼らの目にそれは見えないのですが、あたかも彼らの目の前に備えられていることを見ているかのようにして、そのものに向かって彼らは一日一日と歩を進めたのです。そう、彼らは天にあるふるさとを見上げつつ生きました。

この度の『見えるところによらず、信仰によって歩む』という今年の教会標語は聖書、第二コリント4章18節の『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである』からとりました。

そのものが価値あるかないかということを決める時に私達はそれがどれだけ長持ちするのか、どれだけ後世に残るのかということを考えます。テンポラリーなものはやはりチープです。しかし、長くもつものにはそれなりの価値を私達は認めます。一つ確実なことをお話ししましょう。私達が今、見ているものは全て過ぎゆくものです。私達を悩ます出来事は過ぎ去ります。私達が喉から手が出るほどに欲しいと願い、獲得にいたったものも必ずいつか失われます。目に見えるものは全て一時的なものなのです。

私達が見ているものは一時的です。新築の家も樹齢1000年にもなる大木も全て一時的なものです。どんなに気難しい人が自分の前にいて、私達を悩ましても、それも一時的なものです。ですから、このようなテンポラリーなものから聖書は私達の目を別のものに向けさせます。見えないものは永久に残るからです。

この度、修養会で「終活」、すなわち「私達の人生の終わりについて備える」ということについてお話をすることになっており、このことを最近、思いめぐらしていた時に、気づかされていることがあります。その日に近づいている私達が日ごとに養うべきことは、実にこの目に見えないものに目を注ぐということではないだろうかと。

若い時は見えることだけで諸々の判断をしていました。しかし、年齢を重ねていくと、見えているものだけでこの世界は成り立っているわけではないということに気がつかされていきます。見えるものだけに振り回されて生きるのではなく、見えない世界を垣間見させていただくように、その目を養っていくことこそが、この終活に必要なのではないだろうかと思えるのです。見えないものは永久に続くというのであるのなら、やはり私達の視点を変えるべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。そこには絶大な価値があるのですから。

世界で最も知られていた無神論者(この世界に神などは存在しないと主張する人)に、バートランド・ラッセルという人がいました。彼はかつてこんな質問をされました「もし、あなたが死後、自分の主義が間違っていたと判明し、自分が天国の前に立っていたら何と言いますか」彼は目を輝かせ、かん高い声で答えた。「そりゃー、こう言いますよ。神よ、あなたは十分な証拠をくれなかったじゃないですか

彼がかん高い声で答えた時、彼はしてやったと思ったに違いありません。しかし、このラッセルの言葉に対して私達は思うのです。「あなたはあなたを取り囲んでいる無数の証拠を見ようとはしなかった」。

神様は見えないお方です。先々週、お話ししました聖霊もそうでしょう。聖霊は風だとお話ししました。風には色がついていませんから見えませんね。しかし、風が巻き上がって竜巻となりますと風が諸々の物を空中に引き上げますので、私達はその風を見ることができます。目の前で揺れている木の葉は風があることの証拠となります。聖霊もそうなのです。私達には見えませんが、聖霊のはたらきを私達は見ることができるのです。

最近、夫婦共々、筋トレを始めました。少しでも長く、最善のコンディションでミニストリーと向きあっていきたいと思います。しかし、急に筋トレをしたら体を壊します。また今日がんばった筋トレの効果が明日、見えるかたちであらわれるわけでもありません。同じように見えないものを見るということ、急にそれができるはずもありません。信仰と不信仰の間を行き来しながら、私達は聖書が言っていることに納得しながら、自分の見解の小ささに何度も気がつかされ、見えないものを見つつ、生きることを学ぶのです。

先に読みましたヘブル人への手紙の著者は信仰にこだわります。そして言います。『わが義人は信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしの魂はこれを喜ばない。しかしわたしたちは信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、命を得る者である』(ヘブル10章39節)。

お見受けする限り、私達は皆、信仰に立って、目に見えないもに目を注いで生きる生き方へとシフトする時が来ているのではないでしょうか。皆さんと共にこの信仰の目を養っていくことができること、このことを楽しみにしています。お祈りしましょう。

“For we walk not by sight, but by faith”
June 18, 2017

As I have written in the pastoral report in the Annual Meeting Report, we sent quite a few brothers and sisters to heaven in past one year. There were also many who were in hospital, received surgery, had checkups and treatment every month.

We face many issues outside of our physical health. We may have many peaceful days but we also run into issues related with our marriage, parenting, our jobs, financial problems, etc…We are facing these challenges day and night. Not only adults, but even children and teenagers also face daily struggles. And from a greater scope, when we look around the world, we see and hear about the tensions among the nations.

We are afflicted by struggles every day, but we as believers have been given the privilege to not take what we see as everything, but live as if we see things that cannot be seen, in full trust and faith to God.

So our church motto of this year is “For we walk not by sight, but by faith”. We want to focus on this motto and establish our foundation on it.

In the times of the Bible, there are no challenges like environmental pollution or cyber-attacks, but they had the same problem of mind and body, and about human relationships, which we also face today. The people in Bible times were also shaken and made anxious by the things that passed before their eyes.

We see many things as we live everyday. We feel joy when we see the abundance of tomatoes in our garden, but feel disappointment next day when we find that the tomatoes are eaten by animals.

When we read emails we have different emotions. Sometimes we feel joy, other times we feel deep sorrow. Some email may even cause anxiousness.

When we visit a family or friend at a hospital, we are relieved to see recovery, but sometimes we come home with concern because we cannot see progress.

God gives us two eyes. Our emotions are lifted up and brought down by what we see through these eyes. We are repeatedly shaken by what we see throughout our life.

We will continue to see many things in our life. We will see things that make us down but if faith arises in our heart, I believe we can overcome any challenge. If we are given the heavenly strength to see invisible things, we will learn about the depth of our life.

Some of you might think, “Still, what we see is everything.” Did you know that our world is not made only by visible things? There are countless invisible things in our world. Scientists say that we are only seeing about 20% of our world, but we still only believe in what we can see.

An email is words typed on a screen. The words encourage us and discourage us, but we do not see the invisible things behind the words. We only see the words itself and the information.

One night the tomatoes in our yard were eaten by a family of opossums. They do not know about our labor. They just follow their instinct and eat the tomatoes to live just like us. We did not see that, but if we imagine that, we understand  that they are also creatures who have to eat as we do.

When we sit beside a person who is in their deathbed, the person cannot communicate anymore and has closed eyes. In that moment, there is a difference between being overwhelmed with despair or trusting/praying for Jesus’s presence.

The book of Hebrew mentions about the life of more than ten people. Their names are well known in the Bible and we know about their life. They left their footprints in the Bible but they are not perfect, they failed many times, but they kept a certain thing and walked their life. The book of Hebrew said;

 13 All these people were still living by faith when they died. They did not receive the things promised; they only saw them and welcomed them from a distance, admitting that they were foreigners and strangers on earth. 14 People who say such things show that they are looking for a country of their own. 15 If they had been thinking of the country they had left; they would have had opportunity to return. 16 Instead, they were longing for a better country—a heavenly one. Therefore, God is not ashamed to be called their God, for he has prepared a city for them.

They are people who lived their life like us. They had struggles, joys, victories and losses. They faced what we are also facing today. They were challenged by seemingly hopeless problems, and grew in faith through this. Yes, our faith is to see the invisible and have hope with it. They saw with faith and lived every day in it. Their eyes were always set on heaven.

Our motto of 2017 is coming from the Bible verses, 2 Corinthians 4:8,18 So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen, since what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.

When we think about the value of things, we consider how long it lasts, and how long that thing remains for the next generation. The temporal things are cheap, but we admit the value of long lasting things. All things we see will pass by. The things that bother us, the things we desire deeply for will also disappear. All visible things are temporary.

What we are seeing is temporary. A brand new house and a thousand year old tree is temporary. Even when we face difficult people and we struggle, it is only temporary. The Bible changes the direction of our eyes to eternal, lasting things.

I will talk about SHUKATU at Shuyokai. SHUKATU is the preparation for the end of our life. When I am writing the speech about SHUKATU, I realize the preparation for the end of life is to focus our eyes on the invisible things.

When we are young, we judge by what we see, but when we get older, we realize that our world is not made by only visible things. We need eyes to see the invisible world and not be influenced only by visible circumstance. If the invisible things last forever, don’t you think that is something of great value we should be focused on.

The well-known atheist, Heartland Russell was asked “if you died and find that what you believed in was wrong at the gate of heaven, what would you say?” He responded with loud voice. “Well I will say, God you did not give me enough evidence”.

When he responded, he must have thought he had a perfect answer! But we think about his words and think, “you did not even try to see the countless invisible evidence which surrounded you.

God is invisible. We learned two weeks ago about how the Holy Spirit is also invisible, and the spirit is like a wind. Wind is colorless, so we cannot see it, but when the wind becomes a tornado, we can see it because the tornado leaves behind moved objects. The shaking leaves are the evidence of the wind. The Holy Spirit is the same. We cannot see it, but we can see the work of the Holy Spirit.

My wife and I started physical training recently. We wish to stay in good condition to continue our ministry, but sudden training will injure our body. We also cannot see the result of our training the next day. Likewise we cannot see the invisible things suddenly. We live between faith and doubt, and we will admit what the Bible is saying, realize the limitations of our understanding, seek things we cannot see, and we will learn day by day.

The author of the book of Hebrew always wrote about our faith, he said;39 But we do not belong to those who shrink back and are destroyed, but to those who have faith and are saved.

According to my observation, we are now standing in faith and are shifting towards living by things we cannot see. I am looking forward to nurturing our faith together. Let us pray.

Translated by Makoto & Kou Okura

本日のおもちかえり

2017年6月18日

1)あなたは日々、何を見ていますか。目から入る情報に対してあなたはどれくらい影響を受けていますか。「目に見えないもの」にはどんなものがありますか。あなたが最近、動揺した光景は何ですか。

 

2)見えないけれど、確かに実在しているものにはどんなものがありますか。

 

3)ヘブル11章13節-16節を読みましょう。ここに記されている人たちは何を抱いて生きましたか。

 

4)第二コリント4章18節には『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである』と書かれています。あなたは見えるものは一時的だと思いますか?

 

5)これからの人生を生きるにあたり、見えないものを見て生きることはなぜ大切ですか。

 

6)見えないものを見て生きること、信仰を養うことは一夜でできるものではありません。信仰を養うためにあなたが今日から始めることができることは何ですか。

 

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