今年のイースターに心に残ったこと。
ジーザスが十字架にかかり墓に葬られた。それから3日後、まだ外が暗いうちにかつて七つの悪霊に取りつかれていたマグダラのマリアがジーザスの墓を塞いでいた大きな石が取り除けてあるのを見た。彼女はそのことをすぐにペテロとヨハネに知らせた。二人はとにかく一目散に現場に走った(もし、同じことが近くの墓地で起きたなら、私達は制限速度を超えて、現地にとんでいくだろう)。
彼らは墓に入った。墓の中を見た時に彼らがみたもの。それはジーザスの(おそらく体がまかれていたであろう)亜麻布。しかし、ジーザスの体はどこを見ても見当たらない。ただ亜麻布がそこにあるだけ。いいや、実はこの場を実際に自分で見て書いたヨハネはもっとよくその場を観察していた。ヨハネは一方に亜麻布が置かれているのを見たと同時に、ジーザスの頭を巻いていた布は、その亜麻布のそばにはなく、離れた所にあるのを見たというのだ。
この箇所を英語の聖書(NIV)で読むと興味深いことに気がつく。すなわち日本語聖書では「ジーザスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった」と書かれているにもかかわらず、英語の聖書にはそのジーザスの頭に巻いてあった布は「Folded Up」されていたと書かれているのだ。
「Folded Up」とは「たたむ」ということだ。
すなわち、その聖書訳によるならば、ジーザスはご自身の頭の布を丁寧にたたんだのだ。なぜか?ジーザスは几帳面だったのか。そこには何か意味があるのか。なぜ、ヨハネはわざわざ一見、どうでもいいような細かなことを記録していたのだろう。
このことに関して、私達はユダヤの慣習を知らなければならない。この慣習は当時のユダヤ人なら皆よく心得ていることだったという。すなわち、僕が主人の夕食を準備する時、僕は主人の願う通りにテーブルをセットアップしなければならなかった。それは完璧でなくてはならず、いったん準備ができて主人が食を食べ始めると、僕は主人が食べ終わるまで姿を隠さなければならなかった。主人が食事を終えるまで、僕はテーブルに触れることが禁じられたという。
そして主人が食事を終えた場合、主人は手と口を洗い、また髭を整えるために席を立つのが慣例であった。そして、その時、主人は側にあったナプキンをまるめてそこに置いていった。その丸められたナプキンは「食事は終わった」ということを意味した。僕立ちはそれを見て、テーブルの片付けを始めた。
しかし、もし主人が椅子から立ちテーブルを離れる時、そのナプキンを皿の横にたたんで置いておく場合は、僕たちはまだテーブルに触れることができなかった。なぜなら、たたまれたナプキンは「私はまた戻ってくる」ということを意味したからだ。ユダヤ社会に生まれ育ったジーザスはこの慣習を知っていたに違いない。
ジーザスの頭に巻かれていた布はたたまれていた。なぜ?
聖書がそう記しているように・・・
彼はまた戻ってくるから・・・。

マック
追伸 :これは確定はできないストーリーです。原語にもあたりましたが、具体的なジーザスの細かな所作は微妙でうかがいしれません。しかし、確かに分かることは、一方の亜麻布は明らかにそこに「置かれていた」にも関わらず、頭に巻かれていた亜麻布には「何かしらジーザスの手が加えられた」ということです。
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