術後の経過

中村裕二先生の手術のためにお祈りくださってありがとうございました。術後の回復について息子のタダシさんが報告してくださっています。

手術も無事に終わり、これまで長い間、先生が苦しんでおりましたインフェクションと発熱はこれからはなくなるだろうとのこと、ほんとうによかったです!。術後直後でまだ病床におります先生とご家族のために続けてお祈りくださいませ。

今日的なあらゆる“掲示板”を通して全世界に手術のための祈りが呼びかけられました。英語でTweetしてくださった方もおり、祈りの輪が世界に広がりました。これからも先生の回復を祈ります。

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お祈りくださいませ。

本日、米国西海岸時間午後5時より(日本は13日、朝9時より)、主にある同労者である中村裕二先生の手術が執り行われます。以下、先生が前日に書かれたブログをそのまま掲載させていただきました。先生を御存知の方、ご存知でない方、この手術の成功をお祈りいただけましたらさいわいです。

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昨日の夕食前、麻酔医と主治医の面談あり、一通りの説明と同意書への署名という型通りの面談ですが、改めて、ドクターカナザワから手術の説明を聞くと今まで聞いていたよりも難易度が高いようです。小腸の傷み具合いによっては摘出や、膀胱や腎臓への処置もあり得るようです。直腸癌摘出の部位より広い範囲でお腹の中が傷んでいて、ドクターカナザワはお腹の中から「火」と取り出す危うさがある、と表現して、火の粉が残り散らばる確立が高いようです。直腸と大腸の再接続と人工肛門の付け替えが最良のシナリオ。開腹しなければわからないことの方が多いでしょうが、最善の判断と技術を持ったドクターカナザワを信頼しましょう。手術所要時間は5時間を予定しているとのことです。

今日は、まさにカウントダウン、朝一でシャワーを済ませ、点滴用の針が入れられ、人工肛門用のマークがつけられ、昼食後から絶食で、午後は下剤を飲んで腸内をきれいにします。夕方には、東京から息子殿も駆けつけます。明日は午前9時からの手術、乞祈祷です。(ベッドで書いたメモを息子殿にアップロードしてもらいます)

 

エズラ記:感動させられた者達

私達は自らの計画をたてます。それが邪魔されたり、何年も中断してしまうことは私達にとって辛いことです。自分の思いどおりにいかない時に、私達の心には焦りや諦め、失望が生まれてきます。もしかしたら怒りや憎しみ怒りというような感情もともなうかもしれません。その中断が自分をどこに導いていくのかは分からないからです。しかし、私達は聖書を見ることにより、今のこのような困難を信仰の目をもってとらえていくのです。私達が「一つにとらわえず、全体を!」というメッセージ・シリーズを見ている一つの理由はここにあります。

 

本日の「日英礼拝メッセージ原稿」、「本日のおもちかえり」はこちらから↓。今日の礼拝プログラムはこちら。礼拝映像は後ほどアップさせていただきます。

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影響力

124350101576316304352四半世紀も前、神奈川の辻堂というところに住み、高校に通っていた時、よく悪友達が学校帰りに我が家に転がり込み、四畳半の汚い部屋で夕方5時から始まる「夕やけニャンニャン」を見ていた。「おニャン子」という同年代の女子高校生達が放課後にテレビに出ており、背後には秋元康のプロデュースがあり、その時代を知る者としては今、よく聞くエーケービー何某というグループの人気というものもこの流れの中にあるのだと達観している(偉そうやな~笑)。当時、とんねるずが全盛で彼らが着ていた派手派手の「K FACTORY」やら「POSHBOY」という服を着てみたくて(我ながらよく覚えているな 笑)、バイトで貯めたお金を握りしめて小田急線にのってはるばる新宿まで買いに行ったものだ。

ちょうどど同じ時期、チェッカーズという「髪の毛を切り忘れた男達」の髪型や「ワインレッドの心」を歌っていた安全地帯の玉置浩二の「半分スダレ頭」というのが我々のスタイルでまさしく「どいつもこいつも」同じ髪型をしていた(笑)。

影響力ということを考えると、人が着ていた服装とか髪型とかという影響を私達は確かに受ける。しかし、それは一時のことであり、今、もし仮にわたしが当時と同じ姿格好をしていたら(髪に関してはもはや不可能である)、人は皆、凍りつくだろう。

今から2000年以上も前、イエス・キリストという方がいた。聖書が彼の言動として記録している実際の活動期間は約三年半、12人の弟子をもちながらも最後には裏切られ、弟子達はことごとくイエスを捨て、自身、最後には当時最も忌み嫌われる十字架刑によって処刑される。

このキリストは当時もそれ以後もその着ているものや髪型によって人に影響を与えることはなかった。しかし、絶望の淵を歩いている人が希望に生きるようになったり、虚無の中に生きていた者達が生きがいと使命に輝き始めるというようなことがこの2000年来、そして現代も起き続けている。そんなの嘘だというならば、世界各地に歴然としてある教会というものは私達が見ている幻なのかということになる。

先に書いたようにキリストが生きた様から、その影響力を私達はうかがい知ることができない。しかし、事実その影響において人類史の中で彼に並ぶものは誰もいない。それは圧倒的と言ってもいい。短い人生、「エーケービー」や「つけ麵」もいいけれど、一度はこのキリストについて読んで、考えて、教会の門をたたいてみることは無駄なことではないとわたしは思う。

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全体をとらえる大切さ

Bible一月から毎日曜日に聖書の一書をお話しています。これは「一つにとらわれず、全体を!」というテーマのもとでなされている礼拝メッセージのシリーズです。このような試みをしていますとある確信というものが自分の内で週ごとに強められていることがよく分かります。

それは「全体をとらえる」ということが私達にとってどんなに大切なことなのかということです。私達の日々の生活には色々なことが起こり、私達はその一つの出来事に心が奪われてしまい、一喜一憂していることが多々あります。このことにより自暴自棄となり、最も大切なものを失ってしまったりすることすらあります。

そもそも人間に「全体をとらえること」などはできないことであり、それは神様の領域です。しかしながら、聖書の中で繰り広げられてきた出来事の前後を知ることができる特権にあずかっている私達は、そこから学び、それを自分の生活とその人生に適応できるのです。そうしますと「挫折」「遠回り」「失敗」は実は自分には不可欠なものであり、「達成」「勝利」「歓喜」というようなものが実は手放しで喜べるようなものではないということが見えてくるのです。

聖書が「The Book」と呼ばれている意味をかみしめています。

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歌うこと、奏でること

私達の「語り言葉」や「書き言葉」が無限の文節の組み合わせによってできているということは驚きです。この「無限の言葉の組み合わせ」にさらに「無限の譜の組み合わせ」がつけられて一つの楽曲となるならば、一つ一つの音楽はまさしく奇跡の賜物です。先週末はそんな音楽について、歌うこと、また奏でるということはどういうことなのか、教えられました。

2012-06-02_13-53-55_723土曜日には現在バイオラ大学にて音楽を教えておられる河村まなみ先生がサンディエゴまで来てくださり、一日かけて賛美リーダー達に聖書から神に賛美を捧げるということはどういうことなのか、また実際に礼拝においてどのように会衆をリードするのかということを教えていただきました。おそらく私達の教会でこのようなセミナーを賛美チームが受けたのは初めてのことで、一同、自分達がどのような場所に立って歌っているのかということを確認することができ、多くの収穫を得ました。驚くべきことに翌日の礼拝から幾人かの方達に「今日の賛美リードはいつもとは違いました」という感想をいただき、畏れの思いをいだいています。

NCM2, other 356また日曜日には日頃から親しくさせていただいますNCM2が日本ツアーを前にロサンゼルスから教会を訪ねてくださり、礼拝と礼拝後のミニコンサートで歌ってくださり、神様を崇めました。NCM2のメンバーが歌われる姿を拝見させていただく時にいつも感じることは、誰に向かってその歌を歌っているのかということと、その歌を通して聴衆がどこに目を向けて欲しいのかということをメンバーのお一人お一人がはっきりと自覚されていることで、必然的にそのための祈り心と練習を欠かさずに、常に最高のものを神様に捧げようとしていることです。この夏も行かれる先々で聴衆が天を見上げることができますように心よりお祈りしています。

河村先生、NCM2の皆さん、米国の端っこの町まで来ていただき、素晴らしいひと時をいただき、ありがとうございました!

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歴代志下:一人の王から私達が学ぶこと

私達が聖書を読んでいますといつも「人間」に出会います。この人はすごい信仰の人だなと思いつつ、突然、その人がとんでもない過ちを犯します。しかしながら、よくよく考えたら、まさしくそれこそが私達の真実な姿なのだということに気がつかされるのです。昔の国々の古文書からは自国の不利になる記録は出てきません。彼らは意図的にそれを書き記さなかったのですから。そのような記録は国の益にはなりませんから。しかし、聖書は真実に人の姿を書くのです。そして、それこそが私達の教訓となり、益となるのです。

 

今日はNCM2の賛美もはいっています↑。 本日の日英礼拝メッセージ原稿、おもちかえりはこちらから。↓本日の礼拝プログラムはこちらから。

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あの日、あの時の経験

P昨日、あるお一人暮らしのご高齢の方を訪問しました。お体にいつも激しい痛みを感じておられるお方です。現にお訪ねした時もお体をかばいながら、歩いておられました。

その方と向き合ってイエス・キリストのことを話していると、そのお顔が輝いてくるのがよく分かります。いつもその方は「神様は素晴らしい、神様は素晴らしい」と言うのです。そして、その素晴らしさの原因は自分がイエス・キリストによって罪が赦され、救われたことだというのです。その喜びがおさえきれずに、最後にはハレルヤ!と歌いだされ、共に手をたたきながら一緒に賛美して、こちらが励まされて帰って来ました。

その方がキリストに出会ったのは半世紀以上も前のことです。でも、その出会った日が昨日のごとくに、今も満面の喜びがそのお顔からうかがい知れるのです。しばらく考えました、半世紀も経って、今もこのような喜びを日々、持ち続けるような出来事とか出会いというものが私達の回りに何かあるだろうか・・・と。

「地上のもの」と「天来のもの」の歴然たる違いを見せていただいたひと時でした。

『わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる』イエス・キリスト(ヨハネ14章27節)

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