マルコによる福音書:与え尽くされている私達

もし、皆さんの中に、自分の努力で色々なものを掴み取ろうと生きてこられた方がいるなら、どうでしょうか、皆さんが掴み取ったものは、皆さんに真の喜びと安きを与えてくれたでしょうか。どうか覚えてください、掴んだモノは、掴み続けなければなりません。手放した時に私たちはそれを失うのです。しかし、私達の上に注がれているものは違います。私達の現状がどうあるかということとは関係なく、それが私達に注がれ続ける限り、私たちはその命に生きることができるのです。



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本日礼拝でお話した日英両語の「礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓。本日の礼拝プログラムはこちらから。 

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隠しっぱなしはいかんぜよ。

Eagle先日、書きました教会月報より

神戸女学院大学名誉教授である内田樹(たつる)氏が天賦とは、文字通り天から与えられたものであり、才能とは贈り物であると書いています。またその才能は一時的に私たちに託されているものであり、その使い方を私たちは考えなければならなず、氏がこれまで見聞きしてきたことによると、才能を世のため、人のために使っていると、それはだんだんとその人の血肉となり、やがてそれは揺らぐことのない、その人の本性の一部となるといいます。しかし、もし、それを自己利益のために用いるのなら、その才能はゆっくりと目減りしていき、さらに威信や名声、そして貨幣と交換されていくと、やがてそれはその人自身から疎遠となっていくというのです。これらのことが長く生きてきてよく分かってきたというのです。

イエス様は有名な「タラントの譬」を語っていますが、あの譬が言っていることも、与えられている賜物(ギフト)を土に埋めておくのではなく、それを用いるようにという勧めであり、実際にタラントを用いた僕に対して『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう』(マタイ25章21節)というありがたい言葉がかけられました。

またペテロ第一の手紙は『あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人としてそれをお互のために役立てるべきである』(4章10節)と書いており、与えられている賜物は互いのために役立てて用いるべきである勧めています。私達には誰一人もれることなく、神様から賜物が与えられています。そのギフトを主のために、世のために、人のために最大限に用いていくのなら、神様は私達をさらに祝福してくださるでしょう。

内田氏は「その才能の“使いっぷり”を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる」とも書いています。出し惜しみせずに、神様が私たちに与えてくださっているものを大いに用いていきましょう。神様はさらに多くのものを管理させてくださることでしょう。「能ある鷹は爪を隠す」といいますが、「隠しっぱなし」というのも聖書の教えではないように思いますが、いかがでしょうか。

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森繁昇 ゴスペル・コンサート

3月5日(火)、ハワイからゴスペル・ミュージシャンの森繁昇さんをお招きして、コンサートをもちます。

 

当日は午前10より教会で、また午後7時からはティラサンタにてもちます。ご興味のある方はお気軽にご連絡ください。mmokura@gmail.com, (619) 234-5627

「もし本当なら知りたい」・・・そう思った時、ゴスペルが私を変えた。1973年、私はテネシー州のナッシュビルに住んでいました。そんなある日、私は心にひとつの問いかけをしました。「万物の造り主は存在するのだろうか?」それまでは、「造り主の神がいるなんて、おとぎ話さ。男一匹死ぬ気になりゃできないことはないし、自分に正直に生きればいいさ。」と思っていました。ふと私が万物の造り主がいない、と信じている根拠はどこにあるのか考えてみた時、幼い頃から家や学校では造り主がいるとは教えてもらわなかった事。また、皆も知らなかった事。それだけの理由で「いない」と決めつけていた事に気づきました。造り主の存在する可能性がほんの少しでもある、と認めた私は万物の造り主がいるなら知りたい、と強く思いはじめました。その方は、私を知り尽くしているに違いない。その方が心の中の基準として人を見る時、私は人の目と耳とを基準にして生きてきました。自分の一番近い兄弟さえ時として愛せなかった私。悪いと思っている時でも自分の都合により平気でやってしまっていた醜い私。私はその時、自分の本質をはっきりと見たのです。しかし、そんな私でも愛して赦してくださる神が本当におられるなら知りたい、と心を開いたとき、「捜しなさい。そうすれば見つかります。」という聖書の中のイエスキリストの約束が私にとって現実となったのです。   森繁 昇

森繁昇プロフィール

1950年 山口県熊毛町に生まれる。

1973年 渡米し、翌年クリスチャンとなる。

1978年 日本に帰国。

1984年 ファーストアルバム「ス-ン」(Soon)を制作。音楽を通してキリストの愛を伝え始める。

1985年 ナッシュビルへ移住。セカンドアルバム「ザディ」(The
Day)を制作。

1986年ハワイへ移住。「無条件の愛」「時間と空間の始め」「高く翔う」などのアルバム制作。道の駅、公園、通りなどで、ゴスペルの永遠の希望を歌いながら各地を旅している。

 

 

戦場のメリークリスマス

あれは中二の時だったかと思いますが、おふくろと「戦場のメリークリスマス」を観に言ったことを鮮明に覚えています。この映画を14歳で観て理解できるのかと今、思えば微妙なところです。特に捕虜のデヴィッド・ボウイが捕虜収容所所長の坂本龍一を抱擁して、坂本が圧倒されて倒れてしまう有名なシーンがありますが、あのシーンは何を意味するのか、なぜ坂本は圧倒されたのか、しばし、おふくろと話したことを今も忘れることができません。

ということで、今晩、家内は長男と長女を連れて「レ・ミゼラブル」を観に行っています。13歳と11歳の子供にあの映画がどれだけ理解できるか分かりませんが、彼らが何を感じるのかを聞いてみたいと思います。特になぜヴァルジャンを追うジャヴェール警部が最後のシーンで身を投げるのか、彼らがどう思うかを聞いてみたいのです(これはそうとうにレベルの高い質問です)。私には警部の心情と上記の坂本の心情が重なっているように思えるのです。

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追伸:「戦場のメリークリスマス」の観賞には裏話があって、映画館には当時のクラスメートの女の子が二人来ていて、この時、恥ずかしかったのなんの・・・(笑)。

マタイによる福音書:罪人を招くために来たイエス

ある方が「罪人には眠っている罪人か、起きている罪人の二種類しかない」と言いました。すなわち人は皆、神の前には罪人だということです。これが聖書が言っている人間観です。



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新約聖書:時は満ちた

Palm神はなぜイスラエルを選ばれたのか。アメリカや、日本、ブラジルではいけなかったのか?モーセに率いられたイスラエルの民が放浪する場所がネバダ州のデスバレーでは駄目だったのか。イエス・キリストが熊本、阿蘇山麓で山上の垂訓を語ったり、箱根の大涌谷で悪魔の誘惑を受けたのではだめだったのだろうか。ジャマイカで、椰子の木にのぼるザアカイにイエスが声をかけるというのではまずかったのだろうか。ブドウの木の譬えがバナナの木の譬えではだめなのか。そう考えますと世界にはイエス・キリストが生まれる候補地は幾百もあったと思います。天候を考えるならAmerica's
Finest Cityであるサンディエゴもお勧めです。アラビア半島がバハ・カリフォルニアではだめだったのでしょうか。



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人として

昭和生まれの中年牧師です。

 

人として人と出会い、人として人に迷い 人として人に傷つき 人として人と別れて それでも、その人が私の喜びであり、その人が私の元気の源であり、その人が私の慰めです。人として、その人と共に、私達を照らす大きな温かい光のもと、大地に影を残して、一歩一歩、歩んでいく所存です。

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ウータン

数週間前から我が家に家族が加わりました。チョコレート色のミニチュア・REXのウータン。


P1100043うさぎがこんなに人懐っこいとは知りませんでした。なでていると気持ちよさそうにしており、抱いていると体温がこちらにも伝わり、いつまでもじっとしています。それぞれがケージの前で一人、ウータンに何かを語りかけていることをよく見かけます(子供達にとってとても大切な時です)。妻は子供達が寝入った夜、ウータンの好物の枯れ草をあげながら、一人、何かを語りかけています(かく言う私も一日を省みながら、相手になってもらっています・・・)。

小さく、弱い命が私達の心を癒してくれています。

マック

 

追伸:ということで、ケージはウータンの家となりました。めでたし、めでたし。