日本人に贈るクリスマス

「恋は盲目」とはよくいったもので、それが人を好きになるということです。もっというとその様は「おバカ」に見えるのです。「愚か」に見えるのです。そして、これは恋心だけではありません。顕著なこととして、日本語にもありますでしょう、「親ばか」という言葉が。まだ理性のあたりをうろうろしているのは、相手に対する本気度が足りないのです。本当の愛は行き着くところにいくと愚かになるのです。はたから見ていると明らかにまさしく、その様は見ちゃいられないのです。でも当人は本気も本気、命がけなのです。

時に愛は私達の思いを超えたとんでもないことをするということ、すなわち愛は人を一見、愚かに見える者にする、私達の想像をこえたとんでもないことをさせるのが愛だということを私達が知っているのなら、天地万物を創造された神が私達を本当に愛する故に、私達の意表をつくようなこと、そう、それはあまりにも突拍子のないことで、信じがたきことで、よくよく考えたら愚かにも思えること、そう、すなわち言葉が肉体をとられ、一人の処女の胎に宿ったということ、このとんでもない、理解しがたいことも納得し、信じることができませんか。

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参考文献ならぬ参考楽曲:
「恋愛症候群:その発病及び傾向と対策に関する一考察」By さだまさし

本日、礼拝でお話した「日英両語礼拝メッセージ原稿」および「本日のおもちかえり」はこちら↓から。本日の礼拝プログラムはこちらから。

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臭覚

sat-reading-tipsインターネットが普及していなかった ‟ついこの間” まで、海外に住んでいて、例えば京都に旅行に行くから情報が欲しいと思っても、せいぜい日系の本屋で「るるぶ」に目を通すぐらいでした。それがどうでしょうか。今は京都に関する幾千もの情報を得ることができます。

それこそ京都在住の方達も知らない路地裏の情報まで、ここにいながら知ることも十分可能です。しかし、その情報にいたるまでに数多くの同じような情報に目を通さなければならず、その中から金鉱を掘り当てるようにキラリと光るものを見つけ出さなければなりません。

そこで、最近、考えていることは臭覚の大切さ。このあたりに何かあるのではないかという感覚。この感覚を身に着けることは、特にこれからの時代においてはとても大切なことだと思わされています。

さて、それではどうしたら臭覚を磨くことができるのでしょうか。やはり基本にかえって多くの本を読みこんでいくしかないのではと思います。そうすると活字の中にあるキーワードが紙面から浮かび上がってきます。急がば回れ、目下、こつこつと取り組んでいきたい課題です。

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追伸:確かに「google」という便利なものがありますが、このtoolに加えて、血の通った自分の感覚を大切にしたいものです。

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Wise Men Still Seek Him

12-27-09-wise-men-still-seek-him1

『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである』(マタイ7章7節‐8節)。

祈:マック

追伸:『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』(ヨハネ黙示録3章20節)。

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若松湯

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中学時代、家が教会で、教会が家でした。その建物には風呂がなく、週に二回銭湯に通いました。もう20年以上、あの界隈に行っていませんが、ふとしたことから当時通っていた銭湯を思いだし、調べてみました。

真夏の汗を流したのも、寒い冬、冷えた身体を温めてくれたのも、ちょうど髪型が気になる年頃、小銭を入れてドライヤーで乾かしたり、腰に手をおいて珈琲牛乳を飲んだり、おじさ47th_p05_feature_im_01-150x150んが捨てていった髭剃りを使い(今のようなファンシーなものはありませんでした)、見様見真似で髭剃りデビューを果たしたのもその銭湯でした。風呂敷に洗面器と諸々を詰め込み、タイルに描かれた江ノ島を仰ぎ見つつ、熱湯の湯船に足を投げ出し「う~ん」と真っ赤な顔してあごまで湯につかりました(常連の爺ちゃん達が番頭のおじさんを急き立て、裏でガンガン薪を燃やさせたのです)。

47th_p05_feature_im_09-150x150そう、その銭湯、『若松湯』は数年前に取り壊されたということで、その時のことを載せている方のブログを見つけました。あぁ~思い出す、そうそうこの玄関、そして、この富士山。この銭湯で私達は汗を流し、身体を温めたのです。大げさな言い方ですが、若松湯あって、今の自分があると思います。若松湯、ありがとう、ほんとうにありがとう!昭和の銭湯は私の心の故郷です。

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追伸:疲れたり、しんどかったら、風呂につかって早めにやすみましょう。「天来の癒し」は私達が思う以上に裾野が広く、そんなところからも与えられるものですよ、きっと。

追伸2:イエス・キリストの時代からガリラヤ湖畔、ティベリヤにあった温泉です。イエス様が弟子達と、ここに浸かって旅の疲れを癒していたなんてことを想像すると嬉しくなってくるじゃありませんか。

 

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痛い経験

ph_07いよいよ、今年もあと三週間となりました。これからのシーズン、車のハンドルを握る者達は先を急ぎ、不注意な事故が増えます。

今朝、教会までフリーウエイを運転しながら昔のことを思い出していました。あれは高校三年生の時、ちょうどこのシーズンだったと思います。当時、私は湘南海岸沿いにある「城門」というラーメン屋でアルバイトをしていました。学校が終わって、夕方から厨房に入り、閉めの夜中二時半まで働いていました(店長がおおらかだったのでしょうか、今考えると高校生でこの労働はまずいですね)。

仕事が終わり、いつものように単車にのり、海岸線の裏道をはしっていました。緩やかなカーブが前方にあり、『バリバリ伝説』の主人公巨摩 郡を意識した愚かな私は、スピードを下げずに恰好よくハンドルを切ろうとしたところ、ガードレールに激突、バイクは前輪のフロントフォークとスポークが曲がり、私の身体も投げ出されました。さいわい怪我はなく(バイクの修理費はかかりましたが)、側を歩いていたおばあさんが(よくあの時間帯にいてくれました)、10円玉をくださったので友人に電話をして、助けにきてもらいました。

あれから25年が経ちますが、今でもあの時、ガードレールが目の前に迫ってき、ドキッとした恐怖を忘れることができません。そして、さいわいなことはその感覚ゆえに、以来、カーブを曲がる時にはとても慎重になりました。もし、あの事故がなければ、変わらずスピードを落とさずにカーブを曲がろうとして、大きな事故を起こしていたかもしれません(免許取り立ての子は、運転に慣れて来るとカーブをかっこうよく曲がろうとするものですが、彼らはアイルトン・セナではないのです)。あの時の経験が後の私を守り続けているという事実、そのような意味であの痛い経験はとても大切なものでした。

子供達を見ていると危なっかしいと思わされることが度々あります。彼らが全ての危なっかしさから免れることは難しいことかもしれません。ゆえに彼らもこれから何かしらの痛い経験をすることでしょうが、その経験が最少で済むこと、そして、そこから後に彼らを守る教訓を得てほしいと心から願い、祈っています。年の暮れ、格好良くなくてもいい、安全第一でいきましょう。

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追伸:思えば聖書中の多くの人間も痛い経験をしました。しかし、その経験は無駄にはならずに、その経験がさらに一歩、神の御側に彼らを導いたのです。

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クリスマスの喜びをあなたに!

今日は日本より岸義紘先生をお招きして礼拝メッセージを取り次いでいただきました。メッセージの他に礼拝の中で、そして午後の祝会においてもサックスを演奏していただき、主の御名をほめたたえました。祝会では子供賛美チーム、フラチーム、大人フラチームも皆、笑顔がとても素敵でしたよ。皆が、これまでの練習を一生懸命に顔晴りました!Soli Deo Gloria!

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本日の礼拝プログラムはこちらから。
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天の意思

N_Mandela「竜馬がゆく」の最終章の中で、竜馬の死に対して司馬遼太郎さんはこう書き記しています。

『天に意思がある。としかこの若者の場合思えない。天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時惜しげも無く天へ召しかえした。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた・・・』

一度、読んだら忘れられない名文であり、大好きな言葉です。それがどんな国であっても、いかなる人であっても、天の意思の有効性というものを制限して、ちっちゃくまとめちゃいかんと私は思います。

この言葉をそのままネルソン・マンデラ氏に捧げます。

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小さな相棒

IMG_20131203_180443_831先日、子供達と近所のスワップミートに行きました。こんなの買う人いるのかねと、それこそ「油まみれのネジ」やら「自転車の中古ペダル」まで意表をつくものが売られている楽しい青空市場です。

多国籍の賑わいの中を歩いていると珍しくペットショップがありました。このペットショップがなかなかおもしろく、巷のペットショップ・チェーン店ではお目にかからないような爬虫類や昆虫が売られており(特別な入手ルートがあるのでしょうか)、私達の足はピタリとそこで止まりました。

そこで私と長男の目を釘づけにしたのはベタという魚。これはペットショップでもよく売っているのですが、ここのベタは他では見ないようなかたちと鮮やかな色をしており、その美しさにしばし見とれてしまい、繁殖の仕方やら、一通りおじさんからベタの聴講を受けました。

ベタは闘魚とも呼ばれる荒々しい魚で雄同士を同じ場所で飼うことができませんが一匹でいる限り、コップの中で優雅にユラユラと泳ぎます(この魚はワイングラスの中でも生きることができるのです)。その美しさは水の中に揺れる花のようで、ディスクの上で私の小さな相棒となりました。時々PC画面から目をはずし、このベタを見ながら思い起こされる、あの聖書の言葉。我流ですが・・・

『あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。ベタがどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、このベタほどにも着飾ってはいなかった。きょうは泳いでいて、明日には網にかかるような沼地に住むベタでさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな』(マタイ6章27節ー31節)。

Praise The Lord!

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クリスマスのご案内

Capture私達の教会では来る日曜日、日本より岸義紘先生をお招きして礼拝メッセージを取り次いでいただき、その後のクリスマス祝会でサックスフォン・コンサートをしていただきます。どなたもどうぞ。

 

 

 

 

 

12月8日(日)
10時00分 バイリンガル礼拝
11時30分 ランチ
13時00分 クリスマス祝会(コンサート、ゴスペルフラ、子供賛美)

San Diego Japanese Christian Church:1920 E Street, San Diego CA 92102
San Diego Downtown, Broadwayと19th Streetのコーナーです。駐車場あります。日曜日なら路上にも駐車できます。(619) 234-5627, mmokura@gmail.com

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天来の知恵が聞こえますか

download (5)小学生の頃の夏休みの宿題に「絵日記」というものがありましたが、書くことが思い浮かばず、悩み苦しみただ一行、神妙に「今日もやっぱり今日だった」とか「起きた、食べた、遊んだ、寝た」とそんなことばかりを書いて先生に叱られた記憶が思い起こされます(8月31日にあわてて一月分の日記を書き始めるからこういうことになるのです)。

しかしながらよくよく考えてみますと、確かに「今日もやっぱり今日だった、起きた、食べた、働いた、寝た」というのが私達の毎日です。しかし、その単調な生活の中で神様からの知恵を得ようという思いをもつことはとても大切です。詩篇19篇は言っているではありませんか。

『もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ』(詩篇19篇1節-4節)。

私達が気がつく、気がつかないにかかわらず、天は、大空は神様の栄光をあらわしています。その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及んでいるのです。ですから今朝、私達は一つのことを確認したのです。すなわち、神様はいかなる場所でも私達に語りかけてくださっており、それを受け取るのは私達の側の課題であるということです。

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