最近、祈りについて思いめぐらしていることがあります。それは「願いがきかれないからこそ本物だ」ということです。
「苦しい時の神頼み」とはよく言ったもので、普段は「神なんぞ存在するわけない」と言っている人も家族が瀕死の状態にある時や、自分の命が危機に直面している時には「神様!」と叫ぶといいます。受験、就職、恋愛・・・、私達は必要な時にだけ神頼みをし、その願いがきかれれば、あの神様は御利益があると言い、それを聞いた人達は「そうかい、そうかい」とお賽銭と願い事をもって出かけていきます。
しかし、そもそも「私達が願っていること」は私達にとっていつもよきことなのでしょうか。よくよく考えてみれば、これはとても怪しいことで、自分の過去を振り返ってみても、願いがきかれなかったからこそ胸をなでおろすようなことがたくさんあるのです(もちろん、それ以上に多くの私の祈りを神様はきいてくれました)。そうです、私達の思いはいつも近視眼的で不完全です。
イエス・キリストは祈り方を教えてくださいと願う弟子達に主の祈りを教えました。その一節にはこんな祈りの言葉があります。『みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』(聖書:マタイ6章10節)。そして、イエス自身、十字架にかかる直前にされた祈りの中で、ご自身が飲まなければならない十字架という杯について父なる神にこう祈っているのです『父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください』(ルカ22章42節)。
私達の神様への祈りは願い事を並べたてて終わってはならないもので、その最後には必ず「わが思いではなく、あなたのみ心が成るように」という言葉と共に閉じるべきなのです。
マック