イエスの母、マリヤはイエスに関して「思いめぐらし」「心に留める」ことを知っていました。我が子が神と共にあること、神はこの子をこれから先、どのように導いていくのだろうかと思いめぐらし、神様のはたらきを自分が妨げてしまうことがないように、イエスの言動を見つつ、それを安易にとがめることなく、それを保留して心に蓄えたのです。
なぜなら彼女はイエスは神から授かった子であるということを知っていたからです。そして、このことはマリヤに限らず、本来、全ての親に共通することでもあるのです。誰一人として自分でわが子を獲得したという親はいないからです。信仰がない人であっても「子供を授かりました」と言います。なぜですか。私達の魂のどこかに、命は自分以外の大いなる存在から与えられるものであるという思いが刻まれているからでしょう。そう、この世界には子を与える存在がおり、マリヤはその存在が我が子に示されていること、我が子と共になそうとしている領域に踏み入らず、思いめぐらしたのです。心に留めていたのです。主にある皆さん、私達はそのことが何であれ、ある出来事に直面した時にそれを心に留めておりますか。その出来事を保留して神の御心をたずね求めていますか。マリヤがそうしたように、特に我が子に対して神のはたらきを考慮しつつ、心に留め、思いめぐらしているでしょうか。
マック
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