御手におゆだねします

私達が生まれてくる時、乳児は自分では何もすることができませんから、自らの身を外界の人間に委ねて生まれてきます。彼らは母の胎から取り上げられ、母の腕に抱かれて育ちます。生まれた時から彼らは自身を全く他者に委ねるのです。しかし、年を重ねていくと委ねるということから私達は遠ざかり、常に心と体に力が入っています。そうです、自分で全てを何とかしなければならないと考えるからです。そして、その姿勢は私達が迎える最期の時にまでいたるのです。

マック

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「見えない」と言われてもね・・・

6843962268_c405e07a97_b25年も昔、ニューヨークのマンハッタンに初めて行きました。おのぼりさんのように地図を片手にお決まりの自由の女神に行き、ストリートでピザを食べ、一日だけのニューヨーカーを気取りました。そして締めくくりにエンパイアーステイトビルディングに向かいました。広いマンハッタン、地図を頼りにどうやらこの辺りかと思われる所まで来たのですが、とにかくビルが林立していて、どれがエンパイヤステイトなのか分からず(キングコングはいませんでした 笑)、道を歩く人に聞きました「Where is Empire State Building?」その人は怪訝そうに言いました。「Here! You are standing in front of that」

コスコに行きますとメンバーカードを見せなければなりません。その日もさっそうと財布からカードを抜き、刑事があのバッジを見せるように堂々とカードを見せてコスコに入りました。買い物をしてレジに向かい、いつものお決まりのように、またさっそうとレジの人にカードを見せました。いつもなら、すぐにカードをスキャンしてくれるのに、キャッシャーはカードを見ながら私に目配せしました。私が差し出したカードは実はトリプルAのカードだったのです。恥ずかしい告白になるが、このようなことを私は何度かしています。

私達は言います。「見えないものは信じられない」と。しかし、本当に信じられないのは、エンパイヤーステイトビルディングの前で、それを見過ごした私の目であり、コスコカードとトリプルAのカードを取り違える私の目のほうが信じられないのではないでしょうか。

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」 (イエス・キリスト:ヨハネ20章29節)

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追伸:今、こうしてスクリーンに向かい、これを打っていますが、そのスクリーンと私の間の空間には無数の埃が漂っているはずです。それらを一切、見ることができない、そんな視力に限界がある者が「見えない、見えない」と言い張るのは、これまたおかしなことです。

代価は支払われました

jesus-paid-in-full-crown-of-thornsイエス様が十字架の上で言われた「完了する」という言葉は、新約聖書の原語であるギリシア語では「全額支払い済み」という商業用語なのだということが分かります・・・。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

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病む世界

11611-CrossChristArticle昨日、妻から電話がありました。電話をとった瞬間に流れる一瞬の空気と彼女の声の調子で何か良くないことが起きたことがだいたい分かります。昨日の電話はまさしく、その類の電話でした。

その時、妻は車を運転していました。T字路となる道の前に一台の車がとまっており、その車の後ろに妻は車をとめ、この前方車が右折するのか、左折するのかを待っていたのですが、急にその車が対応できないようなスピードでバックをして妻の車にぶつかったのです。さいわい誰も怪我はなく、ただあちらの車の左後方部に傷がつき、私達の車の右前方のライトが割れ、バンパーがぼっこりとへこみました。電話を受けた私はその時に教会にいたのですが、すぐに現場に向かいました。

その時は妻以外にkさんが助手席、そして次男坊が後部座席におり、三人共に車がバックしてきているのを目撃しており、妻も「あれ、あれ、バックするの」というようなことを言っている間に、車はぶつかりました。しかし、この車に乗っていた男性は自分はバックをしておらず、お前が自分の車に突っ込んできたと主張します。

開き直っているのか、堂々と自分が悪くないと大声を出している男にさすがに憤りを感じ、どうにか彼の良心に真実が届かぬものかとこちらも何度も問い続けたのですが、まったくだめ。「互いの保険会社の情報を交換したのだから、後はそちらが何とかするだろう」とだけ主張し、最後には「私の妻の目を見てバックしていないと言ってみてくれ」と迫ったのですが、最後まで非を認めずに、去っていきました(ポリスにも電話をしたのですが、けが人がいないかぎり彼らは現場には来ません)。

とてつもない徒労感、でも、これが現実であり、これが人間なのだと妻と話しました。そうです、私達の心は救いがたく病んでいるのです。おりしも今、私達の教会ではイエス・キリストの十字架について話をしています。十字架の意義は私達のまわりにこのようにいくらでも見てとれるのです。彼の心がいつかこの十字架の光によって照らされることを祈っています。

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遊ぶ時は遊ぶ。

昨日のオフ。「とりあえず夕飯の心配はない」と宣言して出てきた出航日。舵を握るJとその友人と沖に向かいました(以前、J夫妻の結婚式の司式をさせていただきました。今はお二人とも頼もしい父母となりました)。

これまで私は色々な釣りをしてきましたが、唯一、まだしたことがないのがトローリングで、今回はそれでマグロ、カツオ、シーラを狙おうということでしたが、どうも魚達が今は近海にいないようで、まずは底釣りへ。入れるとすぐにヒットし、当たりがなくなると次の場所へという、そんな贅沢な釣りを繰り返し釣果はこんな感じ。

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その間に沖合い30キロまで出て、トローリングをしたのですが、当たりはなし。でも、次回への期待がふくらみました。夕食無用宣言はなんとか守ることができ、太公望の面目を保ち、帰宅後、獲物はさばいて煮つけにし、頭部はそのままあら汁にしておいしくいただきました(白身が多く、ほくほくで最高でした!)

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J、ありがとう。あらためて君のバイタリティーさに脱帽です(また声をかけてくださーい 笑)。釣り竿と海、いや男だね~。

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さぁ、今週もすべきことが山積みです。山積みだからこそ、こういう時間をあえてとらなければいかんなと思わされています。おりしも今朝、こんな記事を読み共感しました。「どんなもんよ」と生きるためにもね(笑)。

マック

捨てられたのは誰のためか?

crossイエス様の十字架から時を隔てずに生まれたギリシア人でフレゴンという歴史家がいます。フレゴンの専門はオリンピックの歴史で、彼は第1回から229回までのオリンピックについて調べまして『The Olympiads』という16冊にもなる記録を残しました。その一節に202回目のオリンピックについて、このような一文があります。

「第202回のオリンピック大会の時に壮大な日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であり、六時間にわたり天の星が見えるほどの夜となった。またビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した」(『The Olympiades』Phlegon  )

イエス様が十字架にかかった“時”には諸説がありますが、だいたい紀元33年前後ということになります。第一回のオリンピックは紀元前776年で、以降、現在もそうであるように四年ごとに開催されてきましたから、第202回というのはだいたい西暦33年前後となり、また聖書はイエスが息を引き取られた直後に大きな地震があったということも書いています。ですから、このイエスとは何ら関係のないギリシア人、フレゴンが書き留めた「闇」と「地震」の記録はイエス様が十字架にかけられたその日、その時と合致するものなのです。

今日はユーストリームのライブ放送ができませんでした。申し訳ございません。

マック

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