全ての道で主を認める  

GOdもう亡くなられましたが、ドイツ系神学者であり、牧師であるラインホールド・ニーバー(1892-1971)という方がいます。彼は「冷静を求める祈り」という有名な祈りを後世に残し、その祈りは今日も私達の間で親しまれています。

「神よ、変えられないもを受け入れる心の冷静さを与えたまえ。変えるべきものを変える勇気を与えたまえ。そして、変えられないものと変えるべきものを識別する知恵を与えたまえ」

 

マック

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サンディエゴの民の旅のはじまり

IMG_67632月16日、朝四時過ぎ、圧倒的な静かさの中、ホテルのバルコニーで闇の中に眠る死海を眺めています。ここにこうして座っていると、湖面(海面)の上に一本の針が落ちる音さえ聞こえてきそうです。

目の前はヨルダン王国、そして、その山の上に灯る明かりは古の街、モアブがあった場所。その明かりを眺めながら将来への不安だけを心に抱えながら、このあたりを歩いていったあの二人の女性の心に思いをはせ、また、この所から目と鼻の先にあったあの滅亡の街の風景を想像しています。

ここに来る数日は、実に濃厚な日々でした。また落ち着きましたら最初から全て書き記していきたいと思いますが、ルツとナオミを導かれた神は、この大地に硫黄を降らせた神は、ここにいたるまでの私達にも既に得難い体験をくださいました。そうです、誰が想像したことでしょうか、その体験はイスラエル入国と同時に始まるものではなく、合衆国にいた時から既に始まっていたのです。神は我々に最高のイントロダクションを備えて、この旅を導いてくださっています。そうです、我らは今、イスラエルの民を導かれた神に見守られながら当地を歩いているサンディエゴの民なのです。

つづく・・・。

マック

追伸:今日はこれからマサダの要塞、そしてクムランに立ち寄り、ガリラヤに向かいます。そして、ヨルダン川での洗礼式です!ハレルヤ!

 

父なる神との出会い

father-son-sunset聖書を読みますと本当に色々な人間の心に出会います。そこから分かることは完璧な人はいないということであります。先週、お話しましたようにイサクは敵からもリスペクトされるほどに家庭の外では模範的な信仰者でありました。しかし、家庭においてはこのような弱さがあったのです。会社では誰もが慕う人なのに、その家庭は危機的な状況にあるということ、外部の人には想像もできないような問題がその家庭の中で起きているということがあるのです。

よく使われる譬えですが、ある牧師の妻が家の家財道具一切を教会の講壇の上に運んできて、「今日からここに私は住みます」と言います。「妻よ、なんでそんなことをするのだ」と問う牧師である夫に対して妻は言い放ちます「講壇で話しているあなたと共に生活がしたい!」と。笑うには笑えない話ではありませんか。

マック

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旅のお供

a3f7cd93-089a-47d6-8329-3cd0eba0fda8ホーリーランドへの道のりは遠い。サンディエゴを朝6時に発ち、チャーターバスでロサンゼルス空港へ。そこから東海岸のニューアークを経由してテルアビブとなります。家を出る時間から計算すると24時間を超えるのではないかと思います。

こんな時には旅のお供が必要です。でもお供と言えども荷物は最小限にしたいので選んだのが、この二冊の本。この度のテーマは『旧約から新約へ:一つにとらわれず全体を!』、聖句は『モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』(ルカ24章44節)です。そのような意味でこの二冊は旅と並行して色々な示唆を与えてくれると思います。

『福音の再発見』(スコット・マクナイト):タイトル通り五感を研ぎ澄ませて、かの地にて福音の再発見を体感することができたらと願っております。

『人間を探し求める神』(アブラハム・ヘッシェル):荒野、都、湖を目ぐりながら、この土地を用いて人間を探し求められた神の御心に近づくことができたらと願っております。

マック

追伸:聖地旅行の醍醐味は文書では受け止めきれない壮大な神の啓示を体感することだと思います。

再訪

6a01287781ba0b970c014e5f53642f970c2011年2月、一人でイスラエルを旅しました。見ること、聞くこと全てが新鮮で、今もあの時の感動を忘れることができません。以来、聖書を読んでいても、よみがえってくる光景が随所にあります。

この感動を皆にも知ってほしい、以来、ずっとこのことを考えてきまして、一年半ほど前からその準備にとりかかりました。そしてこの度、教会の15名の兄弟姉妹とかの地を訪ねるべく、来週から出かけてまいります。

今でも覚えています。夕方のテルアビブ空港に着き、長い髭をはやしたユダヤ人のおじさんの間に押し込まれ、乗り合いのバスでエルサレムに向かった日を。ディズニーランドの国からやってきて、暗くなったエルサレム旧市街のヤッホ門の前でバスを降りた時、タイムスリップしてしまったかのように思われた不思議な気持ちを。「あぁ~ついに来たんだな」という感無量の思いでした。そこから始まり、南はソドム、北はゴラン高原まであまねくイスラエルの大地を踏みしめました。

その時は一人でしたので、それをシェアーする相手もなく感動をかみしめて旅を続けました。しかし、この度は気心知れた兄弟姉妹と神が物語を紡がれた舞台を歩くことができますことは何よりも大きな喜びです。

この度、このためにユースパスタ―のY師が我が家に泊り、子供たちと過ごしてくれることになりました。1998年、アメリカに渡ってきた日以来、妻と二人で旅行に出るのはこれが初めてです。夫婦として共有したいと願っていた「To Do List」の一つをこの度、消すことができることを神様に、教会の兄弟姉妹に、Y師に子供達に心から感謝しております。また多くのインスピレーションを得て、しっかりと還元させていただきたい、そう願っています。

マック

 

信仰が継承される時

abraham-and-isaac私は牧師の子でしたが、私の年代の親達は戦後の焼け野原の日本で信仰をもった者達で、まさしく伝道と牧会に全てを注ぎ込んだ世代でした。彼らの時代は今日のような神学的な教育の充実というものはまだない時代でした。しかし、彼らにはパッションがありました。彼らはその情熱と共に主と教会に仕えたのです。まさしく彼らは家庭のことは後回しにして主に仕えたのです。

そのことによる弊害がありました。教会のことばかりに没頭している親に対して多くの牧師の子供達が反発して信仰から離れてしまいました。とても残念なことです。

そんな親達がいつも口癖にしているのは、ここに記されています「主の山に備えあり」という言葉でありまして、子供が何かの不足を親に訴えますといつも返ってくる言葉は「主の山に備えあり」であり、子供は内心「またか、すぐにそこにいくんだから」と思っているのです。しかし、実際にその必要や不足が不思議な方法で応えられるということをその子達は幾度も目の当たりにしました。お話しましたように確かに信仰を失った子供達はいたのですが、同時にそのような家庭から親の信仰を継承し、牧師となる者達も多く出ました。そうです、時に彼らは我が子よりも神を第一としている親達の信仰に本物の匂いを嗅ぎとったのです・・・。

マック

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