アロン:「いい人」が抱えた問題

アロンはいい人でした。あわれみ深く、弟であるにもかかわらずモーセの僕であるかのようにして謙遜に仕えました。しかし、アロンには背骨がありませんでした。「いい人」であるということは誉め言葉として受け取れ、実際に彼はグッドマンなのですが、いい人であるゆえに彼には問題がありました・・・。

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2017年1月29日

聖書の中に描かれている人間を私達は見ておりますが、そこから分かることはその人達は皆、何かしらの失敗をしているということです。どんなに秀でたもの、よきものをもっていても、人は何かしらの欠点があり、それがあらわになってしまうということが聖書の中には度々あります。これまでもアブラハムやモーセというように、まさしく我々にとりまして信仰の巨人と思われるような人達の失敗を見てきたとおりです。

ということは言うまでもなく私達も常に失敗を犯しやすい者であるということで、失敗が避けられないとするのなら、私達はその犯した失敗に対してどう向き合うかということがとても大切なことになります。今日もある人の失敗を見てまいりましょう。その人の失敗は私達の失敗ではありませんが、人である限り、その人と同じ類の心を持ち合わせているのが私達なのですから、私達はその人の失敗から大切なことを学び、自らの心に刻みたいと思います。

先週はモーセの姉、ミリアムが死んだ直後に起きたモーセの失敗についてお話ししました。そうです、モーセには姉ミリアムがおり、また兄にアロンがいました。この三人兄弟について聖書はこう記しています『わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、あなたに先だたせた』(ミカ6章4節)。そうです、アロンとミリアムはモーセの右腕、左腕となり、モーセを支え、モーセもこの二人がいる故に慰められ、励まされたことでしょう。

先週もお話ししましたように赤子モーセがナイル川に置かれた時に、ミリアムは彼を見守りパロの娘の目に弟モーセがとまったのを見届けると、そこに走り寄り、乳母、すなわち自らの母をあっせんしました。その勇気と機転は娘としては驚くべきものであり、その彼女の性質は後にイスラエルの民を導く時にも大いに用いられたことと想像します。モーセにとってそんな彼女の存在はとても大きなものでした。ゆえに先週、お話ししましたようにモーセが頑なな民を前に怒りをあらわにしてしまったことも伺い知ることができるのです。

今日、注目したいのはモーセの兄となるアロンです。アロンも出エジプト、そして荒野での日々において果たした役割はとてつもなく大きく、聖書には彼の名前が312回も出てきます。意外に思われるかもしれませんが、モーセが神に声をかけられた時にモーセはどんなに自分は言葉の人ではないかということを泣き言をいうかのように訴えました。これは驚くべきことであり、あのような膨大な数のイスラエルの民の先頭に立つ者が人前で話すことを不得手としました。神様はそのことを承知の上でモーセを選び、彼の横には雄弁家である兄アロンが据えられたのです。アロンはモーセに代わって、エジプトのパロの前に立ち、大いに語りました。まさしくアロンはモーセの口となり、彼に寄り添い歩き続けたのです。

このアロンはモーセと同じようにきわめて柔和な人でありました。弟であるにもかかわらず、アロンは自らの立ち位置をしっかりと踏まえて、イスラエルのリーダーはモーセであるということから遺脱せずに、モーセを「わが主よ、わが主よ」と彼の僕のようになりそのリーダーシップを支えたのです。

アロンはまた同情の人でした。姉のミリアムがらい病をもって打たれた時、すぐに彼は神のあわれみを叫び求め(民数記12章10節、11節)、民の反逆によって会衆の中に疫病が発生した時にも、その中に走り入ってとりなしをしました(民数記16章47節、48節)。聖書は彼を「主の聖者」とたたえています(詩篇106篇16節)。

しかし、そんな彼にも失敗がありました。その失敗の最大のものは弟モーセが40日40夜、山に登っていったのに戻ってこないことがあり、イスラエルの民の間にも不安が広がり、その民の不安が麓に残されているアロンにも日ごとに届くようになります。リーダーであるモーセが不在の時に、それに代わって民を導くのは明らかにアロンの責任なのですが、彼はその時に大きな過ちを犯しました。

モーセも手を焼いたイスラエルの民を前にアロンは立ちました。彼らはモーセが山から下りるのが遅れているのを知り、アロンに迫ります。「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」(出エジプト記32章1節)。

 アロンは彼らに言います。2「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。3そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。4アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。6そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた(出エジプト記32章2節-6節)。

 アロンのもとには民達が身に着けていた金が集まりました。彼はそれらを受け取ると工具で型を造り、鋳て子牛としました。それを見た民達は喜んだのでしょう。これこそが我らをエジプトから導き出した神だと。そして、飲めや食えやの宴会が始まったのです。

 同じ頃、山にいたモーセに主は語りかけます。7「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。8彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」(出エジプト記32章7節―8節)。

 主はこのことのゆえに怒り、彼らを滅ぼしつくすとモーセに語ります。しかし、モーセは「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」(出エジプト32章13節)ととりなします。それにより、主はその民に下すと言われた災について思い直されます。

どんな思いでモーセは山を下ったのでしょうか。その手には神から与えられた十戒が刻まれた石の板がありました。しかし、彼が宿営に近づくと子牛と踊りを見たので、モーセは義憤に燃え、その板を投げ、それは砕け散りました。そして、アロンに尋ねるのです。

21「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。22アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです23彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。24そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。25モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。」(出エジプト記32章21節―25節)。

 アロンがまず言ったのは「この民が悪いのはあなたがご存知です」ということでした。そう、彼はまずこの民がどんな人達かあなたはよく知っているでしょうと言いました。その背後には「そんな手のかかる者達に一人で対応していた自分のことも理解してください」というような言い訳があったのかもしれません。そして、言いました「彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです(出エジプト記32章24)。覚えていますか。この前に書かれていた言葉をアロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛とした」(出エジプト記32章4節)。彼はここで自らの保身のために嘘をつきました。

そして出エジプト記はこの事件の原因についてこう書いています。25モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである(出エジプト記32章25節)。

 この後、モーセは主のもとに帰って言いました 31「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。32今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」(出エジプト記32章31節―32節)。彼は自らの命を捨ててまでも民をとりなそうとしましたが、それは叶わず、このことゆえにイスラエルの民の多くは神から撃たれます。出エジプト32章はこのようにして終わります「主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである」(出エジプト32章35節)。

 先に触れましたようにアロンはいい人でした。あわれみ深く、弟であるにもかかわらずモーセの僕であるかのようにして謙遜に仕えました。しかし、アロンには背骨がありませんでした。「いい人」であるということは誉め言葉として受け取れ、実際に彼はグッドマンなのですが、時にそれは善悪をはっきりとさせずに、その判断は常に人の顔色やプレッシャーによって変わってしまうという一面を持ち合わせていました。己が立つべき所に立たずに、何が善であり、悪であるかということを明確にしないということは、それだけ他者との摩擦、コンフリクトはありませんから、その人は「いい人」と呼ばれます。

 しかし、いい人であるということが裏目に出ました。このことゆえにこの時のイスラエルの民は神の前に撃たれてしまうのです。民はほしいままにふるまい、アロンも彼らがほしいままにふるまうことに任せてしまったためです。私たちはこのことを心に刻まなければなりません。

さらにアロンに関して、このようなこともありました。アロンがこのイスラエルの民を前にとったことが別のところでも起きてしまったのです。アロンがイスラエルの民に対して彼らがしたい放題にさせたということは、外の世界に対してだけではなく、それは彼の家庭の中でも起きていたようなのです。

アロンには四人の息子がありナダブとアビフはその長男、次男でした。アロンは祭司ですから、この二人の息子も父と同じように祭司となるべく生まれ、育てられました。祭司とは民がその罪の赦しのために神様に献げるものを、その人に代わって神様に献げる人達です。そして、それにより民の罪は赦されました。それでは祭司はどうなのか。祭司とて人間ですから、彼らは一般の人たちよりもさらに厳粛に自らのために犠牲を捧げなければなりませんでした。まず自分自身の罪の赦しを受けて、神と人との間に立たなければならなかったのです。

そのようにして人々の礼拝を司るのが祭司の務めです。なぜ祭司が必要なのかというと、人間は罪と汚れに満ちているので、そのままでは神様の前に出て礼拝をすることができないからです。神様によって罪を赦していただかなければ、礼拝ができないのです。その罪の赦しのために犠牲を献げる重責を持っていたのが祭司でした。当時は祭司が犠牲を献げてくれることによって、人々は罪を赦され、清められて神様のみ前に出て礼拝をすることができたのです。

ナダブとアビフは祭司アロンがする諸々の神の前の儀式を間近に見て成長し、父からその厳粛な役目を教わっていったことでしょう。しかし、レビ記10章1節-3節にはこのようなことが記されています。

1さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、2主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。3その時モーセはアロンに言った、「主はこう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた(レビ記10章1節-3節)。

このところには「異火」と書かれています。これは何を意味するかといいますと、それは彼らが用いた火は主の命じられたものではない、「規定に反した火」だったということです。それでは規定された火とは何なのでしょうか。レビ記の16章12節、13節にこう書かれています。

12主の前の祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた香ばしい薫香を両手いっぱい取って、これを垂幕の内に携え入り、13主の前で薫香をその火にくべ、薫香の雲に、あかしの箱の上なる贖罪所をおおわせなければならない。こうして彼は死を免れるであろう』(レビ記16章12節-13節)。

その火は「主の御前にある祭壇」から取らなければならないものでした。しかし、彼らはそれを他所から持ってきたのでしょう。自分で火をつけた炭火で香をたいてしまったのです。

次のオリンピックは東京です。どこでオリンピックがもたれようとも必ずなされるのが「聖火」の点火です。あの火はギリシャのオリンピア神殿で太陽光線によって灯された火を消さないように運び、世界中の聖火ランナーが手から手へと伝えて会場まで運んできます。もしもその聖火ランナーが何かのトラブルでその火を消してしまった場合、それをこっそりとライターでつけ直すことはできないのです。そんなことをしましたらオリンピック史上、大変な不祥事となってしまいます。オリンピックの聖火は「ちょっとぐらいいじゃない」では済まないのです。オリンピックは人間が作り出したスポーツの祭典です。そのオリンピックでさえも聖火をこのように重要視するのなら、神の前に人の罪のとりなしのために出るという厳粛な時にいい加減なことは許されないのです。

しかし、ナダブとアビフのしたことはまさにそういうことなのです。彼らは神の前に出るということをいい加減にしました。もっと言いますと神への畏れを持ち合わせていませんでした。それではその神への畏れを彼らに教えなければならないのは誰だったのでしょうか。そうです、彼らの父、アロンです。

自ら祭司であり、その役目がどんなに光栄に満ちているのか、そして、その使命に最も必要なことは神を畏れ敬うことであり、神が定めたことに対しては完全に従わなければならないということを息子たちに伝えるのはアロンの責任です。

私達は知ります。若者に神のきよさとか、神を畏れるとか、忠実に従うということを教えるのは大変なことだと。でも特に彼らが祭司となるのであるのなら、このことを習得するのは不可欠なことです。若さゆえに「いちいち、そんなことをやっていられるか」というような心がわくことでしょう。そう、若き時の我が身を振り返ればよく分かります。どこかで楽をしようとしたり、ずるをしようとしたりするのです。そして、その度に私達は誰かにそのことが咎められ、指導される必要があります。言うまでもない、その人のためにです。

アロンはその役目を負っていました。しかし、おそらく先にイスラエルの民に示した彼の姿勢、すなわち「アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せた」(出エジプト記32章25節)ということを、その家庭においてもしていたのでありましょう。彼は子供たちを愛するいい父親だったのだと思います。しかし、いい父親であるゆえに不可欠なことに手つかずでその日に至ってしまったのかもしれません。これ以上に悲しいことはありませんが、このことゆえにこの二人の息子は焼き尽くされてしまいました。このようなことがなぜ起こってしまったのか。この二人の息子の叔父となるモーセはこの悲劇が起きた後に兄アロンに語ります。

「モーセがアロンに「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した」。アロンはモーセが言ったことは十分に分かっていました。神は完全に聖なるお方、その聖なるお方の前に人は立ちえない。だから祭司たるもの、本当に厳粛に自らをきよめ、畏れをもって神の前に立たなければならない。しかし、息子たちはそれら一切をないがしろにした、ゆえに彼らは打たれてしまった。ゆえに彼は神の厳しさを嘆くのではなく言葉を失ったのです。このことは申し開きのできないことだったからです。

アロンはいい人でした。私達もいい人になりたいと願います。誰でもいい人と思われたいものですし、いい人であるべきです。しかし、今日、お話したようにいい人が見失いかけているものがあります。それは善と悪に向き合い、そのことに対してどうあるべきかを考え、時には「いい人」ではないと思われようが、正しい決断をすることです。

私達は誰しもアロンの心を持つものです。彼に起きた悲劇から私達は学びたいのです。グッドマンであること、グッドウーマンであること、それに加えて主にある信念に立ち続けること、この大きなチャレンジを私達は主から賜っているのです。一人の人間として、神から委ねられているその生涯を全うすることはなんと大変なことでしょうか。しかし、私たちはこの主のチャレンジを受け止めて一歩一歩、歩き続ける者でありたいと思います。お祈りしましょう。

Aaron: The Problem of a “Good Person”
January 29, 2017

We have been looking at the lives of people in the Bible, but from what we have been seeing, they have all come across one failure or another during their lives. No matter how outstanding or great one may seem, we all have faults which is shown time after time in the Bible. We have even seen the flaws of Abraham and Moses; the great men of faith.

Without doubt, we are creatures bound to make mistakes, and if these failures cannot be avoided, it becomes important how we face the mistakes we have made. Today, we will be looking at the mistakes of a certain individual. Their mistakes are not our own, but as we are human, we are equipped with a similar mind. We would like to learn and take in to our own hearts an important lesson from their mistakes.

Last week, we looked at the mistakes of Moses after the death of his sister Miriam. Moses had a sister named Miriam, and a brother named Aaron. The Bible mentions them in the following way, “I brought you up out of Egypt and redeemed you from the land of slavery. I sent Moses to lead you, also Aaron and Miriam.” (Micah 6:4) Yes, Aaron and Miriam acted as the Moses’ left and right hands, supporting him, and Moses found comfort and encouragement in their support.

As we spoke of last week, Miriam, after having placed baby Moses onto the Nile, and seeing the Pharaoh’s daughter draw him out of the water, she came and offered her own mother to nurse the baby. Her courage and cleverness is astonishing and such qualities of her nature must have contributed a great deal when leading the Israelites. Her existence meant a great deal to Moses.  With this in mind, it is not hard for us to understand why he showed such anger to the stubborn people.

Who we would like to focus our attention to today, is Moses’ brother Aaron. Aaron had a tremendous role in the Exodus and time spent in the wilderness; his name being mentioned a total of 312 times. You may find it a surprise but when God called out to Moses, he pleaded as if to complain how much he is not suitable for the cause. This is an unexpected weak point of a man who lead millions of Israelites out of Egypt. God chose Moses despite knowing this and placed an accomplished orator, Aaron, by his side. In Moses’ place, Aaron went before the Pharaoh to speak. He became Moses’ mouth as he walked by his side.

Aaron, much like Moses was a gentle person. Although he was the older brother, he understood his place even calling Moses “my lord” in support of his leadership.

Aaron was also very compassionate. When Miriam was struck with leprosy, he immediately turned toward God for compassion (Numbers 12:10-11), and when the people’s treason caused a plague to spread, he ran into the midst of the assembly and made atonement for them (Numbers 16:47-48). In Psalms he is described to be “consecrated to the Lord”. (Psalms 106:16)

But even he had flaws. The greatest was when his brother Moses had gone up the mountain and had not come back for 40 days and nights. The Israelites had begun to feel uneasy which slowly spread into Aaron who waited at the foot of the mountain. Aaron was responsible in leading the Israelites in Moses’ absence, but he made a grave mistake.

Aaron stood before the people whom Moses was troubled over many times. Seeing that Moses was so long in coming down from the mountain, they came to Aaron and said “Come, make us gods who will go before us. As for this fellow Moses who brought us up out of Egypt, we don’t know what has happened to him.” (Exodus 32:1)

 Aaron answered them, “Take off the gold earrings that your wives, your sons and your daughters are wearing, and bring them to me.” 3 So all the people took off their earrings and brought them to Aaron. 4 He took what they handed him and made it into an idol cast in the shape of a calf, fashioning it with a tool. Then they said, “These are your gods, Israel, who brought you up out of Egypt.” 5 When Aaron saw this, he built an altar in front of the calf and announced, “Tomorrow there will be a festival to the Lord.” 6 So the next day the people rose early and sacrificed burnt offerings and presented fellowship offerings. Afterward they sat down to eat and drink and got up to indulge in revelry. (Exodus 32:2-6)

Aaron had gathered the gold the Israelites had had on. He then casted it and shaped it into a calf. The people must have delighted that this was the god who saved them from Egypt. They eat and drank to celebrate.

During that same time, the Lord says to Moses “Go down, because your people, whom you brought up out of Egypt, have become corrupt. 8 They have been quick to turn away from what I commanded them and have made themselves an idol cast in the shape of a calf. They have bowed down to it and sacrificed to it and have said, ‘These are your gods, Israel, who brought you up out of Egypt.’” (Exodus 32:7-8)

The Lord was angered by this and tells Moses that he will destroy them. but Moses intervenes by saying, “Remember your servants Abraham, Isaac and Israel, to whom you swore by your own self: ‘I will make your descendants as numerous as the stars in the sky and I will give your descendants all this land I promised them, and it will be their inheritance forever.” (Exodus 32:13) And the Lord relented the disaster he had threatened.

With what thoughts did Moses descend the mountain? In his hands were the tablets of the convent law, engraved by God. But when he neared the camp, he saw the calf idol and dancing. His anger burned and he threw the tablets, breaking them. He then said to Aaron,

“What did these people do to you, that you led them into such great sin?”22 “Do not be angry, my lord,” Aaron answered. “You know how prone these people are to evil. 23 They said to me, ‘Make us gods who will go before us. As for this fellow Moses who brought us up out of Egypt, we don’t know what has happened to him.’ 24 So I told them, ‘Whoever has any gold jewelry, take it off.’ Then they gave me the gold, and I threw it into the fire, and out came this calf!”25 Moses saw that the people were running wild and that Aaron had let them get out of control and so become a laughingstock to their enemies.” (Exodus 32:21-25)

The first thing that Aaron said was, “You know how prone these people are to evil.” Yes, it was that you know how these people are. Behind this was an excuse, “Understand how difficult it was for me to deal with these people all by myself.” And then he said, “Then they gave me the gold, and I threw it into the fire, and out came this calf!” (Exodus 32:24) Do you remember what was written earlier? It was that “He took what they handed him and made it into an idol cast in the shape of a calf, fashioning it with a tool.” (Exodus 32:4) He had lied to protect himself.

The cause of this event is described as in Exodus as following. “Moses saw that the people were running wild and that Aaron had let them get out of control and so become a laughingstock to their enemies.” (Exodus 32:25)

After this Moses returned to the Lord and said, “Oh, what a great sin these people have committed! They have made themselves gods of gold. 32 But now, please forgive their sin—but if not, then blot me out of the book you have written.” (Exodus 32:31-32) He tries to atone for their sins with his own life but that could not be done, and thus, many of the Israelites were struck by God. Exodus chapter 32 tends with these words. “And the Lord struck the people with a plague because of what they did with the calf Aaron had made.” (Exodus 32:35)

As we spoke of earlier, Aaron was a good man. He was compassionate, and humbly served his brother Moses as if he was his servant. But Aaron was not firm in his standing. A “good person” can be said as a compliment, and in reality he was a great man but at times he could not make clear what is right and wrong and had a way of making decisions based on pressure and to please the people around him. Not standing firmly where they should be without making the good and bad clear means that much less friction and conflict with others, thus being called a “good person.”

But being called a good person backfired. Because of this, the Israelites were struck by God. The people had acted upon their own wishes and Aaron had acted upon his own. We must take this to our own hearts.

Furthermore, a similar occurrence happened nearby. The fact that he had let the Israelites do as they wished also applied to his family. Aaron had 4 sons and Nadal and Abihu  were his first and second sons. Aaron was a priest so his sons were also raised to become priests. A priest is there to sacrifice what the people offer to be forgiven of their sin. And thus the people are forgiven. Then what about the priest? The priest is also human so they must strictly make sacrifices for themselves. They must first be forgiven of their own sins to stand between God and the people.

It is their duty to administer the people’s worship. The reason why a priest is necessary is because we humans are full of sin and thus unable to come before God in worship as they are. We cannot worship unless we are first forgiven by God. The heavy responsibility of offering the sacrifices was on the priest. In those days, the people were forgiven through the priest’s action of offering the sacrifice, then they were purified so that they could worship.

Nadal and Abihu must have grown up seeing the various ceremonies, learning this crucial role from their father. But in Levi 10:1-3

Aaron’s sons Nadab and Abihu took their censers, put fire in them and added incense; and they offered unauthorized fire before the Lord, contrary to his command. 2 So fire came out from the presence of the Lord and consumed them, and they died before the Lord. 3 Moses then said to Aaron, “This is what the Lord spoke of when he said:

“‘Among those who approach me I will be proved holy; in the sight of all the people I will be honored.’” Aaron remained silent.” (Levi 10:1-3)

“Unauthorized fire” is mentioned here. This meant that the fire was not one commanded by the Lord but a fire “against their regulation.” So what then is a fire within their regulation? It is written of in Leviticus 16:12-13.

“He is to take a censer full of burning coals from the altar before the Lord and two handfuls of finely ground fragrant incense and take them behind the curtain. 13 He is to put the incense on the fire before the Lord, and the smoke of the incense will conceal the atonement cover above the tablets of the covenant law, so that he will not die.” (Leviticus 16:12-13)

It is written that the fire must be take from “the alter before the Lord.” Yet they must have brought the fire from elsewhere. They had burned the incense with the coals they themselves lit.

The next Olympics will be held in Tokyo. In all Olympic games, there is a lighting ceremony that takes place. The fire of the torch comes from the ruins of the Temple of Hera in Olympia, Greece. The torch is relayed from place to place, person to person, until it reaches the stadium. If that Olympic flame on the torch is somehow put out, it is not secretly relit with a lighter. If such an action is taken, it would be a historically disgraceful scandal. The Olympic flame cannot be excused with a mere “oh, it should be fine.” The Olympics is a festival created by humans. If even the Olympics regard their flame in such importance, the gravity of importance in the forgiveness of sin before God cannot be stressed enough.

But what Nadab and Abihu did was just this. They took lightly the action of coming before God. Further, they did not fear God. And who was it that needed to teach them to fear God? Yes, it was their father Aaron.

Being a priest himself, it was Aaron’s responsibility to teach his sons the honor in their duty, and that the most important thing in carrying out their duty is fear and respect, and that what God has decided must be carried out completely.

We know, that it is difficult to teach the young the holiness of God, or to fear God, or to faithfully follow Him. But if they are to become a priest, it is of utmost importance to acquire these things. Because of their youth they may say or think, “how can I keep doing something so troublesome.” We see this when we look back to the time when we ourselves were young. We try to slack or cheat our way through things. And each time we must be called out, and disciplined. Of course for the good of that person.

Aaron bore that duty. But just as he had shown with the Israelites, he “had let them get out of control” (Exodus 32:25) and he had also done so within his family. He must have been a good, loving father. But he may have missed the most indispensable part of being a father. There is nothing more painful then this, but his sons were consumed by the fire as a result. Why did such a thing happen? Moses, who was the the two son’s uncle, later tells Aaron,

“This is what the Lord spoke of when he said:“‘Among those who approach me I will be proved holy; in the sight of all the people I will be honored.’” Aaron remained silent.”  Aaron fully understood these words. The Lord is perfectly holy, no human can stand before him. Therefore a priest is worthy to stand before God only through solemn purification of oneself, and fear. Yet his sons took lightly of this and thus were struck. That is why he stayed silent rather than grieving God’s severity. There was no excuse to make.

Aaron was a good man. We also wish to be good. Everyone strives to be good, and we should be. But as we have spoken of today, there is something that a good person can lose sight of. That is to face what is wrong and right, to think in regards to this, and to make the right decisions even if others may not perceive you as a “good person.”

We all have the heart of Aaron. We want to learn from this tragedy that occurred as a result of his decisions. We are given the great challenge to be a good man, good woman, and to stand in conviction in the Lord. How immensely difficult it is to accomplish the one life we are given by God. Yet we wish to be able to take this challenge step by step as we walk. Lets pray.

Translated by Shirah Vogt

おもちかえり
2017年1月29日

 

1)ミカ6章4節を読みましょう。モーセは兄アロン、姉ミリアムとどんな関係をもってイスラエルの民を導いていたと想像できますか。アロンとミリアムの存在はモーセにとってどんなものだったでしょうか。

 

2)民数記12章10節、11節、民数記16章47節、48節、詩篇106篇16節を読みましょう。口下手なモーセに代わりアロンは民に語りかけました。彼の名は聖書に312回も出てきます。これらからアロンのどんな人柄がうかがい知れますか。

 

3)出エジプト記32章1節を読みましょう。これに対してアロンは出エジプト記32章2節-6節に記されているように対応しました。アロンはなぜ民の要求にやすやすと応えたと思いますか。

 

4)出エジプト32章21節ー25節を読みましょう。誰が金の子牛を作りましたか。ここからアロンのどんな心がうかがい知れますか。なぜアロンのような人が民がほしいままにふるまうに任せたのでしょうか。

 

5)レビ記10章1節-3節を読みましょう。アロンの子、ナダブとアビフに起きたことは何ですか。アロンと同じ祭司になろうとしているナダブとアブフにそのつとめを教える責任をもっているのは誰ですか。彼らに対してアロンはどんな指導をしていたと想像できますか。この事と彼がイスラエルの民に示した態度にはどんな共通点がありますか。

 

6)今日、あなたはこのアロンの生き方から何を学びましたか。

 

モーセ3:忍耐が品性を生み出す

齢をとってきたからでしょうか。人の美しさというのは表向きだけの美しさではなく、その人がどれだけ忍耐をして生きてきたかというようなところからにじみ出てくるのではないかと思うようになりました。

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モーセ2:このままでは終わらない

私は「沈まぬ太陽」という作品を読んだことがないので、このドラマがどんな結末になるのか分からずにおりますが、私はドラマの中の恩地元本人ではなく、この物語をテレビ番組として見ている視聴者ですので、「恩地よ、このままでは終わらないぞ」という思いを持ちながら見ています。そうです、「かつての同僚、行天四郎は己が信念を曲げ、日本で出世街道を歩んでいるけれど、あなたは彼とは比べものにならないほどの貴重な体験をしている。そして、それは必ず後にとてつもない力となって返ってくるはず」と確信しているのです。

そして、ふと思うのです。私が恩地に対して抱いている思いは、どちらかというと神様の視点に近いのです。なぜなら、ドラマの中の恩地は先が見えずに、その日その日に精
一杯なのですが、私はこのドラマにおいて恩地がそのままで終わるはずがないということを知っているからです。ここがドラマの中の恩地とテレビの視聴者との徹底的な違いであり、それはそのまま今、諸々のことに直面して一喜一憂している私達と全てを存じていらっしゃる神様との違いなのです・・・。

今日は事情によりユーストリームの放映がありませんでした。

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モーセ1:ここから全てが始まります。

私達は新しい一年を歩み始めています。2016年という一年は確かに「私達の人生の一部」となりました。今、私達が歩んでいます2017年もこれから「私達の人生の一部」となります。そこで確認したいことは2016年の一年間も2017年の一年間も私達の人生の「全てではない」ということです。それは私達が重ねてきました人生の中の一年にすぎないのです。

しかし、時に私達はその一年が全てであるかのように勝ち誇ったり、反対に深く落ち込んでしまうことがあります。いいえ、一年と言うまでもなくある一日をして、自分が人生の勝利者と思い、反対に自分は敗北者だとも思います。しかし、言うまでもなくその一年間、その一日は私達の人生にとりまして全てではないのです。

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人生の秘訣は一つしかない

私達は時々、神様のことを犠牲にして自分のことに没頭します。主に関することは一番最後なのです。これまでお話ししてきたことに照らし合わせますのなら、主に関することを一番最後にすることによって、私達は時間を節約しているのではなく、何かを獲得しているのではなく、最も大切なものをことごとく獲得し損なっているのをご存知ですか。余った時間、残りの時間、余ったもの、残りのものを主の前に持ってくることで、私達はいったい与えられるはずだった祝福のどれだけを失ってしまうことでしょうか。主にある兄弟姉妹、人生は複雑ではありません。人生の秘訣は一つしかないということを分かっていただけましたでしょうか・・・。

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