万事が益となる

『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている(ローマ8章28節ー30節)。

この言葉は多くの方達の拠り所として、愛されてきた聖書の言葉です。しかし、同時にこの言葉は誤解されている言葉でもあります。その誤解はどこからくるかと言いますと、私達が考える「益」と神様が考える「益」の違いにあります。

多くの場合、私達は何の疑いもなく、「自分の願い」と「希望」を「自分の益」と考えています。しかし、それは必ずしも「神様が考える益」とは同じではありません。

このことゆえに「自分が考える益」が成就しないと分かると私達は「ほら、みろ、神などはいない。祈っても仕方がない」と考えます・・・。

冷静に考えてみましょう。自分の願いと希望が叶うということが、絶対に自分の益となるのだという考えは本当に正しいのでしょうか?神とは私達の願いと希望を叶える道具なのでしょうか?もし神が私達の道具であるのなら、もはや私達はその存在を神などと呼ぶことはできないのです。道具は私達の手の中に納まるものだからです・・・。

今日はローマ8章28節の言葉を自分の願いが叶わなかったモーセの生涯と照らし合わせて考えてみましょう。

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飼葉桶と十字架

今日、「クリスマス」と本来の呼び名をせずに「シーズンズ・グリーティング」と呼ぶ風潮がこの国に蔓延しています。その心はヘロデ王の心に結びついていきそうです。「イエス・キリスト、そんな存在が俺の人生に入ってきたら、俺は自由に生きられなくなるではないか」。とんでもない!そのことゆえに、私達は自由を失っているのです。

今日、人はフェイスブックで何人の友達がいて、その人達がどれだけ「いいね」を押してくれるのか、そんなことで自分がどれだけ価値あるのかと知ろうとしています。私達は既に知っているはずです。そんなはずはないだろうと!しかし、この私達の心はそのままピラトの心につながっていませんか。(本文より抜粋)

ヘロデとピラトと同じ轍を踏まないために・・・。

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歴史を貫いた計画

「そして、言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1章14節)。

ここには「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。少し説明がいるかと思いますが、この「言葉」とは「イエス・キリスト」のことをあらわし、そのイエスが人となり、私達の住む地に宿ったということです。そして、私達はこの出来事をクリスマスと呼んでいます。

このヨハネによる福音書に書かれている「宿った」という言葉を聖書のもともとの原語であるギリシア語から紐解きますと、その意味は「幕屋を張られた」ということになります。このことを踏まえて言いますならば「神と共におられた言葉、すなわち神と共におられたイエス・キリストは私達の世界に幕屋を張られた」ということになります。そして、それは神の一人子イエス・キリストが本腰を入れて、私達と同じように、この世界で起きること身に負われるという覚悟のあらわれでした。

それにしても「幕屋」と言われても私達はピントときません。しかしこの「幕屋を張られた」という言葉をヨハネがあえて使ったということには、とても深い意味があり、その背後には長い聖書の歴史がありました。

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「待降・降誕(クリスマス)そして待望」 大川道雄牧師

「待降・降誕(クリスマス)そして待望」これが聖書のパターン(流れ)です。

「待降」とはイエスキリストのご降誕を待ち望むことです。人類は今も、真の救い主を待っています。キリストはあなたがたが心の中に迎え入れることを待っています。

「降誕」私達の毎日がクリスマスです。もし、あなたが受け入れるのなら、永遠の命であるキリストはあなたの心の(馬小屋)の中にこられます。

「待望」神の救いの計画の完成の準備は整いました。キリストは肉体を持って再びこの地上にこられます。天国に連れて行くために…. 。世界中の全ての人がこの光景に立ち会うのです。

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