「こうして教会は(9):ひたすら一同がしていたこと」

先日、ある方を通して昔、観たけれども忘れていました「Into the Wild」という映画を思い起こさせていただきました。

この映画は1992年に一人の青年が放浪の末にアラスカで死体で発見されたという実話をもとにした映画で、アカデミー賞にもノミネートされました。

主人公クリスは裕福な家庭に生まれ、物質的に恵まれた環境で育ち、アトランタにあるエモリー大学を優秀な成績で卒業します。両親は彼がハーバードのロースクールに進学することを望んでいましたが、金と物ばかりを与えようとする両親に嫌気がさしていたクリスは、学資預金を全額寄付し、真理を求めアラスカへと旅に出ます。

かたちは違いますが、私も20歳の頃のひと夏、アラスカで働いていたことがあります。クリスとは状況は異なりますが、何かに対する探求ということに関してはクリスの思いと似たものがあり、かつての自分とクリスの心を重ね合わせながらこの映画を観ました・・・。

この映画の結末は他人事ではなく、大切なことを私達に語りかけてきます。

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こうして教会は(8)主にある交わりから得るもの

「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5章3節)

「心のきよい人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5章8節)

わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」マタイ12章10節)

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」(1コリント15章55節)

このような私達の常識では理解できない聖書の言葉は机上で思索して知り得るものではないと思うのですが、いかがでしょうか・・・。

それではどうしたらこれらの言葉の真意を知ることができるのでしょう・・・。

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こうして教会は(7):洗礼について

2000年前の初代教会が「悔い改め」と「洗礼」というメッセージに応答した人達によって始まり、形成されていったということ、そして、そのことは今日の私達の教会も何ら変わりがありません。そこで、今日はこの「洗礼」ということについてお話ししたく願っております。

意外に思われるかしれませんが、聖書はイエス・キリストが公生涯を始めるにあたり、バプテスマのヨハネに自分に洗礼を授けるようにと願い、ヨハネから洗礼を受けられたということが聖書には書かれています。

なぜ「意外」と申し上げたかと言いますと、先週、お話ししましたようにイエス様ご自身もヨハネも、またペテロも「悔い改めて、洗礼をうける」ことをメッセージとして勧めてきたのであり、そうなりますとイエス様にも「悔い改めること」、すなわち「罪」があったのかということになります・・・。

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こうして教会は(6)悔い改めよ。

今日、伝道メッセージが語られる時、このような語りかけがなされることがあります「さぁ、今、あなたの心の扉を開き、あなたの王座にイエス様に座っていただきなさい。あなたの心の扉のノブは外側にはなく、イエス様はそのドアを開けられないのです。そのドアは内側からしか開けられないのです。ですからあなたの手をノブにかけ、扉を開け、イエス様を心にお招きしましょう。その時にあなたは救われます」。

この言葉は大方、正しいことを言っています。なぜなら、この言葉はあのヨハネ黙示録の御言葉を念頭においたものだからです。すなわち聖書が記していることだからです。しかし、一つのことが不足しています・・・。

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