「こうして教会は(13):健康な教会であるために」

かつて、あのジョン F ケネディーが内外に問題が山積していたアメリカ国民に語りかけた有名な言葉がありますね。国があなたに何をしてくれるのかを問うのではなくて、あなたがこの国のためにできることをしてください」。

受けることばかりを考え、その権利ばかりを主張するということ、ある意味、それはまだ私達が人間として未熟であることのあらわれでありましょう。イエス様が言われた「受けるより、与えるほうがさいわいである」という、この御言葉の意味を人生の中で一度も知ることなく、私達が死んでいくのなら、私達は人間として、最も大切なことを知らずしてその人生を閉じることを意味しますでしょう。

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こうして教会は(12):ぶれない軸ゆえの自由

グローバルな時代と言われて久しく、私達のすぐ傍らには言葉も文化も違う人達がいます。地球を存続させるために、この互いの違いというものを克服していくことは全人類のこれからの課題です。

しかし、それに反して、最近の世界の動向はこの違いによる社会や国の分断というものがあちこちで顕著となってきています。もし、このような分断がさらに増えていくのなら、私達はやがて引き裂かれてしまい、互いが大きな害を受けることになるでしょう。

またそれは異なる文化や言語に限らず、同族の家族の中でも私達には各々、考え方や生き方の違いがあります。価値観が異なることもあります。すなわち互いの違いということは私達の生活の中にも存在しているのです。

もし互いの違いに対する理解と敬意がなければ、たとえそれが私達の親族であっても私達は仲たがいしたり、時に彼らは私達の敵となってしまうのです。

そしてそれはアメリカにある教会が置かれている状況も同じです。教会の中にも世代や性別による違いがあり、さらにはまさしく私達の教会にはあらゆる文化と言語、生活拝見を持った方達が集ってきているのです。それゆえに私達の信仰表現にも違いがあるのです。これらのことにどう向き合っていけばいいのか、今日はこのことに着目していきたく願っております。

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「こうして教会は(10):食卓を囲む意義」

かつて一人で島暮らしをしていました時、私の夕食は10分で終わっていました。当時の私の得意料理は「納豆」と「卵ご飯」、そして、「肉野菜炒め」でした。

納豆はあの白いプラスチックカップのまま食卓に並び、肉野菜炒めも、盛りつけなど考えることなくただ皿にのせられ、味つけも醤油だけでした。なぜ10分かといいますと、私が早食いであることと、食べる目的がどちらかというとエネルギー補給に近かったから、ただ口に放り込んでいただけだからです。

今、そんな日々を振り返って思うのです。食事を単なるエネルギー補給としか考えていないと、だんだん心の豊かさが失われていくと。このことは一人で食べる食事であっても改善できることだったなと今は思います。今、食事は極めて精神的なものなのだということに気がつかされています。

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